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 3日が経ちました。それまでの人生で1番長い3日間でした。梅雨があけたはずなのに、ずっと雨が降っていたのを覚えています。

 私は部屋で日がな一日、川の向こう側を眺めていました。もう彼女に会えないことが無性に寂しく、しかし、かといって彼女に会いに行く勇気もなく何も出来ずに座っていました。時々、わけもなく涙が流れました。

 私は「ひとりで生きる」ことを彼女に教わっていたはずなのに、彼女に会えないことが寂しくて仕方ありませんでした。不肖の弟子とはこのことです。結局、私は「ひとり」になる覚悟がない人間だったのです。誰にも会いたくないから自殺する、などと言っておきながら本当のところでは誰かを求めていたのです。自由になりたいという彼女の言葉にあこがれながらも、彼女に言われたとおりに行動することに喜びを感じていたのです。彼女は、それを見抜いたのです。

 雨は3日目にあがりました。その日はちょうど七夕で、近所の子供たちがランドセルに小さな笹飾りを指して歩いているのが見えました。私は、相変わらず暗い部屋から川の向こうを眺めていました。

 夜になっても私は、ぼうっと窓の外を眺めていました。雨で水量が増えた川は、いつもよりも流れが速く、川幅も広く、川の向こうがいっそう遠くに思えました。

 猫の声が聞こえたのは、その時でした。ただの猫ではありません。あの猫の声です。

 幻聴かと思いましたがそうではありませんでした。私があわてて窓をあけると、家の前に猫がいました。薄暗闇の中で、幽霊のように猫の影がぼうっと浮かんでいたのです。いえ、もしかするとあれは幽霊だったのかもしれません。しかし、その時の私はとにかく大慌てで外へ飛び出たのです。

 猫は私が出てくるのを見るや否や、ゆっくりと橋のほうへ走り出しました。時々ちらちらと私が後を追いかけてくるのを確認しながら、橋を渡り、屋敷の方向へと走っていきます。三日も部屋にこもっていて、体力がすっかり落ちていたせいか、私は3日前に死に掛けていた猫に追いつけませんでした。ふらふらになりながら、猫の後を追いかけていったのです。

 猫は塀の穴から屋敷に入っていきました。てっきり林を抜け、屋敷に向かうと思っていました。しかし、猫は屋敷ではなく、あの場所へと走っていったのです。私が死のうとした、私が彼女とであったあの場所へ。

 そこに彼女がいました。あの時の私と同じように、彼女はイチョウの木に背をもたせかけて、静かに座っていたのです。

 彼女のところへと走っていった猫は、なんの躊躇もなく彼女の膝の上に飛び乗りました。私が見ていた限り、猫は彼女に触れることもなく、彼女も猫に触れることはありませんでした。餌も直接手から貰うことは決してありませんでした。彼女と猫は常に一定の距離を保っていました。それがこの二人の流儀だったのです。

 その猫が、彼女の膝に飛び込んだのです。

 彼女がゆっくりと目を開けました。星明りでしか見えませんでしたが、彼女の様子が明らかにおかしいのはすぐに分かりました。顔色が真っ白で、目には生気がなく、呼吸はか細く、とても苦しそうな顔をしていました。私はそれまで、死んだ人を見たことがありませんでした。しかし、私は彼女を見て直感的に、彼女が死にかけていることがわかりました。

 彼女は猫の頭に優しく手を置いて、

「なんだよ。あんたをお手本にしてたってのに……随分、おせっかいなことをするじゃないか」

 猫は何も答えず、チラッと彼女のほうを見ると大儀そうに目をつぶりました。  

「病院はやめとくれ……頼むから」
「でも……」
「ずっと前から決めてたんだよ。最期はここにしようって」
「え?」
「暗くて、静かで、世界でここだけ時間が止まっているみたいな……この場所が気に入って、屋敷を買ったんだ」

 よく見ると彼女の服には泥や土があちこちについていました。彼女は、ここまで這ってきたのだということにその時気付きました。私は彼女の服から泥をはらいのけました。持っていたハンカチで必死に汚れを落としました。ほかにできることが思い浮かばなかったのです。

「だからね、あんたがここで死のうとしていたのを見た時は驚いた……私の分身を見たみたいで……」
「……」
「気付かなかっただろうね……私はあの時かなり動揺してたんだよ。それを隠そうとして必死でつい喋りすぎてしまった。余計なおせっかいをしてしまったのさ」
「余計なおせっかいなんかじゃないよ、私……」
「まったく情けない……ひとりで生きて、ひとりで死ぬって肩肘張ってきたっていうのに……最後の最後にこのザマだ」
「ごめんなさい……私、邪魔だよね…でも…」
「違うんだ……あんたに会いたかった……」
「え?」
「情けないじゃないか。さっきまでひとりで死ぬのが怖くてね……あんたのことばっかり考えていた……あんたがここにいてくれたらと」
「……います。私、ここにずっといます。いなくなれって言われても離れません」
「……手を握ってくれるかい?」

 まるで小さな女の子のような、頼りない声でした。

 ああ同じだ。この人は私と同じなんだ。どんなに強くて、綺麗で、自由でも、この人と私は同じ魂の欠片を持っている。私は彼女の手を握りました。乾いていて、小さくて、皺だらけで、でも暖かい手を握りました。

「今夜はやけに空が明るいね」

 私達の町では天の川はほとんど見えません。暗い林の隙間から僅かに見える空にわずかばかりの星が浮かぶだけ。新月は暗く、夜の闇はいつにも増して深かったのです。それなのに空を見上げ、闇夜の向こうを必死で見ようとしていました。

「今日は七夕だから」
「七夕……そうだね、年に1度くらいは……」

 彼女の最期の言葉は聞き取ることができませんでした。ゆっくりと目を閉じ、顔を私の頭にもたせかけまま、動かなくなりました。か細い呼吸だけが聞こえてきました。

 そこはとても暗くて、静かで、世界でそこだけ時間が止まっているみたいな場所でした。

 そこで彼女と猫は息を引き取ったのです。

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2008/5/17
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