庭の奥にある洋風のお屋敷は、思っていたよりもずっと小さいものでした。それよりも驚いたのは家の中でした。
通されたのは私の部屋の3倍はあるんじゃないかという広い部屋でした。壁も床も家具もかなりの年代物でしたが、どれも綺麗に磨かれて、埃ひとつありません。泥だらけで夜露に濡れた私にはひどく不似合いな部屋でした。私が窓際にある木製の小さな丸椅子に遠慮がちに座ると、窓の外にいた猫が、不満げに鳴きました。どうやら、そこは猫の指定席だったようです。後で立ち上がったとき、お尻に大量の毛がついていました。
「またあそこで死ぬつもりかい?」
「……はい、できれば」
「困ったもんだね」
「……止めないんですか?」
「止めてほしいのかい?」
「……いえ」
「もう誰にも会いたくないらしいじゃないか」
確かに私はそう遺書に書きました。もう誰にも会いたくないと。
原因は私の顔の痣でした。それは私の成長と共に広がっていったのです。
原因も治療方法も不明であること、つまり治る見込みがないということがわかったのは、中学生になる春のこと。私は、それ以前から学校に行かず、部屋にこもるようになりました。
母は私に小さな頃から「痣なんて誰も気にしていない」と繰り返しました。でもその話に御伽噺ほどの真実もないということを私は既に実人生で十分に味わっていました。結局、母は私ではなく自分を安心させたかっただけなのです。繰り返される意地悪、悪口、陰口、裏切りの中で私が学んだのは、母の御伽噺とは違う単純な真実でした。この世界には他人を自分より醜く劣った存在を求めてやまない人が信じられないくらいたくさんいるということです。そして私のような外見を持つものは、そうした人にとっては実に都合が良い存在なのです。
子供の頃から私は私という存在で安心したがっている人間の「匂い」を敏感にかぎ分けることができました。匂いがするのは私をバカにする人間だけではありませんでした。私に同情し、私を慰める人間にも同じ「匂い」が染み付いているのです。結局のところこの世に「匂い」のしない人間はほとんどいないことに、私は気付かざるを得ませんでした。
しかも私は何より私自身がそうした人間の一人だということに気付いていました。分かったのは小学校の平和学習で被爆した人たちの写真を見たときです。静まり返る教室の中で私は一人、自分の胸が震えるのを感じていました。そこには私よりも醜い人がいたのです。私は図書館で戦争写真集を必死に漁りました。ネットが使えるようになってからは奇形や障害者の写真をやはり漁りました。とんでもなく醜い事だと分かっていながら、私はそうせずにはいられなかったのです。そして、そんなことをしている自分に私は愛想が尽きました。
そのことに気付いた私は、もう誰とも会わない、誰とも話したくないと心に決めたのです。ひどくひねくれた考え方であることは分かっていました。母親も父親も、私のことを「ヒガイモウソウ」的だと言いました。でもモウソウだろうがなんだろうが、私はもう誰とも会いたくなかったし、話したくなかったのです。私で安心するのも、私が人を見て安心するのも、もう嫌なのです。もう、そういう世界とは縁を切りたかったのです。
「まあでもねえ、会いたくなきゃ、会わなきゃいいだけだと思うんだけど」
「え?」
「私が人間と話したのは1年ぶりだよ」
2008/5/13
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