8/10

間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、
自由は持つに値しない。
(マハトマ・ガンジー)

○更新もせずに何をやっているのか話

 完全な身辺雑記なので興味ない方はパスしていただくとして。

●レーシック

 大変うまくいったらしく、両目視力が2・0になった。眼鏡でもせいぜ0・9〜1・0程度だったので、世界の解像度・鮮明度がまるで違う。色彩が鮮やか。夏になってからは特に光や色がくっきりはっきりしていて綺麗。なんでもない電車から見える風景が輝いて見える。ワールド・イズ・ビューティフル。

 もっとも「見える」ということについての驚きは本当に最初の1日くらいで、すぐに「見えるのが当たり前」になってしまい、まことに人間の「慣れ」というのは大したものだなあと感心しつつも、ちょっとつまらなかった。もうちょっと衝撃的な経験になるかなとか思ってたが、まあそんなものなんだな。

 手術して面白かったことをいくつか。

 眼鏡をかけ始めるようになってから考えてみると「自分の素顔」をクリアに見ることができなかったので、鏡で久々に「自分の素顔」を見た。まるで他人のようだったのが面白かった。誰これ?みたいな。

 手術終了後に目を保護するために大変カッコ悪い眼鏡をかけて(フレームが透明でややゴツイ)外で過ごさなければならず、自意識過剰気味の管理人には結構ハードル高かったのだが、周囲は当然ながらそれほど気にしなかったりする。「他人は自分のことなんか大して気にしてないんだよなあ」ということに改めて気づかされて勉強になった。知識としては当たり前のことなのだが、実感できる機会はなかなかない。もっと好き勝手にやればいいと改めて思いましたとさ。

 目薬やなるべく目をこすってはいけない、といった面倒さはあるのだが、やってみるとそれほど面倒なことでもなかった。老眼が早く来てしまうという欠点はあるらしいが、眼鏡なしですごせる気楽さと、眼鏡のとき以上にクリアに世界が見えることを考えると、やってよかったなというのが正直な感想。

 せっかく良くなった目をパソコンの画面であまり刺激しちゃまずいなということで、パソコン利用時間を減らしている。既に3分の1減くらいにはしたが、最終的には半減から4分の3減くらいを目指している。仕事で使うので、なかなかそうはいかないのだが。

 目が良くなって困ったのはディテールに結構目がしっかり行くようになってしまったこと。外で人を見る時に、これまで全くに気にしてなかった「肌の綺麗さ・質感」とかがかなり気になるようになったり。自分の肌の荒れ具合とかも気になるようになってしまい、最近は睡眠早くしたりチョコラBB飲んだりしている。

 あと、絵やイラストもディテールや仕上がりや質感が以前よりも気になるようになって、どうも楽しみにくくなった。自分の描くものも描線の細かいタッチの自信のなさ適当さがよくわかって、ああ俺って下手だなあとしみじみわかるようになってしまった。

●鼻にもレーザー

 目にもあてたことだし、鼻にもあててみるかということで、鼻のレーザー治療というのも受けてみた。小さいころから鼻炎持ちだったので、そもそも鼻で呼吸するという感覚があまりわからなかったのだが、これも治療を受けたら劇的に良くなり、今はすっかり鼻で呼吸するのが当たり前になった。呼吸がラクだ。

 レーザー手術は若干痛い(鼻自体には麻酔がかかってるのだが、鼻を抜けて口の歯茎とかが刺激されて痛みが生じる)が、あっという間に終わるもので手術としては楽。管理人はアレルギー性鼻炎だったが、花粉症とかの人も受けてるらしいのでお勧め。

●その他のところも

 体に色々とガタが来ていたらしく、医者に行ったり、サプリメントを取るようにしたり、食生活や睡眠を健康的にしたりしている。

 チョコラBBは普通に肌に良い。あととりあえず効いてるのかもしれないな、と思うのがローヤルゼリーの錠剤。毎日1錠飲むだけだが、これを飲み始めてから「身も心もひどく疲れきる」みたいなことが少なくなった。体の疲れ方が「一番ひどいところ」までいかないでストップしてくれる感じ。元気になるわけではないが、個人的には結構助かっている。

 基本的に食生活と睡眠のクオリティを向上させるのがいちばん体に効く。あとは運動とかできれば最高なのだろうが、さすがにそこまで健康的にはまだなれていない。運動はやると汗かくし、回復するまで時間かかる。「1日数分」とかいったところで、実質的には1時間くらい消費することになるので、なかなか習慣化が難しい。

●習慣化

 その他、いろいろと「習慣化」したいなあと思っていることが多いのだが、やはりなかなか続かない。「90日続ければ習慣になる」とものの本には書いてあるのだが、2週間くらいで挫折するんだよなあ。最初のハードル設定が高すぎるのかもしれない。

●小ネタはツイッターで

 しばらくツイッターでごまかす方向で。ただ、ひとだんらくついたらもうちょっとまじめにアウトプットする形を考え中。

 

7/20

時間のかげを
青い冷たい帽を被いで
おそれとやけとを唱つて
どこまで行かうといふのか

―吉本隆明

○ツイッターのログを表示してみた

 下から上に読むってのがどうもなじまないんですが。

○「吉本隆明代表詩選(高橋源一郎・瀬尾育生・三浦雅士」

 選者三人による座談会で語られる吉本論が面白かった。吉本の評論は広義の「評論」として読むべきではなく、彼の「詩」の一種として読めばいいのかもしれないと思った。あのなにを言いたいのかさっぱり分からない、それでいてなんだかまがまがしいエネルギーだけはやたらと感じさせる評論の文章も、散文詩として読めば意外といけるのかもしれない。

 常々言っているが「評論家:吉本隆明」はともかくとして、「詩人:吉本隆明」は日本の現代詩人の中でもトップクラスの天才。もうちょっとカッコつけてもいいんじゃないか、と思うところでも迷いなく青臭さと不恰好さの特攻をかけてくる危険人物なのだ。しかも、カッコつけようと思えば幾らでもカッコつけられるであろう言語センスや技術を持っているところは随所で見せてくる。カッコつけられるくせに敢えて青臭く特攻してくる。タチが悪い。ベタでコテコテの中に、ベタでは済まない危険な何かを紛れ込ませている。大衆性に塗れながらもそれに染まらないで何か別のものがきちんと潜んでいる。

 

7/5

あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう

伊藤静雄

○ニンジャ様が突然fftpを使えなくしてくれまして

 セキュリティ対策だそうです。おかげでわけわからず1ヶ月近く更新遅滞となっておりました。引き続き「10のつく日」更新でいきたいと思います。したがって下記事は周回遅れもいいところな内容となっております、あしからず。

○鳩山首相退陣と新政権雑感

 鳩山政権で印象的だったのは麻生政権以上に「ネットにおける政権評価・分析とマスメディア報道の政権評価・分析が露骨にズレた中でスタートした」ことか。結局は「ネットが先行し、テレビが後を追う」という結果となった、と総括してよいのではないか。ここ数年文化の領域では常態化している状況が政治の領域でも始まったということでよいと思う。記者会見のオープン化、口蹄疫問題、機密費問題など「ネットの先行」が著しく、マスメディアは全てにおいてネットの後塵を拝す結果となった(機密費問題にいたっては黙殺)。日本においても確実にネットが社会を動かす力として育ってきていることを実感させられた政権だった。自民党が制度疲労の末に自壊していったのと同様、マスメディアもこれからネットに脅かされるというよりは制度疲労と自壊の道を歩むことになるのだろう。「通信局的機能(政治家・政府・官公庁の発表を垂れ流すところ)」と「分析・調査・批判機能(自分達の立ち位置を明確にした上で物申すところ)」に業界が再編され、スリム化するのが合理的なのだろうが、人は相簡単に合理的な行動はできないものなので、むこう5年くらいはいわゆる「マスメディア」がダメになっていく様子を見せられることになるのではないか。正直、マトモに相手にしていないのでダメになってくれても構わないが、情報収集の効率が下がるのでさっさとマトモになってほしいとは思う。10年もグダグダするのはご勘弁願いたい。

 鳩山総理個人について言うことがあるとすれば「総理になったからと言って人はいきなり変われるものではないらしい」ということくらい。器が人を作る、環境が人を変化させるといっても限界があるのだな、と。政権交代前の鳩山氏は自分の本来のキャラを封印して「総理」というキャラになろうと努力していたのだが、政権を取るといつの間にか本来のキャラに回帰していた。そのむかし浅草キッドに面白がられてた頃の鳩山さんが結局「素」だったようである。アサ秘ジャーナルで笑うにはいいキャラクターだと思う。同じ事は恐らく菅新総理にも当てはまることになるだろう。

 新政権で面白そうなのはかつて山形浩生氏が難癖をつけていた小野氏の主張が政策に反映されそうなところ。実際にどうなるかがこの目で見られるとしたらなかなか興味深い。政治的に利用されることも含めて経済学者の学説が実社会でどのように「使われる」かを1から見られるかもしれないのは面白いなと。ただし、これは参院選を切り抜けてある程度の長期政権になればの話。

 経済政策でいえば「財政再建」と「消費税増税」をうたっているが、どこまで本気なのかがまだ見えないのでなんとも言いがたい。単純に考えれば「増税の本気度が高ければ高いほど政権維持は難しくなる」ことになる。

○アメリカ様

 個人的に最近は日本よりもアメリカの先行きがやや不透明になってきている点が気がかり。メキシコ湾石油漏れ事故が、ブッシュ時代のハリケーン・カトリーナになりつつある。初動の甘さが批判されているが、ハタから見る限りオバマの責任問題だと指弾するのにはかなり無理があるのではないか。斯様に叩かれる背景には、どうも一息ついたアメリカ国民の「変節」のにおいを感じる。無論、オバマ自身も自分が「民主党エリート君」でしかないということを十分に見せてしまったのだから、アメリカ国民が「なーんだ」と思うのも止むを得ないところではある。民主党エリート君、というのは基本的にクラスにいよくいる「優等生君」であり、「それほどまちがってないけどつまんない人」である。アメリカ国民がオバマに期待していたのはそういうものではなかった。彼らが望んだ「CHANGE」は政権党を変えることではなかったわけだから、基本的には看板に偽りありと失望するのは正当といえば正当である。俺達ゃ戦争も不況もどうにかしてくれるロックスターみてぇな大統領がほしかったんだよってなもんである。ただし、そんな大統領どこにもいないのだが。だが、その虚像と理想を推進力にして大統領に上り詰めたのがオバマであり、そのツケは払わなければならない。

 もうひとつはアフガニスタンが案の定にっちもさっちもいかなくなっている。共和党の大統領候補にもなりそうだったペトレイアス氏が男気を見せて司令官ポストを受けてくれたが、それでどうなるものでもないような気がする。結局のところ派手に何ヶ月かドンパチやって「俺たちはやった!やったぜ!」と自分に言い聞かせながら撤退して、事実上ダメでしたね、という風に終わらせるしかないように思う。で、数年後には首都がタリバンの手に落ちるけどその時はもう次の大統領だし、という展開ではないか。

 しかしアメリカの「ティーパーティー運動」とかの映像見ているとオバマ可哀相とか思ったりはする。リバタリアンの伝統、という文脈を勘案しても明らかに大雑把過ぎるし、最初から話し合う気がない感じがなんともいえない。共和党の新しい「草の根」戦略なんだろうけれど、あまりに焼畑チックで長持ちしなさそうな気がするのだけれど。でも、次の大統領選挙勝てばいいわけだから、これはこれで戦術として正しいのか。

 もう少し、オバマの神通力が続けば今年後半はアメリカが回復基調に入り、日本も円安で軽くひといきつかせてもらうくらいのこともあるのではないかと期待していたが(個人的には長期には円高維持、でも何ヶ月か円安で一息つかせてよというのが理想的だと思ってるのだが)それもどうやら難しそう。YOUTUBEで演説を聴いた限りでは「民主党エリート君」のそれ以上のものは感じられなかった。下手を打てば中間選挙後にグダグダ末期政権と化しかねない局面を迎えている。

○森薫「乙嫁語り」2巻

 パリヤさんという新たな萌えキャラを得た飛躍の第二巻であります。こんなところで「七人の侍」ばりの重厚な村内戦闘シーンを堪能できるとは思いませんでした。敵方にもきちっと萌えキャラをピンポイントに配置するところなど、森薫は本当に隙がない。個人的には「刺繍」をネタにした回がすばらしかった。

○香魚子「さよなら私たち」

 絵がとてもバランスが取れていて良い。青年漫画的な要素と少女マンガ的な要素に現代性をうまくブレンドさせている。たいへん微妙なバランスの上に成り立っているデザインであり、漫画の中では時折「崩れて」しまっているケースも見られるが、8〜9割は成功している。すばらしい。「長持ちする絵柄」というか、少女マンガにとどまらず、色々なジャンルを描けそうな絵柄をお持ちの方である。

 作品内容も少女マンガに青年漫画的な要素がブレンドされた雰囲気。だが基調にあるのは少女マンガ的自己陶酔であろう。己の醜さや嘘すらもナルシスティックに愛せてしまう「女の子」の姿を描いた「失恋ファミリーレストラン」などが、この人の「少女マンガ性」の真骨頂ではないか。登場する女の子達は皆、それ相応に醜く虚飾に満ちているが、作者はその醜さと虚飾すら深く愛している。まことに業の深いこと。

○こうち楓「LOVE SO LIFE」

 絵は現代風で良い。花ゆめで子育てモノだ、ということで3巻まで読んでみたのですが…自分が思っていた以上に羅川真里茂が好きなんだということに気付かされただけでした。「赤ちゃんと僕」を読みたくなった。

5/30

人はひとつだと みんな同じだと
バカ言ってんじゃねえ
みんな違うからのたうち回ってんだろ
みんな違うから殺し合ってんだろ
みんな違うから泣いてんだろ
みんな違うから分かろうとするんだろ
分かろうとするんだろ

鏡雨(SION)

○アルバム「鏡雨」

 新譜が出ることだし早く聞かなきゃということでアルバム「鏡雨」を聞く。楽曲的には前アルバム「住人」と近似したものが多い。それを堂々とできるのも音の本物感への自信、そしてメッセージ性を明確に打ち出した「歌」への自負があってこそ。

 もっとも二枚のアルバムは「近く」はあるものの全く別物。本作はSIONが得意とする「東京の街で生きる人間」の描写を中心とした歌が多い。そこに「住人」で見られた力強さが加わり、寂しいけど爽やかな、ギリギリだけど余裕のある楽曲が多数できあがっている。「雨」がテーマでありながら、湿っぽさはない。

まったく気まぐれな空だ まったく可愛げの無い雨だ
窓をたたき俺をぽかすかたたいて 知らん顔した横顔さ<
だけどまあ好きにしてくれ 俺はまだ 雨に混ざらんぜ

(雨に混ざらず)

 人生にまつわる「重さ」をあけすけに歌うのがSIONの常だが、「重さ」は軽やかに、余裕を持って歌われる。どんなに重いことでも、深刻ぶってどうなるものでもなかろう、痩せ我慢しちまえばいいのさといわんばかりに。己の葛藤や弱さをおとなしく受容するのではなく、かといって強硬に拒絶するでなく、ただ堂々と「抵抗」するSION先生がひたすらカッコイイ1枚です。

 ベストはやはり1曲目の「鏡雨」でしょうか。サビで一挙に都会の風景が広がっていくかのような開放感がすばらしい。雨の歌なのに晴れやかでどこまでも広がっていくような伸びやかさに溢れている。あとは4曲目の「放つ」がなかなか力作です。

眠れない夜 いつも誰かが
俺にのし掛かり 首を絞めた
でも俺は見た 月明かりに浮かんだ顔は
誰でもなく この俺だった

消されてたまるか 消されてたまるか
消されてたまるかよ

(放つ)  自分の敵は自分自身。己が身中の闇より深い闇はなし。己に抵抗し闘争する姿が力強く描かれた良い曲であります。SION先生、お元気そうで何より。新譜も買います。

○「刀語」第五話

 ようやくとがめさんメインの話というか、ヒロインらしいところを見せた回でした。「チェリオ」ネタが楽しい回。「チェリオ」が「外国語でさようならという意味」という伏線はどんな風に回収されるんでしょうか、今から楽しみです。

 お話的には結構ターニングポイントになる部分(主人公二人の関係性の変化(深化)と、刀集めミッションの進路変更)で、情報量も多めでしたが、いつもよりもくっきりはっきりしたテレビアニメらしい展開のおかげでスムーズかつ楽しく見ることができました。好調を維持しております。すばらしい。

じぶん年金プロジェクト

 国が約束守るのであれば国民年金ってものすごく「割のいい投資」なんですけどね。年金レベルで投信をやったとして、どれくらいになるかをある程度具体的に見せてもらえないと説得力ない。コンセプトは分かるが、現段階では単なる「新手の投信宣伝サイトにしかなってない。

 「年金財政が破綻されて放置される」リスクと、「投資信託をやっている企業が潰れる」リスクってそんなに違うのだろうか。前者のリスクも確かに高いが、かといって後者のほうが優位で安全と言えるだけの根拠はあるのだろうか。「官への不信=民への信頼」とはならない。

 「国民年金を信じるな」と言うのであれば「信じるに足る資産活用の見分け方・判断基準」をきちっと教えて、個々人の判断力を鍛えるのが筋だと思うのだが。それを「民間のプロに任せなさい」では話にならない。日本の金融・証券がこの10〜20年何をしてきたかを皆知らないとでも思ってるのか。ついでに、この国の民間企業で働いている人間が「民間企業のやり方は信頼できる」なんて本当に思えるだろうか。

 「AもBもさして信用できない、でもどちらかを選ばなければいけない」という状況に立たされている場合、人はどう動くか。「官から民へ」を主張する人は、そのことを踏まえて人を説得しないと難しいと思う。厳しいハードル設定ではあるが、きちっと対応すれば乗り越えられないわけではない。

 「ハードル設定の厳しさ」をそもそも自覚しないで「官よりも民が頼りになるのは当然」と思って言っている人は基本、失敗する。たとえ真実がそうであったとしても、そう思えるだけの体験的裏付けがなきゃ人間なかなか変われない。

 ここのところ規制緩和など自由主義経済への回帰を訴える声が強くなってきていて、それ自体は悪いことではないのだが、「官」だけを批判するのではなく、この国の「民」の信頼性を高めることについてもきちっと考えないと規制緩和だけしたところで失敗するのは目に見えている。ギリシャの危機を乗り切り、アメリカが適度な持ち直しを見せれば「グローバリゼーション競争パート2」時代がやってくる。またぞろ外国人の勝手なルールに振り回されたくなかったら、今のうちに日本社会を「不信ベース」から「信頼ベース」に転換しておいたほうがラクに戦えるのだが。

○夢のある話

合成生物学:人間が生命を造った

 画期的だが、社会や人間の認識の本質部分にインパクトを与えるような事態になるのはもうちょっと先なのかなあ。

 こちらも、ある意味で「生命を吹き込む」話。

初音ミクアルバムオリコン週間ランキング1位

 初音ミクは「歌を作って女の子に歌わせる」という表現活動の参入障壁を一挙に押し下げた。活動人口が増えるとクオリティが上がり、支持も集まる。

 結局、人間の力を引き出すには「やりたい」と思っていることを失敗成功はともかくとして「やれる」環境を作るのが一番よいのだなあ。ミクも当初「使い物になるのか」的な言われ方をしていたが、どんどん技術的洗練度が向上していった。「やりたい人たち」が集まって作り出した力の凄まじさ。

 得手不得手とか関係なく、やはり「やりたいことをやりたいようにやれる」社会を作ったほうがどうも効率がよい気がする。「やりたいこと」が「金を稼げること」な人にたくさん金を稼いでもらって、そうじゃない人はベーシックインカム、みたいな形が幸福な気がするんだが。まあ、そううまくもいかんわな。

○久々に「COWBOY BEBOP」再視聴中

 四度目くらいかな。第3話まで見た。第三話は特に演出・台詞回しとも王家衛映画の影響が色濃く、オリジナリティという意味では実はそれ程でもなかったのかもしれぬと見ていて思う。スパイク=レスリーだったのかな。

 スパイクたちの行動が気持ちがいいほど「功利的ではない」のが良い。カネや安全ではなく、常に矜持や誇りや己の気分を優先している。「フリーランス(自由人)である」ということがこの作品ではちゃんとキャラの行動原理にまで浸透している。

 第三話のフェイ・バレンタインのキャラクターは王家衛作品・香港映画などによく出てくる「勝気で自由気侭だけど純情で繊細なヒロイン」という類型と比較すると、それほどオリジナルなものではないだろう。回を重ねるごとにキャラクターが成長していって最終的にオリジナリティを獲得したように思う。

 なお「オリジナルではない」ことは作品の価値を落とすわけではない。渡辺監督以下スタッフはこの時代の「最もカッコイイもの」を実に貪欲に取り入れ、そこに自らのオリジナリティを付加していった(菅野よう子の音楽も含めて)。その貪欲さ、付加された作り手達のオリジナリティは文句なしにすばらしい。

 それにしても、アニメでフィルムの「湿った」空気感を再現しようと頑張ってるのは立派。今季アニメ「閃光のナイトレイド」なんかは、こういう「湿った」空気感をもっと出す努力が必要ではないか。自らのライバルはアニメではなく、同じ舞台設定の「映画」「フィルム」だという意識がほしいところ。

5/20

一鳥声有り 人心有り
声心雲水倶に了々(空海)

○トップ絵更新しました

 作画はお馴染みかなへ氏。キャラといい色あいといい目に優しくて良い絵です。

ツイッターラクだわ

 ラクを覚えるとどうしてもラクなほうに流れますなあ。まとまった内容以外はツイッターで適当に漏らしていこうかと。

○サンボマスター「きみのためにつよくなりたい」

 今回は6曲目「愛とは 愛とは」について。今回のアルバムで最も良かったのはこの曲。

 前回解説したとおり「I love you & I hate the world」は端的に言えば「誰にも気持ちを話せない孤独な「僕」を、「君」の愛が救ってくれるんだ」という歌です。「僕を救ってくれなかった世界/僕を救ってくれた君」という対比。いずれにせよ「僕」は「誰かに救ってもらわなければいけない」存在として設定されています。しかし「世界」も「君」も、「僕」の全存在を投げ出されて救い出すような力はないのではないか。そこが、この曲のある種の限界となっているわけです。

 これと比較して、「愛とは 愛とは」で登場する「僕」は「君」や「世界」に一方的に「救ってもらう」存在ではない。冒頭の実にミもフタもない自分語りの中で「僕」自身が孤独と煩悶から抜け出したいという「望み」が力強く語られるのです。

僕はひとりぼっち 生きがいもこれぽっち
もうそれが嫌だから 僕は今夜決着を付けたい
待ってたぜトラウマたち お前を返り討ちにすんぜ
今までの借りを返して どこまでも駆け抜けてきたい

 「I love you & I hate the world」で語られる「僕」と違い、この曲で語られる「僕」は「誰かに救い出される」存在ではなく「自ら決着をつける」主体性を持っている。「返り討ちにする」「借りを返す」といった表現も、「僕」の主体性を強く感じさせます。

 ただし「決着を付けたい」「駆け抜けてきたい」で終わっています。なぜ「駆け抜けていく」ではないのか。それは「僕」だけでは「決着はつけられない」からでしょう。やはり「他者」が必要なのです。

僕がこの世に生まれたワケは 僕が生まれたワケは
あなただけが知ってる 信じてくれ信じてくれ

僕がこの世で生きてくワケは 僕が生きてくワケは
あなたと知りたいの 信じてくれ信じてくれよ

 この部分だけを取り出すと「I love you & I hate the world」とさして変わらない感性を感じます。しかし冒頭の歌詞の後だと、この四行には「他者」との「距離感」がきちんとあることがわかります。「他者に自らの全存在を投げ出したい」と考えているわけではない。「僕の生きてくワケ」は「あなただけが知ってる」ものではありますが、僕はそれを一方的に教えてもらいたいわけではない。「生きてくワケ」は「僕」が「あなた”と”知る」もの、一緒に獲得していくものなのです。

 ここでの「僕」は「他者に自らの全存在を投げ出し依存する」ことを考えていません。「他者と自己が相互に自らの存在理由を与えあい、発見しあっていきたい」という願いを表明している。これは「I love you & I hate the world」の「僕」とはまったく別物です。

 他者は必要ですが、他者は一方的に「僕」を救い、愛するのではない。「僕」と「あなた」が協同する時、僕の「孤独」がなくなり「生きがい」も拡大する。そして、その時「あなた」の「孤独」もなくなり「生きがい」も拡大する。それが「愛」なのだとこの歌は歌っている。

 しかし「他者」は不安定で不定形であり、永続性や安定性があるものではない。人は時に他者との協同を得、時に失う。「他者」との関係が不安定で不定形である以上、「愛」も不安定で不定形であるほかない。

 そのことがサビの部分で歌われるわけです。

愛とは 愛とは 悲しみにくれることじゃないよ
愛とは 愛とは 喜ぶだけのものでもないよ

それで人が苦しみ出して それでミサイルが飛び交って
それで新しい命が生まれるもの

 「愛」を失えば「悲しみ」を呼び起こす。しかし「悲しみにくれる」ことはない。なぜなら「僕」には主体性があるから。「愛」を得れば「喜び」がわきおこる。しかし「喜ぶだけ」のものでもない。なぜなら、その「愛」は不安定で不定形なものだから。

 「それで人が…」からはじまる二行によって、「僕」という個人の愛の物語が一挙に世界全体に敷衍されていきます。具体から普遍へと一挙にジャンプする詩ならではの快感があります。

流れた日々が汚いだなんてウソだったんだよ
誰かに呪いをかけられたから解きにきたんだよ

昨日は真っ暗闇 今日から違う私
うなれよ僕の命 駆け抜けたい 抱きしめたい

 この部分は主語の使い方で面白い効果を出しています。

 「のろいを解きに来た」のが誰かわからない。「あなた」が解きにきてくれたと考えるのが無難ですが、「解きにきた」という表現はどちらかというと主体的です。「私」なのか「あなた」なのかがはっきりしない。

 次の部分も「違う私」「僕の命」と、違う主語が連続して使われるため「誰のことを歌っているのか」がはっきりしない。

 なぜはっきりしないのか。それは、前の部分で既に詩が「具体から普遍」へとジャンプしているからです。ここで歌われているのは「僕」一人のことではなく、「みんな」、つまり無数の「私」や「僕」のことだからです。

愛とは 愛とは 悲しみにくれることじゃないよ
愛とは 愛とは 喜ぶだけのものでもないよ

それで人が苦しみ出して それでミサイルが飛び交って
それで新しい命が生まれるもの

 「孤独の中で愛を求める人間」というテーマ性は「I love you & I hate the world」と同じですが、この歌には力強さと爽快感、そして愛を求めて人々がうごめく混沌とした世界を受容する広がりがある。

 ただの「自分語り」「僕」の物語で終わらず、「僕」という個別具体的存在から普遍的実存を描き出し、それを力強く肯定した作品として、この「愛とは 愛とは」を高く評価したいと思うところであります。

 ちなみにアルバムになぜか収録されなかった「僕は自由」は名曲ですので是非。

東国原知事記者会見書き起こし

 記者の質問の目標が「事実を聞く」ではなく「自分の頭の中にある結論・シナリオに知事を合わせる」になってしまっているのが露骨に分かる。記者自身はそのことを自覚できているのだろうか。「記者劣化」というのとは少し違う気がする。無論、勉強不足や質問の仕方の稚拙さは指摘されるべきだが、そもそも「記者が設定している目標」が最初から「事実の報道」とは違うものになっているように思えてならない。

 なぜそんなヘンな目標がこの記者の中で設定され、かくも忠実に実行されているのか。新聞社という組織そのものの目標設定がズレてしまっているのではないのか。そして、なぜそんなズレた目標設定が組織内で設定されてしまうのか。

 新聞社という組織は、このタイミングで「知事叩き」を行うことを「喜ぶ読者」が多数いて、今後も彼らが「売上」を支えてくれると思っているのだろうか?「知事叩き」「鬱憤晴らし」が新聞読者の主要なニーズになっている、と本当に思っているのだろうか?

 テレビも新聞も視聴者の「ニーズ」を読むこと自体は仕方ない。だが彼らはいったいどんな「ニーズ」を持った客を想定しているのか?「物事を雑把に捉え、善悪二元論で全てを処断し、どんな時にも「悪人」を設定して叩いて溜飲を下げ、問題の本質的解決は他人事で興味がない」人?

 普通に生活していて、仕事やプライベートで人と接しているが、そんなバカで卑屈なニーズをもっていそうな人とはあまりお目にかからないのだが。皆、総じてある程度の理屈を理解し、穏便に、できるだけ人が傷つかない形で物事が解決するといいなと思っている。別にそれを「小市民的」とわらいたければわらえばいいとは思うんだが、そういう「ふつう」があることを無視するのが「公器」としての義務なのかといえば甚だ疑問である。

 まあ「ふつう」は人それぞれなのでなんともいえないが。正直、恣意的な報道を見ているとマスゴミ云々の前に「そんなことをして本当に利益を増やしたり、支持してくれる人間を増やすことができるのか?」と心配になる。大丈夫か?

○日本における「思想家」について

 イケてる会社

岡田さんによれば現代は画期的なカッコいいシステムを考え、しかもそれを実装して世の中に広めて、初めて賞賛されるべき思想家?といえるのだそうだ。

 現代はというよりは日本では、だが。他国の思想家はビジョンだけで評価される。だが日本ではそうはいかない。

 芥川が「神々の微笑」で描いているが、日本ではシステムや思想を社会に実装しようとすると必ずその過程で換骨奪胎が行なわれ、定着する頃には「別物」になる。これを徹底的に回避し、自らの思想をそのまま定着させる方法が必要。「ビジョン+ビジョンを定着させる手法」両方揃って初めて「思想」と呼べる。「ビジョン」だけでもだめだし、「手法」だけでもだめ。両方持っている人間だけが真に「思想家」たり得る。日本では。

社会を本当の意味で変えるのは「新しいシステム」であり「新しいシステムのようなもの(元のものとは別物に変わり果てた代物)」「新しいシステム風のもの」ではない。「新しいシステム」というものは総じて破壊的で恐ろしく、ラディカルで危険なもの。破壊的だから変化を起こす、ラディカルだから人を変える。毒だから薬になる。

 したがって「新しいシステム」がきたとき、受け入れる側は基本的に「抵抗」するものなのだ。そして日本人の「抵抗」の仕方は「徹底排除」ではなく、多くの場合「まずは受容したと見せかけて換骨奪胎する」なのだ。「新しいシステム」を「新しいシステムのようなもの・新しいシステム風のもの」にしてしまうことなのだ。見えにくいけど、結局のところ「抵抗」してることには変わりない。緩やかで見えにくいけど、「抵抗者」の戦いなのだ。

 もちろん「一切の妥協をせずに新しいシステムを受け入れさせる」のが真の意味で革新的である。だが、それは難しいから妥協や交渉が行なわれる。だが、多くの人はそもそも「抵抗」を「抵抗」と見抜けず、自分が「戦っている」ということすら分からないまま、抵抗する側にいいようにやられてしまう。

 最終的に「100%実装できない」としてもそれは仕方ないこと。問題はそこに至るまでにきちっと「妥協と交渉」をできたかどうか。「自分が戦ってること、相手が抵抗していること」をそもそも認識できてない、相手の「やり口」を知らないで「受け入れてもらえた」と思っているのでは変化はおこせない。

 口先で「受け入れる」と言っても本音は「受け入れたいところだけ受け入れる」と言っている相手の場合、「いや、そこだけ受け入れたって何も変わらない。ここまでは全部受け入れないと結果出ないよ、変わらないよ」とちゃんといえないとダメなのだ。別に思想家だけの話じゃない。

 当然のことだが日本人にだって本音や利害はちゃんとある。「受容して換骨奪胎」という手法は、そうした本音や利害を「見えにくく」しているだけ。やり口を読めれば、ちゃんと相手の本音や利害がどこにあるかは見つけ出せる。「そのやり口は通用しないからちゃんとガチで交渉しよう」というところまでまず持っていく。

 「お互いの本音がはっきりと見えている状況」の形成が日本ではやたらと手間がかかるのだ。その状況を作って初めて外国人が言う「Win-Win」的な交渉理論も使える。「抵抗」の仕方は多種多様なのだ。しかも「一回抵抗をおしきれば終わり」などではなく、「抵抗」は何度ででも、ゲリラ的に繰り返される。

 ゲリラ的抵抗を見抜き、妥協できるところは妥協し、意志を通すところは通す。この作業を倦まず弛まず続ける。よほど「有無をいわさず全ての人が受け入れざるを得ない革新的なシステム」でない限りは、そうやって変えていくしかない。

 無論「有無をいわさず全ての人が受け入れざるを得ない革新的なシステム」は人類史上何度か生じている。だが、それは数百年に一度のこと。誰もが起こせるものではない。そして、そうした「圧倒的に革新的なシステム」だけに価値があるわけではない。「ちょっと革新的なシステム」の積み上げも大切なのだ。

 ロバート・ケネディ曰く「ひとりの人間が理想のために、他の人々の運命を改善するために行動し、不正に立ち向かう時、彼は希望のかすかなさざ波をつくりだす。そして、そのさざ波は他の人の力や勇気の源と呼び合う。そしてそれは抑圧と抵抗の最強の壁をも押し流す潮流になる」

 

○などということを記事にしながら

 牛乳を飲んでいたら、露骨にイヤな味が。「いかん!」と頭の中では思ったんだが、そのまま飲んでしまった…どうも、ここら辺「生き物」としてダメな気がする。

4/30

笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかつた(尾崎放哉)

 「ほかなかつた」という言葉は切ないですなあ。

○サンボマスター5thアルバム「きみのためにつよくなりたい」

 期待を上回るものはなかったが、バンドとしての成長と円熟は十分に感じさせてくれたし、今後の展望を見ることができたすばらしいアルバムだと思います。3000円払っても惜しくないアルバムです。管理人が評価したいのは「I love you&I hate the world」と「愛とは 愛とは」の二曲。

 まずはアルバム10曲目「I love you&I hate the world」から。

僕のばあちゃんが死んでしまった夜に
週刊グラビアアイドルが腕に注射を打っていたんだよ
僕の友達が病気で死んだ夜に
総理大臣は線香なんてあげにはこなかったんだ

 「極端(僕)から極端(総理・アイドル)に飛ぶ」という詩で使われるレトリック表現を生かした歌詞であります。しかし「僕」の個人的な悲しみに対して「マスメディア(=グラビアアイドル)」や「国家(=総理大臣)」がいきなり登場するところは「現代ならでは」のものを感じさせます。なぜ「僕のばあちゃんが死んだ夜」に「親類やご近所さんが線香をあげてくれた」で終わらないのか。なぜ「僕の友達が死んだ夜」に「友達や仲間や友人がやってきてくれた」で終わらないのか。

 「僕」の意識の中では「総理・アイドル」に象徴される「国家やメディア」が最も強く「つながり」を感じる対象だからでしょう。「僕」と「国家」の間に小規模な集団や共同体(家族・親類・同僚等の集団)があったとしても、「僕」の苦悩はそこで解決してもらえない。ここで「僕」がいう「世界」とは「僕」と「総理やグラビアアイドル」がダイレクトにつながってしまっている世界です。「僕」と「総理やグラビアアイドル」の間には何もない。たとえあっても、それは「僕」の悲しみを癒すものとして機能していないのです。

 「国家やメディア」が「僕の悲しみ」を癒してくれないということは、「僕」にとっては「世界は僕の悲しみを癒してくれない」ということになる。だから「僕」は「世界を憎む(I hate the world)」のです。社会反映論的な視点から見ると、ここには「日本的な中間集団が崩壊した後の現代人の心象風景」を見ることができるでしょう。

僕は今まで思っていた事を誰にもいえなかったよ

 「僕」の周囲に、「僕」を包摂してくれるような「中間集団」的な存在はない。僕は僕の気持ちを「国家」や「メディア」に仮託する他ないのですが、しかし「国家」や「メディア」は「僕」が幾ら気持ちを仮託しても何もしてくれはしない。僕は極めて「孤独」であり、「思っていたことを誰にも言えない」ままずっとすごしていたのです。そんな「僕」の前に表れるのが「あなた/君(=異性)」。

僕は今まで思っていた事を誰にもいえなかったよ
だけどこれからあなたにだけは伝えたいんだよ
僕が今まで愛していたものや憎んでしまったものを
君に伝えて何かのよりどころにしたいんだ そうしたいんだ

 まるで告解をするキリスト教徒のごとき勢いです。「国家」や「メディア」に向けられていた情熱が、そのままの勢いで「あなた/君(=異性)」に向けられている。「世界(=国家・メディア)」は僕の気持ちにこたえてはくれない。でも「あなた/君(=異性)」は違う。だから僕は世界を憎み(I hate the world)、「あなた/君(=異性)」を愛する(I love you)のだ。

 大変わかりやすく美しい構図ですが、ここで歌われている「あなた/君」は「国家」と比較してそれほど確固とした存在なのでありましょうか。「国家・メディアは「よりどころ」にならないけど、あなた/君は「よりどころ」になる」といって愛を歌うのはたしかに美しい。しかし、生身の他者が「よりどころになる」かどうかの保証はない。それは「国家・メディア」と同じくらい怪しい。「あなた/君(=異性)」を「よりどころ」にするのだ、という近代的恋愛観(カミサマの代わりとしての異性)も「国家」と同様のフィクション性を持っているのです。

 歌い手はそのことに自覚的でありましょうか。自覚的ではなかろう、と言えば終わりですが、ここは敢えて無理矢理「自覚的であるかもしれない」という解釈をしてみたいと思います。

 この曲のサビは、

I love you I love youI love you I love
君に伝えたかったよ 心震えるような毎日をずっと送ろう
I hate the world I hate the world I hate the world I hate
誰にもいえなかったけど 僕はこんなに憎んでたんだ 世界の色んな事を
色んな事を I love you

 「君に伝えたかったよ」はあとに続く「心震えるような毎日をずっと送ろう」から考えるに「ようやく君に伝えられる。今までずっと伝えたかったよ」という意味で理解すべきなのでしょう。しかし、どうも歌い手の歌い方を聞いていると、そうは聞こえないのです。「伝えたかった、ようやく伝えられる」という喜びではなく、この部分の歌い手からは「伝えたかったのに…」という哀切が感じられる。

 「伝えたかったよ」「誰にもいえなかったけど」という表現は「伝えられたのか/伝えられなかったのか」「結局言えたのか/言えなかったのか」が曖昧な表現です。その曖昧さと、歌い手の哀切な歌い方によって、この歌は「単純な愛の賛歌(ラブ&ピース)」ではなく「決して実現することがない「愛」を請う歌」として聴くことも可能になる。少々、穿ちすぎた解釈ではありますが、個人的にはそのほうがしっくり来る。

 さて、「僕」が孤独な理由、自分の思っていたことを「誰にも言えなかった」理由を社会反映論的に見ることもできますが俗流心理学的に分析することも可能です。なぜ、「僕」は「思ってい事を誰にも言えなかった」のか。なぜ「言いたい」と願いながら「言えない」のか。

流れ流れてウソの果て 明日がどこかもわからずに
父と母を泣かせた僕に ステキな明日はきっとこない
神様僕の体には悪魔が居ます 許してください

 体内に「悪魔」を宿しているという自覚、自己嫌悪こそが「ウソ」をつきつづけさせ、他者への不信を生み、「孤独」の原因となる。「思っていたことを誰にも言えなかった」原因となる、というのが俗流心理学的にはオーソドックスな解法となりましょう。体内の「悪魔」は消えてくれない。ということは「今まで思っていたこと」を伝えられる「あなた/君(=異性)」は、「悪魔を抱えた僕」を「そのまま受け入れてくれる存在」となります。しかし、そんな「あなた/君(=異性・他者)」は現実に存在するのでありましょうか。

I love you I love youI love you I love
君に伝えたかったよ 心震えるような毎日をずっと送ろう
I hate the world I hate the world I hate the world I hate
誰にもいえなかったけど 僕はこんなに憎んでたんだ 世界の色んな事を
色んな事を I love you I hate the world I love you I hate the world

 奇しくも歌は「I hate the world」で終わります。

 結局、この歌で歌われているのは「愛」の根底にある「世界への憎しみ」なのです。「憎しみ」というリアルで明確なものが露になることで、「愛」の神話性が高まり、より崇高なものになる。ですが、崇高になればなるほど、「愛」はアンリアルになる。

 無論、「だからこの歌はダメだ」というわけではありません。むしろ管理人は、それがゆえにこの歌を評価します。「世界への憎しみ」を率直に歌い、どこにもないかもしれない「あなた/君(=異性)の愛」をミもフタもなく請う。それこそが近代的な自我を抱えた現代人のリアルでありましょう。

 インタビューによると

山口隆:これは熱にうなされたように作りましたからね。うわぁぁ〜!って。字を書くのももどかしい感じだった。好きなことを歌った感じです。

 とのこと。洗練されない、むき出しのリアリティ(憎しみ)と、だからこそ痛切な「愛」への夢が印象に残る歌となっております。

 大して内容もないのに無駄に長くなってしまったので、「愛とは 愛とは」についてはまた次回。個人的に今回のアルバムのベストはこの「愛とは 愛とは」であります。

○蒼樹うめ「ひだまりスケッチ」5巻

シャフトはなぜ「宮ちゃんが服を買いに行く」回をアニメ化せなんだか!にしてもうめ先生は宮ちゃんのよさをよくわかっておられる。原作者だから当たり前だが。

○野中英次・亜桜まる「だぶるじぇい」1巻

野中先生の「日常生活でのしょうもないダベリ」シーンが萌え絵と実によくマッチして楽しい。末永く続いて、そのうちアニメ化してほしい1本です。無駄に可愛いってのがいいです。

○ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」1巻

基本「一発ギャグ」「同じネタを反復」しているだけなのだが、その「一発」「反復」のために大量のエネルギーと知識量を投入しており、それがやみつきになる面白さを実現させている。コメディーは基本とベタを愚直にこなすことが大事。お見事です。

○羅川真里茂「朝がまたくるから

良作。「ああ、やっぱりこの人はこういうの描きたかったんだ」と腑に落ちる作品集といいますか。設定(前科者、虐待、トラウマなど)にある種の「古さ」というか「いかにもさ」を感じさせるが、個人的にはこういう「いかにもな物語」をごまかしぬきに描く人を評価したいのです。

○芦奈野ひとし「カブのイサキ」2巻

前作「ヨコハマ買出し紀行」に比べると時間の進み方が早く、人間ドラマ成分も多めの印象。ヨコハマとは違うものを志向してちゃんとそれを作品として定着させてる。飛行機シーンがなかなか迫力あって「この人こういうのもちゃんと上手いんだなあ」と感心させられます。

○高津カリノ「Working!!」7巻

佐藤さんの健康がますます心配になってきた。「ライバルを登場させて気持ちを煽る」というラブコメの王道パターンを実に愚直にこなす。それがちゃんと作品を盛り上げている。コメディーは基本、ベタが大事だなあ。

○貞本義行「新世紀エヴァンゲリオン」12巻

人死にのシーンを含め、全てを冷静に丁寧に的確に描写する貞本氏の技量・冷静さ・情熱に頭が下がる。実に分かりやすい。ミサトさんの最期の描き方に庵野氏との差異を感じる。「きちんと殺してる」感じが、この作家の誠実さをよく表している様に思う。

○谷川史子「清々と」1巻

傑作。オッサンをむやみに泣かせるもんじゃない。谷川史子と山名沢湖は現代少女漫画が商業化と洗練化を進める中で知らずに削り取ってしまったものを再生させる無形文化財也。

4/20

春雨の降るは涙かさくら花散るを惜しまぬ人しなければ(大伴黒主)

 雨どころか雪が降っちまいましたが。

10年で120兆円を生み出す新たな内需振興策 〜成熟経済の強み ヒト・モノ・カネのストックを活かせ〜(PDF)

 みずほ総研の気合の入ったレポート。こういう「際立って優れているわけではないけど、基本的なことを普通にまとめました」っていう文章をタダで見られるのはありがたいです。ネットはどうしても耳目を引く、エッジの利いたものが注目されがちだが「ベースになる知識」なしにエッジの利いたものばっかり見てると物考える時のバランス感覚が凄く悪くなる。

 さて、管理人がポイントだと思うところを大体要約しちゃいますと。

 これから日本の内需振興策としてイケそうな分野は以下の5つ。

1 高齢者資産の活用
2 環境対応住宅・自動車
3 国内宿泊観光旅行
4 家事・育児・介護
5 女性の就業促進

 で、1〜5の分野でどんな施策があるかというと

1 リバースモーゲージ(高齢者の住宅を担保とした返済繰延型融資)
贈与税減税による所得移転
2 エコ住宅、エコカー
3 トラベルポイント制度、休日の拡大、休暇の取得促進
4 子供手当てのバウチャー化
5 介護労働者の処遇引き上げ
子育てインフラ(保育所等)の整備拡大
ワークライフバランスの本格導入

 となるそうです。これによって120兆円の需要が創出され、250万人の雇用創出になると。  

 それに加えて、下記の政策が必要との提言。

○現役世代の生活安定化
○セーフティネット整備、雇用政策の拡充
○正社員と非正社員の均衡処遇
○医療・教育・福祉などの規制改革
○法人税率引き下げ
○官民連携による地域活性化
○持続可能な社会保障制度の構築
○年金医療保険改革

 そして、これからクるぞという産業分野としては

1 医療・健康産業
2 成人向け教育
3 情報通信技術
4 ロボット
5 ナノテク

 などがあるので、そこら辺は支援してこうよとのこと。

 提言の中で面白いな、と思ったのはリバースモーゲージ、子供手当てのバウチャー化あたり。

 リバースモーゲージは普及すると良いかなと思います。ネットでは高齢者叩きが激しいですが、田舎の年寄は「家はあるけど僅かな年金しか現金収入はないでギリギリ、子供は自分達の生活で精一杯」というパターンが意外と多いようでして、そういう人の生活状況を生活保護以外の手段でどうにか底上げしていかないことにはヤバいだろという気はしております。「田舎の貧乏年寄」を救う(そしてある意味で引導を渡す)最後の一手になるのかもしれません。

 あと「子供手当てのバウチャー化」は今すぐにでもやったほうがいいんじゃないかと。バウチャーにするだけで「子育て支援」と「景気対策」の二面作戦にできるんだから。どうせ配るなら、ちゃんと世の中に回るような形で配ったほうがいい。現金でちゃんと回ってくれるんだったらそれでもいいんですが、貯蓄に回りますからね普通は。

 「働き方」関連の提言が多いのも特徴ですな。なんとかしてくれとよは思いますけど、正直こればかりは法整備だけではどうにもならんと思われます。実に当たり前のことなのですがカイシャに労働基準法守らせるには「労働基準を違反をしてないかきちんと調査・摘発する人」が必要なわけでして、その人員が圧倒的に手薄な我が国はどうにも…国や地方自治体が何やってるかって「カイシャに調査書渡して提出させてチェックしてる」だけですから。人員増やせない以上、内部告発したもん勝ち、訴訟起こしたもん勝ちみたいな仕組みを作るしかないけど、そのつもりはなさげだし。

 というわけで、せいぜい法律でどうにかなるのは「正社員と非正社員の均衡処遇」くらいではないでしょうか。企業サイドに「正社員維持コスト」を安くできるメリットが生じ得る政策なので、うまくいく可能性はある。もっとも働く人にとっては更に辛いことになる可能性が大ですが。

 期待される産業分野については、正直あんまり…ロボットもナノテクも開発にめちゃくちゃカネがかかりそうな分野なので、儲けが出始めるまでに結構かかりそうだし。やはり情報通信だと思うんですが、日本はここでも制度や規制が邪魔をするのでなんとも…

 子育て支援で「保育所の整備拡大」が訴えられていましたが、それについては、こんな話がありました。

「保育園を増やせ」はなぜ間違いか?

 つまるところ「労働環境」をどうにかしないと、ハード面(保育所)を幾ら充実させたって無駄だよということなんだと思います。しかし前述したように「労働環境」については、状況は今後ともさして改善されないだろうというのが管理人の予想です。現実のヨノナカでは「ワークライフバランスをどうにかしたいならパートで働くしかない」ということになっちゃってて、それが改善される経済的インセンティブはカイシャ側にはたぶんない。この手のことについてはカイシャは国のいうことあんまり聞きませんよ。個人的には「内部告発したもん勝ち」な法律を作るしかないだろと思います。公務員増やしてガンガン摘発ってのはあんまり現実的じゃないわけですし。

 この手の話を人とすると「制度をきちんと作れば企業は自ずとそれに合わせてちゃんとやるようになる。できないところは淘汰されるんだ。だから制度をいじればいいんだ。」と言う話になるんですが(そしてそれはごもっともだと管理人も思うんですが)、その「制度をきちんと作る」っていうところが実はめちゃくちゃ難しいわけで、そこも含めた制度設計であるべきなんですが、なかなかそこまで話がいかない。簡単に「そういう制度にすればいい」と言っても実はわが国においてはあんまり意味ないんじゃないかという気がするのです。運用レベルまで具体的に議論したり線を引いたりしてかないと多分ダメなんですよ。グランドデザインだけしてりゃよければそりゃ楽だけど。本来、国民がすべきなのはグランドデザインだけなはずなんですが、日本ではそれだけではダメなんでしょうね多分。

○荒川アンダーザブリッジのOPがすばらしくてですね

 まあ、何も言わずに見なせえ。シャフトはどんどん良い人が出てきますなあ。

○サンボマスターの5thアルバムがついに発売ですよ

 4月21日、明日じゃないですか。タイトルは「きみのためにつよくなりたい」であります。アマゾンで予約したんだけど当日とどかないかなあ、やはり翌日かなあ。

 えらそうな言い方で申し訳ないのですが期待を込めて。サンボマスターが次なる脱皮を果たす時が来るとしたら、それは恐らく歌詞から「きみ」や「ぼくら」がなくなる時だと思っております。「きみ」や「ぼくら」という「なんだかわからない、誰にでも代入できるあいまいな表現」によって歌手と聞き手を同一化させようという戦略を使い続ける限り、日本語ロックは永遠に同じ場所を回り続け、同じことを繰り返すことになる。正直、サンボはもう「きみ」や「ぼくら」を使った歌では頂点を極めたのではないでしょうか。「次」があるなら「次」を見てみたいなあと。

 無論、そんなことは抜きに5thアルバムは楽しみですし、物凄く期待しております。このバンドの2ndと3rdアルバムは管理人が予想していた水準を完全に上回っていて打ちのめされた覚えがあります。ぜひまた打ちのめされたい。

東京ガールズコレクション

 「girl(日本語だとやはり「女子」なのか)」という言葉に象徴される日本現代女性のある種の主張や理想が、世界的にも特殊なものであり、貴重なものだというのは分かるのですが、正直「でも、そんなんで幸せになれるの?」という疑問がオッサン的にはあるのです。写真ってのは残酷でして、モデルさんの実年齢と着ている服に合う年齢のギャップみたいなものが、どうしたって出るわけで。

 純粋ではいられないのに純粋さを装うことに、可憐ではいられないのに可憐さを装うことに、女子ではいられないのに女子を装うことに虚しさを感じないのかなあとちょっと思わなくもないのですが、そういう野暮なことはいいっこなし、服を着ている間は華やかで夢のような世界に浸るが勝ちってことなのやもしれません。それはそれでひとつの美学であり、とっても日本的ではあるんですが。

 ただ個人的には「純粋でいられないという諦念を抱えつつ純粋さを志向する」「可憐でいられないという諦念を抱えつつも可憐であろうとする」というほうが美しい気がするのですよ。で、正直このコレクションにはそういう意味での美しさはあんまり感じないわけで。感じないのはお前がきちんと見てないからだろ、ということなのかもしれませんが。てか、そうだったらいいんだけどなあ。

○「刀語」第四話

 観客の期待をスルリとかわす趣向に粋と洒脱を感じるのですが、期待をかわすなら観客が「期待していた以上の何か」を提供する必要があると思うのですよ。

 第四話ではいつものように主人公達の戦いが描かれると期待させておいて、主人公の姉・七実のバトルを見せるわけです。そして、そこで彼女の圧倒的な強さが明らかにされる。この趣向はいいのですが、この趣向に納得するには、七実のバトルシーンが「主人公のバトルシーンとは全く異質のもの」であったほうがいいと思うんですね。「戦い方」とかじゃなくて「映像の見せ方」レベルで「主人公と異質」であったほうがよかったと思うのです。ところが、実際は七実のバトルも主人公のそれと同じ「見せ方(台詞の多用と設定の妙で見せる)」になってしまってる。そうすると観客としては「期待を外されて別のものを見せてあげるよといわれたので見てみると、いつもとあんまり変わらないものを見せられちゃった」という印象を受けてしまう。

 七実の圧倒的な強さは十分に印象付けられたので問題ないんですが、「見せ方」「演出」レベルでも「期待を外す」工夫があったほうがよかったなと思いました。なかなか難しいですが。

○赤字国債話

 正直に言うと今まで「こんなことに俺の税金が使われるなんて」と言って怒ってる人にピンとこなかったのですよ。赤字国債比率が高いから「今の自分の税金がそのまま無駄遣いされてる」感はあまりないし。その赤字国債だって「将来世代にツケを回す」とか言っても実質的担保はお爺さんお婆さんの貯金だろ、と内心思ってました。

 ですが、さすがにそうもいかなくなってきたらしいぜという話がちらほらと。

「孤高の日本」にリスクはないのか

 御馴染み感の出てきたフィナンシャルタイムズによる日本への嫌味記事。

多額の債務を抱えた日本経済

 イギリス人の嫌味その2。「mind your own business」と言いたい所だが、「日銀や政府が何をしたいのかが見えにくいままだから不信感持たれるんだよ」という指摘はごもっともで、世界的に見ると「あいつら大丈夫か?」と思われちゃうんだろうなあ。「まあ、いきなりはどうにかならんだろうからしばらく放っておいてダメになったらしゃぶりつくしたれ」くらいなもんかと。いやな話ですが。

 で、嫌味がイギリス人だけならいいんですが、国内でも「いや、ガチでやばいんじゃないですかね」という話が。

財政赤字の深刻度 〜将来は国債の国内消化も困難に〜(みずほ日本経済インサイト)(PDF)

 このままのペースでいくと国内消化も2025年までが限界ということらしいです。てわけで、ちょっと認識を変えないといけないなと。まあ変わったからってどうなるもんでもないんですが。

○そのほかの小ネタ類はtwitterのほうで

 ネタがかぶってたりしますが。

  

4/11

手まくらの夢はかざしのさくら哉(蕪村)

春の夜の夢は恋する人が桜の枝をかざしにさした姿だった。蕪村は素朴なロマンチシズムを歌にする天才。

○アニメ「けいおん」2期OPは良い仕事

 楽曲映像とも少々繊細・複雑にしすぎた感はあり1期OP・EDの「分かりやすいインパクト」がないとは思う。しかしアップテンポでハイテンションかつひねりのきいた楽曲、美麗かつキャッチーな映像の連打を浴びせたおすOPアニメは文句なしにすばらしい。キャラの動きと音楽をあわせるところは、あまり難しくない、わかりやすく直感的なシンクロをしていて大変気持ちが良い。個人的には律と唯の歩きとか、澪の髪を払う動きとかと音がシンクロするあたりとかが心地よい。そこら辺の見せ方は決してマニアックではない。ライトな人にもディープな人にも訴求するわかりやすさ、間口の広さをきちんと持っている。楽曲も初めて聴くとゴチャゴチャしててよくわからない感があるが、2、3度聴けば良さが自ずと分かるツクリになっている。おそらく回を重ねるごとにOPは評価を高めていくことになるだろう。第一印象だけで判断してはいけないのは人間と一緒。

○「荒川アンダーザブリッジ」第1話に時代の潮目の変化を勝手に感じる

 正直に言えば原作より面白い。原作には悪い意味で作り手に「余裕」があったが、アニメ版はその「余裕」を削ぎ落とし、原作の持つリアリティだけを抽出している。「化物語」もそうだが、新房作品は原作をクラッシュするわけではないにせよ、相当「アニメ製作者達で原作を解釈・再構成」して作っている。

 さて、「荒川アンダーザブリッジ」第一話を見てなんとなく思ったこと。思いつきなので特に根拠はない。

 ゼロ年代は一言で言えば「マトモ大好きな優等生の時代」だった。如才なく優秀で精密だが、本質的にはつまらない優等生が様々な分野で勢力を拡大した時代だった。サブカルやアングラすら「ウェルメイド」に取り込まれ、商業化洗練化の道を走り始めてしまった時代だったのではないか。だが、そろそろ日本人も誰もが「優等生」になんかなれないし、なりたくもないということに気付き始めたのではないか。来たるべき10年代は「自分大好きバカの時代」になるのではないか。「優等生」は存続し続けるが、彼らが社会や文化シーンに影響を及ぼせる範囲はこれからかなり限定的になっていくだろう。狂気も愚かさもそのままに、バカたちが無茶をする時代。決して住みよくはならないだろうが、面白さはありそうである。

○新アニメ

 「GIANT KILLING」は手堅い第一話でホッとする。試合シーンが始まらないとなんともいえないが監督が紅優だからまず大丈夫かなと。「KIS×SIS」は伝統芸能的。キャラデザインを含めて新しさが全くない。あとは「迷い猫オーバーラン」が話題になっているが、未見。そのうち。

 個人的には今季は「けいおん!」と「荒川アンダーザブリッジ」が純粋に楽しみ。特に「けいおん!」はクオリティ高いし2クールらしいので大変嬉しいアニメですよ。「エンジェルビート」と「GIANT KILLING」は継続試聴。あとは月1の「刀語」もかなり楽しみ。できれば児童向けでおっさん製作者が暴れてくれる渋い作品があるといいんだが。怪盗レーニャみたいな。

○呟き中

 いちおうhttp://twitter.com/mymtsskにてボソボソと。

○ftpの調子が悪いのと

 もうちょっとお絵かきブログ的な方向にもっていきたいなあというのがあるんだが、面倒くさいのでしばらくはこのままかな。マリみて五期始まったら考えよう。それにしてもペンタブでちょこっと何かラクガキするのですら、いざやろうとするとグズグズしてしまって意外とハードルが高い。やりはじめれば楽しいのだが、やりはじめるまでに結構「あーいいやー」となってしまうことが多い。ほんとにどんだけ惰弱なんだか。

4/3

自己をならふといふは、自己をわするるなり。(正法眼蔵)

「大和総研―世界を変える4つのメガトレンド」

>>今後40年の間に起きる世界の人口構成の次の4つの歴史的変化が、
>>21世紀の世界を大きく変えていくと言う。それは
>>(1)先進国経済の地盤沈下と途上国への経済パワーのシフト
>>(2)中国を含む先進国の高齢化
>>(3)イスラム諸国の人口増加
>>(4)途上国の急速な都市化
>>である。
>>(中略)
>>今後の人口の年齢構成と人口分布をめぐる世界的な偏在により、
>>(世界は)新たに3つの世界に分かれていくだろうと分析している。
>>
>>第1世界は、北米、ヨーロッパ、アジア・太平洋地域などの先進国。
>>第2世界は、急成長を遂げ経済的にもダイナミックで、バランスの
>>とれた人口をもつブラジル、ベトナムなどの諸国。
>>第3世界は、人口が急成長し、若者が多く、都市化も進むが、経済
>>も政治も不備が多い国々。
>>そして、教授は、第2世界が、国際経済、安全保障、国際協調の中
>>心になっていくと予想している。
 「フォーリン・アフェアーズ」誌が発表したネタの割にはアメリカ様の軍事力の影響を軽く見積もっていやしませんか、と思わなくもない。というか、これは結局「第2世界に気をつけろ!」とアメリカ政府に御注進する記事か。新しいS・ハンチントン登場、みたいなもんですかね。だとしたらタチ悪いなあ。ハンチントンの「文明の衝突」の凡庸さって本当に罪深い。

「医療改革後の米国の政治―オバマ大統領の次の一手は?」

 エコノミスト誌による「オバマ、しっかりしなさい」記事。基本は「財政赤字なんとかしろ」「国際外交の舞台でもっと強いところ見せろ」ということではないかと。

 保険法案関連のゴタゴタを見ていて思ったのは、結局オバマが大統領選挙で提唱した「対話」「アメリカの団結」なんてのは口だけのお題目に過ぎなかったということであります。そもそも対話を呼びかけても共和党はお馴染み理屈抜きの煽り勝負でガンガン反対、オバマはオバマで民主党エリートらしく「俺のほうがどう考えても正しいし」というスタンス。まあ、いつものアメリカだよね、という感じでした。確かに共和党の保険法案反対の主張とか日本人からするとわけわからんのだが。

 その他の政策見ても、民主党がブッシュ政権8年の間に成長したのは「選挙の戦い方」だけだったというのが率直な感想であります。多少中道寄りだけど「いつもの民主党政権」でしかない。大統領選挙で「チェンジ!」とみんなで盛り上がっていた時にアメリカ人が期待していた「何か新しいもの」を民主党やオバマが持っていたわけじゃないんだなということは、もうはっきりしたのではないか。

 で、その国際外交の場で最もホットなのが中国の元切り上げなわけですが。

「ネオコンに成り下がったクルーグマン」

 元切り上げないならアメリカ単独で制裁打つ手もあるぜよ、と言うだけでネオコン呼ばわりするニューズウィークの記者のほうにむしろヒくんですが。単独主義ではなく国際協調主義でいきましょう、ということみたいなんだけど、先進国は基本「元切り上げ賛成」じゃないのか?このケースでアメリカが頑張ったって「ネオコンだ」とか言わないだろ。

 5月あたりが山場になるらしい。中国としては「ちょこっと切り上げて、さも頑張りましたこれ以上できませんという雰囲気を作る」という作戦でしょうが、オバマがそこにどれだけ押し込んでいけるか。多分大して押し込めないである程度は中国の思惑通りに進むのではないかと予想。本当のゲームは「次」に先送りではないかな。

○わが国はと言えば法人税引き下げて消費税上げようぜ話ですが

R.ライシュ教授変説か?『法人税引下げはばかげている』

 タイトル煽りすぎ。R・ライシュが主張している「法人税廃止」は「契約書の束に過ぎない企業に「法人」という人格を与えることが間違ってる」というかなりラディカルな考え方が元になってるはず。その大元すっ飛ばして「ライシュは法人税廃止論者」って言うのは正確性に欠ける。煽りにしても質が低くないか富士通総研。

 しかし、煽りはともかく「法人税引き下げ政策の効果」をまともに調査して分析してるところは参考になります。ただ、商売やってる人への「メッセージ」(うちは企業が嫌いな政党・政府じゃありませんよー、というメッセージ)としてなら効果はそれなりにあるんじゃないかと思いますが。

○映画「レスラー」

 胸を締めつけられる名作であります。ミッキー・ローク演じる主人公に「もういいよあんた頑張ったよ、休めよ」と声をかけたくなる映画。主人公・ラムの愚かさと優しさに共感できない人間とはたぶん仲良くなれない。「バカなのはわかっているけれど、他にどうしようもないんだ」という男の生き様がなんとも哀しい。

 男の愚かさを許せるのは男だけ、という冷徹な現実を見せているところもまた切ない。いかついレスラーの男達が互いをいたわりあう姿がなんとも優しく、心温まる。いっぽう女達は男の愚かさを許せない。無論許せないのが当たり前で、許せないことにまったく問題はないのだが、それでもやっぱり哀しいことだなあと男としては思うのである。

○映画「ココ・シャネル」

 シャネルの伝記映画と思ったけど意外とメロドラマ成分が多かった。シャネルがもたらした服飾革命みたいなものにもっとスポットをあててほしかった気がするが。「戦時下の物資不足の環境」がシャネルを育て、支持を集めさせる要因になったんだっていうところを上手に見せてるのは良かった。

マリみて実写映画化

 リリアンの制服を実写映像で綺麗に見せるのは思っているより工夫がいるのではないか。キャスティングもさることながら衣装担当が大変そう。アニメ公式サイトの現在のトップ絵とか見てほしい。体のラインがしっかり分かる描かれ方をしているが、これは絵だからできる離れ業ですよ。リアルでこんな風に見せようとしたらよっぽどぴったりしたタイトな服にしないといけないけど、そんなことやったらたちまちB級映画になりそうだし。かといって、そのまんまリリアンの制服着せると絵的にあまりに映えないのではないかと思うし。そこら辺からしてまず大変だと思うのですよ正直。

 主演はこの二人だそうで、かなり痛々しい映画になりそうです。マリみての主購買層が男であることくらい商売してる人たちはわかってると思うのですが、そこら辺をガン無視したようなキャスティングです。

 でも、この映画化のおかげで「アニメ五期決定!」みたいな流れになってくれるのであれば大歓迎ですが。スタジオディーンがんばってください。

○「ソラノヲト」最終回。

 美しき大団円でありました。「乙女の祈りと勇気と純情で全部解決」という日本アニメの伝統芸能を現代的ハード&リアルな世界観とキャラクター設定の中で見事に再生させた意欲作として高く評価します。

 単に「誰も死なないでよかったよかった。」というホッとした感で「いい最終回だった!名作!」と錯覚してるだけのような気もするが、それも含めて作り手の作戦勝ちではないでしょうか。ただ「キャラクター原案:岸田メル」はやはり詐欺といわざるを得ない。アニプレックス様今度は本当の意味での「岸田メルキャラアニメ」企画を実現してください。ていうか「トトリのアトリエ」とやらをそのままアニメ化すればいいんじゃないだろうか。

○鶴田謙二「さすらいエマノン」

 鶴田先生、少しは自重してくださいとついつい諌めたくなるほどやりたい放題な一冊。時間を一気に経過させるラストが実にSFしてて最高すぎる。SFはこれができるから強いよなあ、と思わされるすばらしいエンディング。高いけどカラーだし鶴田謙二だし、買う価値は十二分にある。

○釣巻和「くおんの森」

 情景や全体の空気感が素晴らしい分、キャラクターの印象が弱くなってしまうのが辛いところ。

○都戸利津「群青シネマ」1巻

 堅実でわかりやすいストーリーテリングと爽やかなキャラクターが印象的な好作品。爽やか過ぎて影がないところがやや難。率直に言えば「時代劇(昭和)」という設定にしちゃったのがダメな気がする。現代の田舎でこのストーリーをなんとか強引に展開させることができれば、もっと凄い作品になったように思う。少々、安全運転しすぎな印象。でも、その堅実さ手堅さがこの人の良いところだし。

○天野こずえ「あまんちゅ!」2巻

 ストレートで切実なメッセージを前面に打ち出した作品作りは高く評価したいけど、表現力に比してお説教が薄いのはこの人の場合デフォルトかなあ。

○薮内貴広「イン・ワンダーランド」

 素晴らしい才能。個人的に嫉妬を感じる類の作品であります。いいなーいいなーこういうのやりたいなー。

 絵の練習をしよう。70か80になる頃には描けるようになるかもしれん。目指せヘンリー・ダーガー(笑えない)

桜庭一樹「Goshick」アニメ化決定

 京アニという噂はあったがさてはて。個人的には新房×シャフト×斉藤千和で見たい。

 案の定というかなんというか新装版で出版するみたいだが表紙がまあいかにも文芸畑が知恵絞って考えそうな表紙でして。武田日向を堂々とハードカバーで使ってみろってんだケッ。

○新アニメ「Angel Beats!」

 麻枝氏は「イタい設定」という物凄い「高いハードル」を視聴者に見せて、その上で「ハードルを飛び越えるための工夫」「ハードルを超えるだけの物語としての強さ」を見せる。そうすると視聴者は「こんなイタい設定(高いハードル)なのにちゃんと感動するなんてスゲェ!」と思う。ある種のマッチポンプなのだ。

 この「Angel Beats!」も設定や台詞回しなど全てがイタいことこの上ない。飛び越えるべきハードルとしてはかなり高いものを設定したように思う。さて麻枝氏は今回も無事にハードルを飛び越えることができるのか。そういう作品としてみれば楽しめるのではないでしょうか。

 ふつうにアニメの第一話としてみたら、はっきり言って見る気をなくすダメアニメです。ただ管理人は「Air」アニメ版(とくに最終回)は2000年代を代表する名作だと思ってるので、麻枝氏のブランドネームでもうちょい継続試聴します。カナーンは面白かったんだろうか。

○新アニメ「B型H系」

 けいおん!2期始まるので可愛い子アニメはそっちでいい感じ。継続試聴予定なし。

 

3/22

○足の練習をしろ足の

練習

 このクオリティのものをアップしたところで誰得な気はするが、かといってアップしでもしないとそもそも描かない。足をちゃんと描けるようにならんといかんのだが、どうにも敬遠気味。特に足元が難しくて敬遠気味。どうも足って手と比べてあんまりキレイなものにお目にかかりづらい気がする。手が綺麗、というのはそれなりに判断できるんだが、足元部分の指や足裏部分の綺麗さというのはなかなか「これが綺麗だ」という判断基準自体が曖昧。靴屋さんとかはやっぱり「いい足してる」とか思うんだろうか。

 顔が失敗している。少し頭を下に向けてに体は若干よりかかり気味に後ろに反っている姿勢なので、普通に立っている時の顔の角度や形と微妙に違っている。それをきちっと把握できないまま描いてしまっている。難しい。

 水着ばっかりなのは服を描けないからである。服難しすぎ。皺とかどうしろとほんとにもう。

練習2

 リリアンにいそうな人。下級生女子からチョコもらうタイプ。

 単に志摩子さんを髪の毛短くしただけですが。

練習3

模写。コアな部分にある繊細さみたいなものが似ないなあ。

3/21

○好みなど幾らでも変わるのだなあ

練習

 つい1ヶ月くらい前までは「骨と筋肉がはっきりしてないと絵として描きにくい」だとかぶつぶつ言っていた記憶があるのだが、いつの間にやら「脂肪最高」みたいになっておりまして、むしろ「骨と筋肉浮き出てるだとなんだか描いてて味気ないな」とか思いだす始末。己の審美眼だとか好みなんてものは実にあやふやでどうにでもなるものだということが改めて分かりました。

 どうも口、耳、首筋、肩あたりが苦手でゴマカシてしまいがち。共通しているのは「立体として複雑で、ちょっと角度や動かし方が変化するとかなり大きく形状が変わる」パーツだということ。そういえば管理人は、算数の立体図形の問題苦手だった。美術の彫刻とかも「裏側をイメージする」のが全然できなかった。頭の中でパーツを立体として認識して「この角度だったらこういう風に見える」というのがなんとなくイメージできて描けると、それなりにいい感じになるが、それがきちっとイメージできないと違和感のある絵になってしまう。絵に漂う「安心感」は、ここら辺の「描き手の頭の中のイメージの確かさ、イメージに対する自信」みたいなものから発生するのではないか。

 なにげに口がいちばん大変である。顔のバランス・印象を決定付けるので口はむしろ目よりも大事かもしれない。

3/20

C'est la vie, as they say L.O.V.E evidently,
see every song has a sequel,
Never same, everything but the name,
all fresh just like back then,
how we do everyday

C'est la vie, as they say L.O.V.E eloquently,
see every dream has a part two
Never same, you got to keep it tight,
all fresh just like back then, now hear me out…

愛は僕らに教えてくれる
すべての歌には続きがある
変わらないものはない
名前だけを残して
すべては新しくなっていくんだ
僕らの毎日と同じように

愛は僕らに教えてくれる
すべての夢には続きがある
変わらないものはない
だから僕らは前に進もう
すべては新しくなっていくんだ
さあ聞いて、歌がはじまる……

Luv(sic) part2(Nujabes feat. Shing02)

 綺麗なものは素直にただ綺麗と感じていい。カッコイイものは素直にカッコイイと憧れていい。そこに理由も理屈もいらない。余計な力を入れず、肩肘張らず、ただ自分が素晴らしいと思えたものに触れた喜びを味わい、楽しめばいい。nujabesは音楽だけでそのことを教えてくれた稀有な人でした。残念でなりません。

3/18

Hydeout Productions から 緊急のお知らせ

3/11 

むこうがわへ
絶望のかすかな 「こっちがわへ」

―大槻ケンヂ「林檎もぎれビーム」

○漫画「子守唄」公開で御座います

 管理人原作、作画:かなへ氏の漫画「子守唄」公開で御座います。絶望の「むこうがわ」の物語。御一読頂ければ幸いであります。

 

3/10

何人か鏡を把りて、魔ならざる者ある。
魔を照すにあらず、造る也。

―斉藤緑雨

●twitter

 いちおうtwitterで呟いてます。経常録は「0のつく日(10日・20日・30日)」前後にtwitterの呟きのまとめ(+α)をアップするような感じにしようと思う。この「twitter→日記」の流れも水道橋博士の真似だが、悪くない。

●刀語第三話

 毎度ながら説明台詞と回想語りメインではあるが物語の骨格自体は堅牢。潔く業深く情深い女剣士のキャラクター造形が圧倒的に素晴らしいのでそれだけで拍手喝采モノ。今回だけで終わってしまうのが惜しいキャラだ。映像も完成度高く、テーマの掘り下げ方、ドラマの盛り上げ方も申し分なし。決闘シーンのクライマックスで流れる音楽(第一話冒頭)が実に爽やかにハマって感動的である。回を重ねる毎に良くなっている。アクションそのものではなくて、アクションに至るドラマや思想など「道」への感心が主体となっている。

 そういや、クライマックスで流れる音楽と、ラストで階段下りるところ(「はいはい」の後)の音楽ってうまい具合に重なってるように聞こえる。意識的な演出かどうかわからんが味わい深い。今回は特に音楽がいい仕事をしていた。岩崎&音響監督グッジョブ。

●ソラノオト第十話「旅立チ・初雪ノ頃」

 あっと驚く展開もあり感動的なサブエピソードとメインエピソードが共鳴する見事なシナリオで素晴らしいんだが、今回の話って本来最終回でもってくるものじゃないの?あと3話残ってるんですが・・・しかも来週のタイトルが「来訪者・燃ユル雪原」ですか・・・怖すぎ。

 ソラノヲトに感じるただならぬ「ひやひや感」「どうかこのまま何も起きませんようにと願わずにいられない感」は無論「そういう演出をしているから」生じるのだが「エルフェンの神戸監督だし」という意識が演出の効果をかなり増幅させているように思う。神戸監督だからこそここまで不安になる気がする。

 もはや「ソラノオト」は物語それ自体のスリルではなく、神戸監督の見えない胸の内を推し量るスリルを体感するホラー作品となっている。「作り手が登場人物たちを人質にとっている」アニメだ。エヴァとは全く別ベクトルの「ライブ感」「続きが気になる感」。

●無料公開中

角川歴彦「クラウド時代と<クール革命>」

 現状分析としては無難・網羅的でグッジョブ。オタクを過大評価しすぎ。ガラパゴス化上等説も根拠薄。最後の提言が「税金でインフラ整備しようぜ」で脱力。実現してくれればそりゃあ便利で助かりますけど。金にはならんよ。

 著者に恨みがあるわけではないが、看過できないところが幾つかあるのでやや批判的に本書の欠陥を指摘しておく。ネット見ると「あの年でこれだけ分かってるのはエライ」みたいなヨイショ記事が多いので、これくらいのほうがいいだろうと。

 日本のブロードバンド環境は世界が羨む水準にあるし、そのおかげでとても便利になった。で、その環境から「アメリカの後追い」以上のものがでてきたかと言えば、基本できてない。インフラ整備は「いいこと」だが費用対効果はそんなに良いものとは言えないのは、もういい加減わかってもいいんじゃないか。やってくれる分には便利になってありがたいんだが、それで未来の日本人がタイヘンになるんだったら別の手考えてよって話。

 あと、この本で看過できないのが「日本文化はガラパゴスでいい」という言説。いや別にその主張自体はしたきゃどうぞって話なんだけど、さも「裏づけ」があるようかの事実をアンフェアに出してくるのは見過ごせない。

 たとえば「今、海外ではオタク文化が大流行!」みたいなのを根拠に「だから日本文化はガラパゴスのほうがいい」とか言ってるわけですよ。でも「海外におけるオタク文化の隆盛」を語る際、「ファンサブ」を前提・中心にしない話にリアリティないし、フェアじゃないでしょ。「海外で支持されている」のにそれを「お金にする」筋道が見つけられないので皆困ってるわけ。それを無視して「海外で大人気!」だって言うだけでなんになるの?偉大なる「ネタ国家」として世界に愛されるために、世界中にタダでアニメ見せてやれって言い切るなら賛同するけど。

 あと「ハリウッド映画が日本では不調、ダークナイト売れなかった。日本人はもうアメリカへの憧れを持っていない」、だから日本は「文化的ガラパゴス」でいいっていう主張とか。あの、その横でアメリカのテレビドラマは好調ですけどね。ダークナイトを支持していない日本人も海外ドラマはしっかり支持してますけど。映画だけとりあげて「文化のガラパゴス化上等」などと論じるのはアンフェアもいいところ。アメリカのコンテンツと日本のコンテンツの稼ぎを比較すれば、答えは自ずとで照るでしょ。国内で比較したっていいよ。

 結局ポジショントークした挙句に官僚様の喜ぶ「新しい公共事業(電子政府)」をヨイショしてる本になっちゃってる。カネがあるならやっていいけどそれで儲けが増えるかと言えば微妙。となれば「赤字国債刷って無駄遣いしようぜ」という話にしかならないんだけど、それでいいのかねって話です。

 客が求めてる事はもう明らか。「いつでもどこでも安価に手軽であらゆるコンテンツを楽しめる環境がほしい」、これだけ。そのためにはクラウドは「あってもいいけど、別になくても大丈夫」なものに過ぎない。技術はもう十分にあるんだよ。やる気があるかどうか。そういう仕組を血を流してでも作る気があるかどうか。カネも出版社も権力ももってる人が税金使ってクラウド社会作ろうぜって評論家や御用学者と同じこと言ってるのを「ここまで分かってる人はいない」って褒めなきゃいけないほど日本って悲惨なの?

●ガンダムユニコーンのコロニー内戦闘でかかる音楽が

 悲愴雄渾でいいなあいいなあと思って聞いていたら、ああそうかこれ坂本龍一のシェルタリングスカイの親戚だと気付く。パクリではないよ。

●Luv(sic) Part3 Jeff Resurreccion Mix

Luv(sic) Part3 Jeff Resurreccion Mix

 しまったいつのまに!美しく儚く力強い。Nujabes版をもう一段繊細にした感じ。

●繰言気味になるが

旧害

 旧世代どころか20〜30代までもが90年代の綺羅星の如きアニメ作品群を黙殺し「エヴァ」1本だけをスタンダードとした乱暴なアニメ史語りをして恥じもしないのが最近のトレンドなわけですが。てか、現代アニメをマトモに語りたいなら最低でも70年代の作品郡から地道に見てかないと基本無理。それをしない人の語りは「アニメ語り」ではなく「自分語り」。「アニメ」というキレイな鏡に映ったキレイな自分を語ってるだけ。それはそれでいいんだけど、そんなもの誰も何も動かさないよ。

 「自分の知ってる(好きな)情報+自分の知識不足を指摘しないでヨイショしてくれる人たちの情報」だけで作られた「現状分析」に基づいた思考なんかに強度がでるわけないじゃん。そういうのを世間では「乱暴な分析」「いい加減なヨタ話」というのだ。モノも現実もロクに見ようとしないで偉そうなことだけは言いたい学生にはそういう言説が理想的なのはわかるが、そんなもので現実が動くかといえば全く動かない。そんな空想語りをしている間に、クソッタレで品性下劣な年寄達の戦後焼け跡リアリズムが跋扈する。

 大雑把に言ってしまうが「愛」の問題というのがいちばんしっくりくる。批評・感想の類を書く人間は常に「作品やジャンルそのものを理解し賞賛し高めたい」と「作品やジャンルを理解している自分が理解・賞賛され高められたい」という二極の間で揺れる。作者やジャンルへの愛が前者、自分への愛が後者。ジャンルや作品を高めるのはやっぱり前者なんだよ。小知恵が働く奴は前者であるかのように偽装するけどな。作品をやたら好きだとか愛してるとか言う割に、作品周辺の知識量がなく、ないことを指摘されると言い逃れ。「いい男を見分ける方法は簡単よ。その男が何を言うかじゃなくて、実際に何をするか見ればいいの。それだけよ。」って黒人のお姉さんが言ってたぜ。

 あとアニメ語りは「政治的であること」に無自覚すぎるからリアルを獲得できない。これはブンガク語りの連中の一部にもいえることだけど。バカなサヨクのせいで「政治的であること」を強制されて大好きなブンガクを自由に語れなくなった恨みがあるのは分かるけど、だからって「厳正中立」でいられるわけないことくらい気付けよ、って人が多かった。ブンガク評論崩れのアニメ語りは、その悪しき流れを受け継いでいるところがある。

 「政治・社会システム」と「文化」を綺麗に切り分けて扱えるなんてことは、現実にはあり得ない。語る時に便宜的に両者を切り分けるのは構わないが、リアルで両者を切り分けて扱えると考えるのは無理がある。批評は自ずと政治的・経済的なモノの見方・考え方とつながっている。素朴な「社会反映論」をやらなきゃいけないわけじゃないけど、「社会反映論」を一切忌避するのはリアルじゃないよ。まして商業アニメはお客さんの「空気」読んで作ってるんだから。

 作り手がほしいのは「どうすればもっとよくなったか」「どうすればもっとウケたか」「どうすれば次回作でもっと面白くできるか」「今自分が感じたりヒョウゲンしたりしている時代の空気や考えを具体的に言葉にするとどういうふうになるのか」ってあたりだと思うんだけど、そういう批評はいつだって少ない。

「日本経済の現状」

 貯蓄率の低さと潜在的失業率13.7%はけっこう衝撃的なデータ。経済産業省ってここまで現状きちんと分かってるんだから頭は悪くないんだよなあやっぱり。

●デニス・ストック

「いい写真は十中八九、詩的だ」

モノクロはいいなあ。

●W.ホービング「ティファニーのテーブルマナー」

 面白かったところ+時々雑感。読んでる時は「知らない世界」を見るようで面白かったのだが読み終えて、実生活で使う機会がほとんどないことに気付いた。

○(食事中に使用するナイフとフォークをまちがった場合)「まちがったことに気付いても、そのまま食べ続けなさい。ナイフやフォークを元へもどしてはいけません。のん気になにげなくふるまうこと。」

○「主夫人が食べ始めるのを待つ必要はありません。しかし、山犬のようにガツガツとびつくのはみっともないことです。」

○「スープ・スプーンが向こう側に少し傾けて手前から向こうに動かして、スープを満たします・・・スープが少しになったら、左手でスープ皿の手前側を持ち上げ、向こう側に傾けます。」スープの基本は「手前から向こう」という動線らしい。

○「両ひじを左右に突き出したり、腕全体を起重機のように上げるのはこっけいです。」

○「両ひじを、やっこだこのように突き出してはいけません。ひじはできるだけ両脇につけてください。」ひじ大切ひじ。

○「食べ物を一度にあまりたくさん口につめこまないこと。そんなことをすると、あなたは犬小屋で育ったように思われます。」黙々とスピーディーに食べ物を詰め込んでいく様子にはある種の合理的な美を感じなくもないのですがダメですかね。

○「骨付きのチキンは、ピクニックでないかぎり、手に持って食べてはいけません。ちょっと練習すれば、ナイフとフォークでたっぷり肉が取れますから、つぎの食事までにおなかがすいて気を失うようなことはありません。」てか、最初からモモかムネ出せばいいじゃん。骨付きじゃなきゃいかん理由って何?

○「これで作法の心得がわかりましたから、作法を破ることができます。しかし、作法を破るには、十分社交知識の心得がいることを忘れないでください。」おお守・破・離がこんなところに。やはり洋の東西を問わず考える事は同じなのだなあ。

3/1追加

●twitter

 http://twitter.com/mymtssk

 下記事でぐだぐだ書いていますが、twitterをとりあえずやってみようかと。RSSがしっくりこなかった管理人にとってはRSSリーダーの一環として結構使えそうです。あとは備忘録として使えるかどうか。使えなきゃ多分ROMオンリーで使うだけだな。

 

3/1

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

―田村隆一「四千の日と夜」

●「ガンダムUC」第一話

 古橋監督らしいロマンに満ち満ちた映像が存分に楽しめる好作品に仕上がっております!戦闘シーンと音楽のシンクロ、盛り上がり方が絶品。古橋と作画と音楽よくやった!サンライズやればできる子!お話もシナリオもぜんっぜん面白くないし、キャラも強化人間お姉さん以外魅力ぜんっぜんないしワクワク感もないんだけど、映像と音楽だけでオールオッケーですよ皆さん!

 特に34分から始まり38〜39分あたりからクライマックスへと一挙に盛り上がる戦闘シーンは音楽とあいまって最高でありますよ。「戦闘映像は男のロマン、血沸き肉踊ってナンボでしょ!」といわんばかりの美しく激しい戦闘・レーザー・爆発映像の数々に燃えないやつはどうかしてますよまったく。あと炎の中からガンダムUCがテイクオフするシーンとか、ドラマ的にはなーんにも共感できないんだけど映像だけで盛り上がりまくりです。ここだけは見たほうがいい。あとはねえ・・・うーん、どっちでもいいかな。

 結論としては「いつまでも映像と演出と音楽の素晴らしさにおんぶに抱っこしてもらってたら飽きられるぞさっさと本気出せシナリオ」ということでしょうか。まあ、監督はシナリオのクオリティにも責任持つわけですから責は古橋監督にもあるわけですが。

●定期的にやると良いと思う

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51487792.html

 「もう権利抑えられてるし」「そういう実現していいはずなのに実現してない作品にはそれ相応の理由があるんだよ」「企画書どうやって書けというんだその原作で」とか仕事してる人は思うのでしょうが、単純にこういうリサーチはもっとかけるべきだと思うんですけどね。てか正直かけなさすぎなんですよテレビの人たちって。忙しすぎるのはわかるけど、敵(客)を知らずして戦ってるとしか思えない。

 最近のアニメで心配なのは「作品を媒介した客との会話」「客とのグルーブ」ができてる作品が少なくなっきてるんじゃないかなということ。「お前らこういうネタやれば喜ぶんだろ」っていうやり方じゃもうそろそろダメになりますよ。「俺もお前らと同じでこのネタ、このセンスが面白いと思うから作品の中に入れてみたんだけどどう?」と客に向かってほいっとボールを投げられる感性がないと「場」を作るアニメはできない。そして「場」を作れないとこれからのアニメはもうからない。

 リンク先でも指摘されているように「大手が権利押さえていないようなところから原作とってくる」という発想は必要。業界内部の人は情報が狭いというか「忙しすぎてニッチな情報にアクセスする余裕がない人」が大半なので、そういうニッチな情報を知っているネット住民の力を借りるのはいいんじゃないかと思うんですけどね。というわけで次回は「マイナー媒体ORネットOR海外作品でアニメ化したら売れそうな原作ない?」みたいな聞き方をするとよろしいかと思います。あと「企画が通る条件」「アピールとして強みを発揮する要素」みたいなのをどんどん質問する側がオープンにしていっちゃえばいいと思う。

 コンテンツの「企画」って、よほどセンスのある人がいるところはいいですけど、そうでないところは「大勢にいっぱい聞いてみる」ほうがいいと思う。プロならではの視点、とかいう人いるんですが、コンテンツの「企画」は「どれだけ多様な情報量・情報網があるか」が大事じゃないかと。忙しすぎてニッチな情報全然分からないんだからなるべくたくさんの人の話を聞いたほうが早いと思うけど。タダで言ってくれるんだし・・・などといっても、まああんまり聞かないんですけどねもっともらしい言い訳つけて。

●ツイッターねえ

 博士の異常な鼎談で博士が一生懸命勧めているのを見てたら「なんかいいものなのかもしれん」とついつい思ってしまったわけですが(なんという影響のされやすさ自我の弱さ)、正直使い道が思い浮かばん。やるとしたら「読んだもの(本やらネットの記事やら)の中で記録しておきたいものをそのまま書き溜めていく」みたいなことくらいか。要約をいちいち作るのやっぱ面倒くさいんですよね正直。ツイッターだったら、ほいほいと気付いた先から書き溜めていって記録していけばいいってのはあるかなと。あと「ひとり折々の歌」ができるなとか。人の歌や詩を晒すのって楽しいんですよねえこれが(笑)、いいものだと確信できてるものを晒すのは楽しいですよ。他人のふんどしで相撲をとる楽しさ。虎の威を借る狐の気持ち。

 アニメの感想とか、目に付いたことをあれこれ呟くのはどうもねえ…生来の口の悪さと主観と独我論まみれのモノイイはやめられないとまらないのであんまり晒すのどうかと思うものだし・・・

 自分が書くのはともかく海外報道機関とかのフォローしとくとニュースが自動的に配信される形になっていいなあと思ってまして。あれこれと手を出しては飽きるのが常なので、とりあえず手を出して飽きたらやめるかとか思ってるんですが。便利かもしれん、というのはなんとなく博士の説明聞いててわかった。

●まともすぎるレスポンスがあるということは不幸かもしれない

 とか最近思ってるのですよ。「ネットでイタい人がイタいことを言った時に、すかさず常識・良識を持った人がそのイタさを指摘するシステム」みたいなものがある程度できあがってしまったことの不幸、みたいな。イタい人がイタいまま突っ走ってとりあえずイタい方面に成長したほうがいい場合もあるんじゃないですかね。その時の「偏向した思い込み」「過剰な意気込み」みたいなものに突き動かされて遮二無二にがーっと頑張ると、100点満点ではないけど、それなりに結果が出て、得るものもあるわけでしょ。それを止めちゃうようなことはしないほうがいいんじゃないかなあと。やる気になってるんだったらやらせてあげたら、とか思ったりはするんですよね。余程人に迷惑かけない限り「止める意味」って果たしてあるのかなあと。「止めない」ほうがむしろいいことのほうが多いんじゃないかと最近思うことが多くなった。

 もちろんそういうイタい人が思い込みで突っ走ったら、その人に後々ひずみが来るわけですから、始める前に言ってあげるってのは親切だとは思うんですが、総合的に見ると「ひずみが来た時に気付いた」ほうがむしろいいのかもしれないんじゃないかとどうしても思ってしまう。ネットではイタい人が「俺はこんな(イタい)ことをやっている!」とか書いちゃうと即効でそれを否定されてしまうんですが、否定されてしまうと「じゃあその代わりに何をすればいいんだろう」ってことになって、実はそんなの誰もわからない。「お前イタいよ」と言った奴だって「じゃあどうすりゃいいのさ」と言われたら「器用なやつや能力があるやつはできるけど、イタいやつバカなやつはやってみてもうまくいかない」優等生的なやり方をご提案するだけでしょ。でもね、イタい人はいきなりできないよ、そんなことは。やってみたってうまくいかないし。むしろ「イタい思いつき」を遮二無二にやってみることから始めたほうがいいんじゃないかなあと思うのです。

 いやまあもちろん、イタい人がそういうイタい思い付きをさも世界の真実であるかのようにネットで書き散らしてたら、それを見た良識ある人が不愉快になったり、諭したくなるのは分かるんですけどね。でも、少しはゆるしてあげて「いいじゃんやってみたら」と言ってあげりゃいい気はするんですが。もちろんそういう手合いが管理人を少しでも巻き込もうとしたら当然「どっかいけ」と言うわけですが。巻き込まないでしゃべくるくらいだったら許してあげてもいいんじゃないかなあとか最近思うのですよ。

●1時間半の昼寝は1晩分の効果があるという話を聞いて

 なんかネットで大学の先生がそういう研究成果を発表してたとかいう記事を見まして。

 15分の昼寝は食後の眠気を取るとか聞いてたんですが、正直「15分寝るって難しい」んですよ。施川ユウキが「サナギさん」のあとがきで書いていてめちゃくちゃ共感したんですが、寝るまでに時間が掛かるから、どこからが「寝ている」状態なのかわかりにくく「15分間」って言われてもいまいちわかんないんですよ。でも1時間半とかだと「あーだいたい○時くらいまで寝てていいんだな!」とわかりやすい。しかもそれで1晩分の効果があるとなれば俄然寝る気も出てきます。てなわけで、夜が遅くなってしまった時は朝寝するのではなく、普通に起きてどーんと昼寝するようにしてます。

  

2/18

災難に遭ふ時には、災難に遭ふがよく候。
死ぬる時節には、死ぬがよく候。
是はこれ、災難をのがるる妙法にて候。
―良寛

●舛成監督が仕事してる

宇宙ショーへようこそ

 脚本倉田氏だし、期待できそうな作品です。

●宇宙世紀だ

ガンダムユニコーン

 古橋一浩監督はもっと高く評価されて良い「90年代を支えたアニメ監督」の一人であり、こういう「大きな仕事」をするのを見られるのは嬉しい限り。古橋氏に限らず「るろ剣」関連クリエーターはもっと評価されるとよいなあ。もちろん個人的好みとひいきの引き倒しで書いてます。

 安彦キャラデが綺麗に描かれて動いてくれるのはとても良い感じですし、メカもかっこいい。不安要因は原作作者の過去作品が総じて微妙ってことくらいですが、まあそれはそれでね。富野御大みたいな人はなかなかいないので仕方ないんじゃないでしょうか。これからはどんどん宇宙世紀モノ作るべきです。ターンエーは「お前らがガンダムで何やっても全部「黒歴史」となるのだから好きにやるがいい!」という富野御大流の厳しくやけっぱちで温かい「宇宙世紀解放宣言」だと勝手に解釈してどんどんやるべき。

 ガンダムシリーズ総体から見てモノを言うとすれば「少年主人公」をいっぺんやめたほうがいいかな、と思います。「思春期」からガンダムをきちんと「卒業」させる仕事をやり遂げてる作品がないんじゃないか。「青年主人公」の作品はいくつかあるけど、みんな外見はともかく実質的に「少年」っぽいのが多いし。唯一「逆シャア」が「思春期からの卒業」の試みだったんだけど、アムロもシャアも「永遠の思春期」のまま行方不明になっちゃう感じだったし……結局そのあとF91やVガン作っちゃったしね富野御大ですら。

 ドモン・カッシュも実質「少年」だしなあ精神年齢的には。「08小隊」がそういう意味では頑張ったんだけど監督の途中交代が痛くて半端になってしまった感があるし、初々しい恋話でドラマをどうにかしちゃおうとしちゃったあたりはやはり「思春期」モノだったかなあという印象。0083?誰だっけ主人公?OPとEDの歌はよかったです。ぜつぼーのそーらーにーふきあれるあーらしーみらいはだーれのためにーあるー

 ゲームとかイグルーとかは結構「オトナ主人公」があるみたいなんですが、あそこで描かれるのは「軍人」であって「オトナ」とはちょっと違うというところはある。何が違うかといわれると説明しがたいんだけど。

 そんなヨタ話はともかくとしてガンダムUC、ファンネルとサイコミュがあるMS戦が現代のハイクオリティアニメで見られるってのは嬉しい。メカ戦番長の富野御大が密かに演出参加とかしてくださるとさらに嬉しいですな。富野御大はいろいろ凄いんですが、その凄さのひとつに「宇宙空間で人間やメカが動く」ということを疑似体験させる映像演出力ってのがある。行ったこともないのにリアルに描ける。ターンエーガンダムで地球の人たちが初めて宇宙にあがったときの話とか最高でした。

●ソラノヲト第7話 「蝉時雨・精霊流シ」

 キレイすぎる図式ではありますが、現代をどういう時代と捉えるか、そこでいかに生きるべきかをシンプルに語った良い回でした。「世界に意味なんて無い」なんてポストモダンなことを今頃言ってみせるあたりが良くも悪くも朴訥だなあとは思いますが、きちっと設定やエピソードを見せて積み上げた上で語らせてるんだからいいんじゃないか。

 「あんなイヤな思いを次代の人間にはもうさせたくない」というのはオトナのひとつの良識であり、それを生きる意味とせよという説教も悪くはないと思います。しかし単に「あんな思いさせたくない」だけだと戦後日本を跋扈した思考停止型「平和主義」者が大量生産されてしまい正直ロクなもんじゃないよね、というのも事実でありまして(平和主義がダメなんじゃなくて思考停止がダメなんですが)。

 クソみたいな経験やクソみたいな「あんな思い」の中にも「嫌だったけど大切にしなきゃいけないこと、考えなきゃいけないこと」ってのがあるのです残念ながら。それを次代の人間に教えたり考えるトレーニングをさせたりする必要がある。「あんな思い」を全否定した先にあるのは思考停止ですから。

 別にイヤな思いしてイヤな形で学ばなきゃいけないわけではなかったけど、イヤな思いしてイヤな形でしか学べなかったものってのがある。そして「イヤな思いしてイヤな形で学んだ」からこそ、過剰にこだわってしまう。でも、その過剰さやこだわりこそが、その人間固有の「意味」にもなるし、「価値」にもなりえる。そういう意味では「お前の「傷」こそがお前のアイデンティティそのものなんだ」と言い切った「化物語」テレビ版最終回の説教のほうがわかりやすくてすっきりしてるなあと思うわけですが。

 第七話で評価できるのは、キャラクターが感じる「意味のなさ」のバックグラウンドとして「経済的敗北→デフレという「敗北後の世界」を生きねばならない日本」が暗示されてるところでしょうか。直接的にそうかかれているわけではありませんが「戦争に負けた後の世界」という設定説明によってそこら辺が表現されていると思います。日本のポストモダン思想はバブルの最高潮の中で消費されたものでしたが、今のポストモダンはデフレの中である意味「リアル」に消費されるものでしょう。宮台的な図式で言えば「80〜90年代の日本のポストモダン思想がバブルの中である種の「ネタ」的なものとして消費された」とすれば、この「ソラノヲト」で描かれているポストモダンは「デフレという状況の中でベタなものとして消費される」ポストモダン思想なんじゃないかなと。

 管理人なんかもどっちかというと不況だとか世間様の暗い感じとあいまって結構ベタにポストモダンを受け取ったクチなのでこのスタンスには共感を覚えるっちゃあ覚えるのです。吉野氏もそのクチなのでしょう。ただし、「ポストモダン」といえども思想というものはどうしたって時代状況の反映としてあらわれるので、100%ベタに受け取るってのはマズい。そこら辺は割り引いて考えないとね。最初に書いたように「朴訥すぎるポストモダン」であり、そこが欠点ではあります。ですが素朴ではあるものの自分なりにマジメに考えて分かりやすい図式を作り、物語をくみ上げた誠実さは賞賛されるべきでありましょう。知的センスの高低はともかくといたしまして、自分の頭で考え、それを丁寧に作品化して訴えたこと、綺麗な作品に仕上げた事に拍手。

●正直、家賃半額にならねえかなあとか思ってるわけですが

家主敬遠? 失業者向け住宅手当 利用、想定の4.3%

 管理人がイマイチわからんのは「空き室がいっぱいあるのに大家がドーンと価格を下げたり、審査を甘くしたりはしていない」ということです。需給バランスだけで見ればどう見ても賃料もっと下がっていいはずなのになんで半額とかにドカンと下がらんのだろうか。おそらく「空き室がいっぱいあっても構わない」状況があるってことだと思うんですが、不動産業に疎い管理人にはその仕組がいまいちわからん。

 というわけで、暇に飽かしてネットで適当に調べてみて、個人的に「なるほど」と思った原因が幾つかあったので適当にまとめてみる。

1 大家さん側の支出がそれなりにある

 賃貸物件の大家さんは固定資産税、所得税、都市計画税などを払わないといけません。この固定資産税が地価にあんまり連動していないので結構高い。加えて共用部分の電気代を払ったり定期的に清掃業者・メンテナンス業者を入れるなどしなければいけないので、それにもお金がかかります。また大家さん自信がマンションやアパート建てる時に借金してたりしますので、それも返済しないといけなかったりする場合もある。そういう諸費用を支払った上で出る利益が大家さんの収入になります。家賃収入で最低限、ここら辺のコストは確保しないと赤字(借金経営)になってしまうわけです。そういうわけで大幅値下げはなかなか難しい、ということがあるみたい。アパート経営は、1坪あたり4千円〜9千円くらいは取れないとやってられないみたい。

2 法律の問題

 借家法というのは借主に有利な法律のため、家賃の「値上げ」改定は結構大変。賃料を一度下げてしまうとなかなか上げられないそうです。したがって大家さんとしては安易に値下げをするのは大変。いちど一人の人の家賃を「値下げ」してしまうと、建物全体の住民の家賃も「値下げ」しないといけないし、「やっぱり上げます」と簡単にいえない。だからなるべく下げたくない。」

 とはいえピーク時に比べれば家賃は2〜3割は下がっているとのことでして、大家さん的には「それなりに頑張ってるんだぞ」というところはあるみたいです。新しい借家法を貸す側借りる側が上手に使って、価格と条件設定を個別に交渉できるようになればもうちょっと市場原理がダイレクトに働く価格設定になるかもという希望的観測もあるみたいですが、さてはて。

3 下げてまで貸す必要はない

 以下、某所からのコピペ

 「10万円の部屋が10室あったとして8室しか埋まってなかったとしても80万円。1万円程度の値下げで完全に埋まればよいが、実際は全室貸すには2万円の値下げが必要。新規を下げれば従来からの契約も信義則上、家賃を下げねばならない。結局、売上は80万円。これじゃ値段下げないよ。」

 だそうです。なるほどねえ。「空き室のある状態」と「値下げしてでも満室にしたほうがいい状態」を両てんびんにかけたときに、「空き室のある状態」のほうが望ましいケースもそれなりにあるということみたいです。「常時半分くらい空いている」という状況にならない限りは「空き室があってもかまわない」という話もありました。あと、価格を下げるとそれだけ借りる人のクオリティ(大家さんにとっての)が下がるってのはあるみたいでして、あんまり借りる人のクオリティが下がりすぎと賃貸物件全体の商品価値が下がっちゃうので、それもイヤなんだとか。気持ちは分かるけどあんまり気持ちのいい話じゃないな。

4 家賃の相場は周辺の家賃と連動してる

 家賃は「その地域周辺の家賃相場に合わせて設定される」そうです。別にカルテルを組んでるわけではなく、勝手にそうしちゃうんでしょうな。したがって、「他がそんなに下げていないのにウチだけ下げるわけには・・・」ということになってしまいがち。経済の動きに合わせてすぐに下がる、ということはないみたいです。

 というような理由で、家賃というのはドラスティックには下がらないみたい。残念。ただ、ネットを見ていると「借りる側が価格交渉すれば、それなりに応じてくれる。言い値で借りるやつが多いから価格がなかなか下がらないんだよ」という意見もあり、なるほどそういうものかもしれんと思ったりはしました。あと「全体的な傾向としては(一部地域を除き)家賃は下がり続けている」みたいです。土地の狭い日本の特徴かもしれませんが、家賃というのは「景気の変化にすぐに連動して価格が上がったり下がったりしにくい」ものみたいですなあ。困ったもんです。

 まあ正直今住んでるところもピーク時に比べると相当安くなってるし(交渉するまでもなく管理会社が勝手に安くしてくれていってる)日当たりとか立地とかの条件もいいので、本来はぜんぜん文句言うほどじゃないんですけどね。「今のままで半額になったらいいのに」みたいなダメ人間的夢想をしてるだけでして。政府様が景気対策に貧乏人限定じゃなくて、借家人全員に一律補助してくださるとかはどうでしょうかって社会主義じゃないんだから無理か。でも社会主義じゃないよ自由経済でいくよってんだったら、もうちょっと賃貸物件も価格の上がり下がりをフリーダムにしてほしいなあ。

●DVDが売れないよ

アニメDVDの売り上げ

 「お皿に焼いたソフトを買う」というのはブルーレイでおしまいだと思います。本来DVDで終わりでもよかった気がするんですが。「パッケージの価値」とか「モノとしてのソフトが」と瑣末なこと言う人いるんですが、そんなの代替商品幾らでも出せるし、そもそも絶対安くて手軽で便利なほうがいい人が過半。「違法アップロードサイトよりもアクセス性が高くて便利でラクな定額配信サイト」を作るしかないと思うんですが、当分は無理でしょう。人も組織もギリギリになるまでは変わりません。ぎりぎりになるまで待てばいいのです。

●トップ絵が変わりました

 かなへ氏のコミティア用チラシイラストでございます。上手な人の絵はなんか落ち着いてるというか見てて不安にならないよね。管理人は自分の絵を見てると不安になっていけません。

2/11

ほころびを繕い、傷口をおさえ、寒さと痛みに耐え、
慟哭をこらえて鍛え上げられるものが人の義心(蒼天航路)

○レーガンの演説が渋くてうますぎる

こちら

 大統領退任時のお別れ演説なんですが、もうなにこの上手さは。こんな大統領がテレビで演説するんでしょ?しかもリアルな話をするわけでしょ?リアルに大統領なんでしょ?大統領のテレビ演説は在任中全34回だったらしいけど、こりゃあなんともゼイタクな政治テレビショーですよ。そりゃみんな騙されて二期続けちゃいさせます(いや、騙されてという言い方は悪いが)。オバマの比ではないよこの人の語りのクオリティ。役者ですよ。落ち着いた低い声、きちっとコントロールされてブレることない表情、余裕と人間味を感じさせ、庶民的愛嬌が言葉の端々に感じられる語り口。よく作りこまれてあるよ。

 話の内容は「小さな政府サイコー!アカサイテー!アメリカの古きよきスピリッツを取り戻せ!保守サイコー!俺達頑張った!」というもので、正直まあまあそんなもんだよねこの人はというものなんですが、レーガンの声と語り口と平明な英語で喋られると、もう「うんうんうん」となんでも頷きたくなりますわ。とりあえずテレビでこの演説聴いてたら「レーガンで大丈夫だろ」と落ち着いてしまうなあ…うーむ、怖いなあ役者は。役者らしく表情と目の色がどこか「冷静すぎる」感じがありますが。役に憑依して演じきるタイプではなく、やはり役を作りこんできちっと演じるタイプの役者なのでしょう。

○アニメ色々

 とりあえず「ソラノヲト」は変わらず順調。キャラ紹介話を展開させつつ、「過去の歴史」に徐々に興味を持たせていく作り方がなかなか効果的です。「ダンス・ウィズ・ヴァンパイア」は変わらず微妙。いろいろな要素を入れようとしすぎて全部半端になってしまっている印象。シャフト作品にしては思い切りというか割りきりがない。シャフト作品はなんらかの「欠落」があるほうが輝くのかもしれぬ。原作になんらかの欠落があったり、製作状況になんらかの欠落があったりしているほうが案外シャフトは実力を発揮するのかなあ。

 あとは怪盗レーニャが相変わらず出来が良くて面白いのと、ひだまりスケッチに癒されまくりなのと「ギャグマンガ日和」が今見てもやっぱおもろいなあという感じでしょうか。それなりに充実した1月〜3月期です。4月からは「Working!」と「けいおん!」が始まるので、萌え&コメディー要素には事欠きませんな。

○「ロスチャイルド家の上流マナーブック」

 なんでそんなもん読んでるんだよ、といわれそうだが要するにふつうの「マナー本」だとか「人間関係本」だとか読むのって面白くなさそうなので、せめて別要素の面白さもあるものを・・・と思いまして。あとアマゾン中古で安かったのと。別段「カネモチのめくるめく貴族ワールド」な感じは特になく、いたってまっとうなマナー教本でした。ただ、日本で生活してる分にはあんまり使い道ないものが多いですね。パーティーでの振舞い方って言われましても、とか。

○化物語は恐らく一過性で、「ジャンル」にはなれないのではないか

 まあ、作ってるほうも「ジャンル」にするつもりはないんだろうけれど。こないだ書いたことの繰り返しになりますが、デザイン的な完成度が高すぎる。ここんところの人気でネットに大量のイラストが出回るようになってるんですが、10枚あったら9・5枚くらいはアニメの絵のコアの部分がとらえきれてない。正直見ていて「キツいな」と感じさせてしまう絵にしかならない。ヘタなんじゃないんです。クオリティは高いんですがふつうのオタク的な絵柄の文法で描いちゃうと「似ない」んですよ。きちっととらえないとたちまち「似ない」絵になってしまう。これはどうやらフィギュアもいっしょみたいで、ちょっとでもズレると凄い違和感、似てない感が出てしまうんですな化のキャラってのは。

 エヴァ、FATE、ひぐらし、東方など「ジャンル」になった作品はどれも「イラストにした時わりとそれなりに似せることができる」という「間口の広さ」があったんですが、化物語はそれと真逆でして、とにかく「間口が異常に狭い」。前者は「多少似てなくても気にならずに「そのキャラだ」と解釈して読める」んだけど後者は「多少でも似てないと物凄く気になって「そのキャラだ」と解釈するのにストレスを感じる」んでうしょ。これはたぶん管理人だけの感覚じゃないと思うんですが。普通のアニメファンやオタクの皆さんもたぶんそう感じちゃうんじゃないかと。

 で、これって実はシャフト作品全般に言えることだったりします。クオリティをあげすぎて「作品としての完成度・個性」を高めすぎると、同人誌やイラストなどの「ジャンル」を形成する作品になりにくくなる。おそらく、そういう作品はMADなどを中心に盛り上がる、みたいな新たな「ジャンル形成のありかた」ができていくと思うんですが、まだそっちのルートは初音ミクとかアイマス以外きちっとできてないのが現実です。てか映像は映像でセンスと根気と職人芸が必要な分野なのでねえ。なかなか参入障壁が高いと思います。

 同人とかイラストって「参入障壁の低さ・手軽さ」という観点からするととても優秀なんですよ。残念ながら映像系がその「手軽さ」を超えるのにはもうしばらくかかるでしょう。ただ「MAD・映像系同人の一大ジャンルとなり得るアニメ作品」というのがでてきたら、それは日本アニメの新世紀の到来を告げる作品なんでしょうな。今のところはアイマスと初音ミクなわけですが、さてその次があるのかどうか。そもそもそういうムーブメントの中心に「アニメ」があるかどうかがまず疑問なんですけどね。ヤマカン先生が初音ミクになんとかアニメを絡ませようとしている感覚は危機感のあらわれだとすれば正しいですよ。富野御大がCGをグダグダいいつつもやってみてるのも正しいしね。

 いずれにせよ、ヒットする作品と言うのは単に「作品単体としての面白さ」だけにとどまらず「作品を中心とした「ファンのあつまる場」を形成する」という役割が求められるのです。とはいえ、そんなもんを作り手が狙って作るのはかなり難しいからね。まあマジメにいいものを作るしかないのかなあ。

 場外素人の無責任たわごととしては「アイマス的な「キャラ育成&MAD製作」系のゲームを佐藤順一で4クールくらいのテレビアニメシリーズにして同時展開、映像系二次創作を作り手が徹底支援」みたいなのが出てくれるといいなあとか思うんですが。まあ「んなもんできたらとっくにやってらぁ」の世界ですが。そもそも作り手側が「仕掛けて」うまくいくってものでもないですしね。

 要するに佐藤監督、海物語なんてやってないでオタ作品の第一線に帰ってきてよってだけの話なんですが。

○自分が悪いと言い、助けてと言わないのは

自分が悪い 助けてといわない若者

 「世の中の風潮」も無論あるのですが、もちっと単純に「気位が高いから」っていうことでいいんじゃないかと思いますけどね。気位高いこと自体は別にいいんじゃないかなと思うんですけどね。プライド捨てろ、そんなもん役にたたない、とか言っちゃうのがかっこいいとか思ってる人って結局「俺はプライド捨てたというプライド」を誇示したいだけの人が多いので、眉唾ですよ。そんな人格者めったにいませんってば。橋本治が言ってますが、日本人はある時期以降ほとんどの人が「王子様・お姫様」になっちゃったんですよ。王子様・お姫様なんだからプライドがあるのは当然でしょう。

 問題は「王子様・お姫様並の気位の高さと現実のギャップを自覚し、ギャップをどうにかしようとしないで行動する」ってことだけだと思うんですけどね。これは別に今の世代に限ったことではなく、昔から若いにーちゃんねーちゃんなんてそんなもんではないかと。

 日本の問題はむしろいい年したオトナがそういう「困った若いにーちゃんねーちゃんをなだめすかして適当に成長させるスキル」を持っていないことのほうだと思います。歴史をかんがみても日本ムラ共同体において「若いにーちゃんねーちゃん」ってのは基本的に「困った連中で、おとなしくなるまでなだめすかしてどうにかする対象」なんですよ。自分の若いとき考えたってどう考えてもそうなわけでね。そうそう変わるわけがない。そんな人たちに「自己責任で何事もきちっと自分でやろうね!」みたいに言っちゃったらできないで破綻する人が一定量でてくるのも自明なわけで。プライドの高さをある程度は認めつつ「死んだり辛い目にあうくらいだったらサクっと助けてって言ってもかまわんのだけどね」というスタンスを見せてあげるしかないと思うんですが。管理人が若いときだってマトモなオトナはそうだった気がするんですけどね。

 ただ、まあ昔の日本ムラ共同体も実は若いにーちゃんねーちゃんを「育てた」わけではなく「一箇所にあつめて共同体から一時隔離して放っておく」「共同体本格加入時は集団でひとりを囲んで対応→各個撃破」という大変えげつない方法で服従させていただけっていう話もありますが・・・いや、そういうのばっかりじゃなかったと思うんですが。

 

2/2

世の中にまじはらぬとにはあらねども
ひとりあそびぞ吾は楽しき(良寛)

○新国立美術館「ルノワール〜伝統と革新」

 朝から一人出かけて乃木坂へ。昨年の「モネ」展に比べますと揃ったメンツ(作品)が迫力不足。珠数はそれなりに揃ってるけど「大物」「目玉」と呼べる作品以外が弱いといった感じ。企画意図に沿って集めた、ということもあるんでしょうけれど。作品リストざっと見てると、主にポーラ美術館など国内所蔵作品をかき集めて目玉だけ海外から連れてきましたが、それほど揃わず・・・といった感じ。とはいえ良かったんですけどねそれなりに。目玉作品としては「アンリオ夫人」や「団扇を持つ若い女」や「ブージヴァルのダンス」(ここまで海外から借りたもの)、「レースの帽子の少女」(国内)などそれなりに揃ってますのでお金払って見る価値は十分あるけど「おなか一杯」という感じにはならなかった。「値段相応」ではあっても「お値段以上」ではないというライン。管理人みたいな吝嗇家は「お値段以上」でようやく満足するので、やや不満が残りました。

 印象に残ったのはルノワールの女性の肌と肉体の質感表現に対する執念深さであります。ナマを見ると狂気ともいえる細かく丹念な作業がわかって頭が下がるといいますか…とにかく細かいんですよいちいち。パソコンのお絵かきソフトのレイヤだとかフィルターとかを見たらルノワールはたぶん狂喜乱舞して延々と重ねたりいじったりするだろうなあ。

 むろんデッサンも超上手いんですが、とにかく印象に残ったのは「塗り」の徹底的な細かさでした。やはりいい物作るにはとにかく細かく丁寧に時間をかけて徹底的に作業しないといかんということです。自分はこの人の100分の1も執念深くないなあ。もっと執念深くならんとダメだなあとしみじみ思いました。パッとサラッとやるほうが天才っぽくてかっこいいんだけど、ルノワールはちゃんと細かくネチネチとやって積み上げて最終的によい仕事として完成させてる。到達地点の高さはともかく細かくしつこくネチネチとやるのくらいは見習えるはずだし、それが確実にクオリティを上げることにつながるのがわかったのは収穫でした。ネチネチやろう。

 あとは「色彩」って大切だなあとしみじみ思いました。今回の展覧会で個人的に一番良かったのは「シャトゥーのセーヌ河」っていう風景画なんですが、とにかく色がほんとうにたくさんあってしかもそれが綺麗。もう目に入ったとたんに「わーきれー!」ってガキみたいに思っちゃう。管理人は基本「黒・灰・白がいいよね」という人なんですが、ルノワール見て「色もいいもんだなあ」と反省させられました。色のセンスを向上させる方法はないものか。

 それとこの人の肖像画の女の人は意外と表情が暗く悲しげです。そういうのに萌える人だったんでしょうな。

○ついでに隣にあった青山霊園も見物してきたが

 外人墓地以外はひたすら「でっかいただの墓場」でしたな。梅が満開のところがあってそこでウグイスが二羽ウロウロしてるのなどを見まして、なかなか良かったんですが。外人墓地は墓碑銘とかに面白いのないかなあとか思ってみて回ったんですがフツーのものばっかりでした。平日の昼間っから男一人が墓場見物ってかなり怪しいなあ。怪しまれる以前に人がいないんだけどね。

 ついでに六本木ヒルズの毛利庭園なども見てくる。狭い中で奥行きを出す工夫とか、いろいろな角度から見ても綺麗に見える工夫だとか、「限定された状況でどうかっこよく見せるか」というミッション達成のために頑張ったんだなあというのが分かる労作ではありましたが、ちっちゃすぎるのはいかんともしがたい感じでした。桜の季節はよさげ。

○映画「カティンの森」

 で、神保町に流れて岩波ホールで「カティンの森」を見る。昼間に満員。ほとんど高齢者。ああ、これが今の日本か景気よくなるわけねえよなあ(平日の昼間に映画見てる自分のことを棚にあげまくって)とか思いましたが、まあそれはそれ。

 映画のほうは、いきなり「今年ベスト」になっちゃうんじゃないかというくらいの名画なんですけど、ワイダ監督の「ドイツはひどいです!でもソ連はもっとひどいです!あいつら血も涙もありゃしません!」という情熱があふれまくってバランスが崩れてる作品です。でもバランス崩してでも言いたかったんでしょうね。「さすがワイダ、モノが違うぜ!」と思わされるところだらけの見所語りどころ満載の作品なんですが、なんかそういう部分が全部どっかにいっちゃうくらい「ソ連ってほんとうに最低ですね!」という恨みつらみメッセージパワーが凄くて・・・そのうちちゃんとまともにレビューできれば。人間ドラマとしても大変優秀で特に男と女の描き分けが見事で勉強になりました。男女の「愚かさ・弱さ」「強さ・気高さ」のポイントの違いみたいなのを凄く際立たせていて、なるほどなあと感心することしきり。

○漫画「ノケモノと花嫁」

 アメリカから帰ってきてからイマイチ動きのなかった幾原監督が漫画の原作をやっておられまして、まあどんなものかいなと。中村明日美子氏の作画と「寺山とメタファーと少女趣味大好き」な幾原イズムがうまく融合しており、良くも悪くも幾原ワールド大爆発な作品になっておりまして、なかなか読ませます。しかしアニメで見たかった作品ではあるなと。幾原氏は説明や段取り抜きにどんどんとアイディアや趣向を投入して情報過多な空間を作り出すのが得意な人ですが漫画だとその「情報過多」性が少々うるさいところがある。アニメは「情報過多」であっても、音声・映像・音楽など結構「整理」されて提供されるから並列処理できるんだけど、文字情報と絵の情報しかない漫画だと、「情報を自分で整理する部分」が多くなりすぎて面倒なところがある。

 それ以上に驚いたのが幾原氏が使う手法や用いられるギミックが既に「古く」なってしまっていることだったりします。「古い」こと自体は悪いことではありません。しかし、「古く」なってしまったものを愛する者は自分が「既に古くなってしまったものを愛している」ということを自覚して作品を作らないといけないのではないかと。具体的にどういうところがというと色々あるにはあるんですが一番ダメだなあと思ったのが劇中に登場する少女達のバンドが「そうでっかハイデガー」と歌うところ。しかも最後に丁寧に「ハイデガー」について注を入れてしまうあたりとかは幾らなんでもいかんだろうと。少女達が意味も分からずに80年代のリバイバルをやってるんだ、というシーンならわかりますがそういう風に処理できていない。単純に「そうでっかハイデガー」みたいなのがおふざけとしてカッコイイと思う「昔のノリ」を、そのまんま相変わらず「これがカッコイイ」と思ってる感じで見せられてしまうので少々鼻白みます。寺山はそりゃあたしかにカッコいいと管理人も思うんですが、経済学で言うところの「共有地の悲劇」ってやつで、使われすぎたらどんなにかっこいいものだって古くてかっこ悪いものになっちゃうわけでね。「かっこ悪くても使うんだ!」というのであれば、ある程度見せ方に工夫と言うか葛藤や屈折、あるいはそれを突き抜けた開き直りみたいなものが感じられるべきだと思うのですが。あんまりなさげ。それはどうなんだろうと。

裏テーマ的に「革命運動を続ける憂鬱」みたいなものを描いていて、相方の榎戸氏が作った「忘却の旋律」と相通ずる部分を感じさせます。個人的にはこれもテーマとしてやや時代遅れな感はあります。ただ、これは幾原氏だけではなくアニメ製作者の過半が未だにこのレベルなので仕方ないのかなと。媒体的にはこれくらい無邪気に「幾原節」を利かせていたほうがいいのかもしれませんが。そういう「なつかしのスター」みたいなことをしなくても、もっと現代に正面から切り込んでいける作品を作れると思うのですが。というか是非作っていただきたいと勝手に期待しております。

○漫画「ぼのぼの」33巻

 映画化するつもりだった読み切り話をまるまる1巻かけて描いたもの。見事な感動作になってます。いがらしみきおは「ぼのぼの」では「ベタなことをやっていい」と自分に許してるんだなあ。ベタなのに美しいのは「四季」「自然」という圧倒的存在感のあるものがテーマになってるから。それ以外でやると、多分安くなってしまう。

○漫画「虫と歌」

 SFや植物などの要素の使い方や作品の雰囲気は一時期のSF作品の香りを濃厚に漂わせており、オッサンホイホイとしても機能しましょう。しかし絵柄的にも物語の組み方的にもやや、そうした過去作品を「優等生」的に組み合わせて作った感があり、水準の高さの割に力強さに欠けるように思えます。最近、管理人はとみに優等生的な仕上がりのよさ、収まりのよさ、ウェルメイドさになんの価値も見出せなくなっておりまして、率直に言えばよくできてるなあと感嘆しつつも内心物凄く退屈な漫画でした。

こういう風に書くとお前は褒めたいのかけなしたいのかどっちなんだという話になるんですが、褒めてるしけなしてるのであります。オッサンには懐かしさで褒められ、過去作品を知らない若いモンは新鮮に思ってくれるのでマーケティング的には申し分ないのでしょうが、それは所詮は人のものを借りて得られる評価でしかないのではないでしょうか。無論、それを得られるだけでも十分立派なことではあるのですが、しかしそれだけで作家として満足できるのかといえば管理人は否であるように思いますがさてはてこの作家さんはどうでしょうか。作家自身の「色」がもっと発揮された作品を見たいなあというのが正直な所です。ところどころに「本当はもっとこういうドロドロした部分も含めて色々描きたいんだろうなあ」と感じさせる部分がほの見えるんですが、基本そういうのは極力抑制したり洗練させて描いて綺麗に仕上げている。エライと思いつつもそういうのってなんかくだらねえなあ、とも思うのが正直な所。まあ、エンタメは自制がきかないとね。お金を頂戴する仕事でやりたい放題しちゃあいけませんからね。仕方ないとは思うんですが。

○荒川弘「百姓貴族」

 荒川弘の「まっとうさ」や「命に対するスタンス」の原点は酪農農家としての生活にあるんだなあということを感じさせる作品であります。ギャグもきちっと作ってるし笑えるし、素晴らしい。あまり説教臭くなりすぎずに適度なライトさを維持するところとかも含め、すばらしいです。

○高野真之「BLOOD ALONE」6巻

 作品の水準とかそういうの抜きにして、今、定期連載してる漫画家の中でいちばん好きなのは誰と聞かれたら高野真之なのです。微妙に孤高な萌え、とでもいいましょうか。つかず離れずに萌え、といいましょうか。地味に濃いところがやはりポイントなのであります。ぱらすぃーもあずまきよひこもそうですが電撃系の人気作家は「メインストリームから外れつつも外れすぎないところで踏みとどまる微妙な孤高さ」がポイント。観客としてのオタクのややこしさ、ひねくれ気味を体現しているともいえましょうが。

 今回も心の中にはミサキ様(と死んだ姉さん)しか存在していない大魔法使い・クロエ大先生の間違った意味での漢っぷりが楽しい巻となっております。それにしてもクロエってドSな師匠から名前がいっしょだというだけでムダに可愛がられるわ、最強クラスのヒグレ様にも気に入られるわ、ミサキ様をわけもなく預けられるわ、刺客がきても余裕で負かしてしかも心服されるわ、サイノメにはおっかけられるわ、売れない作家なのにカネモチそうだわと、なんという都合の良い最強設定^;オタクの都合の良い妄想が具現化した世界を堂々と開陳してくださる高野先生の(間違った意味での)漢っぷりがすばらしすぎます。「都合のいい妄想をどれだけ恥じらいもなく堂々と開陳するか」、これこそが萌え作品の作品水準をはかる定規なのです。ふつうは「都合が良すぎるんだよバカじゃねえの」「虫のいい妄想ばっかり垂れ流しやがってアホか」と批判の対象になるわけですが、萌え作品の場合はまったく逆なのです。リアリティなど無用なのです。どれだけ堂々と「都合のいい、虫のいい話」を臆面もなく描けるか、これこそが勝負なのです。背景とかどうでもいいんですよ、女の子が大事なんですから。誰ですか表紙絵の背景のビルがぞんざいだとか言ってる奴は、どうでもいいんですよビルなんて(笑)。

 普通の作家だと「バトルとかをもっときちんと見せて主人公頑張らせないと、はらはらドキドキさせないと」とか思うわけですよ。むろん、高野先生も少しはそう思ってるんでしょう。でも結局は「そこそこテキトーにたたかっときゃいいんじゃね、俺戦うよりミサキと遊んでるほうが楽しいし、読む人だってそうだろ」と相変わらず本音爆発で作品を作ってます。「戦う事は戦うけど、設定は俺最強、そして時々戦う」という。この巻も二回ほどバトルがあるんですが、どっちも「人質とられるけどあっさり救出、バトル自体はクロエ最強で敵ぜんぜん歯が立たない」というお話でして、なんともピースフルで都合よく戦闘が進むのでした。このムシのよさ、適当さこそが高野先生の真骨頂です。本当に褒めてるんですよ。そういうところで律儀にウェルメイドにしようとしたってね、大して面白くなりゃしないんですよ萌え作品は。

 ふつうに水準が高かったのはミサキ様が大ファンの作家先生とお話しする回ですな。これは別に萌え云々関係なく美しく温かい短編となっておりました。女の作家先生に語らせていますが、基本は高野センセイの魂の叫びでしょう。「人間はおっかねえ!人間は信用できねえ!信じられるのはミサキ様だけだ!」ということではないかと。

○巷では撫子さんがえらいことになってるわけですが

 とりあえず「恋愛サーキュレション」フルバージョンが出たのは良かった。二番の「略してちりつもやまとなでこ」でくらくらりしてくださいということですねわかりました。あとオーディオコメンタリー版の撫子さんの天然キャラぶりが素晴らしすぎます。忍野さんは思ってたより常識人的で、テレビ版の胡散臭さがなくなっちゃってましたが。たぶんあの胡散臭いモードは対思春期青少年仕様のサービスなのでしょう。それ以外の世代には常識人で通してるのではないかと。

○最近の男性服のあまりの細さについていけなくなりつつある今日この頃

 「筋骨隆々な肉体の誇示」が暗黙の前提としてある西洋ファッションデザインを目前にして己の貧弱な体を自覚せざるを得ない日本男児は対抗運動として「細身主義」「フェミニン主義」「ディテール主義」を徹底させたのであります。ヘタレでひ弱な管理人もこれを断固支持しておるわけですが、さすがに今季はやりすぎ感がいよいよ漂い始めたというか、いやあのそりゃかっこいいけど着る人選びすぎでは感が…正直「細さ」自体は別にいいんですが「肩幅狭い」デザインだけはどうにもならんのです。生まれつき微妙に肩幅がムダにあって、そのせいで着れないよこんなの・・・というパターンがとみに今季は多めですな…かといって胸囲は別にないからアメカジ的な「肉体がないと実は似合わない」服は似合わないし。ああ、体鍛えて胸囲を増やさないといかんのだろうか。筋トレだけはどうしても趣味に合わんし、そもそも「筋骨隆々」に美や魅力をあんまり感じないんだよね虚弱な日本男児としては。

○なんとなく思ってること

 ドラスティックな変化を見られる世代じゃないのかもしれないなあ自分は、と思ってたんだけど、最近「いや、5年くらいでちょっとドラスティックな変化に遭遇できるかもしれない」という期待感を持つようになった。もう最近、ヨノナカ見ていて「ああ、これは絶対ムダだ、意味ない」というものと「これは生き残る」と思うものが誰が見ても明らかになってきてると思うのですよ。働いたり生活してる中での実感として良くも悪くも多くの人が「実際家」「合理主義者」になりつつあり、あと五年くらいで多分「いい加減ムダなことはやめようぜ」という人のほうが世の中でも多くなると勝手に予測してる。なんというか以前よりも「理屈を言ってわかってもらえる」「穏当な落としどころに納得してくれる」人が増えてきた感覚があって最近仕事しやすいのです個人的に。

 なんといいますか「ダメなものがごまかしきれずにちゃんとダメになっている」のが現実に見えるようになってまして、この流れはたぶんある一定のレベルまで到達したら後は一挙に加速度的に進むんじゃないかなあというヘンな期待感が最近でてきてます。まあ裏切られる可能性のほうが高いが。

 で、そうなるとリアルでもうちょっと色々やりたいことも出てくるわけで、やりたいことやるためにはそれなりに人とうまくやったり好かれたりもせないかんなあというのがありまして。もう仕方ないから今年は「話し方」だとか「マナー」だとか「人間関係」だとか、そっち系のうさんくせえ本をとにかく読んでみるかなとか思ってます。なーんかあの手の本ってうさんくさくて嫌いなんですが、食わず嫌いはよくないですからね。

○絵の資料用に男の写真をネットで見てるんですが

 若い頃のアラン・ドロンのかっこよさが半端じゃない。ううむ、こいつはちょっと別格のかっこよさだ。年食ってからは「悪くはないけど意外と崩れちゃったなあ」的な感じはあるんだけど、とにかく若い頃〜中年はいるあたりまでは超がつくかっこよさ。特に30代くらいの頃のはヤバいですよ。

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○アニメ「刀語」第1話

 ぶっちぎりで今季一番のクオリティ。製作体制の破綻がなければ間違いなく本年度を代表するテレビアニメになるであろう痛快娯楽大作の登場でありますよ皆さん。

 元永監督といえば最近では「スクールデイズ」が話題になりましたが(「キカイダー」も話題になりましたが管理人未見でして)、これまでどちらかといえば渋く悪趣味(エンタメ的には良い意味での悪趣味さであります、念のため)でダークな作風が特徴であり、地味好み・通好みなタイプのファンを引きつける作品を手がけることが多かったように思います。この「刀語」では監督のそうしたマイナー的な持ち味に、原作の持つ娯楽性や通俗性が加味され、メジャー作品としてライトなアニメファンにも歓迎される開放感と敷居の低さを実現しております。

 「語り」の多い作品ですが、うまく「語り」と「動きの早い映像」を緩急付けて見せており、テンポ良く、ダレることなく1時間近くを一気に見せきりました。キャラクターの魅力も十分。声優陣の演技もしっかりしていて申し分なし。ツッコミどころといえば冒頭の音楽があまりに川井憲次パクリだったことくらいでしょうか(岩崎琢氏はRODなどでも大変良い仕事をしておられるので、仕事にまったく不安はありませんが)。

 見事な職人芸とセンスとやる気が結集した第一話。惜しみない拍手を。今季一番。是非ご覧あれ。「化物語」に続いて西尾維新アニメ大当たりとなりそうです。アニプレックスやるもんだなあ。

 

1/20

昨日もダメで
今日もダメだった
だから明日
できるかもしれないぜ

―SION「光へ」

○できるようになると上手くなるはまた別だったりするわけですが

 トップ絵を期間限定で変更。エアーブラシ便利だということはわかった。パッと見どうにか見られる感じにはなったと思うのだが、細かいところを見るとやはりいろいろと適当と言うか何をどうすればいいかわからないでやってるのがバレるなという感じ。

○「怪盗レーニャ」第一話・第二話

 短編でお約束な展開をさらりと見せる怪盗モノ。短いながらなかなか出来が良く、デザイン・演出とも小粋で楽しくセンスよし。ギャグ方面をもうちょっと強化すれば伸びそうな好作品です。スタッフロール見て納得。よい仕事する人が集まって力を入れすぎずに楽しんでやってる感じでしょうか。際立って面白いものではありませんが、一度見て損はないレベルの楽しい作品になっています。

○「はなまる幼稚園」第一話・第二話

 第1話のEDアニメは今季見た中では最高水準ではないでしょうか。素晴らしい仕事で一見の価値があります。第二話のEDアニメもガイナらしいパロディ精神に溢れた楽しい映像になっております。

 本編はといいますと…水準の高い作画水準とキャラ表現を実現してはいます。ただ印象としては「大ヒットすることもなく、淡々とみんなに視聴されて終わりそう」な雰囲気。ガイナは結局「萌え」を感覚的に理解して作る事はできないのでしょう。飽くまで「構築してキャラの魅力を出す」という古典的スタイルしかとれないスタジオなのだと感じます。悪いことではなくてそっちのほうが王道なのですが。でもヒットするのはそういう作品じゃないのです不思議なことに。

 「ガイナ作品なのにロクにトガったところを出せていない」ということに軽い衝撃を受けます。シャフト作品の実験性前衛性に比べるとなんとまあおとなしいこと。栄枯盛衰は世の習いということをしみじみ実感させられる枯淡の領域に達したアニメ。EDアニメだけ見るために継続視聴といったところでしょうか。

○「おおかみかくし」第一話

 「ひぐらし」もそうですが「伝奇」と「ベタベタな萌えキャラデザイン」ってどうも違和感が…ここら辺が現役アニメファンとの感覚の違いなんだろうなあ。「化物語」は伝奇や萌えの要素があるものの「ベタベタに伝奇・萌えな感じ」にはせずに、中和して使ってくれてるので大丈夫なんだが。

 話は飛ぶが化物語のキャラデザインってかなり高度というか難易度高いですね。ネットに出回ってるイラストとか見ても、きちっとアニメ版のキャラのコアな部分を捉えることができてる絵ってほんとに少ない。アクがないように見えて意外と「真似しにくい」デザインです。なんというかキャラ表現で「四角形」や「直線」を結構使ってるのが難しさのポイントなのかなあ。よくわかってないで感覚的に言ってますが。

 さて「おおかみかくし」に話を戻します。作画水準高いし、出来はよいが、管理人はパス。「おとぎ銃士」とかもそうだったけど、なんというかここの製作(タカラトミー)が作る物は「わかってるようで微妙にズレてる」感がなくならないところがあります。それなりに成功してるものの、完璧なヒットを出すにはまだまだノウハウの蓄積が必要なのかな。

○「ダンスインザヴァンパイアバンド」第二話

 OPアニメ登場。楽曲、全体の映像の雰囲気とも正直イマイチというかシャフトにしては普通な深夜アニメOPっぽい感じでさほど面白くない。音楽に合わせたわかりやすいベタな画面の切り替えは普通に気持ちいいですが。クライマックスでくるくる回って踊りまくる姫様は素晴らしいのですが、あの衣装はどうなんでしょうか。ふつうにバレリーナみたいな格好してくだすったほうが管理人的にはずっと良いと思うのですが。狙いすぎていてちょっと品がない。てか、あの踊りのシーンが全てなわけだから、あれを映えさせる舞台設定とか衣装とかシチュエーションとかもっとあるんじゃないかとか…動きの切れのよさ、ケレン味ある寄り引きで迫力を作るカメラワークなどは大変お見事でして、この10秒くらいだけでも見る価値は十分にあります。ただ「もっと凄くなるのになあ」という不完全燃焼感があります。このOPの次の次くらいに、今回提示された要素がうまくハマった傑作ができてくるんじゃないか。まあシャフトのことだからOPどんどん変えてくると思うので期待したいところです。楽曲があまりに古めかしいのはなんとかしたほうがいいと思いますが。

 さて本編。第一話のことは不問に処すとして、今回も原作1巻とは大分違う展開でした。「記憶喪失の主人公が姫様の危機に覚醒する」というベタな展開は盛り上がりますので、この改変は理解できなくはない改変です。原作はもっと地味な立ち上がりでした。今回は姫様大活躍、作画も規制なんか気にするな的な気合の入りっぷりで見所は多々あるのですが、予想通り吉野シリーズ構成らしい「マジメに娯楽作品を作ってます」的ノリが作品全体を覆っていてかなり面白みに欠ける。シャフトが普通の娯楽作品やっても面白くないでしょ、というのが率直な感想ですが最近のファンはむしろこういう普通な展開のほうがよいのでしょうか。「とある魔術の〜」とかなんだかんだ言ってヒットしてますからね。個人的にはもうちょっとクドい新房色、新房演出を前面に押し出してくれたほうが良いかと思いますが案外若いファンは新房演出とかを余計だとかウザいと思っちゃうのかなあ。

○「ソラノヲト」第二話〜第三話

 順調によくなっています。特に第三話はシチュエーションの作り方の巧みさと、キャラクターの過去と現在の重ねる演出の巧みさで「静かでゆっくりだけど密度の濃い30分」を実現させていました。コンテ&演出グッジョブ。第二話もシチュエーションとキャラクターでまったりとコメディーを作っていて、十分鑑賞に堪える出来でしたしね。小林ゆうがうるさいと言う向きもありましょうが、管理人はああいうキャンキャン吼える子もまた良哉な人なので(現実では御免だが)なかなか楽しめました。色々な過去世界の設定をちらりちらりとほの見させる演出とかもなかなか上手い。本筋と設定の絡み方が「関係あるにはあるけど、でもわからなくても本筋は良くわかる」というレベルにおさえられているところがいいですな。これくらいに抑えておいたほうが却って観客的には「なんだろう?」と自然に思える、設定に興味を自然と持てて良い按配です。

 第一話はやや心配でしたが、2話3話と調子を上げていってます、楽しみな作品になってまいりました。よかったよかった。

○「ガンスリンガーガール」2期

 視聴アニメ数の需給ギャップが生じているので(なんだそれは)見てなかったガンスリ2期などを見始める。シナリオに原作の相田氏が入っているせいかなかなか渋く堅実なドラマを見せてくれて、大変良い出来であります。ただ、男性陣が皆ちょっと声・容姿とも美形化しすぎて「軽く」なってしまったかなと。もうちょっと落ち着いてたほうがドラマ的にも良いと思うのだが。女性ファンを狙ってるのかなあ、よくわからん。

 見ながら「ガンスリ」という作品の設定やそこで描かれる関係性のドラマそれ自体が持つある種の「萌えに対する批評性」はきちっと語ってあげるべきだよな作者これだけ色々考えて設定やドラマ組んでるんだしとか思いつつも、面倒くさいからヘンリエッタ可愛いなトリエラもいい娘やねとか言って済ましてしまう。そういう「素直に萌える」ことをさせない底意地の悪さがこの作品のある種の「狙い」なんですが、オタクはその底意地の悪さを了解した上でなおも「素直に萌えて」しまうのであります。どちらもまことに業が深いですな。原作もだいぶ巻数進んでるからそろそろまとめ読みたいところです。この作品も回を重ねるごとに成長していきますね。

○「星守る犬」

 良い作品とは思うが難しい作品である。おそらくこの作品の作者は「構築するタイプ」ではなく、かなり感性的にモノを作るタイプなのではないか。「あとがき」で主張している事はまことにまっとうで(「不器用な男」が転落するがままになってしまう社会の冷たさへの怒り)、管理人もまったくそのとおりだとは思うのだが、ではこの作品で「あとがき」で書かれたような主張が読み取れるかと言えば、実はあんまり読み取れないのである。テーマから人物や物語を作ってるのではなく、まず人物や風景ありきで作品を作っているように思う。

 忠犬モノのフォーマットをとっているから「物語」っぽく見えるが、実際はジャームッシュの映画みたいな作品なんじゃないだろうか(ジャームッシュの映画みたい、というと却ってわかりにくくなりそうだが。要するに「人」とか「出来事」とかをそのまんまほい、と投げ出して見せてくれるような映画、といった程度の意味)。もっと言うとジャームッシュ映画から「ユーモア」を抜いたような作品。殺伐としちゃったかわりに犬がついてますといった印象。キャリアがどれほどなのか存じ上げないが、この作品読んだだけで判断すると未完成で荒々しい。これからが楽しみではある。

●Googleセンセイ中国撤退について

cnet japanの記事

このように、何でもアリの「オレ様エコノミー」である中国を相手にしたビジネスは、率直に言えばリスクが大きいわりに、リターンが少ないまま終わってしまうということである。実際Googleでさえもそうした状況にある。つまるところ、中国系企業以外は魂でも売らない限り、中国相手にろくなビジネスはできない、ということなのかもしれない。

  そしてこれは「右に同じ」の話で、今後こうした動きが他社にも広まっていく可能性は否定できない。特に昨年の経済危機前後から、中国はこのあたりの態度が露骨になってきていて、たとえば3Gケータイの通信機器(基地局)に関しても、実にシェアの8割近くを中国系ベンダーが占めている。商機を狙っていたエリクソンやノキア・シーメンスの落胆ぶりといったら、そりゃもうすごい勢いでリストラに走る始末。

 「中国市場なしでどうやって商売するんだ」と皆さん仰るわけですが、そうはいっても「儲からない商売やっても仕方ない」という現実があるわけだし、儲かるところで商売やること考えればいいだけの話ではないかと思うのです。空手形では飯は食えないので、このまま「市場」という空手形で外人を弄んでるのは欧米人を馬鹿にしすぎだと思いますが。彼らの執念深さは世界トップクラスであり、多少の泥水を飲んでもいつかぶっ殺してやる見てろよと我慢する根性はありますよ。白人は歴史的に逆境に強いのです。思いあがってる時のダメダメさはひどいのですが、逆境に入ると粘り腰と執念深さと底意地の悪さをきちんと発揮する。19−20世紀を制した人たちをあまりナメるのはいかがなものかと思います。

●コンテンツビジネスがうんたらかんたらみたいな話

 なぞをよくわかってないオトナな皆様に話さなきゃいけなかったりしたのだが、結局「ナルト外国で売れてますよ、外人はニンジャ大好き」というどうでもいい話で終わる。空気読むとそうなるのです。というわけでなんだか不完全燃焼気味だったのでいちおう管理人の「コンテンツビジネス」的なアニメ商売の話をこちらで吐き出す。あんまり長期的なものではなくて今後5年〜10年の話。

●「コンテンツは10本作って1本のヒットが出れば御の字。1本も出ないことだってザラな世界。したがって「売れた1本」がでたら、それを使って「細く長く手広く儲ける」。これこそがコンテンツ業界が長きにわたって実践してきた王道。作品を出し続け、ヒットが出るか死ぬかのチキンレースにまず飛び込み、ヒットが出なかったら討ち死にするのみ。小規模でもなんでもいちおうの「ヒット」が出てからがようやく勝負の舞台に立てるのが現実。」

●「「ヒットの法則」的な発想、マーケティングの発想でヒットが作れると考えるのはコンテンツ業界においては稚拙。一定のマーケティングリサーチ、水準以上の能力値をもったスタッフと製作環境が必要ではあるが、それらをそろえたからといってヒットするわけではない。「10本作って1本」の原則は実は変わらない。世間で流通している「ヒットの理由・ヒットの秘密」的な分析はすべて後付けの理論であり、話半分に聞いておけというレベルでしかない」

●「したがってヒットするかしないかは運も大きく作用する。それでもとにかくボールを投げ続けてヒットを狙うのがコンテンツメーカーの宿命。この「賭博性」はしばらくはなくならない。博打に勝ってヒットをとばし、ファンがついた作品をいかに大事に育てるかが「コンテンツ産業」として考えるべきところ。ヒットした「後」の商売のやり方を拡大する方法やノウハウはこれからもっと開発・蓄積できる。ヒット作を作るのにも才能ある人間と運が必要だが、ヒット作品を「育て・延命させる」のには別の能力やノウハウが必要。」

●「過去のアニメ作品で模範とすべきモデルは幾つかあるが「幼児向け玩具宣伝アニメ全般」「ディズニー」「ドラえもん」「アンパンマン」「クレヨンしんちゃん」「ポケモン」といった作品群がまず第一。オタク向けでは「ガンダム」「うる星」「パトレイバー」。ポイントは「アニメ単体だけではなく周辺商品で商売している」「様々な才能が入れ替わりたちかわりすることによって作品を「更新・再生」させている」というところ。

●「オタク関連作品が強化すべきは「周辺商品で商売する」こと。DVD販売だけに頼った商売は無理がある。売れた作品のウェブラジ・キャラCD・イベント・グッズなど「周辺商品」で儲けるのも昔からのアニメ商売の王道。この商売をよりこまめに、計画的に、まっとうにやっていくべし。「メインコンテンツ」の魅力を使って「メインコンテンツの周辺商品それ自体の魅力」を高め、小金を掠めていく。「メインコンテンツを中心とした商品ワールド」に観客をひきずりこみ金を取るべし」

●「特に「萌え」作品は流行り廃りが早く、キャラクターの賞味期限が短い傾向が強いためファンから収奪・搾取を繰り返す焼畑商法ばかりを繰り返してきた歴史がある。そこにはある種の合理性があるのでやむをえないのだが、「顧客を育て、末永くお付き合いする」という視点から見ると、よい方法とは言いがたい。」

●「少数だが「長期にわたって愛される萌えキャラ」も存在していることに注目すべき。そうしたキャラクターを育て、使い続け「中長期にわたり地道に儲ける」というコンセプトで商売する方法はまだまだ未発達・未開拓。つまり「儲けの余地」がある分野だろう」

●「周辺商品として開発の余地があるものは何か。ひとつはモノ・グッズだが、この分野はかなり充実している。ポイントは「モノ・グッズ単体としての出来のよさ」。「アニメの周辺商品だから」という甘えを抜きにして、商品単体として魅力あるものを作らないと売れない。フィギュア業界の成功(一定レベルではあるが)は、結局「アニメに寄り添ったから」ではなく「フィギュア単体としての商品水準・クオリティの高さ」を実現できていたから。」

●「音楽業界同様、アニメの周辺商品でも今後有望なのは「ライブ」、「イベント」。作画や作品単体を愛する評論家的オタクよりも「声優アイドルオタ」「アニソン・キャラソンオタ」こそが今後のアニメを支える優良顧客。「ライト声優オタ・アニソンオタ・キャラソンオタ」を増やし、小規模・大規模な有料イベントをこまめに開き、全体の動員力を増やして儲けていくことはまだ可能。周辺商品も、バリエーションを増やしてこまめに稼ぐ方法を確立していくべし」

●「「ソフト販売」も、まだまだ商品開発の余地はあるように思う。DVDだけではなく「MAD製作用のデジタル素材」「家電やソフトウェアにキャラクターの声や人格を埋め込めるソフト」などなど、新しい形式の商品が展開可能。こうした領域はこれから拡大の一途を辿るはず。初期開発費用がかかるのが難点だが、いちどフォーマットができあがれば後はキャラクターだけ入れ替えていけばいいので、開発投資の価値はあるように思う。」

●「「周辺商品」商売を中心に考えれば、アニメ作品を「周辺商品を売る中核」と考えられるようになる。DVD販売「だけ」で儲けようと考えるのではなく周辺商品で儲けを取ろう、という発想がヒット作品に関してはできるはず。映像それ自体は「多くの人にとにかく見てもらえること」が大切になってくる。違法配信や不正アップロードに目くじらたてて疲弊する必要もなくなる。」

●「ソフトを買わない顧客なんかいらない」と考えるか「作品を好きになってくれる人が多くなれば、稼ぐ方法はある」と考えるかの問題。前者で考えるならパイはもう拡大せず、限定されたパイの中でのゼロサムゲームしかない。しかし後者で考えるなら、パイはまだまだ拡大し得る。ネットは世界中の人を相手にできる」

●「ファンサブやつべでアニメ見てる奴らを「タダ見しやがるゴミどもが!去ね!」と追い払うのか、それとも彼らに「そこでタダでけいおんを見ている君、ねんどろいど紬がほしくないかい?」とか「シカゴであずにゃんに萌えているそこの君、日本のけいおんイベントは楽しいけど来ない?」と誘うかの問題。ソフト販売で利益を出すビジネススタイルが難しい以上、そういう方向に活路を見出すしかないだろう。」

●「繰り返しになるが上記の方法論はすべて「ヒットが出た後」の話であり、「ヒットが出るまで・出ない」状況下では上記の方法論はまったく使えない。「ヒットを飛ばせない人間が、ヒットを飛ばせるまで作り続ける環境をどう確保するか」というのは大きな問題。第一作からヒットを飛ばせるスタジオ・作家は稀有であり、「ヒットが出ないながらもなんとかアニメを作っていける」という環境は確保されるべき。「駄作が生産される事は許されなければならない」。」

●「これについては率直に言って資本主義経済下では大して良い方法はない。正直、現状かなり頑張ってると思う。毎シーズン「誰が買うんだこれ」と思うような駄作が平気で量産されてるのだから。」

●「いちおう管理人が思いつく適当な方法を書くと「アニメ専門ポータルサイトを普及させて、そこで得られたアガリを各スタジオ・製作者に分配して最低限の収入保証を与える(アメリカのメジャースポーツ方式)」「アニメ村・アニメ特区的な場所を作って、制作コスト・インフラ整備をある程度国が肩代わりしてやる(韓国方式・今のところうまくいってるとはいえない)」「アニメ製作従事者用の無料住宅でも作ってあげる(トキワ荘方式、これがたぶん一番地味に有効だと思う)」。前述したとおり、現在のような「ムダ玉が毎シーズン大量に生産されてる状況」は結構理想的なように思う」

●「閑話休題。そういうわけで中小零細アニメスタジオ(日本のアニメスタジオの9割9分は中小零細)は「自社(自社で自由に商品展開ができる知名度のある)キャラクター・作品を手に入れること」を目標としていくしかないだろう。下請けや製作委員会方式で上前をはねられ、権利をとられ、泥水を飲みながらも「見てろいつかは権利関係自由に出来る知名度の高いキャラクターを持ってやる」と臥薪嘗胆の気持ちで頑張るくらいしか道はない。でも「10本やって1本」の世界だからほとんどはうまくいかないんだこれが」

●「しかもテレビアニメ製作には億単位のカネが必要で中小零細が自前で資金を集める事は不可能。権利を質草にカネを集めてようやく作れるのが現状なのでヒットしたところで自由にキャラクター商売はできない。ヒットを飛ばして、しかもその後「自己資本でヒットを飛ばす」ことが必要というかなり難易度の高い目標設定が各スタジオには要求される。だからうまくいくところなんてほんと一握りになるに決まってる。」

●「ただそうした目標に到達しやすい「環境」を整備することは可能だと思われる。「知名度のある・自由に商売に使えるオリジナルキャラクター」を中小零細アニメスタジオが手に入れやすくするには、前述したとおりスタジオが自前で作品を作れるようになることが必要。つまり制作費のコストダウンと自己資本の増強が必要。自己資本の増強は悪いけど「ヒットを飛ばす」以外に方法はない。資本主義だし。」 ●「制作費のコストダウンはもうちょっと改善できるのではないか。ネックは人件費と電波料。人件費はデジタル化と海外外注によるコストダウンの徹底・効率化のほかに方法は特になく、もうみんな十分にやってて限界ギリギリ。もうひとつのネックは電波料。深夜アニメでも1話300万とか意味もなく取られる理不尽なショバ代を切ることができるようになれば、アニメ製作は今より大分安価になる。」

●「テレビの桎梏から離れるためにウェブ上に定額制の「総合アニメポータルサイト」が誕生させることが最も理想的であるが、実現は遠い。なぜなら、既にようつべなどの違法アップロードによって「無料ウェブ配信」は完成しているから。現在の「実質的無料ウェブ配信」体制よりも手軽で便利な視聴システムを提案できれば、有料にしてもたぶん客はつく。それ以下の視聴システムは全て敗北する。これはアニメだけではなくほかの映像ジャンルも同様。提供できないのであれば法律規制をどんどん厳しくするしかない。市場は拡大しないけど安定はする。恐らくしばらくは「規制強化」が続くが、そのうち「総合アニメポータル」の方向にむかわざるを得なくなる、というのが管理人の私的展望。」

●「テレビの桎梏から離れるもうひとつの方法として現在活発化しているのは「映画」化。シネコンが乱立する中、ひとつの方法として有望ではあるが、この方法が有効なのは一部ハイエンド作品のみで一般性はないと考えられる」

●「またアニメの「原作市場」は今のところ漫画やラノベなど「大手が既に権利押さえてるところ」メインとなっている。これが中小零細が「自前のキャラクター」を手に入れることをさらに困難にしている。「作品を流通させるコスト」が大幅に低下したとはいえ、やはり既存の出版・放送・流通業界が持っている動員力・目利き力・資本力・広告力は大きく、今後も彼らがメインプレーヤーになるだろう。ウェブ作品が希望の星に思えるかもしれないが、それはあまりに楽観的。残念ながらウェブでも有名作品は大手が既に押さえている。ウェブには無限の作品があるが、無限の才能があるわけではない。」

 夢も希望もない上に新味もない既視感漂いまくりな話ですが、まあとりあえずはこんなところが実情ではないかと思われます。というか今のアニメ業界ってみんなかなり合理的に行動してて、ある意味では「隙のない」状況なのです。抜本的是正策は「流通改革」「プラットフォーム改革」の変化しかありえなくて、それは結局「テレビ」「DVD」から離れることだと思うのですが、なかなかドラスティックにはいかない。「未来への希望」はどこらへんにあるのかと言えばウェブ、テクノロジー、3DCGにある、と思っています。お国の保護政策もやりようによってはかなり有効に働くのですが、カネがたりないからねなにぶん。

 「エヴァ」をなんで挙げないんだという話はあるでしょうが、正直エヴァは「ヒットした後」の商売の仕方としてはあまり模範的な事例とは言いがたかったと思います。実は「ガンダム」も同様で、「ガンダム」から「Zガンダム」までの間サンライズと富野御大は数多くの無駄玉を放ちまくり、矢尽き刀折れた後「Zガンダム」をイヤイヤ作ったという経緯がありますが。

 結論としては「集英社とディーンはマリみてをちゃんと作ってファンから収奪・搾取しろ!」ということです。いやむしろもっと収奪・搾取されたいのだ我々は!みたいな。小銭なら払いますからほんと。DVD商売はDVD商売でいいんですけど、それはコアユーザーだけしか相手に出来ないので、もうちょっとライトユーザー向けに広く薄く小銭掠めたらいかがでしょうかという話なのですが。「ライトユーザーな俺がもっと楽しめる世界にしてくれ」というだけの話なんですが。そうしないと儲からないんだから、儲けたいとマジメに思う人が増えれば自然とそうなっていくとは思うのですが。もうちょっと変化のスピードが速いと嬉しいなあと無責任な観客としては思うわけです。

 日本は、ここら辺の「細かい欲求・需要」をファンが同人活動で埋めてしまっているところがあるんで、ある意味かなり充実してるんだけど。でも、製作者が「公式」の強みを生かしてもっと細かく商売すれば、同人活動は今よりさらにニッチな部分を埋められるようになって、より充実すると思うんですが。

  

1/10

理非無きときは鼓を鳴らし攻めて可なり(孔子)

○今年も0がつく日に更新

 のつもりでございます。よろしくお願いいたいます。(「10のつく日」ではなく「0」のつく日の間違い。訂正(1/13))

○年頭ご挨拶漫画公開

 最近は毎年恒例になっております年頭の短編を公開しました。こちら。作画のかなへ氏はどんどんアーティスティックな方向に才能を開花させているように思います。今回の作品は特にそれを強く感じさせる仕上がりになってまして、絵的な見ごたえはかなり高いんじゃないかと。お話は……まあ管理人が書いているものですので推してしるべしといいますか、いつもどおりといいますか。

 今年の作品はひと言で言えば「好きにやろうぜ」という話であります。別に開き直れとか腹をくくれとかじゃなくて、「それ以外に手もないだろ」という冷静な結論としてなんですが。「ふつう」とか「まとも」とかにこだわる余裕もないからこだわるのをやめてみたら実は大したことないな、ということにそろそろみんな気付きだすだろうなということです。自分のモノサシを「ふつう」とか「まとも」という言葉でラッピングして押し付けようとする人間がいるので、そういう人間には遠慮なく牙をむけばいいんじゃないかなと(まあ、そんなにいないんですけどね)。「理非なき時は鼓を鳴らし攻めて可」ってことで。好きなものは好きだし、どうでもいいものはどうでもいい、そしてそれを無理に変えようとしたって幸せじゃないなと。無理に摩擦を起こすつもりもないが、ゴチャゴチャ言うならケンカは買わないといかんみたいという感じです。

 逆にあんまり他人に無理に自分の好みだとかこだわりだとかを知らしめたり認めてもらおうと頑張る必要もない。自分が好きなものは自分が好きでいればそれでいい。必要があるとすれば「自分と同じものが好きな人が増えると、自分の好きなものが商品として流通する確率が高くなる」ってことくらい。でも、そんなことするよりも「いろんなものを好きになれるだけの柔軟性と食わず嫌いのなさ」を身に着けたほうが早いんだ実は。好きなものをどんどん増やせばいいだけの話。そっちのほうが楽しいしな。

 基本他人が何を好きだろうが他人の勝手ですからね。たまたま好きなものが合う人がいたら、それは幸せで運がいいことであり、そうじゃなかったとしてもそれは普通のことなんだと。そんな当たり前のことも、きちんと分かったのはつい最近。オトナになる日は遠そうであります。

 ま、他人を感化するとかそういうの抜きにした「無責任なお喋り」としてダラダラ書くのは嫌いじゃないので、そういう感覚でやろうかなと思ってます。平気で矛盾したこと書いたりもしますので、あんまり真に受けないでいただければと。

○1月からの新アニメもとりあえずシャフトが軸になるわけですが

 「ひだまり」はともかくとして「ダンスインザヴァンパイアバンド」ですよ。新房監督お得意の「美少女の下僕になって苦労する男奴隷」話でありますので、まず間違いなく気合の入った仕事になるでしょう。私見ですがシリーズ構成の吉野氏は手堅く「物語」を作ってしまうタイプの脚本家であり、「ぱにぽに」「化物語」的な「ダベりの楽しさ」「脇筋がメインになる面白さ」を作るタイプではないように思いますので、わりあいまっとうな感じになるのかなあとか。

 原作1巻だけ読んだのですが「BLOOD ALONE」をちゃんとした設定と物語でやっているといった趣の、なかなか良く出来た作品でありました。女子キャラの描写のそこここに作者の業の深さとオタク来歴を感じさせる大変見ごたえのある萌え漫画でもあります。基本シリアス路線でありまして、コメディー要素はアニメ制作サイドで適宜取り入れていく必要がある感じ。「コゼットの肖像」で炸裂した「黒新房」映像を持ち出せる余地がたくさんありそうですが(予告ムービー見るとそういう感じがありありと)管理人は個人的にそっち方面は別段それほど見たくいんですけどね。ラブ&ピースでいきましょうよ本当に。

 それはともかく商業的にもヒットにしたかったらラブコメ要素は必要不可欠であり、そこら辺の匙加減をどうするか、ちょっと様子を見ないとなんともいえないところです。個人的には千和先生に主役やっていただきたいのですが、年齢的にそういう役をやる御年でもなくなってきたのでせうか。まだ若いと思うんですけどねえ。

 あと関係ないけど「BLOOD ALONE」はアニメ化しないんだろうか。毎週クロエとミサキがまったりしてるだけのアニメでいいんですけどね正直。さすがに需要ないかなあ。

○「ダンスインザヴァンパイアバンド」1話

 と上の記事を書いたのが数日前、で、いざ始まった第1話でありますが……第1話見て切るか切らないか判断するシビアなアニメファンが多い中、なんとか食いついてもらおう、話題性を取ろう…ということで考えた趣向なのでせうか。それとも単にスタッフが悪ノリ的に作ってみたかっただけなのか。個人的には滑っているという評価。

 Bパート後半(20分あたりから)の「姫様登場して化物を冷静に罵倒しまくる」あたりからは実に文句のない出来でして、なんで最初からこれをやってくれないのですかと理解に苦しむところであります。「ネタ」でアニメファンの耳目を誘うのは悪いことではないと思いますが、今回の趣向は「ネタ」としても半端ではないか。てか「テレビ」っていう仕掛け自体がかなり古い感じがする。

 管理人ならとりあえず「30分間の間20分くらいは姫様が冷徹に誰かを罵倒しまくってるところを聞かせる第1話」を提案しますが。あのクールな罵倒芸は大変貴重であります。

 あとはシャフトなのでOPアニメが楽しみですな。EDは「月詠」を彷彿とさせますが、さてどんなもんでしょうか。色々と微妙。

○「ソラノヲト」第一話

 良くも悪くも神戸守がアーティストだなあ、とわかる第一話。クリムト好きな人っているよなあ・・・管理人はイマイチピンとこないんですけどね。

 絵画の鑑賞といっしょで描かれているものから見るものが色々なものを「読み取る」映像作品になっています。ただ「視聴者に読み取りたいと欲望させるフック」の仕掛けが甘いので、一部の好事家しか寄せ集められないだろうなあというのが正直な感想。好事家は結局自慢がしたいだけで、あんまりお金は落としてくれないけど、集まらないよりはマシですな。

 監督が「萌えアニメの皮をかぶって、別の何か」を作ろうとしているのはわかるのですが、とりあえずは「萌えアニメの皮」をきちんと被らないと商売的にもコケますよ……うまくいくかどうかやや心配。「アニメノチカラ」枠生き残りのためにも頑張っていただきたい。

 今思うと「灰羽連盟」はなかなか絶妙なバランス感覚を持った作品だったんだなあ。村上春樹的ブンガク世界と萌えって親和性あるので、ちょうどよかったんだなあ。

 わき道にそれてしまいましたが「ソラノヲト」は総合的に言えば映像クオリティが大変高く、お話や演出も及第点で良く出来ており、演出も丁寧。神戸作品だしもう少し我慢して見てみようかなという気にさせてくれる好作品です。

○「ひだまりスケッチ星みっつ」第一話

 OPの冒頭のゆのさんと宮ちゃんに猛烈に癒される今日この頃。無邪気は最強。世迷言はともかく、いよいよ新キャラ投入で動きが出てきそうですな。クオリティはいつもどおりで安心。作り手が慣れた手つきで作ってる安心感が画面から滲み出ていて、その点でも見ててホッとするアニメ。

○「レディ×バト」第一話

 メイドと執事に学園モノを混ぜ込んで萌え作品に仕上げてみました、というマーケティングの教科書に載りそうな企画であります。それなりの映像クオリティですしシナリオ的にも破綻した感じはないので、声優さん目当てにまったり見る人などにとってはそれなりに楽しめる作品なのではないでせうか。管理人は既にマーケティングの対象外な人間ですし、萌えキャラにもストライクゾーンのキャラがいないのでパス。

○「バカとテストと召還獣」

 若いアニメファンをきちんと狙った設定で、やはりマーケティングの教科書に載りそうな企画であります。作画のクオリティがやや心配か。継続視聴予定はなし。

○絵を描いていて気付いたこと

 気付きは多いが、ちっともうまくならない。まあ手を動かしてないからだが。マリみてお絵かきサイトへの道は遠い。アニメ五期までにはなんとか。

 参考資料としてグラビアを見てて思ったこと。女の人って角度と撮り方で美人にも不美人にもなる。一般的には不器量といわれる娘さんでも「可愛く見える角度」とか「綺麗に見える撮り方」というのは厳然として存在する。カメラマンの腕の見せ所はそれを発見するところにあるんだなあと。時々「悪意があるんじゃないか」と思うほど女の子を不器量に見せるひどい角度で撮っているカメラマンがいるが、あれはワザとなのだろうか。悪意があるのか、全体のバランスや親近感なんかを考えて敢えて不器量に見えるアングルも入れる発想なのかわからんが、時折「これはかわいそう」と思うようなアングルで撮ってるものがある。女優さんも「こんなもん使うな!」と抗議したほうがいいんじゃないだろうかとか思うが、そんなに立場強くないか。

 あと、化粧とかフォトショ補正などのディテール補正は人工的にはなるけど効果はあるなと。美は細部に宿る(正確に言うと「細部のこだわりの積み重ねの総体」が大事なんだが)。地道に「欠点を削る」作業によってそれなりの水準になっていく。「綺麗になる努力」に女性が執念を燃やすのも「それなりに努力した分の報いを感じられるから」なのかもしれんと思ったり。

 形状や角度というもので顔を見る目が身についてくると、結局のところ「美人」というものも「顔のパーツの大きさと形とその総合的バランス」の配合比率で決定するものでしかないのだなと感じるようになってきたりする。「造作」と「人格」の間に相関関係があるという感覚がなくなっていく感じ。「顔つき」とか「表情」とかに「造作と人格のつながり」を見ることも可能なのだが、造作ってのは人格と関係なく独立して「造作」として存在するものである、というのが事実なのだろう。

 造作が良いこと、「美しい」というのは人間の価値基準としてはかなり強いものだから「美人」に価値がでるのはわかるのだが、「でも造作はどこまでいっても造作なんだなあ」というのも事実であり、それが分かるとなんとなく寂しくもある。「造作を造作として冷静に評価する目」ができればできるほど、この「どこまでいっても造作は造作でしかない」という感覚は強くなる。綺麗なものを今までよりもしっかりと鑑賞できるんだが、その分その綺麗なものに宿るアウラ的なもの(まあかなりの部分は見るこちら側の「勘違い」なんだ)が以前より少なくなってしまった感がある。

 映画とか見ていても「うわっ、こんな撮り方よく女優が許したね」とか「この角度はこの女優さんの最強アングルだな」とかそういうことが以前よりも気になるようになってきた。町を歩いてても「この人は化粧の方向性というか戦略が違うんじゃないだろうか」とか「この人は自分の強みをよくわかってるな」とか「この人は単にマニュアルどおりにやったんだろうな」とか、そんなことを考えながら歩くことが多くなってきた。退屈しなくてすむが、やはり人としてはどうなんだろうと思わなくもない。まあ面白けりゃオッケーな人間なので、いいことではあるのだが。なにぶん退屈しないのは良いことだ。

 と、同時にいくら見る目が多様化しても、「自分の好み」というものがそういう目の学習や知識とは全く別物に確固として存在しているのだなということもよくわかった。自分の好みがどこにあるのか、というのが最近はだいぶ具体的に説明できるようになってきた。最近管理人が思っているのは、強固に存在する「自分の好み」それ自体をより柔軟多様なものにできないかということである。表層的なレベルではなく、より深層・本能レベルで自分の柔軟性・多様性を発達させる手はないものかと。

 とりあえず最近見た中ではCicaって人が綺麗だった。

○映画「ブッシュ(原題「W」)

 オリバー・ストーンによるブッシュ伝記映画。イラク開戦前後を中心にしてブッシュの半生を振り返る形式。偉大な父親・名門のプレッシャー・優秀な弟との比較に悩む「人間ジョージ・W・ブッシュ」をシンプルに彫り深く描いた質実剛健なツクリ。見ていて感じたのは「どこまでも「フツー」の人だなあ」ということ。際立って優秀でもないし、どっちかというダメな人はあるものの、決して何も分からないバカでもなさそうだし、悪いやつという感じもしない。短気で思慮が浅いところは見えるが、イヤな奴でもない。そういう「フツーの人」がアメリカの大統領になってしまったのが問題なんだ、というのがオリバー・ストーンがこの映画で描きたかったことなんじゃないかと思ったりした。ブッシュの伝記映画の皮をかぶった「民主主義」の映画なんじゃないだろうか。「ブッシュ批判」という意図で撮っている印象もないし、JFKみたいな政治性や陰謀論バリバリな感じもない。オリバー・ストーンにしては実に「アクのない」映画になってる。

 ホワイトハウスのスタッフも当然出てくる。コリン・パウエルが「良識派」としてきっちり英雄的に描かれてるし、ディック・チェイニーヤラムズフェルドもいかにもな悪人として描かれてる。カール・ローブは悪人というより「目的のために必要なことをどこまでも合理的に考える」人間として描かれている感じ。印象に残ったのはブッシュ夫人のローラさんのいい人っぷり。この人、いったいなんでブッシュと結婚したんだろう…と考えたくなるほど良い人でありました。

○映画「その男ヴァン・ダム」

 最後のほうで唐突に始まるヴァン・ダムの独白シーンが泣かせます。それ以外はちょっとフランス的な(ベルギーだけど)皮肉な視線、感覚が幅を利かせすぎてうざったさが残る。ただし、そのうざったさのおかげでヴァンダムの「いい人」「憎めない人」ぶりが際立ったのは事実だが。せっかく「実録モノ」っぽく見せてるんだから最後もリアリティのある終わらせ方をしたらよかったのにとは思った。

○早くペーパーレスになればいいのに

 こちらで漫画などのペーパーレス化について続き物で記事が。

 本も漫画もアニメも映画もドラマもニュースもドキュメンタリーも音楽も全部一台の端末で購入して視聴できるようになるといいのに。もどかしいですなあ。

 

12/31

○軽く今年見たものについて

 いちおう毎年やってるので適当に。今年見たもの読んだもので印象に残ったものを以下羅列。今年は色々あったためとみに記憶が薄いので全部を網羅した感じはない。

映画

「グラン・トリノ」(イーストウッドの気概)
「カールじいさんの空飛ぶ家」(喪失と再生の童話)
「パコと魔法の絵本」(シンプルで美しい孤独と愛の物語)

アニメ

「化物語」(シャフトの最高峰、千和大勝利)
「マリア様がみてる」4期(特に11話はマリみてテレビアニメシリーズの最高峰)
「まりあほりっく」(シャフトにはコメディーが良く似合う)
「けいおん!」(京アニの萌え表現の総決算。祝二期決定!)
「ささめきこと」(冬アニメの隠れた名作、未見の人はその内是非)
「サウスパーク」Season11「Imaginationland EpisodeT〜V」(力強い「虚構礼賛」)

アニメOP/ED

化物語「なでこスネイク」OP「恋愛サーキュレーション」(パーフェクト)
化物語ED「君の知らない物語」(アニソンの「新・王道パターン」の確立)
ささめきことOP「悲しいくらい青く」(哀しく爽やかな名曲)
まりあほりっくOP「HANAJI」(小林ゆうとシャフトの狂気のコラボ)
まりあほりっくED「君に胸キュン」(オッサンホイホイ)

漫画

「へうげもの」7〜8巻(怪物・千利休を見事に描いた力作)
「異国迷路のクロワーゼ」2巻 (萌え漫画作品の最高到達点)
「きのう何食べた」2〜3巻(現代日本のある種の理想郷)
「うさぎドロップ」1〜6巻 (奇跡の擬似家族物語)

「ネット評判社会」(シンプルで冷静でポジティブ)
「テロと救済の原理主義」(「尊厳格差」時代の到来)

 全ての中からベストを選ぶとすると「化物語」と「カールじいさんの空飛ぶ家」、次点で「マリみて4期11話」と「ささめきこと1話」といたっところか。本は色々読んだのだが意外と印象に残ってない。

○「マリア様がみてる―私の巣(マイネスト)」

 サイドストーリーでした。以上。

 今野先生、マンネリと繰り返しを継続するタイヘンさはよくわかりますが…そろそろいいんじゃないでしょうか。コアなファンは「リトルホラーズ」読んで「入学式&新入生歓迎イベントがすっ飛ばされてるなんて…」なんてミニマムな部分で悲しんでおるのですよ実際。オッサンは弱って疲れてるから、同じことの繰り返しの中の微妙な差異を楽しみたいのですよ。そういうミニマルな楽しみがほしい時だってあるのですよ人間。作ってるほうがつまらんのはわかりますがね。

12/30

And I know you can't live on hope alone
But without hope, life is not worth living.
So you, and you,and you
you got to give them hope
you got to give them hope

希望だけでは、人は生きていけない
それは僕もわかっている
でも、希望がない人生
そんな人生には生きる価値がないんだ
だから諸君、お願いだ
若者達に希望を与えよう
僕らは
彼らに希望を与えなくちゃいけない
希望を与えなくちゃいけないんだ

―映画「Milk」より

○映画「Milk」

 ガス・ヴァン・サントがハーヴェィ・ミルクの映画を撮る、というのはスパイク・リーがマルコムXの映画を撮るみたいな感じなんでしょうなあ。いつものガス・ヴァン・サント節が映像の見せ方では発揮されているものの、シナリオ・演出とも極めてマジメで王道なアメリカン伝記映画。おかげで大変頭に入りやすい、わかりやすい映画になっています。ミルクの個人像と社会的な活躍もバランス良く描かれており、「資料映像」「資料映像風の映像」を駆使した時代の再現性なども見事。伝記映画として申し分ない仕上がりとなっています。「失敗が許されない戦い」を慎重に、見事に戦い抜いたガス・ヴァン・サントがきちっと勝ちを拾った映画。逆に言うとガス・ヴァン・サントも「負けられない」場合は、これだけガチガチの映画を作るんだなあとも思った。元々手堅いところでは手堅い監督さんではあるが。

○映画「グラン・トリノ」

 イーストウッドが「復讐を自らの手ではなく司直の手で果たす」というエンディングを用意したことに率直に驚きを感じた映画であります。「ミスティック・リバー」などに顕著に見られるように、イーストウッドの本質はリバタリアンであり、「テメエのケツはテメエで拭け」なのですが。無論、彼はダーティハリーや許されざるものなんかで、リバタリアン的ヒーロー像(「テメエのケツをテメエで拭ける男」)の不可能性をちゃんと意識していたわけですが、この「グラン・トリノ」は「不可能性を前提になおヒーローであるには」ということがリアルに追求されています。またもや「ダークナイト」オチですが。もはや「正義の味方」は「泣いた赤鬼」的な方法でしか存続できないのですなあ。「ヒーローってなんだろう」ということをどこまでも自分自身の頭で考え続けた男、イーストウッドが晩年に今回のような結論にたどりついたというのは重みがあります。

○映画「カールじいさんの空飛ぶ家 3D」

 ピクサーがついについに「映画」を捕まえた記念碑的作品であり、管理人の中では過去のピクサー作品の中でダントツベストの一本です。無数の風船が雲の如く湧き上がり家が飛翔するシーンの爽快感は「となりのトトロ」や「ハウルの動く城」を髣髴とさせる「アニメ映画的感動」を実現しています。ピクサーがジブリ映画・宮崎映画のコア部分を捕らえた瞬間でした。やばいよジブリ。こりゃ早晩抜かれるね(いや、抜くとか抜かないの問題ではないんだけど)

 喪失の痛みの辛さや寂しさを真正面から描きつつも、「その痛みが人と人を繋げ、新しい世界を開くものにもなり得るんだ」という力強いメッセージを高らかに歌い上げた傑作であります。ピクサー作品としては今までにないほど支離滅裂でグダグダなところがある作品なのですが、そんなことは全く問題にならない感動があります。特にラストシーンが秀逸であります。「崩壊した家庭」の子どもが出てくるのですが、ラストシーンでも「崩壊した家庭」は決して元に戻る事はありません。子どもが待ち望んでいた「家を出て行ってしまったパパ」は子どもの前に表れません。失われたものは戻らないのです。しかし、それでもラストシーンは幸福で美しいラストシーンになっている。ベタではありますが、とても素晴らしいラストシーンでした。人物の設定が「グラン・トリノ」そっくりでして、あわせてみると大変味わい深い。

 3D映像にはかなり可能性と面白さを感じます。特に「高低差」など落差が激しい映像での効果が抜群。子どもを怖がらせすぎてはいけないということで、本作「カールじいさんの空飛ぶ家」では3D表現は結構遠慮がちに使われています。特にバートンのアリスの予告編は面白そうでしたよ。

○映画「スラムドッグ・ミリオネア」

 映画の「見せ方」はダニーボイルらしくトリッキーな部分はありますが、筋立ては大変シンプルで力強い少年の成長と恋の物語です。ラストまでそのシンプルさと力強さが失われなかったことが素晴らしい。ダニーボイルの「正当派」な力量を感じさせる一本です。ひとりの少年を通じて描かれるインドの現実の「痛み」と、青春の「痛み」が重なり合った大変見事な青春映画であります。

○祝・映画化「とある飛空士への追憶」

 まだ詳細はわかりませんが、映画化という話がネット上で出ておりました。良いスタッフとスタジオにあたりますように…そういえば新海誠も次は映画だそうで、来年はなかなか楽しみですな。

○「テレビアニメから映画+DVDへ」「手描きからCGへ」

 アニメ業界的には今後とも「映画+DVD」へのシフトが進んでいきそう。シネコンのデジタルシネマ化が進んで簡単に上映できるようになれば、レイトショーとかで普通に各地でアニメ映画上映する、みたいなスタイル(深夜アニメを映画館で見るだけ)も成り立ちそう。そうなれば、もうちょっとマニアックな作品でも「映画+DVD」でなんとかペイできる体制が組めるんじゃないだろうか。「テレビシリーズ数話やってあとは映画+DVD」みたいな感じとかもアリだろうし。製作者的にも「映画」のほうがじっくり取り組めるのでいいのかなあ。まあガンドレスみたいなことになるケースもでてきそうなのでなんともいえませんがねアニメの場合は。

 来年、管理人が期待してるのは「本格的なCG萌えアニメ」の登場であります。「手描きのほうがラクだからいちいちCGにするメリットがない」「てかCGのほうが今はカネかかるんだってばよ」というのが実際のところなんでしょうが、ハード・ソフトともだいぶリーズナブルになってきてますし、そろそろどこかがチャレンジしてもいいのではないかと。「CGで萌えアニメが作れる時代」が到来した時、アニメの本当の意味での「21世紀」がはじまるのです。管理人は手描き好きですが別にかわいければCGだろうが3Dだろうがかまやしないのです無節操なので。大丈夫、CGでも十分萌えられます。早く来い未来。

○今年も年始漫画をやる予定

 かなへ氏の御厚意により、今年も年始に掌編を一本公開したいと思います。お楽しみに。

12/20

And you know I don't mean to hurt you
But you know that it means so much
And you don't even feel a thing

(boa「DUVET」)

○「うさぎドロップ」1〜6巻

 傑作であります。大変微妙かつ難しい領域の話をわかりやすく明晰に描いていて関心することしきりな漫画。「親と子」とは何かというテーマを「擬似家族」を用いて考えるという設定自体はある意味で「手垢のついた」設定なのですが、作り手がその設定を真摯に引き受けているので「手垢がついた」感は全くありません。

 しかし、斯様に優秀で感性豊かな作者さんでも「男」を描くことは全然できないんだなあと思わされる漫画でもあります。どこらへんが?というとまずは「主人公の大吉がスペック高すぎ」ですね。1巻スタート段階で「女子の理想の男」として完成しており、そのまま父親業へと邁進していってるだけ。作者的には「がさつな男が父親として成長していく」的なストーリーラインで書いているのでしょうが、そう思ってるのは作者と女子読者だけでしょう。実際は大吉さんは1巻の最初からかなり繊細で人の気持ちのわかる優しくてイイ男なのです。フルバといっしょですよ。「本田透くんは設定的には「普通の女の子」だけど、実際はスタート時から最強スペックを持った超絶天才少女」ですよね。大吉も「設定的には「そこら辺にいる31歳の男」だけど、実際はスタート時からかなりハイスペックな理想的父親になるべくしてなった男」です。

 スペックが高いのは別にいいじゃんってのもあるんですが、さらに悲しくなるのは大吉を通じて描かれる「男ってこうだよね」的なシーン。そこにあるのは「本当に見たくない物は見ず、「男性性を許してあげる私」を自己演出できるレベルの(ヌルい)「男性性」だけを見る/見せる」という女性作家の詐術が見えるわけですよ。いや別に悪いことじゃないんだけどね。ていうか、ナチュラルにやってるからそれを「詐術」とか言われたら描いてるほうが困っちゃうわけですが。

 まあ、なんというか大吉というキャラにはこの漫画では「描かれていない部分」がたくさんあるという話です。そして、その「描かれていない部分」というのは基本的に作者及び女性読者がたぶん「見たくないもの」なんだろうなと思うわけです。そこがもう実に自然にナチュラルにカットされていることに愕然とするんですな。そのナチュラルさに。少女マンガ読んでると常にそれは感じることであり、ある意味で描いてるほうだってどうしようもない領域なので言っても仕方ないんだけどね。イヤなら読むなよって話なんですが。お互い様なところはありますし。

 そういう少女マンガ特有の「彼女とは遠き彼方の女なり」感は多々あるものの「女性の目線から見た男とはこういうものだ」という前提に立って読むならばちゃんと筋の通ったとてもよい物語となっておりまして、「親子ってなんだろう」とか「親の心ってどんなもんなんだろう」ということを色々と考えさせる教材としても優れております。願わくばさらに作品時間を進めて今度は「介護」「老いた親とどう向き合うか」の問題を「擬似家族」を使って見せてほしいとか思ったりするわけですが、さすがにそれは難しいかなあ。でも、そこまでやれたら多分この作品は「本物」になれると思います。そして、この作家さんはそれくらい余裕でこなせる能力を持っておられる。楽しみです。

○「あんどーなつ」1〜2巻

 こういう「テンプレどおりの「いい娘さん」」だとか「テンプレどおりのベタな人情噺」をテンプレだなあベタベタだなあ幻想世界だなあ、と分かっていながらも感動するようになってる自分というのがおりまして、これが疲れるとか年を取るとかいうことなのかもしれんとか思ったり。「しこりが溶けて、柔らかくなる/変わらぬ物を、愛したくなる」(shing02)

 「うさぎドロップ」に女性作家による「見たくない男性性の隠蔽」があるのと同じように、この漫画にも「オッサンが見たくない女性性の隠蔽」が露骨に働いております。いいんだけどね、虚構だし。野暮な事はいいっこなしか。

 個人的に和菓子やお茶の世界の薀蓄などの「お勉強要素」をもうちょっと増やしてほしいところであります。まだ2巻までしか読んでないのでこれから頑張って追いつきます。

○温暖化問題のターニングポイントとなるのではないかと

COP15は協定への「留意」決議し閉幕、全会一致の採択断念

 うやむやぐだぐだで終わりましたな。「気にはなるんだけどよくわかんねーしカネもないからしばらく様子見ってことでいい?」という世界の「政治的結論」が出たということで、現時点で明らかになってるファクトからすれば、そこしか落としどころがない話ですからな正直。

 というか議論のたたき台になるはずの「科学的事実」の部分にミソがついちゃったんだから、まずはそこの再検証を徹底するのが先決。調査研究の費用なんか「排出を抑える」とかに比べれば遥かに安上がりなんだから。今回はCOP15前まで待ってタイミングをはかったように「メール流出」スキャンダルを起こした側の完全勝利であります。

○選択と集中、海外、地道

今年の決算はカオスだな

 隊長の「ダメになった会社」と「良くなった会社」の特徴分類が大変勉強になるというか暗示的というか。幾つか取り上げてみる。

<駄目になった会社>
・ 安値で勝負するような会社は軒並み駄目。
・ 開発力を犠牲にして営業力を強化した会社はことごとく駄目。
・ 大口を持っていた会社は不況に弱い。

<良くなった会社>
・ 日本国内はぼちぼちだが、アジア圏の子会社やアジア圏向けが急伸した。
・ あえて技術系のトレンドから外れて、先行受注されそうな技術に特化した。
・ もともと広告売上に頼らず地道にセグメントに向けた営業を続けていた。

 隊長の「なんという当たり前の結果なんだと驚く限りだが、実際世の中そんなもんなんだろう。」という言葉が胸に染みる年末であります。

○次回はたぶん25日

 マリみてが出るので頑張って25日更新の予定。

12/10

コースには俺一人
そして敵もまた俺一人だけさ

―SION「HALLELUJAH」

○よし、これで12月は乗り切れる

 「マリア様がみてる私の巣(マイネスト)」12月25日発売であります。今野先生えらい!お釈迦様シリーズはもういいので、是非マリみてを引き続きコンスタントにお願いします。

 さて、こういうことを言うと怒られそうだが、正直「マリみて」みたいな一定の儲けが計算できるシリーズに関しては今野先生ひとりで書かせなければならないほど原価を抑えなくていい企画だと思うので、もう「今野先生をチーフにした複数人による総合製作体制」を組んじゃえばいいのではないかとか思うのだが。モンゴメリ先生も「赤毛のアン」シリーズ書くのイヤだったらしいけどお仕事だししゃあねえ的に書いて最後は鬱で自殺なわけでしょ?お客的には「お馴染み」って凄く嬉しいものだけど、正直作り手にとっては結構うんざりするものってのはあると思うわけで。だからといって作家のオリジナリティみたいなものは必要なので、作家に大筋の方向性は考えてもらいつつ、細かい部分は集団製作体制にして1ヶ月に1冊ペースくらいでコンスタントに商品を送り出したほうがファンも製作者もみんな嬉しいと思うんだけどなあ。これはマリみてだけじゃなくてラノベとか人気出た萌え四コマとか漫画とかにも言えることなんだけど。メディアミックス戦略も「瞬間最大風速を吹かせてお客さんを取り込んだ後も、「細く長く」地道に小銭を稼ぐ手段として育てていく」というのが必要だと思うんだけどなあ。特にアニメは焼畑式に原作市場を使ってちゃダメだよ。もっとちゃんと大事にひとつひとつのコンテンツを使ってかないと。「お馴染み」になった長期シリーズについては、作者の精神衛生とかもかんがみて、こういうスタイルで延命+商業的成功をはかってくべし。まあ、分かってるスタジオやソフトメーカーは既にちゃんとやりはじめてることなので、私がどうこう言うまでもなくこれからはそういう流れになるとは思うんだけど。カネもうけたきゃやることは自ずと決まってくるからね。

 「お馴染み・定番」になるような作品を何もないところから作り上げるセンス・爆発力みたいなのは個人の才能に任せるのが大切だと思うんだけど、固定ファンがついてお馴染みキャラ・お馴染みイベントをまわしていける「巡航速度」になったら、今度はむしろ「複数人体制」でガンガン作ったほうがお客的にも作り手的にも幸せだと思う。声優さんもある程度固定してイベントやグッズで稼げるようになれば実入りもでかいわけでしょう?しかもぶっちゃけアニメとか漫画は一定の段階までは「クオリティ維持」が大事なんですが、「お馴染み」になったらこんどは「クオリティよりも量と定期性」が大事になってくる。「神回」を連発する必要はないのですよ。そこら辺の「売り方」はこれからもっと自由にやってくれていいと思うんだけどな。まあ、面倒くさいし安上がりだから一人にやらせちゃうんだろうけれど。

○アニメの批評を見ていると

 つまるところ映画にはハスミがいたんだけど、アニメにはハスミが出てこなかったんだなあとしみじみ思う。持ち上げすぎかもしれないが、こと映画に関する文章についてはハスミは凄かった(過去形にするな過去形に)んですよやっぱり。結局映画に対する「愛」のレベルが違うんですよ。愛しちゃうと「産業としての映画」も「個人の芸術的営為としての映画」も「時代状況と絡み合うものとしての映画」も「純粋に動く絵としての映画」も「自分にとっての映画」も「映画というメディアの生み出す周辺の有象無象」も何もかも全部勉強し考え消化できてるんですよ。シネフィルってのは本当に「映画を偏愛」する人たちで、映画愛のためにどこまでも調べ、考えてしまう。理由はないんですよ、愛か狂気としか言いようがない。ハスミの凄さって頭のよさだけじゃないんだよね、映画への偏愛というか「どこまでも考えてしまう、知ろうとしてしまう、語ろうとしてしまう」情熱の量みたいなものが凄いんだ。ハスミが淀長をなんだかんだ言いつつリスペクトするのも結局は知識の問題じゃなくて愛とか情熱のレベルでリスペクトしてたわけで。ハスミとか淀長レベルで「アニメ愛してる」っていうことを感じさせる人っていないもんなあ。

 アニメの批評読んでて悲しいのは結局そこの部分、愛と情熱の部分で映画批評に負けてるってことだったりする。たぶん頭の良さとか知性とか教養の問題だけじゃないんだよ。そして、アニメ作ってる人達、自分達の作品の批評を読んでる人たちもそこら辺は鋭敏に感じちゃうんだろうね、悲しいところです。

○「カイジ」新シリーズ単行本

 外人に「現代日本で読むべき作家はいるのか?」と聞かれたら管理人は福本伸行を挙げます。ブンガクなど読む必要ない、まず福本を読むべし。福本の描く「単純明快な他者不信の世界」は日本という社会を見るときのある種の「原点」となり得る。リアルか否かとか正しいか間違ってるかとか、そういう問題ではないんですよ。この極めて純粋にして浅はかかつ様式的な「不信の哲学」こそ90年代〜00年代の日本が生み出した後世に残る遺産なのです、いやマジで。

 新カイジではついに福本先生が「女」を語りだしまして、まーそのリアリストぶりと人間不信っぷりに「この人はやっぱりガチだぜ!」と感動しました。「超ウザイですこの女」とか「やっぱり愛とか超くだらないです」とか、携帯小説の貧困なボキャブラリーすらあざ笑うダイレクトにしてレベルの低い(だがそれがいい!)な言葉の数々が胸に突き刺さってきます。でも、きっと福本先生は美心は本当にピュアだって信じて描いてるな(笑)

○「ささめきこと」1〜4巻

 恋心の揺れを時に繊細に時に激しく描いており、大変素晴らしい作品なのだが(男が描く「恋愛漫画」としてはいまのところかなり高い到達を実現している)「百合」というジャンルでは少し微妙な作品なのかなあ。ひひとことでいえば「村雨さんが「男」すぎる」。つまりここで描かれている恋心は「片思いの「男」の悲しき恋心」であり、「女の子の女の子に対する恋心」とは別種のものなのではないかという疑惑が残るのだ。それが読者に露骨にわかってしまうところがこの作品の仇となっている。男読者的に村雨さんというのは大変共感できるキャラになっているのだが、「共感できすぎる」がゆえに「百合」としてのファンタジー性がむしろなくなってしまっている。男読者は村雨さんを距離を置いて「愛でる」のがちょっと難しいところがある。どちらかといえば村雨さんというキャラクターは「女装して好きなコの横にいる男子」に近い。「俺が女だったらあの子ともっと友達になれて・・・」という妄想から入り、それが実現してしまったら「ああでも却って生殺しで辛い」みたいな、そういう話になっている^;

 しかし男性読者にウケる、「萌え作品」としての「百合」は実は、こうした「男」的な発想(男性の性)が露骨に出てはいけない。逆に丁寧に隠蔽され緩和されていなければならないのです。この「隠蔽・緩和」こそが「萌え百合」最大のポイントでありまして。村雨さんは女の子である以上、飽くまで読者が「共感」するのではなく、「愛でる(萌える)」対象であり、「全員が「愛でる(萌える)」ことができるキャラ」が揃った作品が「萌え百合」としてヒットするのです。

 というわけで「ささめきこと」はアニメ的にはたぶん「一部にだけウケる」タイプ。漫画作品としては中規模の成功は収められるだろうが、大ヒットはしないという印象。「萌え百合」は「男性性を極限まで隠蔽し抑圧しながらも男性性が発露されている」という大変奇妙奇怪なジャンルであります。「ささめきこと」はそういう百合作品の「奇妙さ」を無視して「まっとう」に「恋愛漫画」を書いている。そのまっとうさがとても気持ちいいだけに、ちょっとかわいそうだなあと思うのです。

 さて1〜2巻までは「村雨さん片思い」モードだったんですが、村雨さんの人徳で人が集まってくると今度は「汐さん片思いモード」に…追えば引く、引けば追うというやつでありましょうか。まあガチ百合なんでハッピーエンドに着地させるのもひとひねりいるわけですが、なんとかいい終わらせ方をしてほしいものでありますなあ。アニメのほうは今回で終わりかな。

○「へうげもの」8巻

 遅まきながら。

 利休の死までが思っていたよりハイテンポでしたが、織部が主役ですからね。利休の死をめぐる心理劇はシンプルながらも大変見ごたえがあり、泣かせる良い話でした。お見事。

○「ジャイアントキリング」10〜11巻

 新刊も出たんだが、まだ読んでない。アニメ化決定だそうでおめでとうございます。最近の漫画作品には珍しい「愚直に理屈を重ねること」をきちんとやっている素晴らしい漫画なので、是非大事にアニメにしてほしいものです。

○未来の話

海水使わずクロマグロ養殖へ 岡山理大が実験水槽の建設着工

 世界が「魚っておいしいよね」ってことに完全に気付いてしまったので、「日本人だけが世界中の魚をいただきまくる」なんて乱暴なことは早晩不可能になります。たとえよそ様が魚を取る能力がなく、結局は取らなかったとしても多分ダメでしょう。要するに「なんかムカつく」ってだけの話なんですから^;クジラやマグロを取るなという国際的圧力は基本「なんかムカつく」であって理不尽なものなんですが、そうは言っても他人様の領海ですから「ムカつく」と言われたらしょうがないんですよ。「海洋牧場」魚作って食べましょうや。頑張れ岡山理大。

○温暖化しないんならよかったじゃん、という話なんだけどなあ

「温暖化は捏造」論争が過熱:メール流出で

 なんといいますか「温暖化ヤバイとどうしても弁したい科学者」ってのがよくわからんのですよ。何が動機なの?「私利私欲」以外あり得るの?ってことでして。

 そもそも「温暖化」調べる人たちって、いちおう人類のためを思って色々調べて「温暖化ヤバい!」って言ってるわけでしょう?「温暖化ヤバくなかった!」ってことになったら「よかったよかった!人類よかった!温暖化に使うはずの金を別のところで使えるね!」って話になってめでたしめでたしじゃないですか。

 「地球温暖化説」って「間違ってくれてたほうがうれしい学説」なんだから、なんでわざわざ「正しいことを捏造してまで証明」しなきゃいかんのかさっぱりわからんのです。人類的にはまったく意味がないでしょ、それ。

 考えられるのは「今はヤバくないってデータが出ちゃうけど、早晩絶対にヤバくなるから、今からヤバいってことにしておかないと対策が遅れる」みたいな理屈でしょう?でも、そういう判断は「科学」がやる仕事じゃなくて「政治」がやる仕事なわけですよ。「科学」は「正しいデータを出して、データから将来を予測して皆さんこういうことだから対策立てましょうよお願いだからとお話しする」のがお仕事でしょ?「お話しする」以上のことをしたら、それはもう「政治」でしょ?

 いやまあ科学者が「政治」やっちゃいかんってわけじゃないですよ。他人の領域・領分をクロスオーバーすること自体はいいと思うんです。でも、その時は「クロスオーバーしてます」ってちゃんと周りに言ってやるべきでしょう?要するに、「今、私は「科学者」としてではなく「政治家」として喋ってます」って言わないとダメジャン。言わないで「科学者」の顔をして「政治家」やってるとしたらそいつはただの詐欺師でしょう?

 「政治はアテにならないから僕らがなんとかしなきゃいけないんだ!」とか思ってるんだったらそれはもう革命家やテロリストといっしょでしょ。別に革命家やテロリストになってもいいんですけど、それもちゃんと「革命やってます」「テロやってます」って言えよって話なんですよ。オサマ・ビン・ラディンはちゃんと「テロやってまーす」って言うじゃん。「科学者」ヅラしたまま革命家やテロやるのはズルいでしょって話なんですよ。

 私利私欲なのかなあ・・・そういうわけでもないでしょうし、なんだかよくわからんです。

11/28

ガチでスバラシ Never Endibg Girls Song 午後ティータイムには持ってこい
(Cagayake!GIRLS)

○すいません「けいおん!」おもしろいですごめんなさい

 本放送時に第1話で切った己の不明に恥じ入るばかりであります。言い訳しますと本作が「萌え四コマ原作」だということが頭の中でいまいち分かってなかったというのがありまして、京アニもそこらへんもっとくっきりはっきり分かりやすく作ってくれればいいんですが、ちょっとツクリが半端なところがあってそのせいで勘違いしちゃったんですよとか他人のせいにしてはいけませんねすいません単に目が節穴なだけでありますごめんなさい。普通の「学園ドラマ」「部活ドラマ」として(「バンブーブレード」「咲」あたりを比較対照作品にして)第一話を見てしまいまして、そうするとシナリオ的にいくらなんでもあまりに緩いということで切ってしまったのですが、そもそも「萌え四コマ」とはドラマを鑑賞するものではないわけですよ。「ひだまりスケッチ」にドラマ性がないとか言うやついるかいたら頭悪いだろって話でして。

 「萌え四コマ原作作品」であるという前提で見れば、作り手である京アニの狙いとするところがある程度わかります。「部活モノ」「バンドモノ」の定番のドラマも別段重要なものではありません。単純に「可愛い女の子達を見せる」ために準備され、「魅力的なキャラが発揮されるための最低限度の舞台装置・設定」として存在しているだけであります。作り手達の愛情とフェティシズム(特に腕と足)と情熱が込められた作画と声優たちの可愛い芝居をゆるゆるまったりと鑑賞するアニメとして本作は正しく作られており、たいへんハイクオリティであります。京都アニメーション作品でこれまで人気を博してきた女子キャラクター達の表現の総決算として見ることもできて面白い。これまでの京アニ作品によって開発されてきた「萌えのツボ」をきちっと突いてくれているという心地よさはなかなかのもの。こんなところにこなたがつかさがかがみが風子が、みたいな。

 キャラデザイン及び設定的には澪さん素晴らしいわけですが、最近癒し系に弱い管理人といたしましては唯さんを見て和みまくり途中加入のあずささんの登場で万歳三唱と作り手の意図に完全にハマりまくりです。てか13話1クールは少なすぎだろ、早く2期やらないと旬を逃すと思うんだけど京アニはここら辺商売ベタですなあ。

 というわけでアニメ原作市場においては時代はいつの間にか「萌え」ではなく「萌え四コマ」に完全にシフトしていますな。いつまで続くのかが読めませんが。続いている間にファンを取り込んで「お馴染み作品」として末長く金を吸い取るシステムを作っておいたほうがいい。「萌え」のスタジオはいまいちそこら辺失敗してるけど、「萌え四コマ」はもともと「定番」感のあるジャンルだから末永くお付き合いしやすそうだし。

○外人が心配しだしましたとさ

The other D-word

 日本さんデフレに再突入じゃないですかあらあらやれやれという記事。「民主党政権様はデフレ止めるようなことはあんまりしておられないみたいですね」という分析はそのとおりなのでですが、当たり障りのない「経済成長につながる政策をやりましょう」話を最後にボソボソと語られましても何の役にも立たないわけでして。「合理的なことをやろうね」と言うのは簡単なわけですが、合理性とは違う次元で動くのがリアルな我が国においてそんなことを言うのは空理空論を語るのと同じなのであります。合理性とは違う次元で動いていることを認めた上で分析しなきゃリアルはつかめない。これは日本だけではなくほかの国を分析する時もそう。エコノミスト誌や自由経済万歳主義者はそこら辺が冷たい。

ビル・エモット 特別インタビュー第二弾

 民主党政権の現在のマクロ経済運営は、残念ながら、予想以上に酷いと言わざるを得ない。だが、願わくば、それが日本経済の問題の本質を分かったうえでの停滞と混乱であり、やがては打破されるための産みの苦しみであって欲しい。

 で、そのエコノミスト誌で働いていた知日派のビル・エモットはいかんなく冷たさを発揮しておられます。「ごめんね政権交代したほうがいいなんて言っちゃって、ここまで民主党がアレだとは思ってなかったよhahaha」と言えよとか思うが。インタビューで主張していること自体は普通の自由主義経済万歳主義者のそれとして分かるのですが、「自由主義経済にもっとしようよ」なんてことはこの人でなくとも誰でも言えることではないでせうか。「しようよ」と言ってできるなら世話ないのです。この人に期待されているのは「日本において一定のせーふてーねっとを張りつつ自由主義経済を実現していくことが可能か?可能だとすれば具体的に何をしていけばいいのか?」をリアルに語ることでしょう。その答えが、「政権交代だ」と言ったわけですよこの人は。それが事実上「ダメだったね」と自分で言うんだからちゃんと己の不明を恥じるべし。それなりに穏当でわかりやすく正しいことを言う人だけに残念。

○国内は国内で「努力と根性」ばっかり言ってますしね

「世界一を目指す意気込みでやらないと、2位にも3位にもなれない」

 日本の科学研究費が国際比較してもあまり多くないのは事実だし、こういう声明をノーベル賞受賞者という立場にある人が率先して出すこと自体は評価されるべきだとは思います。

 しかしノーベル賞とったような科学者が揃いも揃って「意気込み」とか平気で言ってるのはどうなのでせうか。「こいつら理科はできるけど、精神構造は体育会系根性主義者、競争至上主義者、あるいはブラック企業の経営者レベルなのね」ということを満天下に晒すのは日本の科学界にとって良いことなのでせうか。科学者だからこそクールに合理的に「なぜ、この金が必要なのか」ということを話すべきだったのではないかと思うのですが、まあご老体ですしもう好きなように勝手にやってください後に続くものが迷惑しない程度にということで。

○少しは未来の明るい話でもしましょう

広告経済か無料経済か

   これからのネットビジネスの話。ここで語られている「一部の有料利用者が無料利用者をサポートする」というネット上の商業システムと先日取りあげた「所有から利用へ」の価値観の変化、「既存インフラの有効活用」の徹底化が進むこと、こうした流れがこれからの社会を変えていくんじゃないかなあと。人間はそれぞれニーズが違うので、人によって「これはカネを払ってでもスムーズでボリュームのあるサービスを受けたいなあ、これは無料でそこそこのサービスを受けられればいいなあ」と「有料・無料の区分け」をしていくわけです。それがいい具合にバラければネットの世界は「資本主義を徹底化したら相互扶助になる」というアダム・スミス先生が「え?ほんとにそんなことあるの?」と驚きそうな状況が生じ得るのではないか。ま、そこまで理想的にはいかないでしょうけど、少なくともリアルワールドよりはずっと効率よく「資本主義=相互扶助」ができあがる世界が来る。

 金があるとかないとかじゃなくて、「別に無理して無駄遣いしたくないところは極力金かけない方向で、ゼイタクしたいところは思い切りカネかける方向で」という個人主義メリハリ消費モードをフツーに徹底すれば、そのうち自ずとこういう社会になっていくと思うんですが。とりあえず「フリー」はアマゾンで購入したのでそのうち要約出します。今読んでるんですが「それほどワクワクさせられない代わりに結構地道に現実的に書かれている」という趣です。

○日本の「じゃあどうすればいいのさ」問題に対する回答のひとつ候補

アクセンチュア流 逆転のグローバル戦略――ローエンドから攻め上がれ

 「高付加価値」ばっかりありがたがってんじゃねえよ!「安くていい物どこよりも」「勉強しまっせ」「リーズナブル命」が商売の基礎だろうが!ガチでいけガチで!というのはまことにまっとうですし、日本人的にも「高付加価値」とか言ってるよりやりやすいんじゃないかなあと思ったり。読んでないけど。

 「新ジャンルを開拓→地道にお客を育てる、育てられる→客の数が一定数を超えたところで認知度アップ一挙に広がりメジャーに→よそが安価で真似しだしたところで高付加価値商品専門にシフト」という「商品・サービスの成長過程」があっての「高付加価値商品」なんで、なんでもかんでもいきなり「付加価値で勝負!」というのは正しいかどうかってのは検討してもいいかもね。「戦いやすさ」ということも考えないといけないしね。

○まいくろふぁいなんすはせかいをかえるんだってさ

kiva.jp

 以前紹介したネット使ってワールドワイドにマイクロファイナンスやっちゃおうぜというkivaですが日本でもこういうのが始まってます。実際にここ経由でひと口投資してみたんですがかなり簡単。アメリカのペイパルの会員にならないといかんのですが、これは日本語FAQとかを見ながらやっていけば結構サクサクとなれます。英語はそりゃ読めれば細々としたことはわかるから読めたほうがいいが、メインのところは日本語FAQにきちんと書いてあるし、書いてない部分はそれほど心配するようなことは書いてないからフツーにやっちゃって大丈夫な感じ。

 「誰にカネをかすか」を決めるために個々の起業家(というか世界の自営業の皆さん)のプロフィールやら何でカネが必要かみたいな記事を読まなきゃいけないのですが、それもいちおう日本語訳されているものがあるのでその中から選ぶのであれば英語は必要なし。ただし日本語訳がなかなか少ないのが問題だったりするので、英語読めるに越した事はない。

 いちおう管理人も日に数件翻訳してるが正直、次々と新規に登場する融資案件に比べてしまうと焼け石に水にしかなっとらんし実際に融資につながった翻訳はなさげ。日本人はやはり実際に融資するところまでなかなかいかないみたい。結局、融資自体は本家kivaでしかできない仕組みになってるので、「英語じゃん!」ってことになっちゃうのがネック。そのうちどっかの誰かがネットかテレビでとりあげてワーッと人が来てくれるとは思うのだが、その前になんとか「入口から投資まで全ての作業を日本語でできる形」になるといいなと思っている。結局、「画面上に英語しかない」というビジュアルが恐怖感を煽るわけなので、そこをどうにかしないといけないといえばいけないけど難しいな日本では。ただ、このサイト自体はかなりうまく作られていて、サイト作ってる人ちゃんと考えてるってのがわかってなかなか気持ちが良い。グッジョブ。

ひとり飛行機

 ある意味未来っぽい。

レゴでマトリックス

 ムダにクオリティ高ぇ(笑)

11/20

寒からぬほどに見ておけ峰の雪(兼好)

○10のつく日に更新

 道楽はほどほどにしといたほうがいいんだよ(峰の雪(道楽)は寒くならない遠いところから見ているくらいがちょうどいいんだよ)という歌。ということで10のつく日にこちらは更新しようかと思います。ブログのほうは淡々と更新中。

○問題はここからのわけですが

日本経済、高成長の陰でデフレ懸念-民需主導の回復に足かせ

7−9月期のGDP1次速報値は物価変動の影響を除く実質で前期比1.2%増、年率換算では4.8%増と2四半期連続のプラス成長を維持した一方で、人々の生活実感に近い名目GDPは前期比0.1%減、年率換算0.3%減と6期連続のマイナスとなった。国内の物価動向を示す国内需要デフレーターは前年同期比2.6%減と、1958年4−6月期(同6.9%減)、同年7−9月期(同3.9%減)に次ぐ過去3番目の下落率を記録した。

009〜2011年度経済見通し〜緩やかな回復では戻らない経済活動の水準

実質GDP成長率は2009年度が▲2.6%、2010年度が1.4%、2011年度が2.0%と予想する。日本経済は2009年4-6月期以降、3年間にわたりプラス成長を続けると予想しているが、それまでの落ち込み幅があまりに大きかったため、2011年度末の実質GDPはピーク時よりも2%以上低い水準にとどまる。実質GDPが元の水準に戻るのは2012年度以降となるだろう。

OECD「日本経済デフレ続く」 回復力弱く需要不足と予測

 回復する世界、取り残される日本といういつものパターンがやってくるようで。

 個人レベルで言えばここ2年ほどで簡易な生活防衛体制は構築したので短期的な心配は特段ないのですが中長期的には怪しいので、今後は中長期の生活防衛体制をいかに整えるかをテーマにしていきたいところであります。

○そんな日本もたまには褒められる

中東・北アフリカ:ラマダン特別番組、日本を紹介で反響

 「近代化と伝統のバランス」という観点から日本を評価しているところが中東の人達が今直面している問題を露にしていますな。日本人も自らを省みる場合に中東・アジア等「白人と近代に苦労させられた国々」と比較して考えないといけません。というわけでブログのほうでは次回「テロと救済の原理主義」の要約を予定しております。イスラム世界の思想が中心の本ですが、中東・インド・日本の「近代の受容」論としても大変秀逸な一冊ですのでお楽しみに。

○ロマンで金を呼ばないことには

木星の衛星エウロパに魚が生息?

 結局、ロマンがないと誰もカネを出してくれないから定期的にこういう「もしかして?」的な夢のあるトバシをしないといけないわけですか科学者の皆さんも。科学のいいところは「徹底した事実に対する誠実さ」だと思うので、こういうトバシ気味の話を科学者がするのはあんまり聞きたくないんですが、仕方ないのでせうか。

○魂の履歴書

オタクの履歴書

既にこれがないとオタク同士でも会話の合う・合わないが全く判別できないほどオタク世界は細分化しておるわけです。いや「鉄オタとアニオタの話が通じない」とか、そういうレベルではなくて「アニオタ同士だって話が通じない」世界が既にあるわけでして、そういう「合う・合わない」をあらかじめ知るためにも、こういうものを今後はオタクはプロフィールとして出すのはよろしいかもしれません。「趣味は魂の文学的良心である」と申します。タイラー・コーエンも言っていましたが文化消費というのはその人のアイデンティティと深く結びついているものですのでオタク趣味であれなんであれ、己の趣味というものは大切にしないといけませんよ。

○アリーテ姫から幾星月

マイマイ新子と千年の魔法

 まいまいと言えば今は八九寺さんなわけですが、まあそれはともかくスタジオジブリから飛び出てアリーテ姫を作ったはいいがゲージュツ映画としてしめやかに黙殺された片渕監督。「BLACK LAGOON」でよい仕事をしておられたと思ったらついにジブリ路線復帰であります。マッドハウス・日本テレビ的には「花田少年史」「ピアノの森」に続く第三作ということなのでせうか。「シネコン向けのファミリー映画」需要が高まったおかげでこの手の児童文学系作品の企画が通りやすくなってるのかもしれません、結構なことであります。で、見に行くかと言われると「レイトショーないから見に行かない」んですけどね。近所の映画館、ほんとにどれ見てみようかというのがやっていなくて困りモノです。あまりにも見るものがないので「天使の恋」でも見て佐々木希を大スクリーンで拝むかとか思ったりもするのですがレイトショーやってないんだよねこれまた。あらすじを見ただけで「これをシラフで見ろとでも?」と思うような代物なのですからレイトで安く見せていただきたいものであります。

○ベノアを頼んでみる

 紅茶に関しては「フォートナム&メーソン最強主義者」なのですが、F&M社様は価格がセレブ仕様(というかカイシャとカネモチのご贈答品仕様)な上に、三越にいかないと売ってない(通販は高い)ときているため、もうちょっとリーズナブルかつクオリティの高い紅茶を物色中。常飲用としては以前にも書いたとおりイオン岡田の「トップバリュー:セイロン&ジャワティーバッグ50個198円」が最強。デフレが生んだ好商品であります。

 管理人が紅茶に求めるのは「ダシ・コクがしっかり効いたパンチのある味が出ているか」「脳味噌をくすぐる官能性のある香り(主観強し)が出ているか」。ただし鼻は大してよくないのでそれほど香りについては繊細な評価はしない。脳味噌が刺激されて反応すればそれでオッケーという大変即物的な評価基準しか持ち合わせていないが、それでいて「この香りは高級、この香りは普通」みたいな身勝手な評価基準を脳味噌が持ち合わせているので厄介である。

 香りの官能性だけを欲するならフランス紅茶が最強なのだが、フランス紅茶は香りつけてる分味を犠牲にしているケースガ多くどうも好きになれない。フォ○ョンなどは一部「味もなんとか頑張ってる」銘柄もあるにはあるのだが高すぎるので却下。結局味わいが質実剛健、香りは「紅茶本来の香りとブレンド力で勝負」というスタンスのイギリス物最強、ということになる。

 ここ数ヶ月はアマゾンでセールやってたウィッタードのセイロンティーを飲んでいた。味は堅実でなかなか良いが香りがやや茫洋としているのが弱点か(セール品で香り抜けてたんじゃねえの疑惑もあるが)。味は合格、香りの高級感と官能性においてF&Mに及ばず、という感じ。セール価格でないと、それなりのお値段を取りやがりますので(F&Mほどではないにせよ)セールの時を狙って買えばお得かな。デパートとかで安売りされてたら買うという感じ。

 イギリス物でいうと、ハロッズのイングリッシュブレックファーストは貰い物でしばらく飲んでいた。いまいち紅茶の味についての趣味が違う人がブレンドしてる印象。管理人は紅茶の「ダシ」の味が好きなのだが、ハロッズのイングリッシュブレックファーストはどうも「渋み」「苦味」が大事みたい。ミルク入れた時のバランスもあるんだろうけれど、番茶のおいしさに近づいてしまっていてどうも管理人が紅茶に求めてるものとは違う方向に進化してしまった感があった。レベルはそこそこ、でもいまいち好みではないといった感じ。

 次は何を飲むかいなとサイトをあちこち回っていたのですが、ベノアのサイトが送料500円ちょいとちょっとお高めではあるものの、紅茶そのものの価格はなんだかフレンドリーな庶民派価格でして(ただし紅茶の量が少ない)、これくらいなら貧乏人な私でもお試しになれましてよとばかりにイングリッシュ・ブレックファーストの葉っぱとアールグレイのティーバッグなぞを注文。

 イングリッシュ・ブレックファーストのほうは香りに高級感・本物感があって脳味噌を良い具合にくすぐってくれる。ただし味わいが若干軽いか。軽いのが好きな人はこれくらいが上品でちょうどいいと思うのだが。牛乳との親和性がとてもよくミルクティーにしたときの完成度が素晴らしい。ここら辺はブレンドしてる人の「分かってる感」を凄く感じさせてくれますな。1缶の茶葉の量が少ないんですが、他の紅茶と違い「スプーン一杯分の茶葉でかなり濃くしっかりとしたお茶ができる」作りになっていまして(不思議なんだが)1回飲むのに2杯も入れれば十分なのでコストパフォーマンス的にも実は悪くない。

 アールグレイのティーバッグは香りは一流ですが、やはり味が軽い。もうちょっと旨みが出れば完璧なんだが。でも香りはいいですな。アールグレイはもともとはっきりくっきりした良い香りですが、ベノアのはそこに高級感というか上品さがきっちり加わってる感じ。どうやって作ってるんですかね、こういうのって。偉いもんだ。

 相変わらず「F&M最強」は揺るがなかったが、味・香り・コストパフォーマンスのバランスではウィッタードを正価で買うよりは満足感高い出来かと。常飲するにはお高いのですが「時々飲む紅茶」として買うには悪くない価格帯と出来。贈り物とかにも悪くなさそう。とりあえず個人的ランキングではF&Mの次くらいに入ってくる大変良いお茶でした。

 ベノアオンラインショップ

11/12

津の国のなにはの春は夢なれや 蘆の枯葉に風わたるなり 

西行

○ああ、あの難波の春は夢だったんかなあ

 と、蘆の枯葉が風に揺れるのを見て思ったよという歌。今日はやけに寒い。

○サイト移転

 旧ブログ「燃焼率」を模様替えした「燃焼率改」を開始。管理人が勉強に読んだ本の要約を淡々とアップしていくブログになる予定。

 目標としては月2〜3冊ペースでやりたいと思っていますが、時間の関係上難しいかも。「アニメのキャプチャ付レビューサイト」を本でやってくれるところがほしいなと前々から思っていたので、とりあえず自分でやってみることにする。要約といったものの「本の概観が分かるような、要点を満遍なく網羅した要約」などではなく、単純に管理人が読んでいてポイントだと思ったところを適当にピックアップして羅列したものなので、本の内容をしっかり知りたい人はきちんと買って読まないムリだろう。

 こちら「経常録」は気が向いたら更新するつもりだったのだが、それだとチェックするのも読んでくださる皆様面倒かと思うので「毎月○日には必ず更新」みたいなのを決めて存続しようかなと。個人的には大岡信の「折々の歌」みたいなのを毎日更新したい気はするのだが、毎日やるほど分厚い詩・短歌のストックはない。やるとしたら別のブログを立ち上げるとかになるのではないか。

11/11

頭の中うざってえハエがたかってる
そいつらがブンブンブンブン言うには
お前はもう死んだ方がましだ

うるせえな 負けねえぞ 明日はどっちだ 君はどこにいる
探しに行くぜ すぐ見つけるぜ

真心ブラザーズ「明日はどっちだ」

○二番底だそうです

日本経済展望 11月

政策効果の剥落に伴い、わが国景気は二番底に向かう公算大。とりわけ、公共投資は2009年末ごろから急減し、成長率を大きく下押し。

デフレ傾向も鮮明に。コアCPI前年比は、輸入物価の急落、需給ギャップの拡大を背景に、マイナス基調で推移する見通し。

 だそうです。来年は引き締めていきましょう。

○モノ作り大事よとイギリス人に諭される

技術立国日本のトップ企業 目に見えないが必要不可欠

 エコノミスト誌に珍しく褒められる日本。しかし、こういう「中堅企業」だけでは我が国1億数千万の人口は養えないわけで、そこんところをどうしようかという話なのです。中堅企業は大いに栄えていただき、加えて何かしなきゃいかんのが我が国の辛いところでして。

○サービス業生産性問題

○日本の成長戦略:サービス業の生産性は低いのか

これは計測・数字の問題なのではないか。米国の場合は、配置している店員の数が少ないように思える。生産性を計算するときは、店の売上げ(ないし付加価値)を分子とし、店員の数を分母として割る。その結果、米国の一人当たりの生産性が数字上高くなるのは当然だ。日本の場合は、同じ売上げ高に対して、配置しているスタッフの数が多い。そのため、いかによい仕事をしても、データ上は生産性が低いように見えるのだ。

あるべきソリューションとしては、「過剰サービスだからそれをやめればよい」というところから一歩進み、もしサービス業の店員の数を減らしたなら、そこで浮いた労働力を新たにどこにシフトさせて、さらに日本全体の生産力を高めるかを考えていく必要がある。

 と、ここまでは大変首肯できる分析。ただし、その後の政策提言は「余った労働力は中国市場を相手にしたサービス業をやればいいよ、たとえば金融サービスとか」というかなり微妙な内容。分析はできても提言は難しいのはアマチュアもプロも変わらないのですな。

○「豊かさ」の概念変化

なぜ人々は所有するのをやめるのか

 記事では「不確実性」が背景にあると指摘していますが、管理人は「所有してなくても、使いたい時に使えればいい」という「所有から利用へ」という概念変化のほうが大きい気がします。この概念変化は「豊かさとは何か」を考える時にも大きな影響を及ぼしてくる。医療・福祉・住宅・食料といった基本分野がある程度保証されれば、他の分野の「豊かさ」はそれほど収入がなくても結構楽しめると思うんですけど。資本主義の根本が奢侈と無駄遣いにあるとするならかなりマズい考え方ではあるんですが。

○アメリカはほんとにもう…

ドル・キャリートレードに潜む危険性

 「日本人ダメ、アメリカ人賢い」的な言説の空しさを感じさせまくる記事でございますなあ。洋の東西を問わず、人間のやることなど大して変わらないと。

 ちなみにこのリンク先のjbpressはめぼしい海外雑誌の記事を翻訳してくれるのでなかなか助かるサイト。

11/7

1つ晒せば己を晒す
2つ晒せば全てを晒す
3つ晒せば地獄が見える

○ご無沙汰気味でございますが引越し準備中につき

 11月下旬を目標に(順調にずれ込んでいますな)日記を移転する予定。今のところブックレビューサイトにしようと考えている。といっても通常のレビューサイトではなく、もうちょっと役に立つタイプのレビューサイトを考えている。

 最近いろいろあって「ああ自分は自己顕示欲は強いが、かといって人様に晒して喜んでもらえたり、特別に望まれたりするほどのさしたる中身や美しさを持ってるわけではないんだな」ということがよくわかった気がする。なんというかストンとそれが腑に落ちてしまって「無理して中身を持とうとしたり美しくなろうとしなくても別にいい」と納得してしまっている自分がいる。寂しい気もするが、少しホッとしているところもある。

 新しく買ったピアノが実にいい。絵もそうだが音楽も言葉より遥かに自由でユルく、そして綺麗だ。無論、きちっと弾けないとムカつくことはムカつくが、言葉が伝わらなかったり、うまく表現できなかったりする時よりもはるかにストレスは小さい。たとえ下手な音でも感情や気持ちがある程度音になってアウトプットされ、それはそれなりに綺麗なものになってくれる。言葉にしないで自分の中の感情や気持ちを音に乗せてしまえるというのは実に心地いい。存外、自分は言葉が嫌いだったのかもしれぬ。それほど無理して言葉と付き合う必要もなかったのかもしれんなあ。黙ってピアノ弾いてお絵かきしてればよかったのかもしれない。

○サウスパークすげぇ

 何を今更ながら「サウスパーク」がネットでタダで見られるということに気付いてちょこちょこと見ているのですが、レベル高ぇこと高ぇこと。最低に品はないし、ネタは悪趣味かつ凶悪だし、ほんとうに心の底からロクでもないしヒいてしまうところも多いんだけどシナリオの作りこみのレベルや作り手の時折見せる純情やソウルフルな叫びがやたらと胸を打ちやがるのですよ。これをタダで見せてしまえるのがアメリカ人の恐ろしいところ。

公式サイト

 日本がらみで最近話題になったのがSeason13の「Whale Whores」というエピソード。「日本人の捕鯨・イルカ漁」をこれでもかというくらい悪趣味に誇張した映像は正直見ていてうんざりさせられるが(下手に描写が巧い分、ほんとうに気分が悪くなる)同じ苛烈なスタンスで反捕鯨団体シーシェ○ードをバカにし倒し、最後は天○陛○から原爆資料館まで登場させて戦後日本人論を(ステレオタイプではあるけれど)がっちり語る展開に「お前らそこまでやるのか」とあきれ果てつつも感心してしまう。

 ガチで感動してしまったのはSeason11の「Imaginationland EpisodeT〜V」三部作。アメリカ人の想像上の人物・キャラクターが平和に暮らす「想像の国」がアラブのテロリスト達に襲撃されるところから始まる一大冒険スペクタクル劇。シナリオの作り方が正統派ハリウッド活劇のそれをきちっと踏襲しつつパロディにしており、実にハイクオリティ。下品で悪趣味なジョークネタの乱射の中に作り手の純情を時折チラッと見せるもんだから余計ホロリとさせられてしまう。ツンデレみたいなもんですかね。

 正直、エピソード3の展開とかはマトリックスや新スターウォーズのエピソード3より遥かに熱いソウルを感じますし、面白い。「現実と虚構」をテーマにした作品としてもシンプルながらしっかりとした主張を語っており、作り手の本気度を十二分に感じさせてくれる。ただし本当に悪趣味なのであまり視聴をお勧めはできんのですが…さすがに見ていてうんざりさせられるというか本当にヒく。

 早口の英語だが、使われている単語がかなり平易なので結構きちっと理解できて英語の勉強にもとてもいいけど、教材としてはやっぱりお勧めできんですな。ひどいけど凄い。アメリカ人恐るべし。

○アニメ「化物語」もろもろ

 第13話「つばさキャットその3」相変わらず会話劇で楽しませてくれますし映像もハイクオリティ、続きが気になるところです。

 ちなみにDVD版のオーディオコメンタリーは必見。「この手があったか!」と思わず膝を打つアイディア、そしてそのアイディアをただのアイディア倒れで終わらせない入念(?)な作りこみ。お見事であります。

○漫画「まりあほりっく」1巻〜5巻

 アニメのおもしろさのかなりの部分は原作のおもしろさをそのまま転写していたんですな。クオリティ高い。原作読むとますます茉莉花さん好きになれますよ。

○漫画「乙嫁語り」1巻

 フェローズの特集巻の時にかなりの部分読んじゃっていたなあ。「エマ」で功なり名を遂げ、「この作家さんはこういう人だから」と読者が納得ずくだからこそできるスローで濃密な描写の数々がたいへん心地よい。

 

10/24

いつか君と見上げた空は
悲しいくらい青く
ただ黙っていた
―「悲しいくらい青く」

○そういやアンジェラの「シャングリラ」でも

 「輝く空は/無邪気さを装い/全てを知っていた」という歌詞がありましたが、空を見ると皆こういうことを思うのでせうか。全てを見、全てを知っているのに沈黙を続け何もせぬ神としての「空」。無情であるが故に自由で美しき蒼天。正直そう何回も反復されましてもねえとか思わなくもないのですが……いや、まあよいものですが。歌詞書く人たちはもうちょっと芸を見せていただきたいとは思うものの、こういう「万人にある感傷発生スイッチ」はいっぱいないですからねえ。

○ささめきことOP「悲しいくらい青く」

 というわけで、発売開始ですよ我らが「ささめきこと」OP「悲しいくらい青く」

 さて今回は「百合がなぜ流行ったか」についてつらつら思うことを適当に。

(1)若年層男オタクのひとりっ子度・奥手度が上がった。その結果「女の子と自然に話せる男主人公に共感できない」「妹・姉・幼馴染にリアリティがない」という客層が増えてきた。

(2)高年齢層男オタクの現実逃避度が上がった(笑)。「もう男キャラなんかウザいから見たくない」「女の子だけのピースフルな世界を見せて、リアルとかどうでもいいから」という需要が高まり、一連の女性キャラだけの日常系萌え作品やマリみてのヒットによって、ある種幸福な需給関係が確立した。

(3)若年層男オタク・高年齢層男オタクの「女性化」「乙女化」の向上。本質には「傷つける性」としての自分の男性性への恐怖や、ホモソーシャル大好きな日本社会への違和感みたいなものがあるのだろうが、とりあえず背景はおいといて「心は乙女」「純情可憐、可愛いもの綺麗なもの大好き」と内心思ってる男が増えた。(1)の背景と合わさってむしろ「女性キャラに自分を仮託する」ほうがラクになってる男オタクが増えた。

 セクシュアリティ方面からのアプローチだと上述のようなポイントがあるかなと。超適当だなあおい。(2)はただ単に管理人の心境を語っているだけ。だって萌え作品の男キャラって造形的にも「心理描写・人格描写」的にもぞんざいにしか描かれないのだもの。女性キャラの完成度と格差がありすぎますよ。だったら最初からいないほうがマシ。ダメ男でもそれなりにきちっと造形されていればかまわんのですが。

 あとは「萌え」作品の進化発展の流れからも考えるべきで、それはまたそのうち気が向いたら。

 まあ綺麗なものだけ見たいのですよ虚構では。面倒くさいことややこしいことは現実で十分じゃないかと。面倒くささややこしさの中に面白さがあるのはたしかだけど、そういうのはまた別口で楽しむから、萌え作品ではやらないでくれってことなんじゃないでしょうか。「けいおん」を見た吾妻ひでお先生が「そんなに現実がイヤか」と仰っていたそうですが、イヤかどうかは関係なく「好きなものだけ楽しませて」と思うのは人情で、こればっかりは仕方ないのではないかと。商品が洗練化されていくということはそういうことですし。人としてよいことかどうか、みたいな倫理的な問題はあるんでしょうけど。

○瞬間湯沸器

 「充実の茶・コーヒー生活」に向けてひた走っておる今日この頃。このほどT―falの瞬間湯沸器をゲットした。なるほど早い。本日は1リットル弱沸かしてしまったので3〜4分かかってしまったが、コーヒー1杯分なら2分もかからない。静かだし。静か過ぎて沸かしてるのかどうかちょっと心配になるけど。

 消費電力が半端ないので、ブレーカー飛ばないように気をつけて使わないといけないのが難点か。電気ストーブとかと併用するとちょっとやばいかもしれん。

 それにしても朝コーヒー飲むとやはり胃が微妙に荒れるな…カフェインとか香りとかコクの覚醒効果は紅茶より上なので、できれば朝飲みたいんだが、どうも胃に優しくないみたいなので朝は紅茶、昼・夕コーヒーみたいな流れのほうがいいのかもしれぬ。

○じじむさいが

 お茶・コーヒーと共に最近やってるのが「床屋にある「蒸しタオル」を自分で作って顔や首にあてる」。熱湯でタオルを塗らして絞って顔・首にあてるだけ。発見したのが「目元とこめかみ・耳の下あたりの首筋周りをあっためると気持ちいい」ということでして。ここらへんはどうやら人間の「幸せ物質発生スイッチ」ですな。なんか猫と同レベルだなあ、と少々情けなくなるのですが気持ちいいのだから仕方ない。体がいい感じに緩んで、1秒ほど色々なことがどうでもよくなります。猫が人間つかまえて「首筋撫でれ」と要求したくなる気持ちが少し分かるようになります。

 ちなみに、塗らしたタオルを部屋に干しておくと冬場は乾燥を防ぐのに丁度いいですよ。残念なのは床屋の蒸しタオルと違って熱湯つけて絞っただけだと熱の保ちが悪く、あんまり温かさが持続しないことだったりする。

10/19

恋風が 来ては袂にかい縺れてなう 袖の重さよ 恋風は重い物哉
―閑吟集

○村雨さん蕩れ

 誰がなんと言おうと今季は「ささめきこと」一択。第二話は主人公の村雨さんの片思い暴走モードを存分に見せてくれます。第一話はしっとりと、第二話はコミカル&アクティブに、静から動へと味付けは変わっていますが根底にある純情可憐乙女ちっくモードは健在。いやあ村雨さんは実に良い娘さんですなあ。こういう純情で無骨な娘さんが幸せにならんといかんですよ世の中。ま、実際はこんな純粋な子はオッサンかオバサンの妄想の中にしかおらんわけですがね。世界で最も純情可憐なのは少女でもうら若き乙女でもなくオッサンとオバサンであります。悲しいけれどそれが現実。

○「ひだまりスケッチ×365」特別編・前編

 ピースフル。この間までヒロさん一択だったんだが、今回宮ちゃんの良さに目覚めた。マイペースだけどいい子ってのは素がよくないとムリだよなあ。

○ブルックスのお試しを頼んでみる

 この年になるまで「コーヒー飲むと寝れなくなる」という子供みたいな体質だったのだが、年食っていろいろと鈍くなってきたせいかここんところ眠くならなくなってきた。じゃあということでコーヒーも飲み始めると紅茶とは違うコクと香りがあってなかなか良いものだなあと。飲みすぎると胃が荒れるが。日常的に豆ひいて飲むのはあまりに面倒くさいし、かといってインスタントコーヒーだとどうもコクと香りに物足りなさが残る。そこで折衷案でドリップ式のブルックスを頼んでみることに。

 しかし75袋1980円って計算機で計算してみると1袋26.4円だからそれ程安くはないんだよなあ。まあスーパーとかで買うと1袋40円弱とかが普通だから、かなり安いといえば安いのだが。普段常飲しているジャスコのトップバリューセイロン&ジャワティーバッグが50パック300円弱というのに比べるとコストパフォーマンスが悪い。ちなみに、この「セイロン&ジャワ」は安い割にはかなりしっかりした商品。色々試したが、コストパフォーマンスと許容範囲内の味・香りを兼ね備えているという点ではトップクラスです。

 あとは器だなあ…ここ数年はずっともらいもんのミントンのマグカップで飲んでて、いっぱい入るし頑丈だしモノはいいし文句はないのだが、若干優雅さに欠けるところがあり、もう少し優雅で感傷的で繊細な器で飲みたいなどと贅沢なことを思い始めたり。最近、リサイクルショップとかで良い物が結構出回るようになってきたので、前だったら手が出ないレベルのものが手を出せる価格で手に入るんだよなあ…正価で新品買う気にはならないが、リサイクルショップの価格とかだとかなり迷う、というのが結構あったりする。

 それにしても加齢というのは恐ろしいもので、最近真剣に部屋に花を飾る方法を検討し始めている自分がいる。とはいえ生の花は世話したり生けたり片付けたりするのがイヤだし、なんかいい手はないものかなあと。ブリザードフラワーとかどうかとか。室内なら観葉植物がいいと言われていて、レオンでジャン・レノが持ち歩いていたみたいのを買うかとか思ったりするが(調べたらちゃんと売ってた)殺し屋じゃないしなあ。

 まあ、そんな実にみみっちいぷちぶるじょあ的生活をして、微妙に景気に貢献しておる次第であります。

10/15

沈黙が金なのだ。
不在が神なのだ。
神とは人間の孤独さだ。
俺しかいなかったのだ。
―サルトル

○更新遅滞中

 吉本リューメー先生とかもそうですが、この時代の哲学者・思想家って言霊系な人が多いですな。大したこと言ってないんだけど言葉がやたらとカッコイイっていうタイプ。吉本先生も詩人とかしゃべくりやらせると凄くいいのに、いざ文章を書き出すとたちまちすいません同じ日本人なんですけどこれ日本語ですかみたいな世界に…まあ、それはともかく日曜締切の仕事がさっぱり進まないため更新遅滞中。11月を暇にすべく、なんとか頑張ります。

「外需から内需への転換」は正しいのか?

そもそも「内需主導」か「外需依存」かという二者択一の考え方が間違っていると思います。金融を緩和してデフレを脱却すれば内需も外需も伸びますし、このままデフレを放置すれば内需も外需も縮小します。

だから、外需から内需への転換という考え方ではなく、デフレ脱却で需要全体を伸ばすという考え方こそが、鳩山政権には必要ではないでしょうか?

 ただでさえ微妙だった外需が円高でさらに微妙になっておるわけでして…リフレ政策の効果がどれほどかはわかりませんが、とりあえず金融政策の影響力は甚大なんだよってことくらいは関係大臣の皆様わかってほしいものであります。

月例消費レポート 2009年10月号

2009年7月に前年同月比でプラスとなったのは、預貯金、ファーストフード売上、家具・インテリア売上の三つである。個別指標のうち、2008年7月から2009年7月までの13ヶ月間で改善が過半数を占めているのは、ファーストフード売上(13ヶ月中11ヶ月が改善)、家具・インテリア売上(13ヶ月中9ヶ月が改善)のふたつである。

13ヶ月間すべて悪化しているのは百貨店売上、有効求人倍率、月間所定外労働時間、衣料品売上、家電製品売上の五つである。新車販売台数と旅行業者取扱額は13ヶ月中12ヶ月が悪化、食料品売上、ファミリーレストラン売上は13ヶ月中11ヶ月が悪化、消費支出と新設住宅着工戸数は13ヶ月中9ヶ月が悪化、平均消費性向は13ヶ月中8ヶ月が悪化、預貯金は13ヶ月中7ヶ月が悪化となっている。

 今後の消費にとって、気がかりな材料は「冬季ボーナスの見通し」と「新政権による政策リスク」のふたつだそうです。既に「気がかり・リスク」扱いされる新政権って……

○アニメ「DARKER THAN BLACK」二期一話

 抽象的な批評で申し訳ないのだが、ボンズはシナリオ・演出におけるドラマ的盛り上がりや情感をもうちょっと重視したほうがいい。ウェットでベタなものを表現できないと、いつまで経っても「悪くないんだけどねえ…」レベルのもの、「一部ファン以外からは支持されない」レベルのものしか作れないと思うのですが。企画や設定製作などに絡ませずに信本敬子先生あたりが再登板、というのはどうでせうか。ウルフズレインはイマイチでしたがボンズ作品と相性が良く、コンスタントにベタでウェットな仕事をできていたのは信本先生をおいて他ないかなと。どうも、ここのスタジオの作品は悪い意味で「理に勝ちすぎる」ところがある。ベタだけどもっと丁寧に時間をかけて見せれば盛り上がるのにってところをサラッとやりすぎてしまう。それカッコいいと違う、単に愛想ないだけだから。

 このDTB二期第一話「表層のかっこよさ」は申し分ないんですが、土台となる人間達のドラマの見せ方が浅薄なのでせっかくの「かっこよさ」が上滑りしてしまうのです。ハードボイルドドラマには必ずといっていいほどベタでウェットな設定・ドラマが土台としてあるのです。主人公がそのベタな土台をまるで存在しないかのように「かっこよさ」で覆うからこそハードボイルドはカッコイイのです。ハードボイルドとはやせ我慢なのです。やせ我慢設定なんてのは基本的にベタな設定にしかなりえんのです。

○というわけで

 あとは「青い文学」シリーズとか見てないんですが、まあ結論としては「ささめきこと」とフロッグマンショー2期で終わりですかね。鷹の爪面白い。夏のあらし!もなんかもういいやって感じになってまして。ネットでは「そらのおとしもの」第二話が盛り上がっていますな。まあ元気にバカやってていい感じではありますが別段見る価値は感じない。

10/9

好きって、絶望 (桜庭一樹)

○アニメ「ささめきこと」第一話が今季新作の中で群を抜いて素晴らしい

 今年見たテレビアニメの第一話の中でもトップの水準、たいへんよい仕事。是非にご覧あれ。これと比肩し得る水準のものというと最近では「マリア様がみてる」4期11話くらいか。

 特別に凄いことをしているわけではない。作画が際立って水準が高いわけではない、尖った目を引く演出があるわけではない。しかし個々のキャラクターの関係性や心の揺らぎをひとつひとつ丁寧に、台詞に頼りすぎずに芝居・仕草・演出・細かなエピソード・小道具で見せ、映像表現の「常道」を着実に的確に積み上げていくと斯様に優雅で感傷的な30分間が現出するのである。アニメだろうが実写だろうが「芝居」をマジメに志向し、「映像で語る」気概があれば、このレベルのものは作れるのである。

 女の子がいる。主人公に恋の話を無邪気にしている。主人公は平然として普通に応じているが、視聴者は話を聞いている主人公が女の子を密かに好きなのだとすぐに分かる。別に特別な演出があるわけではない、劇的な台詞があるわけではない。視線、仕草、カメラアングルでそれとなく感じさせる。新しさを感じさせる演出では全くない。昔から、何度も繰り返されてきた手法である。しかしこの作品はそれを丁寧に、繰り返しやる。その細かで確実な作業の積み重ねが視聴者に確かな手ごたえを感じさせることを知っている。

 シンプルでありながら、エピソード・小道具の反復や、立場の重ね合わせなどを使って深みを出しているシナリオも素晴らしい。熟練したオッサンの見事な仕事。技術と思いが自然と重なり合っている。「オッサンの少女趣味・乙女心」が端正に整えられてシナリオとして結実している。

 このクオリティが毎週続けば「ささめきこと」は静かに地味に、しかし確実に2009年を代表する1本となるでしょう。本当に良いものを見せていただきました。逆に言うと、他の萌えアニメ製作者達はこの作品を見ていかに自分達が「ちゃんとやるべきことをやってないか」を学んでいただきたい。「アニメだから」「商売だから」「何やったって萌えオタどもは買うから」と自分に言い訳して志のない仕事をして、それでいいのかと(いや、まあいいんだけどね色々あるだろうから)

 あと哀しいのは、この作品に描かれている全てが「オッサンの夢の世界」でしかなく、現実のどこにも存在しないということだったりする。美とは虚、虚なればこそ美。

○電子ピアノが来た

 最近の電子ピアノの性能の高さ、出来の良さにびっくりですよ。鍵盤の重さもしっかりしてるし、ピアノの音色の幅も以前に比べればかなり広く、深くなっている。繊細なタッチに対する反応は確かに弱く、その点ちょっと「普通のピアノより、よりはっきりと叩かないといけない」感じはあるが、管理人のようなレベルの人間にはそれほど大きな問題ではない。全然オッケー。

 ジャンクキーボードと「表現の幅・深み」がまるで違うことに今更びっくり。なんというかこちらが思い切り弾けば思い切り答えてくれる感じというか、幾らでも付き合ってくれる感じ。好きなように感情を乗せられるというか。キーボードはこっちの話を「あーはいはい、だいたいこんな感じね」とぞんざいに聞くレベル、電子ピアノはこっちの話をきちっと受け止めてくれて、しかもそれを増幅してくれる感じ。まるで違う。

 ただし、その分キーボードよりもはるかにゴマカシが効かない。適当に叩くと適当な音しか出ないから、きちっと叩かないといけないし、手を抜いて音の数減らすと当然貧弱になるからかっこ悪い。技術も必要だし、こっちの感情やイマジネーション(というほど大したものじゃないんだが、力をどう加減するかみたいなもの)もちゃんとしてないとダメ。サボらないで楽譜どおりの音を弾かないと本当にカッコイイ音にならない。良い道具は、それだけ弾き手に多くを求めてくる。参ったなあ。でも嬉しい。

10/8

どれだけあっても満たされない
そいつがなんなのかもわからない
笑顔のそばから赤い舌を出して
人のことなんてどうだっていい

いいだろ いいだろ
俺達は夢の島で暮らしてる
いいだろ いいだろ
俺達が夢の島をまたでかくしてる

―SION「夢の島」

○アニメ「君に届け」第一話

  マンガ読んだ時同様にダメだこりゃ感を強くしまして。作品の質とは違う部分で。

 「フルーツバスケット」「彼氏彼女の事情」などの「トラウマ癒しモノ」でひとつの頂点を迎えた少女マンガに新たな息吹・方向性を吹き込んだのが「君に届け」であり、大変エポックメイキングな作品であることは事実です。クオリティも高い。本来ならその質の高さを褒め称えるべきなんでしょうが、管理人は御免です。この作品の「外見で差別される現実を現実として受け止め、自分自身が変わることによって環境を変えていけ」というメッセージの根底には「外見で差別される現実はたぶん変わらないよ」という暗く深い諦観がある。そして悲しいことにこの漫画の作者・登場人物・支持する読者の全てがその諦観を「なかったことにして」爽やかにすごしているのです。「ほのほのみ虚空に見てる阿鼻地獄」(実朝)

 出来は良いが継続試聴予定なし。

 同じ能登主演でも「乃木坂春香」第二シーズンのほうが、まだ「オタク差別」をそのまま描いている分可愛げがある。ヒロイン以外の作画があまりにぞんざいという投げやり感漂う第一話でこちらも継続試聴予定なし。

○楽観論の次は悲観論を

嵐の後に

失業率ひどいし、みんな借金持ちだし、経済も政府におんぶに抱っこで回ってるだけだからねと。ぱっと見「普通」に戻ったように見えるけど、その「普通」は恐慌前の「普通」とはレベルが違うぞわかってるな、というエコノミスト誌らしいペシミズムたっぷりなご託宣。政府はマジメに雇用対策と自由貿易推進をしっかりやれ、ということです。

○とはいえ、時代は「労働力余り」なのですよ。

適正労働分配率からみた雇用調整圧力

当社の経済予測をもとに、景気回復による労働分配率の低下度合いを試算すると、今後2年かけて1ポイント強の改善しか見込めず、5ポイント分が人件費の調整に委ねられる可能性がある。これは人件費約2割の削減に相当する。

(中略)

この際、過去の平均的な傾向では雇用と賃金の調整比率は1:1.9程度であるため、約2割の人件費削減が、雇用者数7.0%の削減と賃金13.4%の削減に按分される。これは雇用者数380万人の削減に相当する。さらに、02年以降の好況期に賃金はほとんど上昇せず、雇用者数を中心に人件費は増加したことなどから、雇用過剰感解消のための調整は過去に比べてより雇用者数に偏る可能性がある。

 「調整が必要」な場合、どんなに時間が掛かっても結局「調整されてしまう」のが世の常であります。「景気回復して経済規模自体が大きくなる」という成長モードが達成されない局面で、こういう「調整が必要」な状況が生じれば選択肢は二つしかありません。「一部の給料を維持し、他を切り下げる」「みんなの給料を切り下げて、下落率を低くする」か。我が国の選択は今のところ前者なのでありましょう。なんで後者を選ばないか?自分の収入を維持したいと思うのは人の常であり、「自分の給料を切り下げるために積極的に動く」奇特な人はめったにいないからです。至極当然でありますが、その至極当然の合理的行動が全体の利益になるかといえば微妙だよね、というのが合成の誤謬とかなんとかいうんじゃなかったでしょうかね。「部分最適化が全体最適化につながるとは限らない」というのは人生やってりゃよくわかる話です。世の中も一緒と。

日本経済はデフレ・スパイラルに陥るのか?

・2001年から2003年当時と比べると、今回のほうが雇用・所得の環境の悪化の度合いが大きく、その意味でデフレ・スパイラルに陥るリスクが当時よりも高いといえます

・企業の雇用過剰感は強く、今後もリストラの動きは続くと考えられ、雇用・所得環境が一段と悪化する可能性があります。こうした悪化を通じて個人消費の低迷が深刻化することになればデフレ・スパイラルに陥る可能性がさらに高まることでしょう。

 だそうです。ご用心ご用心。

○赤子笑うな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの。

20年後の医療、介護の在り方

約1年前、政府は、「社会保障国民会議最終報告」を出した。そこには、将来の社会保障のあるべき姿と財源問題を含む改革の方向性について、具体的なシナリオをもとに選択肢が示されている。最終報告書が推したシナリオは、次のようなものだった。「急性期医療を中心に人的・物的資源を集中投入し、できるだけ入院期間を減らして早期の家庭復帰・社会復帰を実現し、同時に在宅医療・在宅介護を大幅に充実させて、地域での包括的なケアシステムを構築することにより利用者・患者のQOL(生活の質)向上を目指す」。

このシナリオからは、医学的な治療が必要な患者は、短期間に集中的なケアが受けられるようにし、早期社会復帰を目指す。退院後、家庭生活や仕事に復帰できない場合には、在宅医療、在宅介護を受けて地域の中で暮らすという、将来の医療、介護の姿がうかがえる。

今後20年間に後期高齢者の割合が約2倍になることも加味すると、入院期間を短縮化して、早期退院を進めていくのであれば、介護に加えて医学的治療も受けられる“高齢者の療養の場”を拡充していくことが大きな宿題になるであろう。

 新しい建物をパカパカ建てるわけにもいかんので既存のインフラをいかに有効活用するかってことになっていかざるを得ないでしょうな。学校とか。そのうち小学校とか中学校が「3割くらいが子供達のスペース、7割くらいがお年寄りのスペース」みたいになってくんですかね。同じ小学校に通う小学生と年寄りのハブられっ子が共感、みたいな物語が列島の涙を誘うことになるのでありましょうか。ブラックジョークにもならんな。

10/7

離れる程、戻りたくなる
荷物まとめて、帰りたくなる
しこりが溶けて、柔らかくなる
変わらぬ物を、愛したくなる

―Shing02「殴雨」

○すばらしき土俗性

Nomak - Moon flow

 Nomak及びそのファンは怒るかもしれないが「外国の音楽を日本土俗的感性に編集しなおす」という彼のスタイルは(意図的なのか無意識裏なのかは知らないが)極めてアニソンに近いものがあるのです。この「Moon Flow」のなんとあざといこと。正直恥ずかしくなりますが敢えて言いましょう「だがそれがいい」と。

大和総研:一見大きい政府が日本を救う

 多額の税を要する北欧社会のリスクマネジメントは一見すると高コストだが、リスクマネジメントを政府に集中させているため、費用対効果は優れている(全体最適の北欧・部分最適の日本)のである。 (中略)

 アメリカでは、高コストや大量の無保険者の存在など、欠陥だらけの医療保険制度の改革が、「オバマはヒトラーだ」「アメリカをソ連にするな」と叫ぶ「政府の介入=社会主義」という観念に取りつかれた人々の反対にあって難航している。日本人から見れば滑稽ではあるが、将来不安に怯えながら「小さい政府」を志向する日本人も、合理主義者の北欧人から見れば五十歩百歩なのかもしれない。

 まあよくあるタイプの議論で分かることは分かるんですが。で、気になるのは純粋に数字上の試算をした時に日本の人口規模・世代別人口構成で「北欧型」って可能なのだろうかと。管理人はどーしても「あのスタイルを人口1億以上いる我が国でやろうとしたら世界中でガンガン収益を上げられる国際的大企業がいったい何個必要なんだろう」みたいな大雑把なことを考えてしまうのですが。件の記事では「各国の公的社会支出の対GDP比」ってのをデータに出してるんだけど、たとえば日本が支出のGDP比を北欧並に上げたとして、それで「全体最適」とやらは成し遂げられ得るんですかね。飯田先生の本とかよんでると今よりはマシになりそうな感じはあるので、やったほうがいいのかもしらんが貧乏性ゆえ一抹の不安を感じなくもない。

○よし、俺も少しは景気刺激のために無駄な消費を

 と思ったわけでもないが電子ピアノを買った。PRIVIAのpx-120。ヤフオク+アマゾンで本体&スタンドをほぼ最安値で買ったつもりなのだが、それでも高い。なにせ今まで使っていたのがハードオフで2000円で売っていたジャンクのキーボードなので価格差がありすぎる。正直、別に2000円の安キーボードでそれ程大きな不満はなかったのだが、「鍵盤数が少ない(特に高音域を鳴らせないのは個人的趣味として気持ちよくない)」「ピアノのタッチとあまりにも違いすぎてたまに本物を弾くとすぐに指が疲れてイヤになる、俺老化しすぎ」「机の上に置く→電源を入れるという工程を踏まないと弾けないのが面倒臭くて気軽に弾けない(どんだけものぐさなんだ)」「ペダルがないのはヘタクソにとって辛い(ごまかせないじゃないか!)」「遊びに行った人ん家にピアノがあるとなんかうらやましくて精神衛生上よくない」などなど細かな不満がありまして、夏場意味もなく働きまくったご褒美とばかりにいっちょ買ってしまうことに。

 購入のもうひとつの理由はようつべの「弾いてみた」シリーズの充実ぶりが凄いというのもある。今までいいなと思ってもいちいち自分で聞いて音を適当にとらないといけない、しかもアレンジ力ないので細かい部分大雑把なものにしか弾けなかった好きな曲の弾き方がかなり安価に学べる環境になりまして。まあ技術が追いつかないので、なかなか難しいのですが、それにしても以前に比べれば随分と手間が省けるようになってる。

 さて、これで十分国内景気には貢献したので(嘘つけ)そろそろ財布の紐を引き締めないといかんですな。

○アマゾンがキンドルを日本でも売るらしい

 でも読めるのは英語なんだとさ。ああ、日本語と同じスピード・理解力で英語読めるようになりたいなあ。キンドルは「読み上げ機能」とかついてるのか?もう最近読むよりも高速で読み上げてくれるのを聞いてるほうがラクになってきて^;さっさと攻殻やマトリックスみたいに端子から直接脳に情報送り込める世界にならんものか。

10/6

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く、
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

― 田村隆一

○バートンのアリス

新作映画『不思議の国のアリス』、トレーラーと画像

 バートン先生の尽き果てぬイマジネーション力とオタクスピリッツを管理人は深く尊敬するところであります。そのバートン監督がなぜにあのような頑健で殺しても死ななさそうな子をアリス役としておられるのでありましょうや。まあ、アメリカという国のお国柄から見当はつきますが。

 この作品で注目すべてきは3D映画作品だということでして、バートンの悪夢的世界を3Dで体験できるというのは、楽しみというか不安というか…アメリカの子供達も泣き出すんじゃないでしょうか。

○その頃我らがギリアム御大は

 バートンよりも年季の入った暴走妄想オタク老人、我らがテリー・ギリアム先生も「ロスト・イン・ラマンチャ」で自分の不幸体質をネタにして厄を落として以来好調なようであります。

DR.パルナサスの鏡

 2010年1月公開。相変わらずどうかしている映像のオンパレードであります。しかも出演していたヒース・レジャー途中でお亡くなりに…おそるべしギリアム監督の不幸体質。

 しかし、そんな不運不幸がデフォルトな監督がこれだけは譲れねぇ!これだけは映画にしねえと死にきれねぇ!と思い続けていたラ・マンチャがついにマトモな映画になるらしいです。

ドン・キホーテを殺した男

 今度こそちゃんと完成すると良いですなあ。楽しみです。

○れとろふゅーちゃー

 たまたま車で通りかかっただけなのだが、古い田舎の町工場の中で、産業用ロボット(でっかいアームだけのやつ)が火花を散らして金属加工していた。工場の中には人はなく、ロボットだけが動いている。

 ああ、俺は21世紀に住んでるんだなあってちょっと思った。良いものを見た。

10/5

雨はふるふる、城ヶ島の磯に
利休鼠の雨がふる
雨は真珠か、夜明けの霧か、
それともわたしの忍び泣き。

―白秋
○やみませんな

 今週はずっとこんな天気らしいですが。にしても白秋は言葉のセレクションセンスが圧倒的。雨を涙に見立てる趣向自体は別段珍しくもないわけだが、「利休鼠の雨がふる」だとか「真珠、夜明けの露、忍び泣き」だとかにすることによって一気に作品を独特の「白秋ワールド」に染め上げてしまう。天才だなあ。

 てなわけで「食わず嫌いせずに第一話を色々見てみる」シリーズ。

・アニメ「夏のあらし〜春夏冬虫」第一話

 大沼心のオープニングアニメは趣向は面白く現代的だが動きに乏しく単調な点に難有。もう少し基本になる映像の合間合間に色々な絵を差し挟んでいっても良かったのではないかなどと思ったが、それだとせっかくの「監視カメラ的固定アングル映像」の興趣が削がれると判断したのか、はたまたそんな余裕はなかったのか。アイディアは分かるがワンアイディアしかなかったという印象。もうひと押し欲しいというのは贅沢か。

 本編は第一話からいきなり海水浴話でオタク作品らしさを存分に発揮しておりました。「化物語」や「ぱにぽに」と違い、この作品のキャラクター達は結構爽やかさんなのでしゃべくりのシーンがイマイチ面白くならないのが残念。見目麗しく、テンポ良く、十分鑑賞にたえる好作品ではあるのだが、シャフトにしてはいまいちノレないというのが正直な所。管理人はどうも「スクールランブル」も「面白いけどいまいちノレない」感じだったので、どうも小林尽原作作品とは相性がよろしくないのかもしれぬ。

 シャフト作品見てないと心持さびしいのとオープニングアニメの改訂に期待して継続試聴予定。

・アニメ「そらのおとしもの」第一話

 空から女の子が降ってきて同居、という日本アニメの伝統芸能を大変忠実に遂行している第一話。キャラが合間合間でちびキャラ化したり、ところどころでヌルめのギャグが差し挟まれたりするところに侘び寂びを感じつつ、おそらくは第一話限定であろう美麗な女子作画を堪能するのが正しい視聴方法でありましょうか。継続試聴予定なし。

・アニメ「戦う司書」第一話

 初っ端から人間爆弾というエグいネタが登場するのだが、いまいち人間爆弾を使う合理性が良くわからないまま人間達が爆発していく。そのため単純に気ぃ悪いだけで緊迫感も痛みもリアリティも感じない。ヘルシングほどキチガイにもなれず、かといって普通の魔法バトル物ほど穏当にもなれない、たいへん微妙な雰囲気の漂う作品という印象。

 主人公のお姉さんのアクの強そうなキャラクターとちょっとしたアクションシーンのキレやCGの使い方などに製作者のやる気を感じはするのですが、そこから何か凄いものが生まれる予感はない。継続試聴予定なし。

アニメ「BLACK★ROCK SHOOTER -PILOT Edition-」

 映像的にも近年特に好まれて使われている要素やギミックがてんこもりであり、しかも映像クオリティが高いので「現代オタク作品」の見本市として鑑賞できます。異世界パートの美麗なのに意外にハードな雰囲気はなかなか良いです。初音ミクの歌は別にどちらでもよい感じですが。

長距離シュート

 楽しそうですなあ。

 

10/4

酒がやたらあまくなった
学問にも商売にも品がなくなってきた
昔は資本が労働者の首をしめたが
今はめいめいが自分の首をしめている

おのれだけが正しいと思っている若者が多い
学生に色目をつかう芸者のような教授が多い
美しいイメジを作っているだけの詩人でも
二流の批評家がせっせとほめてくれる

―中桐雅夫「やせた心」

 昭和54年の詩でございます。昔も今も年寄りの思うことは同じか。

○新アニメ色々

 たまには食わず嫌いせずにアレコレ見てみるかなとか思ったのですが…

・「生徒会の一存」第1話

 「コテコテの美少女キャラデザイン」と「メタ/ネタ/ベタのクロスオーバー世界観」が強烈な違和感を醸し出しており、昔日の「地方局美少女深夜アニメ」の香りを濃厚に醸し出してくれます。「流行りモノの要素を全部入れてみました」というスピリッツは買えますが…料理は材料の調合と配分に気をつけてください、という作品でしょうか。脚本の花田センセイが悪い意味であかほりさとる的になっている感じに物悲しさが漂うアニメとでもいいましょうか。継続試聴予定なし。

・「とある魔術の超電磁砲」第1話

 JCの気を入れた良い仕事を鑑賞できるアニメ。「学園美少女格闘+勧善懲悪(警察)+科学の魔術化」といった感じでしょうか。流行モノをぶち込んで入るものの上述の「生徒会の一存」と違い調合と配分のバランスが穏当。良くも悪くもバランスの取れた安牌感漂う作品であります。画面のクオリティは高いし、第一話らしく良く動くし、シナリオも安定感あるし、実にソツのないお仕事。継続試聴予定なし。

 化物語の続き配信とマリみての新刊まだかなぁ…

9/30

悪い時は過ぎたよ今からもっとよくなってくんだ
悪い時は過ぎたよ今からもっとよくなってくんだ
悪い時は過ぎたよ今からもっとよくなってくんだ
ふわふわ舞いおちるぼたん雪東京の空
冬の青空を期待しすぎて鳴くカラス
ぼけっとしているあいまに時間はたくさん過ぎてった
得るも失うもひとつになってどっか飛んでいった

―YO-KING「OVER」

○だといいんですが

米4〜6月期GDP0・7%減 上方修正

 結局、我が国は「外需頼みのヌルい景気回復」というシナリオが一番現実的であり、たぶんそれしかできなさそうな感じですので、さっさと世界経済にカムバックしていただくしかありません。助けて世界。

○仕事くれるのはありがたいのだが

 どうも最近キャパシティギリギリのところでやらされることが多い。いやまあ、やった分だけカネくれる相手だから別にイヤってわけでもないんですが、ほいほい安請け合いばっかりし続けてきて愛想売った成果が出すぎてしまった感がある。

○というわけで、しばし更新遅滞気味になります

 化物語が終わるわマリみてのWEBラジオも終わるわ踏んだり蹴ったりですよ。個人的にも色々と詰み気味でして、また1からやらないといけない感じです。10月末〜11月頃を目安に色々と改めたいと思っておりますがさてはて。

9/26

悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ

マハトマ・ガンジー

○アニメ「化物語」第十二話

 戦場ヶ原さんの破壊力は他のヒロインの追随を許さんですなあ。

 それはともかくとして、2008年のテレビアニメ諸作品で繰り返し語られたテーマである「痛みの受容」をなにげにきちんとメインテーマにした最終回でもありました。もちろん原作小説はもっと前に書かれているわけですが、この時期にこの原作、このテーマがアニメの作り手によって選択されたことには、まあまあそれなりに必然と言うか意義があるのかなと勝手に感じるところであります。

 「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄の如し」と言ってしまえばそれまでのことで、別に新味があるわけではないですが。それでも戦場ヶ原さんのセリフ(私が不幸だったことでアララギ君の気を引けた)を聞くと、ロートルオタクとなった管理人などは、これまでのアニメ作品で様々な角度から語られてきた「痛み」「不幸」との向き合い方が思い出され、なかなか味わい深くしんみりとするのであります。まあ、あれですよ中年がクドクドなやんでることを、横で若い人がサラッと軽やかに乗り越えていくのを見た感じといいますかね。頼もしくていいです。

 エンディングの歌詞と重なる趣向を含め、近来稀に見る素晴らしい最終回でありました。大変良いものを見せていただきました。ありがとうございます。原作者および製作者に惜しみない拍手を。

 もっとも最終回はテレビ版だけ。続きがちゃんとあるらしいのでお楽しみはまだまだ続きます。めでたい。

○てなわけで本日は

 テレビ最終回記念落書きまつり。テキトーだなあ

 いいかげんマジメに体描く練習しないといけない。

9/19

俺の存在を頭から輝かさせてくれ
俺の存在を頭から輝かさせてくれ
お前等の貧しさに
お前等の貧しさに
お前等の貧しさに乾杯!
飯食わせろ
飯食わせろ
飯食わせろ(働け!)

― The Stalin「ワルシャワの幻想」

○飯田泰之・雨宮処凛「脱貧困の経済学」

 飯田先生のミもフタもない単純明快な主張「金持ちからもっと税金とって貧乏人に配りゃいいんだよ(消費税じゃなくて所得税・相続税だろ常識的に考えて)」が素晴らしい1冊。無論、その前提として「日本はここんとこずっとひたすらその逆をやってきたんだ」ってのがあるんですけどね。もちろん、それだけではなくて雇用や経済政策に関するお馴染みの主張が大変わかりやすく語られます。主張内容は飯田先生の著作を読んだことある人ならある程度知ったものが多いんですが、対談形式でとてもわかりやすいのが良い。雨宮氏があまり自分の主義主張をがなるのではなく、極めて素直に飯田氏のお説拝聴役をこなしたおかげで良書になっております。学生さんなんかはこれ一冊読んでおくと、色々と便利かと。誰かがヨノナカについて語るとき、そのベースに「経済学的視点」があるかないかってのは結構重要なので。無論「経済学的視点がない意見はダメな意見」ってわけではない。しかし「経済学的視点がない意見」を「ない意見」として評価しないとエライ目にあうのでね。ブンガク的に美しくても、感情的に納得できても、過去の歴史及びロジックで「それ意味ないんで」と判定が下っているものってのはあるので。

 にしても経済学って色々な問題で「「世間の常識」感覚」とズレるなあと改めて思わされる内容。正しいんだけど感情的・感覚的に認めづらい、というハードルがどうしてもある。清算主義だとか構造改革だとか自己責任論だとかってロジカルに正しいってものではなくて、かなり「感情的・感覚的に正しいと感じてしまう」が故に支持されてるものなんだよなあ。そこらへんの人間の感情とか感覚とかでヨノナカ動いてしまってるのが日本の難しいところ。ロジカルに正しいし現実でも実証されて決着ついてる問題ってのは結構あるんだから、そこはプロの言うこと聞いてよ…という飯田先生の愚痴が聞こえてきそうな一冊でありますが、まあ年よりは幾ら言ってもわからんので、各所で「感情・感覚」で物を言う御仁が主に加齢・老衰によって影響力が低下していくのを待つしかないというのが管理人の結論でございます。

○働いてるので

 多忙につき適当に目に付いたものを。

先行指数が示唆する「二番底」説の真偽

 回復基調はきちんとデータからもわかります、2010年も基本回復しますだそうですよ。ほんまかいな。麻生内閣の景気対策連発がそれなりに功を奏したということになるわけですか。

 世界的にも新興国を中心にして回復基調が見えているという話ですし、アメリカもやたらといい経済指標連発してますしね。「そんなうまい話があるものだろうか」とか思ったりしなくもありませんが、「うまくいかないよりはうまくいってくれたほうがいい」のも事実ですので、是非この調子でみんなで多少の誤魔化しには目をつぶってでもむりくり成長モードに入っていってしまってほしいものですが。そして願わくば日本も節操なくその時流に乗らんことを。たぶんそこまで成長モードにはならないだろうけど。てか失業率無視してこのあたりのことを語られましてもね。

 飯田先生の上述の本では「今年の冬あたりが失業率的にはいちばん厳しくなって、来年から回復基調」ってことらしいですが。うーむ、ということは値上がりしそうなモノは今年の末までに買っておいたほうがいいということなのかなあ。あんまり(というか全然)ないんだけど。最近は貧乏っていうよりもむしろ「自然とカネを使わない」生活になってるんで。なんかね、もうちょっと贅沢とかブルジョワっぽいことしてみりゃいいのかもしれんけど、貧乏性が板につくと「無理してそんなことしてもなんか居心地悪いし」みたいな感じになりまして…もうちょっと貴族的にならなきゃいかんですな。奢侈こそもっとも有益な経済行動なわけですし。でもなあ、タダで見られる「化物語」がいちばん面白いしなあ現実問題…

○てなわけで歌いませう

ワルシャワの幻想

 個人的にThe Stalinの曲の中ではこれが一番でして。どうも他のは意外と肌に合わなかったりする。

 

9/15

心がうらぶれたときは 音楽を聞くな。
空気と水と石ころぐらいしかない所へ
そっと沈黙を食べに行け!

―清岡卓行

○やなこった

 沈黙なんか食って脳内自己完結ばっかりしているから清岡先生の評論は言語明瞭意味不明瞭になるのではないだろうか。詩はカッコいいのが多くていいんだけどなあ。

BOA - Duvet [acoustic]

 今や懐かし名作アニメとなってしまった「lain」のOPのアコースティックバージョン、イギリス人のお姉さんのさびしい原曲が更にしみじみさびしくなって侘び寂びの境地に達しております。素晴らしい。

「空耳ケーキ」よつばと!バージョン

 お手製でここまで作っちゃうんだから大したものですなあ。そして「空耳ケーキ」の懐かしいこと懐かしいこと。あずまんが大王のアニメっていつ頃やってたんだっけ。

○健全化だと思うのですが

CD文化からコンサート文化へ Jポップは「聴く」よりも「観る」時代

 ミュージシャンと言うのは本来コンサートやってなんぼではないかと思います。レコードを何百万も売る、みたいなミュージシャンのあり方のほうが歴史的に見て異常であり、管理人は今の流れのほうがずっと健全な気がするんですけどね。「ライブパフォーマンスはダメだけと音を作りこんで聞かせるのに長けた才能」というのはいるにはいるから、そういう人にとっては辛い部分はあるだろうけれど。

○別に不思議ではないでしょう

不況のときに育つと努力より運を信じるようになる

 雇用にしても仕事にしても「努力して報われる事例」が多くなるのは景気が良くて「需要が多い時」に決まってるわけで。景気が悪くて需要が減れば、当然「努力して報われる事例」も減るでしょう。

 問題は「仕事」とか「雇用」以外の部分で「努力して報われる事例」がないのかよ、満足できる部分はないのかよって話なんですけどね。まあ、それは人それぞれなのでこの手の研究とは別の話。

 

9/13

○「化物語」第十話のオープニングは本当に素晴らしいですよオープニングは

なでこスネイクOP「恋愛サーキュレーション」

 大沼心のオープニングの素晴らしさに免じて本編のアレコレについては皆さん不問に処してくださいということではないでしょうか。実際素晴らしいので管理人は不問に処してDVD化された時の真の第十話を楽しみにするといたします。

 「シャフトはギリギリ綱渡りで作ってるらしい」という噂がネットでまことしやかに流れていたのですが、どうやら本当みたいですなあ。今回の手抜きもとい省力演出で一息つけていると良いのですが。

 らきすたの「もってけ!セーラー服」もそうですが、女の子だといい加減な日本語ラップも全然許せてしまうというこの不条理。男は辛いね。

 オープニングの撫子さんを見ていてふと「ああ、これは現実の「女の子」を模しているわけでもなくデフォルメしているわけでもなく、世界にいる「女の子」とと呼ばれる生物とは全く無関係な別種のエイリアンみたいな存在なのだなあ、そうかオタクはエイリアンをかわいいと思ってるのかそりゃ現実から嫌われるわ」となんとなく思ったりした午後。

○ワンセグチューナーを買ったが

 保存形式がまるで良く知らん形式なので、録画したものを他のソフトで再生できない。ほんとに「テレビを見られるだけ」か。基本好きなアニメと映画以外のあらゆる番組は3倍速でしか見る価値ないと思ってる人間なので3倍速で見られないテレビ番組録画してもなあ。ドキュメンタリーなんて普通モードで見てたら寝てしまいますよ最近のはウスくて。

9/9

秋かぜのうごかしてゆく案山子哉(蕪村)

○蕪村は良いなあ

 図書館で芭蕉、蕪村とかの句集を借りてきてザーッと流し読んでる。芭蕉はたしかにいいんだが、読んでいてしっくり来るというか染み入るように読めるのは蕪村。芭蕉はやっぱり孤高というか天才肌なところがあってちょっと距離を感じてしまう。蕪村はそれに比べると人間臭さが残っている。何より蕪村の句は優しい。寂しさを知った人間の優しさ温かさみたいなものが蕪村の句からは濃厚に漂ってきてホロッとさせられる。

 ああ、でも芭蕉も「一家に遊女も寝たり萩と月」とか読むと人への優しさを感じますが。ただ、この句にしたって「うますぎる」というか「しっかり計算して作られすぎている」感じがあって、蕪村ほどホロッと来ないところがある。天才すぎるんだよな。

○黄薔薇の中の人が

「ケロロ軍曹」ヒロインにストーカー

 ストーカー被害だそうでご愁傷様です。どうでもいいことだが池澤夏樹はフランスでケロロとかマリみてを見てるんですかね。

○街の中で追っかけっこ

シュガークッキー

 町の中で鬼ごっこするみたいな映画って個人的に好きなのです。ベッソンの「ヤマカシ」とかシナリオも見せ方もダメダメでしたがアイディアとしては素晴らしい映画でありました。このショートフィルムはスケボーVS人ということでちょっと不公平感はあるんですが、追いかけっこしてる感じとかが好きですな。ゆるゆるな感じもよろしいですし。

○時間ないので

今日の練習

 今や「旧」がつく紅薔薇様であります。公式サイトのトップ絵を適当に写す。もうちょっと下のほうまで描こうと思ったのだが腕と手が難しいので逃避。体、腕、足などは「この角度ではどう見えるか」というイメージが頭になかなか入らない。そりゃそうだよな覚えなきゃいけない情報量が半端じゃないし。

9/7

○未だ部屋改装中

 結局、家具やらカーテンやらを替えることにした。カネも時間も飛んでいくこと飛んでいくこと。こんなにまでして部屋を小綺麗にする価値があるのか本当に。新マシンとかのほうがよっぽど有意義な気がするんだが…コストパフォーマンス的に結局イケアとニトリの安物で落ち着いたが、どちらも「自分で作る・設置する」ものなため、とにかく時間がかかることこの上ない。電動ねじ巻き機がこんなに役に立つものなのかということに感心しつつ、ちんたらと家具を作ったり、カーテンレールをつけたり外したり…といったことをやっておる最中であります。

 というわけで省力運転モードに入っております。部屋の改装が終わったら、そろそろこのページの改装もしないといけないなあとか思っているのですが。

 あと、なにげに自分のインテリアの趣味が職場のそれと近くなっていることに愕然とする。シンプルでクセがない、とか考えると知らぬ間に…うーむ、まあもう仕方ないんだけど。

○化物語「第九話」

 面白く見られたものの、クオリティ的にはだいぶ低空飛行気味だったのではないか。珍しく。

9/2

真実は時々退屈で 嘘は光輝いている

○麻生総理退陣

 麻生氏は派手な印象・キャラクター性をアピールしてはいたものの、その実質は「自分の稼動範囲を弁えて打てる最善手を打つ」「現実的な範囲で自分の理念を実現させていく」、いたってノーマルなタイプの政治家だったのではないか。政策的にも大きなブレはなく、自分のなすべきと思う方針を現実的な範囲で淡々と遂行するタイプという印象である。前任者の福田氏ほどではないが、麻生氏も「自民党」的な「地味な総理」の系譜にある人として見たほうがわかりやすいように思う。

 国会運営・党運営を「解散」をカードにして綱渡り的に進めるという戦略はノーマルではないだろう、かなり異端ではないのかという意見もあろうが、ねじれ国会・小派閥出身という手かせ足かせがかかった難易度の高いゲームをプレイする麻生氏の立場からすると「それくらいしか手がなかった」というのがホンネであり、「自分の稼動範囲ギリギリ」で必死にやっていたということなのではないだろうか。実際、福田氏から麻生氏に代わって国会は(良いか悪いかはともかく)かなり「機能」するようになった。名より実質を取った判断の功罪はあるが、麻生氏の中での「合理性」「戦略性」は外野から見ていてもある程度理解できるものだった。

 メディアとの関係の悪さも際立っていた。外野から見ていて理解できなかったのは「本人・閣僚のパーソナリティ故にメディアとあれほど険悪な関係になってしまった」のか「メディア側に一定の総意(政権交代)があり、険悪な関係になるのは規定路線だった」のかという点。後者が基本で、それに前者が輪をかけたといったところか。

○新政権

 管理人が働いている業界は元々不況に強いのだが、新政権の政策が実現すると「さらに地味に儲かりだす」ことになるだろうなと踏んでいる。ただ、個人レベルでいうと管理人のようなタイプの人間は「負担増」が待っているようである。結局「忙しくなるだけで収入は税金で持っていかれて大して増えない」という事態が起こりそうなので、来年以降は「無理して稼がない」方向に少し働き方をシフトしていく必要があるかもなと検討中。

○部屋の改装などしているのだが

 とりあえず物を捨てまくったのでだいぶすっきりした。本棚とかもかなりスカスカになって、さあまた一杯買い込めるスペースを確保したぞ!みたいな。

 家具をきちんと買ったものかどうかで悩み中。メリットは「今より少しだけ使い勝手がよくなる」「部屋がカッコよくなる」以外は特にない。デメリットは「今持っている物を捨てるのが面倒」「金がかかる」「設置に時間と手間がかかる」など。どう考えてもデメリットのほうが多く、正直気乗りしない。大体、部屋をカッコよくしたところでそんなもの三日で慣れてオシマイではないのか。そのために何万とかけると何か変わるのだろうか…まあ写真で見る人のカッコいい部屋を見ると少しうらやましかったりはするのだが、自分の部屋をカネかけてかっこよくしたいかとホンネで己に問うと「うーん機能的に満足できるものであれば別に」という答えが己の中から実に素直に返ってきて困る。やっぱいいかなあ、買わなくて。

○映画館にいきたしと思えど

 映画館はあまりに遠し、というのが今までだったんですが。

 ところが近所にシネコンがバシバシ建ったおかげで幾らでもふらりと映画館にいけるようになったわけです。そうすると、以前にはそれほどなかった「なんでもいいから大画面・大音響でなんか見たい!」という新たな欲求が生じるようになってですね。いいことだなあと思うんですが。ところがシネコンのスケジュール見ると呆れるほど見たいと思うものがないという……500円で名画座とかやってくれないだろうか。

  8/30

君の 孤独
わかってるよな
すごい 話しに
出会っても
すぐに 神と思っちゃダメさ
「マニュアルではめてるだけかもよ
でもそれでも好きね? 合言葉を言って」

大槻ケンヂ「林檎もぎれビーム」

○今頃「林檎もぎれビーム」の名曲ぶりに驚く

林檎もぎれビーム

 ちゃんと歌詞聴かずに映像ばっかり見てたもので。きちんと歌詞見ながら聞くと、過去のオーケン先生の作品の中でもひときわ歌詞・楽曲とも完成度が高い、見事な出来ではないですか。絶望・暗黒・ドグラマグラをさんざんっぱら商売にしてきた(そしてそれを「商売だ」と思いきり自覚している)オーケン先生だからこそ書けるリアリズム&ソウル溢れる歌詞とサビの哀切さが見事であります。信じるなと叫んだその直後に信じてみろと叫ぶこの矛盾。だがしかし矛盾した二極の往還の中に一瞬だけ煌くのが真実なのであります。真実とは瞬間のものであり、固定した瞬間に嘘になるのです。だから真実を表現しようと思ったら「矛盾した現場」を凝固して見せるしかないのですよ。

 それにしても斯様な名曲を今までボーっと見ていたとは大変申し訳ないことです。おみそれしました。今季はOPは「林檎もぎれビーム」、EDは「君の知らない物語」で決まりということで。

○アニメ「化物語」第8話

 肉体破壊好きは新房氏の趣味か尾石氏の趣味かそれとも他の誰かか…みんなかね。コゼットの肖像とかも酷かったから新房監督自体にそういうケはありましょうし。趣味の悪さはともかくとして近来稀に見る好アクションシーン。特に冒頭のダッシュから一連の格闘を経て回し蹴りが決まるあたりまでのスピード感臨場感迫力はお見事。「アニメだからできる」表現ですな。ジョン・ウーも嫉妬するであろう高速迫力格闘シーンです。

 今のところ新房作品の中でも出色のクオリティと完成度のシリーズになってますなこの「化物語」は。毎回毎回の出来のよさスキのなさ構築度の高さは同系譜にあたる「月詠」「ぱにぽに」を軽く上回る。ここ数年で見てもこれほど毎回のクオリティが高い、質が落ちない作品はなかったのではないでしょうか。今後数年のマスターピースとなり得る作品ですが、あまりに個性的で他の追随を許さない孤高の作品になってしまう可能性のほうが高そうなのが残念。できれば他の製作者も「情報量をどれくらい、どのように投入するか」という点でこの作品を見習ってくれるといいんですけどね。ほんとに最近スカスカすぎるので他のアニメ。まあアニメに限らずテレビドラマとかもそうですが。視聴者の脳をちったぁ信頼してもらいたいものです。

○SION先生インディースなってから生産量多いなあ

Naked Track 2

 すいません1もまだ買ってない…てか、鏡雨もまだだよ。今まではレンタルで済ませてたまーにアルバム買うくらいだったんですが、SION先生に関しては今後は活動協力費だと思ってマジメにCD買うか。てか「マイナスを脱ぎ捨てる」ってインディースになってからの一発目だったのね…漢だ、漢すぎるよSION先生。

○Shing02先生も元気そうです

久々に日本語ラップで聞いてて嬉しくなるような曲が登場しております。

こちら

 ようつべのほうで、「湾曲」「殴雨」のミュージッククリップが公開されておりますので、こちらもついでに。

湾曲

殴雨

 やはり「歪曲」の中ではこの二曲ですな文句なしで。この二曲と冒頭のオープニング曲を聞くと、Shing02は「昭和の記憶」を濃厚に残してるんだろうなあということがよく分かると思います。アメリカ育ちのはずなんだけどなあ^;

Myspace Eccy

 名曲「Ultimate High」で組んだEccyとまた新曲を出しておられますが……うーん悪くないのですがちょいと中身に凝りすぎで総合的なバランスが崩れてる感じが。聞きやすさという点だけで言えば「Nichibotsu Suspended feat.Alpachikabuto」「Nu Asian feat.haiiro de rossi」とかのほうがずっといいんですが、これはこれで声や歌詞に主張とかアクがなさすぎゴツゴツしなさすぎで一回聞くともういいよ的なところがあってですね…洗練と野暮を静止することなく往還する「揺らぎ」「不安定さ」がないとラップにせよなんにせよダメな気がするのです。上述したオーケン先生もそうじゃないですか。しっかり醒めていて、でも醒め切れない。そこに人間の本質が出るわけで。醒めちゃった奴なんか別につまんねえからどっか行ってろって話しなんですよ。だからといってテメエの都合のいい現実しか見ないで景気のいいことをポジティブだとか言ってる野郎もただの現実逃避にしか見えないしリアルじゃない。バカだけどバカじゃない、賢いけど賢くない。そういう奴の声が聞きたいわけですこっちとしては。

 それはそれとしてEccyはどんな作品においても大変切なくて上品で良い音を作りますね。

  

8/28

蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉

○よくできている

Monkey Majik - Lupin The Third ~ルパン三世のテーマ~

 ルパン三世を蘇らせるには「宮崎駿的なもの」からルパン三世を「奪還」せねばならぬのです。「ピカレスク・ロマン」としてのルパン三世を取り戻さねばならぬのです。毎度毎度インディー・ジョーンズみたいなことをやっていてはいかんのです。あのスタイルがいかに「ルパン三世」という作品から自由を奪っているか、製作者は気付くべきなのです。

 だからといってモンキー・パンチに回帰すればいいというものでもないし、緑ジャケ時代のアナーキーさに戻ればいいというものでもないです。それらは結局「あの時代の「悪党」」の表現であり、「現代の「悪党」」の表現ではない。ルパン三世を「現代の悪党」に蘇らせることなくして、その再生はありえないのです。クリカンがいいとか悪いとか、そういう問題ではないのです。

 その点、このビデオクリップは各所で旧作へのオマージュを炸裂させている点は余計なものの、「現代ルパン」の可能性・方向性を少しだけ感じさせる雰囲気になっておるなあと感心。力が抜けていながらギラギラしており、ユーモラスでありながら暴力的、安っぽく見えて上質。楽曲のアレンジも同様で、大野雄二とは別ベクトルの「カッコよさ」をきちんと表現できているように思えます。難をあげるとすれば峰不二子のキャラデザインはどうかと思うということでしょうか。

 個人的には「ブラック・ラグーン」的な世界観の中でルパン三世達が洒脱にしかし情け容赦なく活躍するような雰囲気がいいんじゃないかとか思うのですが。そうでなければワタナベシンイチではないほうのナベシンを三顧の礼をもって迎えるか。

○うまくいかんですなあ

 20日描いた黄薔薇様があまりにあまりだったので、今回はリアル寄りに自分なりにアレンジしてみる。 こちら

 うーむ、やはり違うなあ。マリみてお絵かきサイトへの道は遠い。

 

8/26

こころが
ちりぢりにちらばり
世界の騒音のなかに
まぎれこんでいったら
そうしたら
どんなにせいせいすることか

―黒田三郎「誕生日」

○よしながふみ「大奥」4巻

 有功・家光編が終わってしまった…家光が随分とあっさり亡くなってしまったなあという印象。3巻のラストでパリッと決めたから、もういいのかという感じでしょうか。それにしても、まあ業の深いお二人でありましたよ。

 敢えて難癖をつけるとしたら(なんでだよ)よしながふみはシチュエーションの業の深さに比して描写があっさりしすぎな感があります。江戸的なドライさを感じさせていいっちゃいいんですが、やや盛り上がりに欠けるところがある。

 有功の「地が出ると京言葉になる」設定は漫画という「台詞を文字で読ませる」表現だからこそ効果的に働くんだなあと感心。たぶん映像化して音声になってしまうとダメなんじゃないか。

 あと短いですが四代家綱の物語がなにげに味わい深いですな。家光と違い、いかにも「普通の子」という感じの家綱の有功への恋心が却ってもののあはれを感じさせるといいますか。有功への告白の言葉の「凡庸な感じ」が実にもののあはれ感を出しているのであります。

 それに比べて綱吉はもうなんというか登場当初から歪みがきつくてかなりついていけんものがあります^;牧野家ぶっ壊すところとか、天然で悪いことしまくりでもうなんだか……まあでもせっかく綱吉をとりあげたんだから、ぜひとも「忠臣蔵」を「男女逆転」でやってもらいたいですな。有功編(特に2〜3巻)を上回るにはそれくらいしか手がないような気がするし。日本の「国民的物語」である忠臣蔵の「書き換え」ってのは野心的な企画だと思うのですよ。

○浦沢直樹「PLUTO」最終巻

 綺麗にまとまって、過不足なく収束した感じ。いいんだか悪いんだかは微妙。管理人的には破綻してももっと盛り上げるべきと思うが、まあそれもねえ。

○和月伸宏「流浪に剣心」最終巻まで

 最終回まで綺麗にまとめたとは思うのですが、縁VS剣心はイマイチ盛り上がらないところがありました。結局「縁が志々雄よりも弱そう」というのがどうにも。志々雄編は剣心を含めキャラが「成長」してる面白さがあったしねえ。志々雄編で「巴との因縁」も含めて全てが収束していくような形に持っていければベストだったのですが…連載は難しいですな。

○アニメ「化物語」第七話

 いやはや、この作品の台詞回しは実に良くできてますな。お見事です。ここまでベタベタな内容を台詞回しと演出の面白さで新鮮に見せてしまうというのは大した才能ですな。

 あと、音楽が凄い効いてますねこの作品は。

○練習再開

 ちょっと仕事立て込んでいたので中断してたのですが、本日よりまた再開。とはいえ時間少なめだったので、テキトー。こちら

 なんで管理人が描くと目つきが悪くなるというか顔が怖くなるのだろうか…写真はもっと穏やかな顔をしてるんだが。

 

8/20

萩の花 尾花 葛花 撫子の花
女郎花 また 藤袴 朝顔の花
―山上憶良

○ネタなし

今日の練習

 本日は黄薔薇様。

 しかし二次元キャラは目がでかい。写真の模写していきなり二次元キャラを描くと、その目の異常なでかさ、パーツ配置のバランスの違いなどに結構戸惑う。まあ、しばらくすると慣れてしまうのですが。

 毎度ながら描線がふにゃふにゃ。ペンタブでぎゅっといい線を引くのは難しいなあ。サラッと軽い線引くにはいいツールなんだが。

8/18

1杯目のお茶は人生のように渋い
2杯目は愛のように甘い
3杯目は死のようにやわらかい

○映画「西の魔女が死んだ」

 不登校少女が親元離れて緑豊かな山奥にある優しいおばあさんのお家で自然に囲まれた健康的な生活を送り、心身を回復させていく「ソフトな戸塚ヨットスクール」みたいな話(いや違うだろ)

 山奥の緑が美しいのと、主人公のおばあさん役の女優さんが達者なことと、山小屋の生活のディテール描写(特に料理のシーンが素晴らしい)が良いので、それなりに見られる。ただ、原作小説に結構忠実に作ったことで少々ドラマ的に地味でこぢんまりとした映画になってしまった感はある。小説の場合起きる出来事が「小さな事件・出来事」であっても、細やかな心理描写や背景説明などをきちっとすればそれなりに場面として盛り上がるのだが、映画で同じ事をやってしまうと心理描写・背景説明をくどくどやるのが難しい分、盛り上がりに欠けてしまう。主人公の女の子の演技がいたってふつう(悪くはないが良くもない)でナチュラルなこともあり、全体的に淡々としすぎてしまった印象はある。

 芝居では主人公のおばあさんのほうが頑張ってる。特に娘が家に帰ることになる前後の孤独感や寂しさの描写、演技が素晴らしい。ちょっとした表情や芝居で見せる寂しさの表現が泣かせる。このおばあさん見るだけで、とりあえず映画としての価値はあるかなという気はする。

 主人公の不登校娘の物語としては、前述したとおり少々繊細に過ぎるというか、盛り上がりに欠ける部分があるが、これくらいソフトでまったりしていたほうがいいんだよなあという気もする。ただまあなんと恵まれた少女であることよ、と管理人などは思ってしまうわけだが映画ですからねフィクションですからね。

 でまあ、管理人が似たようなものをやるとこうなってしまうわけです。疲れちゃいますからなこれでは。この作品、実は元々漫画か絵本にしようということで企画を進めていたのですが、丁度この映画が公開されましてあらすじを見たら「なんだよ同じものがあるのかよ」ということでテキトーな小説での公開になってしまったのですが。てか、修正入れないといけない部分が結構残ってるのに放置しっぱなしです。

 管理人的にはこの手の「ソフト戸塚ヨットスクール」系物語としてはOVA「僕の地球を守って」が決定版で、とりあえず今のところそれ以上のものは出ていないかなと思っております。「癒し」に特化するならフルバも良く出来ていると思いますが、あれは別に自然の中で癒されるわけではないですしね。映画では「グッド・ウィル・ハンティング」か「EURIIKA」でしょうか。ただ、どっちも「自然の中で」って感じではないんですが。

「僕の地球を守って」(英語版)

 この頃の作品は今の作品に比べると直裁でシンプルで繊細さ丁寧さに欠けるところが多々あるんだが、その分なんかとてもストレートに迫って来るものがあってやはり良いですな。

○今日の練習

こちら

 元ネタの写真が頭頂部&後頭部をほとんどカットしてるもんだから、どれくらいの頭の大きさなのかがイマイチぴたっとあわない。ある程度は推測して適当に再現するわけだが、やはりピタッとした感じにはならないなあ。

 

8/16

○ネタなし

 練習のみ。こちら

 この人については、既に3回くらい挑戦して今回が4度目くらいなのだが、現物の美しさの5%も再現できん。それ以前に髪の毛があまりに複雑すぎてわけがわからんのだが。

 こういう人を描いてると「線だけで描く」ということの限界を感じるところはある。塗りとか陰影とかを使ってもっと立体感やふくらみを出せればもっと再現度高くなるんだろうなあ。

 疲れた。

8/14

バランスがとれない
わかってるからとれない

バッカスの隣の席に空きはあるかい
明日をよ 笑いあえる席はあるかい

―SION「バッカス」

○バランスが取れない

日本のバランスを回復する

 サービス業の労働生産性ねえ…まあ規制が酷いというのはたしかですが、規制撤廃しただけで労働生産性が劇的に向上するもんでせうか。どうしても「日本のサービス業の労働生産性は低い」という指摘は「正しいんだろうけれどいまいち鵜呑みにしきれない」感じが残ります。規制業種がいっぱいあって新規参入しづらいってことなんですかね……個人的に「それまで結構ニッチな業種だったんだけど大手がスケールメリット生かしてダンピングみたいな値段でシェア奪って零細がやっていけなくなり」的な寒い話を見聞したりしますので、規制撤廃万歳とばかり容易に言いがたい気もしてるんですが。公正な競争と言うけれど、大手のそういうやり口が果たして公正かというと微妙だし。でも、サービスが安くなるんだから消費者的にはいいじゃん、ということではあるんですけどね。でも、そのサービスがその料金で恒久的に可能なものかとか考えないとね。闇雲に安くするだけじゃどうにもならんってことはデフレの回復期とかに学んだと思ったのだが。

○インド人だインド人だ

 というわけで本日の練習帖はこちらでして。いや、本当にインド人かどうかはしりませんが。

 本日は酒飲んで帰ってきてからなので、かなり大雑把&早め仕上げ。色塗りもエアブラシで適当にやっただけ。ベースカラーとかまず下地に塗らなきゃいけないんだけどやってないし。色塗りは苦手だ。

8/13

あの夏の数かぎりなきそしてまた
たった一つの表情をせよ
―小野茂樹

○綺麗ですなあ

eden* demo movie

 新海誠はこういう仕事をさせるとほんとに上手だなあと感心しきり。それにしてもゲームのOPムービーのほうがテレビアニメのOPよりもカッチョエエというのは困りますな。ゲームいっさいやらんので、この手のものはようつべなかったらお目にかかれない。

○ソラノオトのがっかり感漂いまくりなキャラデザについて

 岸田メルを看板として使うということの意味がわかってるのかと。「キャラデザイン(原案だけど):岸田メル」に惹かれてコンテンツを買う客層が映像に何を求めるのか分かってるのかと。キャラデザインがダメだったらどんなにストーリーがよかろうが演出がよかろうが、「岸田メル」に惹かれてやってきた客は納得しないんだって。それとも最初からダマすつもりで企画立ててるのか?せっかく監督:神戸守でお楽しみ度高い企画なのになあ。

 まあ見るんですけどね。

○頼むから難しい服を着ないでくれ

 本日の練習。こちら

 以前も書いた気がするが、模写するなら外人の子がいい。日本人の子はぱっと見てかわいくてもその過半は骨格とか筋肉のつき方とかが曖昧模糊としててよくわからん。「骨と筋からして鮮明で整ってる」って感じの子が少ないのですよ。「かたちが綺麗」ってタイプが実は少ない。それに比べると外人の子はかわいいかどうかは微妙でも各パーツがどれもくっきりはっきり整ってるので分かりやすく、模写しやすいのです。

 さすがに顔だけだとあれなので今回は首から下も若干描いたのだが、とにかく服がわけのわからんものを着ているため途中でやる気をなくす。というか髪の毛もかなりやる気なし。髪の毛の描き方をもうちょっと考えないといけないですな。もともとの写真はポニーテールかなんかなのだが、写真が暗くて形状がわからなかったので髪型を変えてしまってる。

 

8/11

酒に対しては当に歌うべし、人生幾何ぞ
譬(たとえ)ば朝露の如し、去りし日は苦(はなは)だ多く
慨して当に以て慷すべし、幽思は忘れ難く
何を以て憂いを解かん、唯だ杜康 有るのみ
―曹操

○ヤンガン編集部は今からでも遅くないから三顧の礼を以って新房にWorking!アニメ版の面倒を見させてほしいんだけどムリだわな

 いやまあそりゃ「荒川アンダー・ザ・ブリッジ」のほうが新房的センスを出しやすいとは思うんですよ。どっちかっつーと雰囲気とキャラ重視な漫画ですし(管理人はちょいと好みが合わないのですが)。A−1様が悪いスタジオだといいたいわけじゃないですよ。良い仕事をしておられますよ。優良コンテンツに育てるべくスタッフの皆々様もそれなりに良いものを作ってくれるでしょうし、原作が面白いからそれなりに面白いものができて、それなりにヒットもするんだと思うのですよ。何も問題ないのですよ。でもなあ…嗚呼天哉。

○「蒼天航路」読み終わったのですが

 郭嘉可哀相だよ郭嘉。楽進凄ぎるよ楽進、張遼強すぎるよ張遼、夏候惇渋カッコいいよあんな風に老けたいよ夏候惇、曹仁成長しすぎだよ曹仁、夏候淵可哀相だよ夏候淵、とかそんなことばっかり呟きながら読んでましたよ。どうしても曹操組の面々がカッコいいですな。諸葛亮の「困ったお兄ちゃん」的な扱い方が最後まで貫かれるのも面白かった。

 それにしても最近ほんとに涙もろくて漫画読みながらマジ泣きしまくりでしたよ。やはりキャラが死ぬところは特にいかんです。特に郭嘉と楽進と夏候淵の死ぬところはアカンです。特に夏候淵ですよ夏候淵。銅雀台で曹操+四天王と飲んでるところを夢見るシーンとかもう泣けて泣けて。上に挙げた「対酒当歌」の内容と併せてこのシーンの夏候淵を見てるともうあかんです。

 あと劉備が息子を救った超雲のボロボロの姿を見て「お前は綺麗な武将だろ、返り血ひとつ浴びない男だろ」と言って涙流すところとか、簡雍が劉璋に降伏を勧めにいって「自分はただ国を保つことしかしていなかった」と嘆く劉璋に「街の子供達は皆綺麗に笑っていた」と慰めるところとかなんでか良くわからんが泣けてきていけません。侠とか仁とか忠ってのはいいもんですなあ。男の持つ真直ぐさ純粋さが出るのはこういうところなんだなあと。まあ女の人が見せる「侠」ってのもまた粋でキリッとしていて実にかっこいいんですけどね(ジャイアントロボとか金庸の小説とかで楽しめますよ)。うん、男たるものやはり侠とか仁とかそういうのがないとカッコよくないですよ。でも現実の世の中で義侠心とか、あんまり発揮する機会はないんですけどね^;

 個人的には赤壁手前あたりまでが最盛期だったのではないかなと。曹操も周りの武将もみんな上り調子で「落ち着いちゃう前」な感じの頃の勢いのよさがやはり見ていて気持ちよかった。劉備組もいちばん盛り上がったのは長坂橋での張飛・超雲の活躍でしたし。

 赤壁は曹操と諸葛亮が問答やってばっかりで、戦争の現場のドラマでは荀攸と賈?がメインでしたからね。荀攸が必死に陣を守っていたところに曹操配下の武将が集まってくるところとかは男泣きに泣けましたが。ただやっぱちょっと地味かなと。赤壁以後は全体的にキャラが「できあがっちゃった」感じがありました。無論それでも面白いんですけどね。特に内政関連・曹植や華陀などを中心にした文化論国家論とかは結構読ませる。

 呉は孫堅文台があまりにカッコよすぎて、どうもその後の二人が若干霞んでしまった感じがありました。特に孫策はもうちょっと頑張らせてあげてほしかったなあと。孫権も悪くなかったんですが曹操劉備に比べると登場シーンが少なく、器の大きさを感じさせる時間がなかった感じでした。

 で、蒼天読み終わっちゃったので、最近はこちらで興味のある人物の正史を読んでおります。今のところ特によかったのが郭嘉ですよ郭嘉伝。この人、漫画でもカッコいいんだけど正史の記録でもいちいちカッコいいんですよ。お勧めです。あと程cもかなり強気な性格がうかがえてカッコよかったりします。悲しいのは我らが夏候惇先生の「夏候惇伝」が、まだ翻訳されていないことだったりします。

○絵描練習帖

 ということで、しばらくまた練習で描いてる写真やらイラストの模写やらをアップしていこうかと。アップするということをプレッシャーにして少し集中力を高めるのが狙いでして。ただ、画像は画像だから画像検索とかに時々引っかかってしまうみたいなんで、それがイヤだといえばイヤなんですが。てなわけで本日はこちら

 顔から下が描かれていないのは面倒くさいから(てか、元ネタの写真の服の構造が良くわからなかった)でして、こういうことばっかりしてるから体が上達しないのですが。顔はだいぶ「立体としてどういう風になっているか」というのが頭の中でできあがってきて(ただ耳のあたりとか、後頭部とか唇とかがまだきちっとイメージできんのですが)から、なんとなく描きやすくなったんですが、体はまだまだ全然頭の中でそういうイメージができあがってない。「立体としてどういう風になってるか」というのが一度頭の中ではっきりすると確度を多少変えたり、傾けたりしても対応できるもんなんですよね不思議なことに。

 しかし、ペンタブにしても紙にしても「綺麗な線をえいやっと引く」のは至難のわざですな。プロの漫画家さん達って基本みんな思い切りがよくて潔いなあと最近漫画読んでて感心しきりですよ。あ、あと模写していて鶴田謙二は寡作で当然と思いました。あの人の漫画の手間のかかり方は尋常じゃありません。

  

8/5

庭の夏草 茂らば茂れ 道あればとて 訪ふ人もなし(閑吟集)

○御意

「サマーウォーズ」評

 シナリオのダメさユルさについては、こちらの評に完全同意。付け加えるならば「偶然(たまたま)」をシナリオで使うこと自体が悪いのではなく、「偶然の大バーゲン」が悪いということくらいでしょうか。奇跡を起こしていいのは1度だけなのです。

 あ、でもよい映画なんですよ。

○ジャリはええですなあ

myfirstfail.com

 「ヒューモア」とは単に他人の失敗を上から目線で笑うことではなく「自分もかつて同じような失敗をする人間だった」という同情と共感がある笑いであります。バカなジャリを見て笑うとき我々は皆等しく子供の頃バカだったことを思い出すのであります。バカなジャリが泣く時我々は皆等しく子供の頃泣いてばかりいたことを思い出すのであります。バカ最高。

○景気悪いなあ

ヨウジヤマモトが身売りか

 まあ、あの「肩幅がやたら広い」デザインの奴は何がええのかさっぱりわからんのですが、それ以外のものは「カッコエエなあ、でも俺が着ても全然似合わなさそうだしなあ、てか高っ!」と思いながら、時々追っかけて作品を見ていた人だったのでなんだか残念であります。一時期Y's for menとかどうなんだろう、とか思ったんですが、やっぱり高し、デザイン的になんだか微妙だしで「そこまでして買うものでもないしなあ」と思ってそれっきり。

 着道楽が趣味の人っていうならともかく、実用とコストパフォーマンス考えてギリギリのライン狙って買う人間にとっては、まあ「見てるだけ」の存在であります。でも、そういう「ああ俺とは関係ないけどカッコエエなあ」と「見上げる存在」として存在し続けてほしいという気持ちもありますが。

 無印が本格的に買収して採算度外視の野心的なメンズラインを安値で乱発、とかいう神展開になってくれないものでしょうか。

○君の知らない物語

化物語ED

 efの主題歌「euphoric field」とか、この曲とかなんつーか最近「新型アニソンの王道」的なものが完成形を迎えつつありますなあ。「軍歌・行進曲」「切なさ・儚さ・潔さ」「恋情」という日本の土俗的心性を織り成す諸要素が渾然一体となったアニソンは戦後日本人が自ら作り出した独自の「ソウルミュージック」なのであります。ソウルがあるものは外人にも伝わるのです。

8/4

涼風の曲がりくねって来たりけり(一茶)

○映画「サマーウォーズ」

□仕事サクサク上げて見てきましたよ。大変良い仕事ですが尺が長すぎる。85分で十分な話を120分超の映画に水増ししている。

□乱暴に言ってしまうと「CGシーンは8割不要」である。バーチャルワールド内で展開されるドラマは全てにおいて退屈。映像的にもボスキャラの表現以外の部分で関心するようなところはない。

□今、CG映画で必要なのは「手間がかかった映像」を見せることではない。「想像したことすらない、見たことが全くない映像」を見せることである。残念ながら、この作品のCG映像のほとんどは「どこかで見たことがある」ものでしかなく、幾ら見せられても感動はない。

□それに比べて手描きアニメで描かれる田舎のドラマ・映像のなんと魅力的なことか。こちらだけで映画を作ってくれてもよかったくらい。

□キャラデザイン、作画、美術、演出など手描きパートは申し分のないクオリティの高い仕事。劇場で見るに値する気持ちの良い映像に仕上がっている。

□特に田舎の大家族の「夏の生活」を細かに描写していくパートは本当に美しく、素晴らしい。細やかな生活描写、アニメチックな大げさな動作やリアクションなど、随所に秀逸な仕事が見られる。このパートを見るだけでも十分劇場に行く価値はある。

□各キャラクターの描き分け、性格描写もしっかりできていた。声優のキャスティングも脇役に玄人衆をしっかり使って主役の素人たちをサポートする体制で悪くない。

□繰り返しになるが田舎のシーン以外は見るのが苦行に近いほど退屈で凡庸である。

□シナリオとしては「僕らのウォーゲーム」のアイディアを水増しした以上のものはなく、シナリオライター・監督ともネットに対する理解が浅薄でまるで設定や展開にリアリティがない。子供だましにしてもあまりにユルいシナリオ。

□アメリカ国防総省の陰謀でコンピューターが暴走して地球の危機ってあんたそれ夏にやる「ルパン三世」2時間スペシャルのネタだろうよ。

□もっと「僕らの七日間戦争」的な小規模で短いけど濃密な「戦い」をする物語にしてくれれば本当に素晴らしい作品になったのになあ。ああもったいないもったいない。

□というわけで「CGシーンになったら目を閉じると傑作として記憶に残る映画」。お勧めです(散々むちゃくちゃ言ってますが、とても良い映画ですよ)

□CG映像を最低限度に絞った90分の再編集版出さないかなあ。そしたらDVD買うけどなあ。自分で作るか。

○「化物語」第五話

 アララギ君はいいなあ。

 以上。

○「蒼天航路」ばっかり読んでるせいか

 最近、ただでさえエラそうなのに更にエラそうになっております。

 まあでもそれくらいでいいんだなあと最近思っておりまして。リアルワールドって結局のところ「態度デカくしとくと相手は勝手に下手に出てくれる。優しく温順にしてると相手が上から目線で見てくる」ということでして。そこに根拠とか実績の裏打ちが必要かって言うと「本質的には必要だけど表面的には不必要」だったりするわけですよ。で、日常生活って結構「表面的」なレベルで済む部分が多かったりするわけで。ああ、なんてイヤな言い方。

 態度デカくするのなんて個人的にみっともないし馬鹿馬鹿しいことこの上ないから正直イヤなんだが、現実問題多少デカくしておかないと不便なんですな。もーほんとに「マリみて」とか「ARIA」とか「ヨコハマ買出し紀行」とか「FORGET ME NOT」とかの世界の住人になって優しくまったりとすごしたいですよええ。まあムリなので「蒼天航路」でも読んでせいぜい態度のデカさとモノイイのデカさを見習うことにしております。その内しっぺ返しが来る気がしますがね。

 

  

8/1

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

― 田村隆一

○「化物語」第四話

 第四話にしてようやくわかりましたがこの作品の面白さの鍵は使われている言葉遣いが徹底して「不自然な(極めて「書き言葉」的であり、芝居の「台詞」としてこなれたものに加工されていない)」ものだということでしょう。硬く・不自然な台詞を不自然なまま押し通している。しかも、そうした不自然な言葉による会話であるにも関わらず、観客はある種の「流麗さ」をそこに感じます。それは「自然でこなれた台詞が持つ流麗さ」ではなく、むしろ漢文や昔の翻訳調の文章を読んだ時の「不自然な流麗さ」に近いものであり、意識的に設計された流麗さであります。

 設計された「不自然な流麗さ」をそのまま台詞として押し通すことで観客は逆にその言語世界に染められていき、いつの間にかその「不自然ではあるが魅力的な言語世界」に心地よさを感じるようになっていく。「言葉」「会話」こそがこの作品の「世界観」の肝であり要であり、だからこそ「延々と続くダベりシーン」がこの作品のメインにならなければならんのです。なかなか野心的です。

 さて新しいOPはアニメスタイルでお馴染みの板垣氏制作らしくチャカチャカと動いて大変元気良く、昔ながらの「アニメらしさ」を存分に味わわせてくれる好OPであります。しかしシャフト作品で見せるものでもありますまい。むしろ現在のところ注目すべきはED。使われている意匠自体にはオリジナリティはありませんが、洗練された意匠の使い方やデザイン、口当たりの良い映像としての完成度は素晴らしい。楽曲も綺麗。

 本編はゲストヒロインが八九寺さんになったことでだいぶコミカルな味わいの会話劇になった印象。時折入るアップショットがコミカルだったりリアルだったりして気が利いていて飽きさせない。噛み付き→殴打はどうかと思うが、「「キャラ」としての軽さ・非現実感」を出すための処理方法としてはむしろオタク世界では古典的でありましょう。基本的にこの作品「会話劇」以外の部分のキャラや設定、ドラマの作り方は極めてオーソドックスにオタク的です。入口は大変広く入りやすいのですが、作り手の主目的はその入口から「作り手独自の言語世界」に観客を飲み込むことであります。「間口の広さ」と「マニアック」さを同時に実現させる戦略として成功している。

 しかし主人公にベタベタして頑張ってるゲストの八九寺さんには悪いですが戦場ヶ原さんの破壊力には遠く及びませんな。喋りだすと一挙に世界が戦場ヶ原さん色に染まる。毒舌キャラヒロインってアニメで見る分には魅力的ですね、リアルにいると正直ごめん俺疲れてるからどっかよそ行ってくれないかなとしか思わないんですが。

  

7/27

気焔万丈、夏候惇軍の精鋭に告ぐ!
―「蒼天航路」

○蒼天航路が久しぶりに読むと面白くて面白くて

 てか、良く考えると本誌連載を適当に追いかけたり、出たコミックスを飛び飛びで読んだりしかしてなかったんだなあと読み直して気付く。記憶がかなりまばらで、非常に新鮮に読めていいです。どいつもこいつもやたらとビッグで自信に満ち溢れた漢キャラばかりで素晴らしいんですが特に夏候惇がかっこよくてですね。もうマジ惚れといいますか、頼むから弟子にしてくれと。夏候惇登場シーンばっかり読み直してますよ本当に。顔がいいんですよ顔が。血の気の多いのがそのまま顔面に出てるみたいな感じが実にかっこいい。どうすればああいう男になれるんですかねえ。とりあえずマジメに体でも鍛えますかね。中身のヘタレ惰弱ぶりはどうしようもないから、せめて外見くらい夏候惇ちっくになりたいところであります。

7/20

芸術とは、最も美しい嘘のことである。
― ドビッシュー

○「化物語」第三話

 良い、とても良い。何が良いって「主人公と戦場ヶ原さんのダベりが延々と続く」ところが素晴らしすぎる。「月詠」「ぱにぽにだっしゅ」などの作品でも面白かったのは実は本筋とは全く関係のない日常生活における主人公達のダベりシーンだったのです。本来、こういうシーンは間延びしてしまうのですが、そこをキレ・テンポのある演出で間延びさせずに見せる、それこそがシャフト作品最大の魅力だったのですよ。話の3分の2以上をダベりシーンに費やした今回の第三話は、まさにそうしたシャフトの魅力を特化させて全面展開させた傑作であります。無内容?空疎?アンリアル?だからなんだというのか。キレイでテンポがよくてかわいくて楽しくて無内容でアンリアル、これ以上の「娯楽」がありましょうや。こんなもんをわざわざ「読む」のは御免ですが、映像と音声なら大歓迎でありますよ。というわけで、ぜひとも来週もダラダラと主人公と戦場ヶ原さんのダベりを見せていただきたいと思います。絶望先生三期も好調だし、もはやアニメ世界はシャフトとアニプレックスの天下ですか。でも調子よすぎると「ぱにぽに」二期とか「月詠」二期とかいった企画はなかなかやらないだろうなあ。

○「流浪に剣心」を読み直してたりするのですが

 和月氏は漫画に「説明」が多すぎですな。戦闘中も「技の解説」を丁寧に喋らせるし、各キャラの心理や考えなんかも実にクリアにはっきりと台詞にして丁寧に喋らせる。そのおかげで、バトルシーンが少し「理性的」になってしまって盛り上がりきれないのが珠に瑕であります。バトルシーンを「頭・理屈で作りすぎている」ところが弱いといいますか。いや、管理人はむしろこういう理性的なつくりのほうが好きなんですが。「作り方」は理性的なんですが「設定作りに宿る和月先生の「熱さ」」は凄いジャンプ的な熱血路線なんですけどね。

 まあ、そんなことよりもとにかく斉藤一先生にメロメロですよ。本連載時も「悪・即・斬!」とか「牙突零式!」とか大好きでしたが、結局年食っても変わりませんな。クールなのに本質的にはやっぱり熱血バカ脳をしているところが最高ですよ。男たるものパトレイバーの後藤さんみたいになるか、そうじゃなきゃ斉藤一みたいになるかですな(どういうセレクションだ)。とにかく斉藤カッコいいなあでも現実のロールモデルにすると色々と支障ありそうだよなあとかくだらんことを思いながら読んでおります。

7/14

風を茜に染めたのは 光ではない
地から照り返す  血のハレーションだ

しかも 光は 跡形もなく洗いながしている
記憶ではなく 苦い時間だけを……

―和田徹三

○やるせない

Ethnic clash in Guangdong

 1度壊してしまったものは絶対に元に戻らないというに。何やってるんだこいつらは。

 事件背景解説としては、ここが一番短くまとまっている。善玉悪玉が明瞭な勧善懲悪の世界ではないのはたしか。だが根底にあるのは中国とウイグルの「あまりに非対称な力関係」であり、それがどうしようもない以上は今後も悲劇は続く。力関係が非対称な場合、強者は力を振るう際に「配慮」を示さなければならぬ。だが、それができる強者など滅多にいない。これは別に中国の政策担当者に限ったことではない。「配慮のない強者」はどこの世界にもいる。往々にして「強さ」とは「鈍感さ」と同義でしかなく、「配慮」できる頭がないから「強い」のである。強く優しいのは虚構のヒーローばかりなり。

○戻らないといえばこちらも

いっつ あ すごい赤字わーるど

政策の手詰まり感

 別にオバマやガイトナーが無能というわけではなく「ルール違反をして儲けてた奴がいっぱいいたんだから、誰かがツケを払わなければいけない」という至極まっとうな事態が生じているだけであり、いよいよ先延ばし策が払底し、本格的に「ツケを払う」季節がやってまいりましたよということなんでしょう。「景気底打ち・これから回復だ」と一生懸命アナウンスを出すのも「ムリヤリでも好況を作れれば、ツケの払いがラクにできる」という目論見があるからなのでしょうが、景気ってのはそんなに「気」だけで動いているものでもないので。カネ出す奴らだってバカじゃないので「誰かがツケを払って信用できる賭場が回復」するまでカネ突っ込みませんってば。

○などといいつつ新アニメ話

 などしてしまうあたり、よその国だとか世界経済だとかどのツラ下げて嘆けるのかということなのですが。ま、それはともかく。

 とりあえず「化物語」がなかなかしっかり作ってあってよろしいです。本筋の話よりも主人公とヒロインのダベりをシャフト演出で延々と見せてくれるあたりが非常によろしい。正直、本筋いらないからこっちだけずっとやっててくれないだろうかと思います。映画のセットみたいな中で展開される会話劇は「月詠」を思い出させてくれます。オープニングがいまいちインパクトなかったなあというのが残念な所。まあ尾石監督のことですから、そのうちドーンと凄いのを出してくるのではないかと期待。

 最近は「咲」がいまいち面白くならんので、楽しみは「蒼天航路」と「ガンダムW」とこの「化物語」といったところでしょうか。絶望先生三期も二期であったヘンテコな実験劇場がなくなって平常運転な面白い作品になってるんで適当に見ようかなと。芸の細かいものは面白いですなあ。

 そういえば岸田メル先生の絵がアニメで拝めそうです。

ソ・ラ・ノ・ヲ・ト公式サイト

 さすがアニプレックス、仕事が速い。

 

7/7

いや、すでに知ってゐたのだ。地球人が
早くも神を求めてゐたのを、
また創つてゐたのを。

―北原白秋「月から見た地球」

○「ヱヴァンゲリオン新劇場版:破」雑感

□レイトショーで見て帰宅した所。つらつらと雑感。

□とりあえず最高に良かったのは1に坂本真綾2に音楽3に音響。なんといっても坂本真綾が良かったですよ。デビュー時から聞いていますが、初めて「うまいなあ」と素直に感心させられた。

□鷺巣氏の音楽は劇場版らしいスケールアップされた盛り上がる音楽になっていて最高ですな。音響も押井映画に比べるとまだ軽いですが、テレビと比べるとやっぱり劇場は音がいいですよねえ(当たり前だが)。

□面白く飽きずに見られましたし映像のクオリティも大したもの。「映画」のスケールをしっかり意識して作ってるなあと感心します。

□しかし見ながらずっと思っていたのは「ああ、この戦力とエネルギーで完全な新作劇場オリジナルアニメを作ってくれていたらきっと凄い面白いものができただろうになあ。勿体ないなあ」ってことだったりする。

□無論「エヴァ」だからこれだけの陣容・戦力で劇場作品が作れるわけですので、言っても詮無きことなのですが。とにかく映像のデキがよければよいほど「リメイクこんなに頑張ってないで新作作れよ、勿体無いなあ」という気持ちが強くなってしまう。

□だいたい、この映画で使っている作画スタッフって日本のハイエンドアニメの屋台骨を支えている人なわけでして、そういう人たちを旧作のリメイクに使ってるのって健全とは思えないんですけど。いやまあご本人達が選んで仕事してるんだからケチつけることじゃないんですけどね。

□どんなに綺麗になっても、どんなに話が変わっても、結局は「エヴァ」は「エヴァ」なわけで、正直新味はないんですよ。

□「面白い新作」って「え?この映画どれだけ面白くなっちゃうんだろう、どこまでいけちゃうんだろう」とハラハラドキドキしながら見られるのですよ。そういうほうがやっぱりいい気がするんですけどねえ…せっかく創意工夫を凝らすんだったら。

□細かい変更をこちゃこちゃと見つけて「ここが違う、あそこが違う」と言うのもいいんですけどね。でも、結局はテレビ版の話がなぞられてるし、最後は人類補完計画なわけだしねえ……

□願わくばスタジオカラー様がこの劇場版で儲かりまくって完全新作を作れるようになることを祈るばかりです。特に管理人は摩砂雪演出大好きなので、もっとオリジナル新作でガンガン仕事してほしい。てか本来オリジナル劇場作品の監督やるレベルの器だと思うんだけどなあ、この人にしても鶴巻氏にしても。

□さて、内容について。大まかな印象は「序」と一緒。庵野氏は「メカ戦・燃える戦闘シチュ」作りにおいては天才的だが、こと「人間ドラマ作り」となると凡庸でありまして、今回もその凡庸さが目立つ映画となっていた。

□人間の関係性のドラマを描きたいのは分かるが、だったらもっと人間同士の絡みのシーンを丁寧に時間をかけて描いてほしいし、人間ドラマとしてぐっとくる演出・シーンをもっと作ってほしかったなあと思うわけです。

□メカとか使徒とかばっかり嬉々として描いてないで、人間同士の絡みにもっと手間ひまと知恵とアイディアを投入してよと。会話シーンとかキャラが延々と自分の心情や哲学をそのまま語っちゃってるけど、人間の会話ってそういうもんじゃないでしょうよ。表面の台詞と裏腹の気持ちがあるとか、そういうのが上手い台詞なわけで。

□人と人が絡むシーンだって、もうちょっと繊細な人間同士の触れ合う感覚みたいなのを感じさせること幾らでもできそうなもんですが。監督だってそっちがやりたいんでしょうし。

□もちろん人間関係のエピソード作りは上手になってます。お弁当だとか、食事会だとかアスカが3号機に乗り込む事情だとか、そういう個々のエピソードはなかなかしみじみさせて良い。

□ただなんといいますか個々のエピソードを映画の中で印象的に「見せる」シナリオ・演出がそれほど「際立って良くない」のですよ。「普通」なのです。決して「ヘタ」ではないのですが「際立って上手」じゃないわけ。そうすると、他の部分が「際立って上手」な分、肝心の人間ドラマ部分が目立たないんですよ。

□メカ・戦闘シーンのクオリティが「15」だとすると人間ドラマパートのクオリティが「5」くらい。どうしても「15」のほうが目だってしまって「5」のほうが埋没してしまう。

□エレベーターのアスカとレイの会話、3号機機動実験前のミサトとアスカの会話あたりはベタだけど良かった。しかし、大体のシーンが「短すぎ」「会話(自分の心情を率直に吐露しあうだけの会話)に頼りすぎ」「キャラの心情に観客が同調する前にサクサクとシーン進めすぎ」でして非常に淡白かつ凡庸。

□ああもう、そこはあと数秒は間を取れよ!とかもっとじっくりやれよ!とか、勝手なことを思いながら見ていました。どんだけ偉いんだ俺と思いつつもやっぱりそう思ってしまう。

□うーんでも、自分もそういうところあるのでわかるんですが、結局この映画って「今まで人間ドラマへの興味が−50くらいだった人が、ようやく5くらいになったね」って感じなんですよ。ご本人としては「いや俺、かなり変わったんだよ!人間大事だよ人間!」みたいに思ってるのかもしれないが、通常人からすると「いや、今あなたようやく普通か普通以下の興味になった程度だから」っていう感じでしょうか。

□とはいえ「序」に比べると人間ドラマの比重が更に高まっていて、良かったんですけどね。ただ序は「凄く物足りない」感じで、破でも正直「まだ物足りない」っていうレベルでしかないかなあと。贅沢で申し訳ないが^;

□だって最近のアニメ(特に恋愛系)のいいやつとかは人間関係の微妙で繊細な雰囲気とかやりとりとかの演出、もっとうまく、繊細になってるわけでして。それに比べると、なんというか庵野監督の描く人間ドラマシーンってよく言えば素朴、悪く言うと洗練が全然足りないのですよ。

□まあでもアスカ・レイのヒロイン二人はなんだか「普通の女の子キャラ」になっていて良かったですけどね。特にレイが「普通の女の子」な部分が増えてやたら新鮮だ。

□新キャラもよかったし。坂本真綾の貢献度高かったおかげもあるが、キャラクターの性格とか個性のつけ方も良かったと思います。むしろ、こういう新キャラだけが登場する「エヴァンゲリオン2」でもつくりゃよかったのにね。そっちのほうが絶対面白くなったと思うけどなあ。「トップ2」みたいなノリで作ってくれれば良かったのに。

□戦闘シーンは相変わらず大迫力で良かったですが、4つも入れてるもんだから個々の戦闘シーンがどうしても短くなってしまってじっくりしっかり見られないのが残念ですかね。最後の戦闘は盛り上がりましたが。

□個人的には最後の戦闘でシンジ君が戦うのを決意して走り出したところでパチンと指を鳴らし「エヴァンゲリオン!来い!」とか叫んでほしかったんですが。そっちのほうが絶対盛り上がったのになあ…まあ今川アニメになってしまうのでダメですが。

□ヘタレっぷりは相変わらずですが綾波命で綾波のためならなんでもできるキャラになったシンジ君、今回はラストでかなりヒーローっぽい男らしいキャラになっています。

□正直、もうこの「破」で完全にシンジ君と綾波はデキちゃってるわけで、最後に登場したカヲル君は完全なるお邪魔虫キャラです。そういう状況でどうやってラストを盛り上げるのかがちょっと心配ではあります。

□まあ順当にいけばシンジ君が綾波を父親と奪い合う展開になるわけですが…で、ラストでしっかりと綾波を奪ってめでたしめでたしか。うーんヒロイックファンタジーですなあ。

□まあぜひ「ビーストモード(なんかパチンコ屋に媚びた設定ですなあ)」に続いて最終回で「ラブラブモード」になって全て解決とか、そういうGガンダムばりのバカ展開やってほしいものであります。

□さて、「序」の時も書いたんですが今回も管理人が映画見ていていちばん共感できたのはゲンドウ。もう笑っちゃうくらい「分かるぞゲンドウ!」と思うシーン多数^;ゴネてピラミッドの上で騒ぐシンジに対する対処とか「そう、それが正解!」みたいな感じで大変よくわかります。

□最初のほうのお墓のシーンとか、ゲンドウに微妙な表情の変化がつけられていてなかなか良かった。後半はちょっと人間味を見せるところが少なかったですがね。とにかくなんかゲンドウ見て楽しめてしまう年になっちゃったなあということが感慨深い。

□あと良かったのはトウジですな。まあアニメの時からいい奴でしたが、今回はさらにいい奴ぶりがスケールアップ。妹の退院のときのはしゃぎっぷりや、なにげに爆発の時にヒカリに覆いかぶさってかばうなどなど、いい男ぶりをいかんなく発揮しています。

□キャラの作画が全般的にオトナっぽくなっていて、表情とかもしっかりつけられていて良かった。特にレイ・アスカ・ミサトあたりの作画は抜かりなし。キャラクターとしてもとても魅力的になってますし、ヒロイン楽しむアニメとしてはレベルアップしましたね。

□で、劇場で見る価値はあるかといえば「レイトショーで1200円で見る価値は十分にある」というところでしょうか。正直1800円払えと言われると微妙。音楽と音響のよさを考えるとやっぱり劇場で見たほうがいいし、映像も「劇場の大画面」をきちっと意識したところが各所にあってやっぱり良いです。

□ただまあお話的にはそれほど「凄く変わった!」とか「完全新作!」とか盛り上がるほどのものではないですね。そりゃたしかにかなり変わってるんですが、でも「エヴァはエヴァだねえ」としか思わんです。正直、細かな設定とかの変更とかあんまりどっちでもいいタチなので。

 

7/6

光に包まれ無数の花たちは
迷いのない瞳で明日を見つめてる
静かに見下ろす白いベールが
美しければそれでいいよ

―「美しければそれでいい」

○てなわけで「リトルホラーズ」雑感

□というか黄薔薇二人と新シリーズがどうなるかについてダラダラとどうでもいいことを。

□有馬菜々のキャラがだいぶ固まりましたな。「由乃さんにデレな鳥居江利子様」的キャラクターといいますか。

□江利子様は「由乃さんを観察して面白がる」人だったわけですが、有馬菜々は由乃さんを「面白がり」つつも内心デレ。冷静に客観的にデレるという新タイプであります(笑)

□妹になるまでは有馬菜々のほうがむしろ由乃さんを振り回し気味だったのですが、ロザリオ渡す時に由乃さんデレであることがバレてしまったので立場が逆転してしまいましたな。「天衣無縫な姉―振り回される妹」という関係になりそうです。

□それにしても由乃さんの天衣無縫ぶりが更にスケールアップしていてよろしいですな。既に妹からは「嘘つき」「一筋縄ではいかない」認定されている信頼感ゼロのお姉さまっぷりが素晴らしすぎます。いいのかそれで。

□ヘタ令様亡き後のヘタレキャラポジションもがっちり確保しております。剣道部部長に田沼ちさと嬢が就任、かつての恋のライバルに気を使われて副部長という肩書きだけポストをあてがってもらうわ、妹は自分よりはるかに剣道が強いわ、ヘッポコキャラ街道を驀進中です。良いキャラだなあ。

□最初に登場した時の「幸薄げな完全美少女キャラ」はどこへいってしまったのか^;たまには正統派美少女として活躍するところを見せてあげてください今野先生。

□「スール成立までに波乱万丈しちゃったので成立後はすっかり落ち着きそうな紅薔薇」「もはや鉄壁無比の名コンビの白薔薇」と比較すると、やはり黄薔薇二人組がいちばん関係が安定していないので波乱万丈を作りやすそうではあります。今後はしばらく黄薔薇時代ですな!黄薔薇好きな管理人としては嬉しいところです。

□でも有馬菜々のキャラがある程度固定したら「白・紅に新妹!」展開がでてきそうですなあ……裕巳さんなんて絶対「瞳子、あなた妹を作りなさい」ってマリア様の前で言いたくて言いたくてウズウズしてるに決まってますからな(笑)絶対「横暴ですわ!お姉さま!」と言わせてやると日々チャンスを伺ってるに違いありません。

□有馬菜々は1年生なので(かつての志摩子さんと同じポジション)妹はしばらく作れんですし…「新妹」ネタ展開で来るとなると黄薔薇は蚊帳の外か。

□というわけで、出だし好調な黄薔薇ですが、早くも手詰まり感が漂っています。さすが黄薔薇。由乃様が有馬菜々を破門する「第二次黄薔薇革命」とか起こしますかね。無理だな、由乃さんも完全な有馬菜々デレだから。

□管理人の予測としては「新キャラ投入・白か紅の妹候補」って展開かなあと。管理人の予想では白が先かなと。「志摩子さんが「おばあちゃん」になる過程で更にビッグに」なっていくんじゃないかと。「女性版ビルドゥングス・ロマンとしてのマリみて」という側面で見ると、そういう展開が一番ありえそうです。

□ていうか、今回の白薔薇姉妹ときたら「ホラーキャラ乃梨子」と「髪の毛を縛った志摩子さん」というビジュアルだけの活躍で、往年の黄薔薇並の影の薄さ。たぶん、これは嵐の前の静けさでありましょう。

□まあその前に「裕巳さん瞳子の紅薔薇バカップル話」「お姉さまっぽいことをしたくウズウズしまくりの裕巳さん劇場」を思い切りやってほしいんですが。

□本編のほうは「黒今野」成分が多くて、なかなか読ませる短編が多かったですよ。個人的に良かったのはひとつの善意が女の子の世界観と運命をゆっくりと確実に変えていく物語「ハンカチ拾い」ですかね。

□双子話の「ワンペア」とかも面白いんですが、男目線からすると「許してやれよ、告白しようとしてガッチガチに緊張してるんだから瓜二つの双子の顔なんて見分けつかないで間違えるって」とか思うんですが。ま、許してもらえないでしょうねそりゃ。

□というわけで、新・黄薔薇二人組が充実の新シリーズ第一弾「リトルホラーズ」未読の型は是非。

 

7/2

○いよぉっしゃあぁぁぁぁぁ!

マリア様がみてる―リトルホラーズ

 てか1日発売だったのかよ!情報遅いよ俺。

 しかも表紙みると新黄薔薇二人組がメイン。卒業式前日譚とかではなく新シリーズスタートってことですな、そうなんだそうに決まってる。

 なんかもう「新刊既に発売してる」というのをネットで知っただけで、物凄く気力が湧いてしまった。こんなことで心が躍りまくる自分ってどうよとか0.1秒ほど思ったけど、まあ別にいいんじゃないんですかね嬉しいんだから喜んでれば。

6/29

理不尽な苦しみに泣く人に涙は出ても
好きでもない人の痛みはただの世間話さ
大切な人の苦しみは胸を掻き毟るけど
好きでもない人の痛みはただの世間話か

― SION

○映画「この自由な世界で」

 昨年度イギリス映画の収穫「トゥモローワールド」も「移民」が裏テーマだったと思うんですが、この映画も結局は「移民」の話。ヨーロッパにおける新自由主義の問題とはまずもって「移民」「外国人労働者」の問題だ、としみじみ考えされる映画となっております。「イヤな話をリアルに淡々と描かせると天下一品」なケン・ローチ先生の新作DVD化。

 基本は「移民の職業斡旋屋」のお話ですが、そこから「自由主義経済」とはどういうシステムなのか、ひいては「自由ってなんだろう」ということまで考えさせる力作となっております。単純な「新自由主義経済批判」にならないのは、主人公が「新自由主義経済システムの中で適応し、成り上がるべく奮闘する」側の人間だからでしょう。人を人と思わない上司・会社組織に食い物にされた主人公に観客は最初共感するわけです。ところが、その主人公が今度は他人を食い物にして成り上がっていき、それを徹底的に自己正当化しようとしていく様子を観客は見せられます。主人公の気持ちには共感しつつも批判的に見なければいけないという大変居心地の悪い「視点」に観客を立たせています。

 登場人物たちの過半も「それなりに共感・理解できる事情」を持たされて動いており、「自由主義は良い/悪い」という単純な善悪二元論に逃げ込めない状態で観客は映画を見ざるを得ない。映画の中で実際に登場しない「不在の悪者」は出てくるので、そこで「自由主義やっぱり良くない!」と言えるっちゃ言えるのですが、物事ってのはそう単純なものじゃないし一刀両断でどうにかなることなんて存在しないからね、といういつもの「溜息混じりなケン・ローチ節」が楽しめます(全然楽しくはないけどね)

 でまあ、結局問題となっているのは自由主義経済・グローバル経済における「カネ」と「人の尊厳」の問題であります。そして「他者をちゃんと人間扱いすること」の難しさの問題でありましょう。自分や自分の周りの人間のシアワセを願うのは人として当たり前なわけですが、それを実現するためなら「見知らぬ他人を食い物にしていいのか、人を人扱いせずモノ扱いしてもいいのか」ということなのですよ。経済に限らず、人間ってのは他者を「手段」として利用することの業深さ罪深さ(というと大袈裟ですけどね)からは免れ得ないところがあるんですが、だからって制限ナシやりたい放題に他者を「手段」として「モノ」みたいに扱っていいのかよ、という話です。

 主人公はこれまで散々だった自分の人生をシアワセなものにするため、自分を認めてくれない両親を見返すため、愛する息子のために新自由主義経済の申し子となろうとするわけですが、その過程で移民労働者達を実質的に「食い物」にしていきます。しかし主人公は「私が斡旋してやらなきゃあいつらは無職でくいっぱぐれるだけじゃないか、私は感謝されるべきだ」と自己正当化するわけです。怖いのがそれがこの自由主義経済の中では「一理ある」ロジックだということ。でも、やっぱりそのロジックだけだと主人公は自分を維持できない。心の中は引き裂かれ、矛盾していくわけです。その矛盾が実に分かりやすく描かれているのが素晴らしい。斡旋屋商売で移民達の労働力を安く買い叩きながらも、家族持ちのイラン人移民を家に呼んで助けてあげたり、ポーランド移民の青年に純粋に恋したりする「矛盾」した行動をする主人公がとてもリアルで痛々しいのです。エンタメ的な「一貫性のある主人公」ではなく、矛盾と葛藤に引き裂かれた主人公が「引き裂かれたまま」提示されている。

 あとは「世代間の断絶」もしっかり描かれていて感心させられます。「30年同じ仕事を続けてきた父親」と「30になるまでに30も仕事を変えてきた娘」の対立、「自分の幸せに貪欲で全てを手に入れようと奮闘する母」と「母の愛に飢えた孤独で純粋な息子」のすれ違い。こういうキレイな構図をサラッと見せるあたりもケン・ローチは達者です。そんなにズドンと見せるわけではないのですが、しっかりわかる形で見せてくる。

 傑作(だけど極めて見るのがしんどい映画)「麦の穂を揺らす風」とかもそうですけどこの人の映画を大画面で見るのは正直辛いんでDVDが丁度いいですな。普通の映画では人間の倫理的葛藤や、暴力などは「ドラマチック」に描かれることによってある種の非日常性を獲得し、視聴者を少し安心させてくれるのです。しかし、ケン・ローチはそういうところを結構「普通」に見せるので(多少は盛り上げて演出しますが、基本的には日常の地続きの中で暴力や倫理的問題がそのまま描かれる)、映像に「非日常性」が生じないんですな。「エンターテイメントとしての暴力」ではなく「我々の世界に普通に存在する暴力」が淡々と提示されて、シーン的にはそれほどのものではないのにとてもイヤな感じになります。

 それでいて「戦う女性」としてのエネルギーや美しさに溢れた主人公は実に「映画的」なんですけどね。リアルでえげつない世界を淡々と描いておきながらも「幸せになりたい」という一途な女の人の姿を見せるという一点においてとってもロマンチックでヒロイックな映画になっております。テーマ的にブレヒトにとっても近いものを感じますが、ブレヒトはもうちょっと熱い。ケン・ローチはやっぱりブレヒトとかと比べると溜息混じりに淡々と語る感じです。ロマンチシズムはブレヒト級なんですが。

 一番ゲッと思ったのが主人公の女性の年齢が出てきた時…いやね、自分の年と比べてみたときに色々とね。俺、恵まれてるなあとか思いつつも、イギリスに生まれてたら今頃死んでるかぶっ壊れてるかしてんじゃないかとか…映画には直接出てこないんですが主人公の別れたダンナの設定が「25才の時に働かなくなってテレビの前に座りっぱなしになってしまった男」という設定なんですが、正直この映画のイギリス見てると「まあ、そういう風になってもおかしくないんじゃないの?」と思えてしまうハードさがありまして。とりあえず来週締め切りの仕事をマジメにやらなければと思った次第であります。

6/19

薔薇の木に薔薇の花咲く。
なにごとの不思議なけれど

―白秋

○達者で才ある人というものは、時代ごとにちゃんといるもんですな

 こちら

 ああ、この絵を描く人が岸田メルって人なんだ、と初めて絵と名前が一致した。しかし見事ですなあ。「The scene changes」すら起きてしまうのではないかと感じさせる1枚ですよ(意味不明)。ぜひぜひハイクオリティ作画アニメでこの人のキャラが動くのを見てみたいですなあ。絵師様のサイトはこちら。

6/10

立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい

健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい

― 吉野宏

○武田日向「異国迷路のクロワーゼ」2巻

 絶好調であります。武田日向氏は元々絵の繊細美麗さ可愛さにおいては右に出るもののない作家さんでありましたが、過去の漫画作品においては「ハートフルな物語を作りたい」と思うあまり、設定や展開を細かく構築することに手が回らず、若干シンプルに物語を作りすぎるきらいがありました。しかし、この「異国迷路のクロワーゼ」ではキャラクターの設定や世界観の設定をかなり密に作っており、ストーリーにも奥行きをしっかり持たせつつ、持ち前のハートフルで温かい物語作りを実現させている。元々水準の高い作画とあいまって大変見目麗しく、心和む良い作品になっております。1巻が出た時も言いましたがポスト「ARIA」の大本命はこの作品のほかにありますまい。問題は、あまりに作画が美麗すぎてアニメ化などのハードルが高すぎるということでありましょうか。素晴らしい。この調子で是非とも巻を重ねていってほしいシリーズであります。

○都戸利津「環状白馬線 車掌の英さん」

 こちらも素晴らしい作品であります。ヨーロッパの町並み、美形の車掌さん、しっかりと構築されたシンプルな人情話、人生を見つめる大らかな作り手の視線に心温まる漫画であります。照れ屋でプロ意識の高い車掌の英さんのキャラクター造形が素晴らしい。作者のテーマ語りモノローグが長いのは「花と夢」ならではといったところでしょうか。こちらも、ポスト「ARIA」の有力候補としてぜひともアニメ化してほしい作品ですが、どうやらこれ一冊でとりあえず打ちとめみたいですな。残念です。

○山口舞子「カギっ子」3巻

 母と子の「好き」という気持ちを温かく描きながら笑いを適度にまぶしてくれる佳作四コマであります。この巻でもバカキャラ役の母ちゃん、ツッコミ役でありながら同時にボケもこなす主人公、クールだけどボケをかます桂先生の三人が息の合ったところを見せて笑いを作ってくれます。良く考えると、この三人のキャラの分担って「もうすこしがんばりましょう」と似てるなあ。

 残念なのは「もうすこしがんばりましょう」に続いてこちらも最終巻ということ。もっと続いてほしかったんですが…山口舞子の仕事を拝めなくなってしまわないか若干心配であります。この人は「バカな女の子を温かな目線で描くことができる」貴重な作家さんなので、ぜひとも活躍していただきたいところですが。ネタの引き出しが少なめでマンネリ化しがちなところが珠に瑕ですが、この人の場合は大いなるマンネリズム・ワンパターンを延々と続けてくれるほうが良いかと思います。

○新機動戦記ガンダムW「パーティー・ナイト」

 前回、父親(というか育ての親)を目の前で暗殺されたリリーナ様、ただの気の強さと思い込みの強さが激しい娘さん(リリーナ・ドーリアン)から一挙に気丈で胆力のあるお姫様(リリーナ・ピースクラフト)へとスケールアップ。必殺仕事人少年ヒイロ君を前にしても、全くひるむことなく、むしろヒイロ君が押されまくりです。

 この回はリリーナ様とヒイロ君の関係性が転換するドラマチックな脚本を演出がなかなか上手に盛り上げています。素晴らしいのが後半Bパートのヒイロ操るガンダムとリリーナ様が向かい合うシーンでありましょう。「リリーナと向き合うガンダムの動き」によってパイロットであるヒイロの心を表現する演出は、モビルスーツという「人の 形をした兵器」をドラマチックに見せる上で最も効果的な演出といえましょう。表情に変化がなく、無骨な姿であるがゆえに、その動き、その姿はむしろ雄弁にパイロットの心を表現してくれるのであります。歴代ガンダムでも繰り返されてきましたが、このシーンもまたそうした名シーンに連なる感動を呼び起こします。

○最近はあと

 「はじめの一歩」と「蒼天航路」と「咲」を見ております。「はじめの一歩」はやっぱりいいですなあ。「蒼天航路」も予想以上に頑張っていて好感の持てる作りです。「咲」はもうちょっと闘牌シーン増やしてほしいところでしょうか。キャラのドラマとかよりも麻雀しようよ、みたいな^;

6/9

Welcome to the world we livin' in
You ain't been here before well come on in
You can thanks us by making sure you come again
Now you're welcome and next time bring a friend

―Asheru & Blue Black "Welcome"

○今更気付くなよということなのですが

 人間と人間の関係というのはお絵描きソフトでいう「レイヤー」的な多層構造になっていて、かなり繊細なものなのだなあということに気付く。なんか良くわからんたとえ方で申し訳ないが。

 要するにAという人がBという人に応対する時と、Cという人に応対する時には、その人との関係の深度や濃度によって心理やテンションなどが違ってくるわけです。これは当然のことなんですが、オトナというのは基本的に社交辞令を使うので表面的にはBに対してもCに対しても同じような態度をとるわけですよ。

 そうすると態度の違いというのは余程「仲が良い」というのであればはっきりわかるけれど、そうでないと結構微細な違いしかないわけ。判断のより所になるのは、声や口調や人物との距離の取り方やしぐさ態度などになるわけですが、そういうのって結構人によって色々違ってくるので必ずしも確定的な根拠とはなり得ない。

 結局のところ見ていて「なんとなくいい感じ」とか「なんとなく硬い・冷たい」とか、そういうニュアンス的なものを感知して判断するという技術がどうも求められるみたいである。これが俗に言う「空気読む」ということなんですかね。人と人が話しているという「ひとつの風景」には「その時の心理」「その時のテンションや興味の対象」「関係性の深度・距離感」など、色々な要素が重なり合っている。幾層ものレイヤーが重なって1枚の絵になっているような感じ。「人と人が話す」というひとつの風景には膨大な情報量が詰まっている。

 そういう風に思って人を観察していると、なんか今まで見ていた風景が結構違って見えてくる。「何を話しているか」という話の内容はレイヤーの中の「1枚」に過ぎない。そのほかにも「声・態度」「距離感」「雰囲気」「何が気になっているか」「気分、テンション」など、そういうことも把握できるようになると、かなり便利なんではないか。一枚のCG絵を見たときに、その絵が何層のレイヤーになっていて、どこがどうなっているか想像できるかのように。まあ、言うは易し行なうは難しで、わかっていてもこれが全然できないわけですが。ていうか、今までそもそも「レイヤー」だという発想すら希薄で、ひたすら「話の内容」に集中していたからなあ。まあ、それはそれで社会生活を適当に送る事は可能なんですけどね。そればっかりだと味気ないんだな、ということに最近ようやく気付きましたよ。面倒くさいなあ。

 実は自分は無関係で、客観的に話している人同士を観察する、ということであれば結構色々なことが冷静に分析できたりして、それはそれでなかなか味わい深いものなのです無責任に楽しめるから。しかしリアルというのは客観的に人を観察している時間なんかよりも、「自分自身が誰かと話している」時間のほうが圧倒的に多い。そうすると「自分」をコントロールしつつも、相手を観察し、「レイヤー」ごとの相手の姿をつかみ、それを考えながらレスポンスしていく、みたいな芸当ができないといけない。

 しかも、簡単に「レスポンス」とか言うんですが、この「レスポンス」だって人によってうまくいくやり方、いかないやり方ってのがあるわけで、そこら辺も考えないといけない。入力に加えて出力のしかたってのもやはり多様だし、どんな出力方法を採用すればいいのかってのはそのときそのときに瞬時に判断しないといけない。人付き合い上手な人っていうのは、こういうのを意識しすぎずに自然にできる人なのだろう。相手の心理やニーズ、関係の深度などに応じて、丁度良い接触レベルを選択し、丁度良い形でレスポンスできる人ってのは確かにいる。

 ただ、そういう人はかなり「感性的」なタイプが多く、何も意識せずごく自然に入力・出力ができているタイプの人が多いように思われる。努力してできるようになったというよりも、どっちかというとたまたま「良い環境で育った」「感性を磨く機会に恵まれた」感じの人が多い。理詰めでここら辺のことをしっかりと分析しながら即座に行動に移せる、みたいなタイプの人はあまりお目にかからない。管理人は知らないことについては理詰めでとりあえずはいくクチなので、脳の回転速度をもっと早くして理詰めで観察・分析を高速で実施して行動に移す、というスタイルを目指すしかないかみたいで、これは大層面倒くさい。今までは、かなり天然自然にやってきたのですが、いちどそういうことを「意識」しだしてみると結構面倒なんですな。ただ、意識し続けて行動してると、そのうち慣れて無意識にできるようになるってのはあるのでねえ。

 で、そう考えると「職場の人間関係に疲れて…」とかいう人の気持ちが結構わかってきたりする。マジメに目の前の多層構造化した情報を把握して高速処理して、それに対して適切なレスポンスを出力しよう、とか始終考えていたとら疲れるわそら。めちゃくちゃ高度な知的作業ですぜ。そういう作業やってると疲れるから「礼儀作法」とか「社交辞令」でとりあえず済ませて「レイヤーをいちいち解析しないってことにしておこうぜ」っていうのがオトナなのですなあ。しかし、「解析しないってことにしておこうぜ」と言ったところで、情報は発信されているわけで、そうすると「やっぱり解析しないと」と思ってしまう部分はあるし。管理人のように何にも考えずにぼんやりとしている人間はいいんですが、神経細かい人は大変ですなあ。

 しかもリアルの人間関係って複雑玄妙な上に失敗すると結構「取り返しがつかなくなる」とかあるわけで、緊張感もありますしね。しかもゲームレベルが高いから、いい思いできる人ってのはよっぽど上級者に限られますしなあ。Asheru & Blue Black じゃありませんが、ミュージックだけでグルーブできちゃうブラザー&ファミリーにウェルカムされてハッピーになれる世界だったらラクで楽しいだろうなあとか思っちゃうわけです。ああでもAsheru & Blue Blackのレベルにあわせてきちんとグルーブできるってのはそれなりに高度なのか…どっちが難しいか微妙。

6/2

in my shoes, just to see
what its like, to be me
ill be you, lets trade shoes
just to see what it'd be like
to feel your pain, you feel mine
go inside each others minds
just to see what we'd find
look at shit through each others eyes
But don't let 'em say you aint beautiful

― EMINEM Beautiful

○エミネム先生が新譜を出していたのですよ

 虚像と実像の間で揺れるリアル「デトロイト・メタル・シティ」人生(あんまりギャグになってないで結構かわいそうなところがアメリカ的)を送る我らがエミネム先生。「虚像の俺(スリム・シェイディ)のせいで女房や娘が傷ついちゃってさあ…」と名曲「When I'm gone」で愚痴って以来アルバム発表はなく、プロデューサー業やったり、新曲を思い出したように出したりしていたのは漏れ聞いていたのですが、このたびすっかりダメな方向に元気になられたようで新アルバム「Relapse」を発表されたそうですよ。

 活動停止中に実のオカンに「あの子のラップで語られてる母親象は全部ウソなのよ、あの子が売れるために創作したって私に言ってたし」とか恥ずかしいことを思い切りバラされてしまったり、曲の中で罵倒しまくっていた奥さんとヨリを戻す戻さないで騒いでみたり、となんだかすっかり「微笑ましいキャラ」と化していたので、そのまま微笑ましく娘とハッピーな生活でも送っていてくれれば客としても安心できるのですが、やはりそうはいかなかったようで。悪趣味とビョーキの最先端をいかないと気がすまないエンタメ職人根性大爆発のアルバムですが、こんなもんにエンタメを感じるほど若くもないので、あんまりなあ…睡眠薬中毒からリアルヤク中に病状が悪化していて過激化が進行しているのですが、この人の悪趣味や過激さは「過激さのための過激さ」「悪趣味のための悪趣味」って感じなので正直別にどっちでもいい。ブーンドックスのヒューイが指摘しているとおり基本「空っぽ」なので。

 ただ、そうした空っぽな悪趣味路線の中に突如として愚痴っぽく痛々しくしんみりする演歌的名曲を差し挟むのがエミネム先生の素晴らしいところでして。「空っぽ」であることの痛みとか切実さみたいなのを歌わせると天才的なのです。管理人はどっちかというとそれを目当てに聴いているのですが今回それに該当するのは「Beautiful」でしょうか。

 上述したのはサビの部分ですが、この「ill be you, lets trade shoes」というのは「Only the wearer knows where the shoe pinches」ということわざが元になっているものと思われます。「靴の痛いところは履いている者にしかわからない(その人の苦しみはその人にしかわからない)」というような意味で、それを受けて「俺の靴(俺にしかわからない苦しみ)とお前の靴(お前にしかわからない苦しみ)を取り替えてみようじゃないか」という歌詞になっているんじゃないかと思われます。素晴らしいのは苦しみ痛みを率直に吐露しながらも「But don't let 'em say you aint beautiful」と最後に入れてくるところであります。どんな人生であろうとも、それを「美しくない」などと他人に言わせてはなりませんな。いやまあでも、もうちょっとシアワセになってくださいよエミネム先生。案外「実像」と思わせているのも実は「虚像」で、本当の実像はシアワセだったりするのかもしれませんが。だといいんですけどね。

5/21

どこへ流れ着くのか
誰が知っているのか
暗闇の中も諦めなければ
光はきっと来るんだ
孤独と愛が戦っている

―「風とゆく」(白鯨伝説OP)

 エイハブ船長のドツキアイの回はよかったなあ。

○映画「パコと魔法の絵本」

 中島監督の撮った3作品の中で、シナリオ的に最高の完成度を誇る快作であります。シンプルかつテーマを率直に語るシナリオ、人物造形はお見事という他ありません。役者も皆力演しており、見ごたえ十分。問題はホンの完成度が高く、物語としての強度が強いが故に中島監督の「過剰な映像」が却って邪魔になってしまっているところでありましょう。シンプルなシナリオにはシンプルな映像がいちばんではないかと管理人などは思ってしまうのですが、それを中島監督作品で言うのは野暮と言うものでしょう。「孤独は愛に生まれ変わる(「風とゆく」より)」と高らかに歌い上げる映画。素晴らしい。

○ようつべでるろ剣のOP・ED集などを見ていて

 和月と古橋とラルク・アン・シエル(クスリだったかでちょいと活動が止まる前)はもっと色々高く評価されるべきだよなあと思ったり。ラルク・アン・シエルは個人的にはるろ剣の黒歴史「the fourth avenue cafe」がいちばん好きですが、代表作としては「flower」「Lies and Truth」でせうか。

 「なんだ、この若い姉ちゃんに媚びることになんの躊躇いもないコテコテの楽曲と歌唱は!」という感じでして、あざといのが大好きな管理人は絶賛して毎日聞いておりましたが周囲の人間にはイマイチ理解を得られなかった記憶があります。あの頃のラルクのあざとさは凄いですよ。今のほうが随分と芸術的ですよ。

flower

Lies and truth

 見よ、このファンへの媚びっぷりを!サービス業とはこういうものですよ!客のほしがるもんださんで銭を貰えるほどヨノナカ甘かないんじゃ!といわんばかりの素晴らしき関西芸人根性ソウル溢れる快作(いや別に褒め殺ししているつもりはなく、本気で褒めているのですよ誤解なきよう)。髪型に時代を感じますが。

the fourth avenue cafe

 この「the fourth avenue cafe」も「flower」路線をしっかりと踏襲している好作品であります。「大人の女性への切ない片思いに身もだえする男」にオンナノコが熱狂する、という世界観はこの頃から急速に勢力を拡大し、存在感を一挙に増していった「やおい」の感性と相似形をなすものだったように思いますがどうなんでしょうか。

 

5/19

みんなとは違うと言われ ここに入ってきて
そして やっとやっとここに慣れたのに ここも違うらしい
SION「12号室」

○難しいのですよ

SION−12号室

 なんとなくようつべでいろいろと聞きなおしておりまして。

 この「12号室」は大変難しい歌でして、いちおう結論から言えば名曲なのですが、引っかからないところがないかといえばそうでもないという。そして、それは恐らくSIONという歌手についてどうこう言うことの難しさにもつながっているのであります。

 この作品において語り手は障害者に関する描写で「そこは動物園だった」「変な形をしていた」「こんな奴ら」といったフレーズを使い、差別的な感情を隠そうとしていない。差別的なモノイイをしてはいけない、ということを言いたいのではないのです。それはある意味で語り手の「リアルな心」をそのまま言葉にしたものとして受け取れるので別にいいのです(曲の後半ではそのように思っていた障害者達とも語り手が仲良くなっていった過程が描かれており、語り手の心理が変化したと想像できる余地がある)

 しかし、この曲では「差別的感情を持つこと」それ自体が問題とされていないのですよ。語り手にとって「差別する心」「障害を持つ人間を異常視する感情」は「自明」のものであり、それを問題視するのではなく「それはそういうものである」として当然視するスタンスなのです。「差別する心」は批判されず、否定もされない。現実は現実として受け止める、それがSIONの歌に共通するスタンスであり「12号室」においてもそれは変わらない。

 ただ、この作品で問題なのは、「差別する心を自明のもの」としながら、「差別されてきた自分の孤独感」を語ってしまっているところなのです。無論、その孤独感に偽りはないし、語り手は「被害者」的立場にあったことでしょう。しかし「自分と違うものを差別する」という心理それ自体が自分の中にも巣食っている事を、あるいは「差別する心は当然あるに決まっている」という考え方にはらむ暴力性を、語り手は「問題視」しようとしていない。自覚しきれていない感じがあるわけです。「みんなと違うと言われ」てきた語り手は、障害者達を「動物園」呼ばわりする自分の問題に自覚的になりきれていないのではないか、とどうしても思ってしまう。

 SIONはかように「人間や社会の中に潜む悪意や差別や醜さを自明のものとして」歌うのです。そうした前提があることを受け入れ、その上でそれでもなお必死にマシな生を生きることを諦めない人間の気高さを歌うのですよ。それは素晴らしいことではありますが、しかし「悪意や差別や醜さを自明のものとして歌う」ということは「悪意や差別や醜さ」を「肯定」し、そうした人々の側に与してしまうことにもなる。自分の中にある「悪意や差別や醜さ」と戦うことを自覚できていないのではないか。そういう「危うさ」が少々気にならなくはないのです。

 無論、だからといってSIONに「社会的不公正の是正を!」と歌ってほしいわけではありません。そんなことを叫んだところで自分のどん底状態は変わらない、自分でなんとかするしかない、という絶望からSIONの歌はスタートしているのですから。だが、幾ら絶望からスタートしているからと言って、全てをただ「そういうものだから仕方ない」で済ませてしまうと、自分が「加害者」になってしまう危険性が出てきてしまう。自分を傷つけたものを「肯定」してしまうことになりかねない。肯定していいものと、しちゃいけないものがある。たとえ「被害者」になろうとも、自分は「加害者」にはならない、というような矜持は人には必要なわけで。そこらへんの「加害者になる危険性への自覚」のなさがちょっと引っかかるといえば引っかかるのです。これ、実は00年代以降の「泣き」系オタク作品においても顕著に見られる問題なんですけどね。

 ただし、この作品はそのあたりを抜きにしても素晴らしいと思うのですが。この作品が「障害者の話」であるかどうかはそれほど重要ではないのですよ。人の孤独の悲しみ、無償の優しさが孤独を癒す瞬間の奇跡とその喜び、それこそがこの作品の素晴らしさの核であります。リアリズムとセンチメンタリズム・ロマンチシズムが未整理なまま投げ出された姿は「男」を強く感じさせてくれます。リアルがわかっていないわけじゃない、リアルを受け入れられないわけじゃない。でも、それだけじゃやってられないのが男なのであります。優しさと残酷さが無自覚に同居する。その危うさを含めてSIONはSIONなのではないかなあと。どうも難しいのです。

○ガンダムW第3話

 入院中(というか軍施設に囚われた)ヒイロ君をお見舞いするリリーナ様のテンションの高いこと高いこと。なぜか軍人のお姉さんを「恋のライバル」視して張り合いまくるところとか、もう実に「困ったお嬢様」って感じで素晴らしい。ヒイロ君はヒイロ君で飛び降り自殺をはかるはずがリリーナ様のひと声で断念。いい子じゃないですか。

 もっとも、この回のメインはリリーナ様ではなく「ヒイロ×デュオ」「トロワ×カトル」のカップリング作りであります。どちらも「孤独な男と気が利く世話女房(男だけど)」という形式になっているなあと気付かされます。なんですか、デュオ君の面倒見のよさは。リリーナ様も少し見習っていただきたいくらいの面倒見ぶりですよ。昔のテレビドラマよろしく「一番盛り上がるところで主題歌が流れる」っていう演出がとられていて、かなり懐かしい。で、主題歌が流れるいちばん盛り上がるシーンってのが「カトルとトロワの初めての出会い」と「ヒイロとデュオの二人旅」なわけですよ。オンナノコ目線で作ってますなあ。

5/12

楽しみは貧しきにあり梅の花

 貧乏人は花を見ろ。薬包紙に俳句を書けば文化的生活だ。

○最近は薔薇が良く咲いている

 あ、黄薔薇だと紅薔薇だ白薔薇だサーモンピンクだとか言って喜んでいるわけですよ。若い頃は花なんかどうでもよかったものだが、最近、自転車で駅に向かっていたりするときについつい花に目がいきますな。なんというか「タダでいいものを見られる」というコストパフォーマンスのよさにおいて花鳥風月というのは並ぶものがないのではないかと。ほら、キレイなお姉さんとかは歩いていても滅多にいないけどさ(失礼)、キレイな花とかカワイイ鳥とかはすぐに見つかるわけですよ。あとキレイなお姉さんはジロジロ見るとストーカー扱いされるけど、キレイな花とか鳥とか月とかは幾ら見ても何も言わないしね、太っ腹だ。美術品はいいんですが、本物見るのにはソレ相応にカネかかるし、かといって図書館の本とかで見るのはちと味気ないし。結局、花鳥風月がいちばんコストパフォーマンスいい。

 まあ、そんな感じで自分の中の「花発見センサー」が鋭くなってきている。名前を覚えたりすると楽しいのかもしれんなあ。さすがにまだ自分で育てようとまでは思わないのだが。でも部屋に花があってもいいかもしれないとか生け花って面白そうだなあとか少々思うようにはなってきてはいる。

 毎年恒例の田んぼの水入れ・田植えが始まりまして、家の前で毎朝WATER&GREENな良い景色も見られますし。自然の物というのはどうしてこう心が和むんでしょうかね。飽きないんだよなあ。

○「ガンダムW」第二話

 第1話以上にヒイロ君&リリーナ様の突拍子のない暴走キャラぶりが堪能できる話であります。特にリリーナ様のヒイロ君へのこだわりっぷりと来たら恋する乙女ではありませんか。「ヒイロは星の王子様?」と素でいえてしまうリリーナ様、最高です。ヒイロ君もヒイロ君でカッコつけてる割にやろうとしていることは「自分の失敗の尻拭い」というショボい仕事だったりするんですが^;まあその分、学園内でスポーツ万能っぷりをいかんなく発揮してファンにアピールしています。

 あと、ゼクスさんは意外と気配りの人だったんだなあとかしょうもない感想を。そうか兄が気配り名人だったせいで妹がのびのび育ちすぎて暴走キャラに^;

○なかなかためになった

生活に役立つ礼儀作法

 実践女子大のインターネット講座。タダで見られます。

 「畳のへりを踏んではいけないのはなぜか」とか「なんでいきなりガラガラっと障子をあけてはいけないのか」とか、結構「へぇ」と納得のいく話が聞けます。あと「作法は作法としてあるが、大事なのはその場の空気を悪くせず、その場にいる人を和ませること。そのためには、多少決まりごとを崩してもいい。最優先すべきは礼の心」という先生の話にはかなり納得。「作法がなってない」とか言って客や周りの人をクサすようなことをするのはおかしいやね。

 玄関のあがり方やら、下足箱に靴をどうやっていれるかとか、洋間での「上座・下座」の見分け方とか、お茶とお菓子の出し方とか、「知識として持っておくと意外と役に立つ」ものが結構あって、タダで見られるものとしてはかなりよろしいのでは。てか、いかに自分がこの手のことを知らないで生きてきたのか思い知らされますな。知識として知らないこともさることながら、この先生の言うところの「礼の心」みたいなもの自体がまずあまりになさすぎるというか。

 

5/11

○お絵かき話

 まあ、あまり進歩していないのだが一応やめずにダラダラと写真のスケッチはしている。最近変わってきたのは「男描くのが面白くなってきた」ということ。以前はヤローなんか描いて何が楽しいんだか、スケッチするならかわいい女の子だろうが当然、と思っていたのですが、ここんところなんか二枚目の俳優描くのも楽しくなってきた。なんというか自分の中の「いい男審美眼」みたいなものが養われだしたのかもしれんですな。まあ、いずれにせよなかなか上手く描けないのですが。

5/10

幸せは一人では歩かない いつも不幸せとつるんで歩いてる
だからこのどん底の横には 喜びの朝だっているだろ

思わなきゃやってられっか 信じないでどこに行けるよ
夜空の星達に「なあそうだろ?」軽口をたたいて

(SION「マイナスを脱ぎ捨てる」)

○かなうから望むのでもなく、確実だから信じるのでもなく

 望まなきゃやってられないし、信じなきゃどこへも行けない。だから望み、だから信じる。近代以降の希望とはそういうものとしてしかあり得ない。「やってみたいことがある」から「行ってみたいところがある」から、その手段として望み、信じてみる。どこかで何かが転倒してしまっているようにも思う。何かが倒錯してしまっているようにも思う。そこには間違いなく空虚がある。もう既に大切な何かが終わっているのに、それでもはじめなければならないという悲しみがある。

 その空虚と悲しみのリアリティは否定し得ないのだが、ただ、それに耐えて望み、信じる人間がいるのかもしれない。望みたいものだけが望み、信じたいものだけが信じる。選択の自由は与えられている。望むこと信じることに必然的に含まれている空虚と悲しみを受け入れることができないのであれば、望むことも信じることもやめればよい。そこには「望み、信じること」とは違う何か別の質の「幸せ」というものがあるのかもしれないと管理人は思わなくもない。望まぬこと、信じぬことを選択した人間を批判すべき「何か」はもうどこにもない。望み信じる自由と共に、望まぬ信じぬ自由も近代社会は獲得していたんだなあ。

 と、ようつべでSION「マイナスを脱ぎ捨てる」を聞いて思う日曜日の午後。いや、なんか予定していた仕事がつぶれてヒマでして。なんでも近代近代で済ませすぎですな。

5/5

Never same, everything but the name,
all fresh just like back then, how we do everyday
―Shing02「Luv(sic) pt.2」

○先入観とか思い込みをなくして物を見ることの難しさみたいなのを

 色々と感じる今日この頃。

 特に人間相手でね。こちらで「この人はこういう人」「こう思っている」と「決め打ち」して対応することにはメリットがあるわけですよ。相手をじっくりリサーチする時間が省略できたり、面倒なやりとり等をすっ飛ばしてほしい結果だけさっさとゲットしたりすることができることが多い。ただ、そういう「効率性」「結果追求」だけで終わらないような仲を構築したい時には、こういう「決め打ち」は却って仇となるところがある。むしろ「決め打ち」せずに、虚心坦懐に相手が本当に何を考えてるかと、実際にどういう考え方をしてるのかとかを探っていかないと、微妙なすれ違いが重なって結局「ダメだこりゃ」な感じが総体として形成されてしまうところがある。

 かといって「先入観をなくす」「決め打ちをしない」というのは実はなかなか難しい。なぜ難しいかとつらつら考えるに、要するに「先入観・決め打ち」ってのは「自己防衛」のためにやってる部分が大きいからってことではないか。目の前にいる理解不能な「他者」を「決め打ち」によって「自分の理解可能な「他者」」としてコード変換し、不安感をなくすことができるわけ。

 でも、目の前にいるのはやっぱり「理解不能な「他者」」なんだよね。それを「自分の理解可能な「他者」」に勝手に変換しちゃう時点で、永遠に縮まらない距離ができてしまう。相手がどうこうというよりはまず自分自身の「自己防衛したい、目の前の他者を自分に都合の良いわかりやすい存在として情報処理したい」という気持ちを抑えないといけないのだろう。憶病かつ防衛本能の強い管理人は極めて難易度が高い。「難しい/ほんとに難しい(SION)」

○「新機動戦記ガンダムW」第1話

 テレビ埼玉で「Gガンダム」の後作品として放映開始。

 「Vガンダム」以後のガンダムシリーズ最重要作は間違いなくこの「ガンダムW」であります。「Vガンダム」以降、サンライズの方向性を実質的に作った最大功労者は池田成であり、この「ガンダムW」なのではないかと思います。途中降板以降のクオリティダウンが残念ではありますが、90年代末以降のメイン視聴者層を「オトコノコ」から「オンナノコ」へとシフトさせたエポックメイキングな作品でありましょう。サンライズというメジャースタジオが本格的に「男子 向け作品」であるガンダムの視聴者ターゲットとして「オンナノコ」を設定した作品。男児玩具向けアニメとしては失敗作だったものの女子層から圧倒的な人気を得た「鎧伝サムライトルーパー」の方法論・経験則を池田監督は「ガンダム」という枠に流し込み、見事にヒットさせたのであります。この作品によってサンライズは「富野でなくてもガンダムで商売できる」という成功体験を獲得し、「富野ガンダム」の桎梏から放たれたのであります。近年のヒット作「ガンダムSEED」も、最近まで放映されていた「ガンダム00」も、全てこの「ガンダムW」の延長線上にある。「ガンダムW」をもって、サンライズは富野由悠紀を「葬る」ことに成功したのであります。もっとも完全に「葬る」のは無理だったみたいで、最近はしっかり復活してますが^;

 さて久々に見た第1話ですが、思っていた以上に「渋い」入り方をしていることに驚かされます。どちらかというと師匠(というかずっと一緒に仕事をしていた)高橋良輔のアニメに近い禁欲的な雰囲気すら漂う。

 しかし、こと「キャラクター表現」に関しては、やはり池田成のカラーが最初からしっかりと出ていますな。主人公のヒイロ、ヒロインのリリーナとも、アンナチュラルでケレン味のある台詞や動作を最初から連発しております。最初は違和感あるんですが、これが続くと病み付きになってくるのが池田マジック。「アンリアル・非現実的だからこそ魅力的なキャラ」「アニメの中でしか成立し得ないカッコよさを武器にするキャラ」を中心にすえた作劇術は、「リアリティ・現実性を重視したキャラ」による作劇を身上としてきた富野ガンダムとは真逆といえましょう。「物語にリアリティを求める時代」から「物語の虚構性を知った上で虚構としての物語を楽しむ時代」へとシフトしていく中で、富野は燃え尽き後に池田がやってきたのであります。まあ、そこまで大げさに言うほどのものではありませんが^;

 返す返すも残念なのは池田監督の途中降板。交代後もしっかりと面白いものを作ったものの、独特の「ケレン味・ハッタリ感」が薄くなってしまった印象は否めません。もし最後まで池田監督が続けておられたら、どういうエンディングになったんだろうか、OVAとかも、もっと面白くなったんじゃないだろうか、とついつい想像してしまうのであります。

 矢島、緑川、関など今でも活躍する声優の皆さんの若々しい演技を楽しめる作品でもあります。お勧め。

 

○映画「レッドクリフ」前編

 筋立てはどうでもいいな。男がひたすらカッコええ。男見る映画。金城カッコエエ、トニーレオン様カッコエエ、武将みんなカッコエエ、と男の顔見て惚れ惚れする映画です。中国人は趙雲が好きなんだなあ。

4/29

空が美しいだけでも生きてゐられると
子に言ひし日ありき
子の在りし日に(五島美代子)

 およそ「真実」というものがあったとして、そこに「美しさ」が入りこむ余地などあるものでしょうか。「空が美しいだけでも生きてゐられる」、なるほど美しい、そして嘘ではないでしょう。しかし「真の悲しみ」を前にした時、我々はそれがただ無力な「美しいだけのお題目」に過ぎなかったことに気付かざるを得ないのです。「見たつもりかよ/薄っぺらい深刻顔で/見たつもりかよ/2、3回うなずいただけじゃねえか(SION)」ご用心ご用心。

○「機動武闘伝Gガンダム」最終回から「ハーメルンのバイオリン弾き」を語る牽強付会

 未曾有の世界の危機も最後は「主人公の告白&乙女の純情」で全部チャラ!愛は世界を救った!めでたしめでたしで全てが終わる大団円であります。富野御大に「バカをやれる男」と評された今川監督が見事に「バカをやりきった」傑作最終回でありましょう。しかし今川監督はただの「バカをやれる男」ではないのです、彼の凄いのは「バカをやりつつも、そのバカさについて深刻に悩んでしまう」ところであります。

 というのも、斯様に能天気な「愛の賛歌」を作り上げた後に、今川監督が何を作ったかといえば「ハーメルンのバイオリン弾き」という大失敗作(管理人の中では「Gロボ」と並ぶ今川泰宏の最高到達点なのだが、まあ世間的にはねえ…)なのです。そして、そこで彼が問うたのは、Gガンダムとは完全に真逆のテーマ、「愛とは詰まる所エゴイズムではないのか」「愛は世界を破壊する業深きものではないのか」というテーマなのです。

 この作品のヒーローであるハーメル(とその父ケストラー)は「女を愛しながら、究極的には彼女を傷つけることしかできない男」であります。世界を滅ぼす大魔王としてしか生きていくことが出来ないのに、「滅ぼす対象である世界」の住人である女を愛してしまう悲しき存在なのであります。

 ヒロインであるフルート(とケストラーの妻・パンドラ)は「男を愛することを望みながらも自分の住む世界の秩序維持を選択してしまう女」であります。大魔王を愛しながらも結局は「世界を救えるたった一人の女の子」という与えられた役割を受容する他ない悲しき存在であります。双方は、お互いを求めながらも決して幸福に結ばれることはなく、「世界」と「愛」に引き裂かれて狂気へと至るのです。

 狂気の女・パンドラは己が娘・サイザーが魔族にさらわれる姿を見て喜ぶのであります。「サイザーと魔族を利用すれば、一度捨てた夫を取り戻せる」から。自分の娘が魔族にさらわれることすら喜びと感じる女など、かつて日本のアニメで描かれたことがありましょうか。泣き叫び、魔族にさらわれるサイザーを見ながら、パンドラは笑みを浮かべるのであります。さらわれた娘・サイザーは冷たい北の都で母の愛を求め、堕天使となり殺戮の道を選ぶのです。

 愛するハーメルを封印し、世界の秩序を守った少女・フルートの目からは生気が消え、彼女は自分が封印してしまった愛する男との思い出の世界に逃避します。石塚運昇のモノローグによれば、彼女はやがて「世界を滅ぼしてでも愛する男と再会したい」と願うようになる。愛ゆえに世界を破滅させたいと願うようになるのであります。この作品では「愛」こそが世界を危機に陥れる危険物であり、世界を安定させるには「愛」を殺さなければならないのであります。

 「真の愛は世界を滅ぼす禍々しきものではないのか」、Gガンダムで今川監督が貫徹させた「愛は世界を救う」という能天気なお題目が、ここでは真正面から攻撃されています。しかも、今川氏は極めてマジメに、率直にこの「愛は世界を救う」というお題目を攻撃しているのです。

 まあ、そんなこんなでGガンダムのネガとして「ハーメルンのバイオリン弾き」を見るのはどうでしょうかとまた黒歴史なアニメを必死に推奨しておきます。「ゴッドは黒歴史をこよなく愛するのです(寮長)」

4/25

愛よ勇気よ希望よ今こそ/ミラクルパワーを頂戴/ホーリアップ!

 マージカルプリンセスマージカルプリンセス赤頭巾チャチャって、もう若い子は知らんのかね。面白かったなあ。あの頃のリボン枠は今思うとどれも粒ぞろいで素晴らしかったですよ。そういえば姫ちゃんのリボンの支倉先輩やってたのは今話題の酔って素裸になったジャニーズのお方だった。超棒読みで逆に目立っていましたが。で、その流れでリーヤ君が香取君になったと。姫リボも赤チャもSMAPが主題歌&ED歌ってたな、アニソン歌手ですよSMAP。などと分かりにくいネタを枕にしてお題はこちら。

希望を捨てる勇気

希望について

 日本がこれから長期停滞モードに入るという予想は概ね同意。この国で最も強い老人層が「長期停滞で構わない」「俺達はとりあえず逃げ切れる、後はしらん」と本音では思っているわけですから、そうなる他ないのでしょう。成長して経済のパイ自体を広げて余分にカネが儲かると色々と解決することもあるんだが「清貧の思想」が大好きな人たちなんだから仕方ない。別に清貧が好きなのは結構なのだが、それだったら是非とも資産を国なり個人なりに贈与して本当に清貧になってから言っていただきたいと思わなくもないが、まあ人の金ですから言っても詮無きこと。

   >>救いのない状況に置かれたとき、人は「今ここに
>>ないもの」に希望を求める。

 というのは、現代においてはちょっと違っている気がする。それは近代以前の「希望」でして。基本的に「希望」というものは近代的理性獲得以前と獲得以後では違ってきているのではないか。近代的理性を獲得した段階で人間にとっての「希望」とは「そもそも達成不可能なもの」になっている。我々が理性的である以上、我々は「今ここ」に満足しきれず問題点を見出してしまう。そして「今ここ」とは違う「より素晴らしいどこか」を想定してしまう。これが近代的理性の持つ最大最強の業病であり、このズレこそが近代社会をドライヴする根源的エネルギーを生じさせてきた。

 平たくいうと「自分や周囲を自分と切り離して客観的に見てしまう目」とでもいいましょうかね。「自分の今の状況を客観的に見て、ついダメなところに目がついてしまう」というクセこそが近代人の業病の大元なわけですよ。そこが治らない限り人は決して完全に満足することはできない。常に「目に付いたダメなところが解決された状況」を想像してそこへ向かおうとする。到達するとまた「ダメなところが目に付いて」、そしてまた…という無間地獄こそが近代をここまで動かしてきたわけです。

 つまり、我々は既に本当の意味で「100%かなう希望」を持つ事ができなくなってしまっている時代に入って久しいわけです。かなったと思っても次の瞬間には「新たな希望」が生まれてしまう脳みそを我々は持ってしまった。理性を持つもの、思考するものに100%のシアワセはない。

 希望というのは近代突入以降、そういうものになってしまっていたたわけですが近代社会の多くの人々はそのカラクリに気付かないままずっと「希望」でドライブされてきたわけです。しかし、それが生んだ副産物としての闇(虐殺やらなんやら)とポストモダン思想は近代的「希望」のカラクリを実にあっさりと暴露し、それが人口に膾炙していく中で人は「希望」を無邪気に持つ事が不可能になってしまったというのが本当のところではありますまいか。

 さりとても我々は「希望」することでしか前進し、強く、美しくなる方法を知らぬのであります。我々は到達し得ない「希望」をそれぞれ抱き、その「希望」が破れる瞬間を見ることによって生きていく他ない。

 たまには宣伝しますと、ここら辺の話を管理人はいちおう漫画「キネマ」シリーズを通じて書いたつもりでして。近代社会をドライブしてきたのは突き詰めて言うと「希望」と「恋愛」であり、「キネマ」は「希望」についての物語でして。近代の「希望」は到達不可能性を内在していますが、それをなかったことにして前近代的な古きよき「希望」を持とうとしても近代人にそれは難しい。だから「希望が人に及ぼす効能」という観点から「希望」を見るしかないよね、という話であります。

 ちなみにもひとつ宣伝しておくと、同じく管理人の原作漫画「妖精の丘」はどっちかというと「救いのない状況に置かれた時に人が抱く希望」の物語です。作品的に見ると「キネマ」のほうがシンプルで無駄がないように思うかもしれませんが、テーマ的にはどちらかといえば「妖精の丘」のほうがシンプルで、「キネマ」は相当ひねくれているつもりであります。特に3とか5はひねくれすぎてネガティブになりすぎたかなあとかちょっと反省を感じたりもするのですが。「偽薬で効くんだから長期的にはむしろそれでいいんじゃねえの」という投げやりな結論(いや、いちおうまじめに考えた結論としてこれしかでてこなかったわけですが)なので、もうちょっとなんとかしないといけないなあとは思ってるんですが。いまいちこれ以上のものが思い浮かばないのですが。

 ただ、どっちかというともうひとつの近代社会のドライブ源である「恋愛」をどうにか作品にできないかと思ってたりしておりまして、現在進めている合作2作品は、奇しくもどちらも恋物語だったりするのであります。ただ、もうこちらのほうはさっぱりわからん、というのが本当のところでして。マリみてはいいですね本当に。でもマリみても「ロマンチック・ラブ的関係の虚構性・永続性のなさ」に自覚的だからなあ原作とか読んでると。今野先生は「いずれなくなるものだから、今だけは」というメッセージ性を常に織り込んでくる。

4/21

○映画「いのちの食べ方」

 食料生産という「命を奪う行為」がいかに工業化・機械化され、無味無臭な行為となっているかというのを見せたかったのではないか。ひよこや鶏が工業製品よろしくベルトコンベアーに乗り、仕分け、箱詰めされていくシーンとか、淡々としていてなかなかホラーな感じが出ているといえば出ている。

 まあ、ただ「どんなに機械化・無味無臭化しても、命を殺し・食らうという行為はタイヘンなことなんだなあ」ということが逆によくわかる映画なんですが。牛が電気ショックで屠殺される瞬間のシーンとかが印象的だった。棒を額にぶつけると牛がクラッとして絶命するという一瞬間のシーンなのだが「死んじゃったなあ」というのがはっきり分かる。「本物の「命が消える」様子をフィルムで見せる」ってのは動物とはいえやはりインパクトあるなあ。「岸和田少年愚連隊」で石倉三郎扮する主人公の父親が野生動物モノのテレビ番組(狩りのシーン)を見て喜んでるってのがあったが、よく考えると映像で本物の「命のやり取り」を見られる機会って動物の生き死にくらいだよなあ。

 ただ正直、これにそんなに賞をあげなきゃいけないもんかね。ちょっとキツめの「第二アサ秘ジャーナル」というのが正直な印象ですが。「第二アサ秘ジャーナル」の「大人の社会科見学」がいかに良い番組か、というのが分かりますな。あれは良い番組ですよ。

○映画「ザ・マジックアワー」

 複雑な背景や人間関係を説明するため、序盤どうしてもスロースタート気味にならなければならないのが三谷作品の欠点か。しかし、若干平板な序盤を乗り切った後はコメディーの面白さ・人生のしみじみしたドラマが加わり、見せ場・山場も盛り上がり、ゆっくりと面白くなってクライマックスに至る。終わりよければ全てよしの法則で、序盤の不満もあまり印象に残らず、最後まで見ると満足度の高い作品として観客の心に残る。前作は若干「あれもこれも」と詰め込みすぎたところがあったのだが、今回は色々な要素を詰め込みすぎず「腹八分目」の余裕を持たせてお客を帰らせる映画となっていた点も評価高し。監督デビュー作の勢い・面白さはないのだが、逆に「ウェルメイド作品を確実に作れる映画監督」として大成・円熟しつつある感じが頼もしく、嬉しい好作品となっております。俳優・佐藤浩一の魅力を引き出したフィルムとしても評価されてよいのではないかと思います。

4/15

○マーマレードは別にパンに塗らなくてもいいことに気付く

 実にどうでもいい話。

 管理人は「朝食は果物と紅茶のみ」という生活を始めてはや数年が経過しておるのですが、時折「果物が切れる」ことがあるわけです。そうした時にどうしたものかと軽く悩むわという話。

 本日の場合は冷蔵庫にキウイが残っていたのだが、どうもまだ硬くてまずそうなのでイヤだったので、なんか他にないかと冷蔵庫を覗いてみると、ちょうどおりよく人からもらったマーマレードがありまして、パンでも焼いてマーマレードでも塗って食べるかと思ったわけです。

 しかし、困ったことにパンが二枚しか残ってない。二枚あれば一枚使えばいいじゃないかという話なのですが、管理人は「昼食は特別なことがなければサンドイッチ」という生活をこれまた数年ほど送っておりまして、できれば二枚のパンは残しておきたいところ。パンくらい買いにいけよ。

 それでまあパンは食いたくないし、かといって他にめぼしい朝食候補もないしさて困ったと思っていたのですが、ふと「よく考えたらマーマレードはマーマレード単体で食べたっていいんじゃないだろうか」と気付きまして。紅茶にマーマーレード入れればロシアンティーなんだから、入れないでそのまま食べて紅茶を飲んだところで大して変わらないじゃんと。

 でまあ、試しにスプーン4杯分くらいのマーマレードを食べてお茶飲んで、普通に朝食をいただけたわけでありますが、ふと「ああ、俺は今まで「マーマレードは必ずパンやクラッカーに塗って食べなければダメだ」と思い込んでいたなあ」ということに気付きまして。こんなどうでもいいところでまで、意外と人間は根拠のない思い込みというか習慣に捉われる生き物なのだなあとちょっと思ったわけです。我々が自覚していないところで「固定観念」というのは意外とあり、そういうのって時々「いや、別にそうじゃなくてもいいんじゃない?」とツッコミ入れておかないと知らず知らずのうちに己が行動を束縛し、自由に動けなくなるのかもしれない、などと数秒くらい思った朝食時だったのであります。

 おかげさまでお昼は無事サンドイッチを食べられた。レタスがなくなったので水菜を使いまして、その時も「よく考えると水菜も1束全部使い切らなきゃいけない法律なんかないんだから、サンドイッチには緑のハッパの部分だけ使って白いクキの部分は別の時に使おう」と気付いたりしました。意外としょうもない「〜ねばならない」が多いんだなあ私は。

○とりあえず今期は「咲」でも見るかなと

 得意技がカン→リンシャンツモってヤな子だなあ……絶対一緒にうちたくない^;

 なんで数多い新作の中で「咲」なのかというと「麻雀シーンがあるから」というだけなんですけどね。深夜アニメの佳作「アカギ」でマッドハウスが導入した「3DCG使って無駄にかっこいい闘牌シーンを作る」という演出が踏襲されていて、それだけ見ていても結構面白いので映像がモつなと。キャラクターの性格付けやドラマ性はスポ根部活モノの平均水準ってところなので、左程心動くものではないですが手堅くソツのない造りなので見られる感じ。

 原作借りてきて3巻まで読んだのだが「学生麻雀」なんていうあからさまにアンリアルかつ地味にしかなりえないジャンルを敢えてリアリティ無視で派手に華やかにショーアップしていて、それなりに楽しめる。麻雀の戦略・戦術はそれほど語られることはなく「キャラクターの心情・信念だけが極大化されて語られる」シーンが多いのだが、それは別にこの作品に限らず多くの麻雀漫画に見られるものなので問題なし(福本作品だってほとんどは麻雀の技術論じゃなくて精神論や心理ドラマだからね)。「けいおん」よりこっちのが楽しめるな。

○「へうげもの」8巻

 明智光秀の辞世の句に「下の句がない」ってことに利休が衝撃を受けているのだが、それは要するに「俳句の誕生」の衝撃ってことなのかな。いずれにせよ、この巻は利休の巻。古織もそれなりに活躍しているけど利休の存在感が圧倒的なので影が薄いですな。

 毎回だが、この作品の台詞は分かりやすく、それでいて耳に痛いものが多い。

あなたは世に何を広めたいのですか?
創ったものにて何をなさろうとしておりますか?
それがわからずば…創造する意味などなく…人々の心を打つことはないでしょう。
己を見つめ直しなされ、見つめて、削いで、最後に残ったものこそ、
古織好みとして真のわび数寄が扉を開きましょう。

とか

案ずることと行うことは違うのです
己が手を汚さずして理想を実現することなどできませぬ

とか、仰せごもっともです…と頭を垂れてしまう台詞が多い。素直に反省させられることが多いですなあ。

 利休死亡フラグが立ちまくりなんですが、淀君絡みのいざこざがあんまり出てきてないなまだ。「侘びさび」と真っ向歯向かうキャラとしては石田より淀君なんじゃないかという気がしますが。信長つながりだし。これからクローズアップしてくるのかな。

4/11

○リアリティゲーム

 というほどでもないのだが、最近1〜2週間やってること話。ここのところ、ようやく「リアルをより生きやすくするために何が必要か」ということをツラツラ考えるようになっておりまして。今まで考えてなかったのかよ、と言われてしまいそうだが我流でやりたいようにやってきただけで意外ときちんと考えてなかったのですよ。自分の好きなようにやってきて、まあそれはそれでそれなりにどうにかなってきたのですが、「もうちょっと色々と工夫すると、実は生きやすくなったりするんじゃないだろうか」ということにハタと気付きまして。野生児がようやく文明的な発想に気がついたといいますか。でまあ、そのトレーニング的にやってることがなかなか面白いので(ただし男限定)適当に。

 何をやってるかと言うと「コンビニやスーパーや飲食店のレジ&ウェイターの女の子を微笑ませることができるかできないか」という実にしょうもないことでしてね。もう完全にオッサンですよ発想が。しかし、これをいざ実践しようとするとそれなりに努力が必要なんですな。

 いちおう判断基準としては「無表情」「愛想笑い」「素で笑う」の三つで、最高点はもちろん「素で笑う」。最近は昔ほど「マニュアルの笑顔を作れ」指導はないので、こちらが何も仕掛けないと無表情な場合が多い。その中でとりあえず「愛想笑い」をゲットする、というのが最近アベレージになってきた。愛想笑いにも「困った愛想笑い」と「普通の愛想笑い」があり、最初のうちは「困った愛想笑い」が多かったんだけど最近はあまりそっちはでなくなってきてる。

 客商売の人なので「愛想笑い」をゲットするのはそれほど大変ではない。これがこのゲームのよいところである。「ちょっとしたやり取りの時にこっちが笑顔を見せる」「丁寧に目を見てお礼を言う」といったことが自然にできれば大抵の女性は笑ってくれる。ただ、実はその前段階として「暗い顔をしていない、オーラを出さない」「カジュアルにせよスーツにせよ清潔感がある」「声がはっきりしている」ってあたりをクリアしていないといかんみたい。テンション低い時とかだと意外とうまくいかない。別にハイテンションでいる必要はないが、あんまりにも暗かったりテンションがフラットだったり低かったりすると女性はちゃんとそういうにおいを察知してくる。むこうが疲れてて無愛想なだけって場合もあるが。

 でまあ、いちばん難しいのは「素で笑う」をいかにゲットするかでして、今まで一度も「あ、素で笑った」と思うことなかったんだけど、先日、終了間際の回転寿司屋入って支払いやる時のレジの女の子が初めて「素で嬉しそうに笑った」(気のせいかもしれんけどな)のを見まして、なんか心の中でドラクエのレベルアップ音が鳴った感じでした。どうもお店的に「疲れてる」「少し面倒がおきてる」といった時に客が愛想良くお礼を言ってあげると、思わず顔がほころぶみたいです。

 あとはなんだかんだいっても外見だなあと。それなりにきちんとした清潔な格好してる時のほうがやはり女性の反応はいいみたい。

 難易度的には「おばちゃん(基本的にすぐ笑ってくれる)→元気のいい学生バイトの子(感謝されることが素直に嬉しい時期)→ベテランぽい人(営業スマイルが完全)→仕事に慣れてる若い女の子(愛想は時給と関係ないことに気付いた)→完全に鉄面皮モード(私は今マシンです状態)」といった感じで、大ボスの「完全に鉄面皮モード」は難しい。ただ「鉄面皮モード」の子も、たまたま同じ店に入ることがあって何度か顔を合わせると意外と緩和されたりする。

 無論、笑ってもらうだけでなんの発展性もないわけだが、愛想笑いだとしても人に笑ってもらえると男としては存外に嬉しかったりして(オッサンだなあ)気分よくなるもんでしてね。「愛想笑い」はそれなりにゲットできるので、結構ゲームとしては報いがあって楽しめるんじゃないかと思うのですよ。

 まあ、たぶん店の女性にとっては「変わった客・ウザい客」なんでしょうけど。笑顔になってもらう以外は迷惑かけないから勘弁していただきたいところ。他人の感情労働量を増やすなって怒られそうだが。

 で、こういうことやっててしみじみ思うのは「ああ、人の反応ってシンプルなところはシンプルなんだなあ」ということだったりします。シンプルじゃないところとシンプルなところの「区分け」が見抜けるようになると、もうちょっと過ごしやすくなるんだけどねえ。なかなかそれが難しいところ。

4/7

because reality is pain and it gains like a muscle 

― shing02「G*A*M*E」

○「真マジンガー 衝撃! Z編 on television」第1話

 うーん今川師匠完全復活かと期待したのだが、まだ本調子じゃないなあ。「見せ場の連続で観客の感覚を麻痺させるドラッグムービー」といういつものコンセプトでやってるのはわかるんだけど、ひとつひとつの「見せ場」が「見せ場として盛り上がって」ない。個々の「見せ場」の「説得力」「熱さ」が足りないから、いくらそれを連続して畳み掛けられても熱くなれない。

 なんでそうなってしまうかというと作画的な限界があるからってのが根本原因ではあるんだけど(要するに現場の戦闘力不足)、その戦闘力不足を考慮しないでトバシすぎてる構成にも問題がある。端的に言えば「戦闘が複雑すぎる」のですよ。「見せ場の連続」をやるには観客側に「説明はしてないけど今、ここではこういうことが起きているんだな」と頭の中で状況を把握してもらいながら見せていく必要がある。「見せ場」を続ける分、状況は十分に説明できないんだからその分、生じている状況をなるべく「単純」にして観客に勝手に理解してもらわなきゃいけないわけですよ。

 それなのにこの第一話は「主人公・兜君の戦い」と「光子力研究所防衛戦」が途中まで完全に分離された場所で行われているものだから、「今、どこで何が起きているのか」がものすごくつかみづらくなってしまっている。「見せ場」というのはシーンが盛り上がるのも大切なのだが、それ以上に観客のキャラに対する感情・共感・テンションが盛り上がるのが大切なわけで、それには最低限「今、何がおきていて、キャラはどういう心理なのか」をわからせる必要があるはず。その「土台」になる部分をあまりに軽く扱いすぎているため、盛り上がらないのです。

 あとは実は映像のテンション自体があまり高くないってのもあるんだけどね。まあテレビアニメでそれを要求しても仕方ない。

 キャラクターオールスターをやりたかったのはわからなくもないが、もう少し登場キャラクターを絞ってはじめたほうがよかった気はする。構成的にはしょっぱなで兜君を登場させず、「光子力研究所防衛戦」をひたすら盛り上げまくったあとで後半のいちばんのポイントで兜君&マジンガーZ登場、みたいな形にできればベストだったのではないか。

 やりたいことがわかるだけに、上滑り感が大変残念な第一話。Gガンダムの「東方不敗、暁に散る!」の回を見て号泣したばかりなこともあって、不満が残りましたなあ。マスターアジアかっこええ。

○春の新作

2009春の新作紹介ムービー

 いやはや便利な時代になったものです。スタッフもちゃんと見せてくれるし。気が利いてるなあ。

 再放送の「涼宮ハルヒの憂鬱」の映像が長戸だけ、というのに決着ついた感がありありと。原作はハルヒの元カレがどうこうとかで進んでないとか聞きましたが、もうどうせみんな長戸ファンなんだからハルヒに元カレがいようがいまいがどっちでもいいのではないかとか思ったり。そうもいかんのかね。

 残念なのは、これだけ便利になり、新作も相変わらずたくさんあるのですが、どうも加齢のせいかイマイチ盛り上がれなかったりすることであります。「reality is pain and it gains like a muscle」とshing02先生も歌っておられるとおり、リアルにあんまりかかずりあうと「リアルワールドのリアリティ」みたいなものの感覚がどんどん強くなってしまいまして(正直、嬉しくないんですが)「虚構世界のリアリティ」みたいなものにノレなくなってくるんですな。虚構はもう徹底的に虚構的でアンリアルなものであってほしいというか。まあ要するに「まったり萌えさせてくれる作品以外は、あんまり」みたいな感じになってきているところが。

 といいつつ、いちおうよしなしごとをいいますと、とりあえず「けいおん」は見たんですが、どうもノレない。管理人「げんしけん」もそうだけど「部活モノ」って嫌いではないけどそれほど好きになれんなあと。集団戦苦手だもんなあ。

 とりあえず「夏のあらし」が新房先生なのでちょいと気になるところ。「クイーンズブレード」とか「初恋限定」とかは作画がキレイなら見目麗しくてよいのかもしれませんが、この手の作品は第1話頑張って後は低速運転ってパターンが大体な気がしてイマイチ見る気にならないかなあ。

 あとは年食ったことを感じさせる作品がちらほらと。「シャングリ・ラ」ってあのシャングリ・ラですか?「グイン・サーガ」ってあのグイン・サーガですか?アニメ化ですか?年とったなあ、みたいな。で、どっちも「今更アニメ化といわれてもイマイチ盛り上がらないなあ」みたいな。

 あとは「戦場のヴァリキュリア」も見たんですが、普通に手描きアニメでがっかり。せっかくだからセガのトゥーンシェーディング技術をよい意味でも悪い意味でもドカンと見せつける次世代アニメにしてほしかったんだけど。はっきり言って手描きであんな架空戦記やられましても、別に今更特に感慨は。よくある角川ファンタジー系作品ぽくなってしまうだけで特徴でないんじゃないかなあと。セガなんだし、もうちょっと変わったことを…いやいいんだけど作画キレイだし。

 河森先生の「バスカッシュ」とかは作画的には面白そうですが、作品内容を聞くと「うーんまあきっとそれほど面白くはならんだろうなあ」という雰囲気が濃厚なので、たぶん一回見て切るかなあ。ハガレンとかも真面目に見れば面白いのかもしれんが。さすがに思春期の少年少女ではないので、あの作品で描かれる「痛み」にリアルに共感できるって感じでもないんだよねえ。むしろもうちょっと純情だったり一途だったりするところに生じる「リアル」だとか「痛み」にあこがれるようになるのがオッサンなわけですよ。嘘でもいいからロマン主義一筋でやってくれねえかね、みたいな。たとえばマリみてとかマリみてとかマリみてとか。あー早く原作の新シリーズ始まらないかなあ。

 あとまあ「こんにちはアン」が要注目ってことで。でも高畑勲みたいなマッドな人いないからなあ。テレビアニメ「赤毛のアン」はモンゴメリと高畑という東西の暗黒作家が出会った結果できあがった奇跡の傑作ですので、なかなか容易には超えられないでしょうしね。まあでも見てみるか。

○というわけで

 ここに書くことがほとんどない。いちおう考えているのは「週1〜2回で更新するお絵描き+雑記」スタイル、あとは「月1ペースくらいで時事系のカタめの本読んで、レジュメを出す」くらいかなあと。個人的に「カタめの本をしっかり要約・紹介し、関連知識・類書を紹介したり解説を加えたりする」サイトがないので、そういうのだったら自分でやりたいなあとか思うんだが、時間がかかるのでどうも。

 ウェブ日記というもので管理人が理想としているのは実はこちら。長期的にはこういうスタイルでいきたいなと。絵をもうちょっと精進しないとできないので、まだまだ難しいが。

 ま、しばらくは週1で新作アニメの感想でも気が向いたら。

  

4/1

○マリみて最終回

 ああ、終わってしまった…来週から何をよすがに生きていけばよいのか…とまではいかんですが、かなり残念。まりほりも終わってしまったし。

 瞳子の「祐巳様には、私の全てを知ってほしい」という言葉に如実に表れているとおり、ここで描かれている「恋愛」は「(トラウマという形で結晶化された)自己の全人格の受容を相手に求める」極めてヘビーなものなのであります。リアルでこれをやりますと「重い」「ウザい」と言われがち、相手にドン引きされて避けられてしまいがちな関係性を瞳子さんは祐巳さんに求めているわけです。勿論、祐巳さんはビッグなお方なので、余裕で瞳子を受容し、めでたしめでたしで物語は終わるのであります。

 こういう心性は通常「モテない男」の心性として指摘され、「そんなメガミサマみたいな女いないから現実には」と揶揄されるわけですが、管理人思うに別段これは「モテない男」だけの心性ではなく「近代的恋愛」そのものに見られる本 質的心性でありましょう。したがって、別に非モテ男性に限らず女性にも見られるものでありましょう。まあ、こういう「重い」関係を望む女性は、女性の中でもやはり非モテなのかもしれんですが、それは余計なお世話ですね。

 で、この「近代的恋愛」に見られる心性は基本的に「虚構でしかない」場合がほとんどなわけです。今回の祐巳さん&瞳子のような「幸福な事例」も無論、現実の中にあるのかもしれませんが、ほとんどの場合、人間は相手の全人格を受容するなんて立派なことはなかなかできんのですよ。エゴがありますので。リアルな異性はあなたを全て受け入れてくれるカミサマ・メガミサマになんかなってくれないからワガママ勝手な人間同士の相互補完・相互依存関係を面倒くさいけど ちゃんと構築しましょうね〜というのが現実なわけですね。まあ、そりゃそうだよねという結論になるわけですが。

 しかし、そもそも猫も杓子も「恋愛」するよう社会をドライブしたロマンチック・ラブ・イデオロギーをそもそも形成させしめたのは、瞳子&祐巳さん的な「重い恋」だったのではありますまいか。「近代的恋愛」と呼ばれるものは、むし ろ今回の最終回のような重たく、わけのわからないものだったはずです。瞳子のような見目麗しさと誰もが同情する過去でもない限りは決して受容され得ぬ不可解不条理なドグラマグラを相手にぶつけ相手が受け止めてくれることを祈念する、それこそが「近代的恋愛」の正当嫡子なのであります。

 無論、それは大半の人にとって適わぬ願いであり、オタクはだからこそ虚構の世界にその成就を求めるのですが。

 しかし最近思うのですが「別に全人格じゃなくても、自分の人格や感情をそれ相応に受容してもらえればそれで嬉しいし、シアワセにもなれるんじゃないかな」ということなのですよ。要するに「100点満点の受容じゃないと嘘だからボクはイヤだ」というのは、必ずしも真ではないなと。実は50点、60点くらいの受容でも人間それなりにシアワセを感じて生きられるようにできているわけです。そんなもんですよココロなんてものは^;

 そういう「テキトーな受容」の関係ってのは、案外大切でオタクや非モテをこじらせてしまうのは、そういう「テキトーな受容」すらしてもらえなかった(親や友人に恵まれなきゃ、そんなことはザラにあるでしょう)、あるいは「テキト ーな受容だけではどうしても満足できなかった」からなんでしょう。

 で、後者は基本的にどうしようもないんですが前者は結構どうにかやろうとすればどうにかできるかもしれんなと思ったりします。学校とかはそういうことをもうちょっと教えたほうがいいんじゃないですかね。礼儀作法とか話し方とか交 際術とか。「テキトーに相手を受容し、受容してもらう」っていうのをもうちょっとスムーズにできる「作法」を子供の頃から固めてあげたほうがいいんじゃないかね。まあ「クラスの中で自然と学べ」ってことなんだろうけれど、それだと弱肉強食で格差がきついからねえ。やってあげたほうがいいかもねと思ったり。

 そんなことを考えると「茶の湯」とかって、やっぱり大したもんだなあとか思ったりするんですが。マリみての話はどうした。

3/25

人はみな心と反対のことを云うので
だましたと泣く。
けれども自分も反対のことをつい云う。
人間はそうなのだ
だから結局人間は自分のこともわからない遊星なのだ

木の葉だって
人の顔だって
みな裏表はある。
裏のないのは水たまりくらいのものだ。

(永瀬清子「人はみな」)

○今週の「マリア様がみてる」

 田沼ちさと嬢ってアニメ版で今まで出てきたことあったっけ。ヘタ令様との半日デート話の時に出てきたかな。残念ながら由乃さんとの半日デート話は次週予告でサクッと流されてたので映像化はなさげですが。

 今週は前回に比べると作画水準は落ちましたが、それでも前々週までの「安定感ないなあ」という感じはなく、じっくりと見ることができる良い回でした。「瞳子が祐巳様への思いに任せて薔薇の館まで走るシーン」とかは映像と音楽がつくと山場になりますなあ。小説でも勿論良いシーンではあるのですが、やはり動きと音がつくと俄然盛り上がります。

 しかし、こうやって見ていると祐巳さんに好かれてる(実質両思いだ)からいいものの、そうじゃなかったら瞳子ってかなり困った暴走キャラですな。頭の中は自分と祐巳さん以外見えてない感じが大層よく出ております。

 まあそれを言ったら紅薔薇は全員暴走キャラなんですけどね。祐巳さんも祥子様もレイニーブルーまでは「頭の中はお互いのこと以外見えてない」感じだったわけで。どうも紅薔薇は蓉子様以外は激情型、愛情溢れすぎなキャラの系譜が続きます。てか、山百合会は良く考えるとみんな激情型か。みんないざとなると真っ正直というか、直球ストレート勝負な方たちばかり。

 まあでもあれですよ、虚構の世界でまで「本音を押し隠してスカしてスマートに惚れた腫れたの駆け引き」なんてものをやるのを見せられて、なんだかよくわかんねえ小汚ぇヌルいカップルができあがるのを見せられたって面白くもなんともねえですからね!恋愛は存在を賭けてダイブするもの、それがロマンチック・ラブ・イデオロギーというものであります。近代以降カミサマの代替物として恋愛が選ばれたのは、それが人間に熱情と狂気と欲望のドグラマグラを引き起こす「異常」なるものだったからでありましょう。山百合会の皆様は優れて近代的恋愛をしておるのであります。近代的恋愛とは「尊くあさましく無残なもの也(樋口一葉)」なんてことを瞳子さんの暴走を見ていると思ったりするのであります。当事者がせめて見目麗しくないと客としてはイタくて見ちゃおれんわけです(笑)

 まあ、そんなことはどうでもよくて来週はいよいよクライマックス。出生の秘密を明かし、自らの存在を祐巳様にぶつける瞳子。原作はかなり抑制的で静かな見せ方をしていたのですが、アニメ版は紅薔薇激情姉妹劇場のノリで熱く激しくやっちまってほしいものです。

○「少女ファイト」5巻

 本格的「群像劇」にしようということで主人公周辺のキャラの描きこみを増やしているのですが、そのせいでやや漫然とした感じが出てきてしまっている。恋愛話が多すぎるのも悪くはないけど、やっぱバレーをメインにしないとねえ。試合シーンはしっかり盛り上がっててさすがだなあと思いますが。試合中にツンデレ志乃さんをみんなでよってたかってデレに落とし込む辺りのドラマ作りとか、ベタだけどよかったです。

 面白かったけど「作品のスケールアップのため増築工事中です」という感じの巻でした。まあ、連載にはこういう時期も必要かと思いますので次巻に期待したいと思います。

 

3/24

近代日本語はたしかに旅をしたが
その言葉によって造られた人間は
どんな地平線と水平線を見たというのだろう
ぼくらが連れだされた世界は
死者と死語と廃墟に満ちていて
死んだふりをしている人間さえいない

(田村隆一「破壊された人間のエピソード」)

 

○よしながふみ「きのう何食べた?」2巻

 よしながふみの作品中、現在のところ最高到達点はこの「きのう何食べた?」ではないかと。「大奥」はもうちょっと先まで読まないとわからんなというところがあるので暫定ですが。結局、この人は「人生を丸ごと描く」よりも「人生の断片を鮮やかに切り取って深みを見せる」ほうが得意なのではないか。資質的に漱石ではなく蕪村ではないのかなと。

 てなわけで、この巻も主人公である筧さん周辺の「人生の断片」を味わい深く切り取って見せ、同時に味わい深い料理の数々を見せるという二正面作戦を展開。人間の「生活」がいかなるものであってほしいかを静かにナチュラルに、そして確実に描いております。大げさに言うと明治から始まった日本近代の理想的到達点がこの「きのう何食べた?」に描かれた「生活」であり、もしこれが達成できるとするのであれば日本近代というものが積み上げてきたものは、そうそう悪いものではなかったのかもしれないなとか思ったりもするのです。これはそれなりに真面目な話。

○「はじめの一歩」86巻

 宮田君つよっ!

○「GIANT KILLING」7巻

 相変わらず引っ張る展開というか「クライマックスのカタルシスに向けて観客にストレスや気になる伏線を与える」のがうまい。伏線で「先」を気にさせつつも、「現在」の試合展開も盛り上げるネタをきちっと仕込んでいて、実にソツがない。丁寧な仕事ですなあ。拍手。

○本丸を攻めに入りましたな

不良債権処理 米政府、最大1兆ドル買い取り目指す

 いつも書いているように財政政策は漢方薬であります。マジで不況をどうにかする気があるなら、誰かがツケを払い、血を流すしかない。問題は、市場がどれくらいのツケ、血の支払いを求めるかであります。とりあえず市場は好感で動いたみたいですが、さてはて。

 いずれにせよ「やるべきことをやってる」感は日本よりもある。実質のあることをやったほうが、結局、結果は早く出ますからなあ。金額は不十分なのでいつも言っているようにスピードが勝負のカギ。まあ、我が国はグダグダやりながらアメリカ様の回復を待つってところですかね。

○イチローかっこええ

 うーむ、かっこええのう、ええ男じゃのう。

  

3/18

○諸君、今週のマリみてはアニメシリーズ中最高の出来である。しどもど言わずに見たほうがよい。

作画の気合の入り方がいつもとは段違い。単に崩れない、安定しているというだけではない水準に到達している。ひとつひとつの芝居が分かりやすく、明確に表現されており、ポイントになる瞳子のアップショットがどれも美しく仕上がっております。瞳子及びその周辺の心理ドラマがとてもクリアに伝わってくる傑作回。シナリオも手堅く原作の心理的浮き沈みを表現していてよろしい。会話主体の動きの少ないシーンが多いが、キャラの心理にあわせて音楽や演出で盛り上げるべく頑張ってるところも評価高し。

 特に祐巳さんに言われて瞳子が「数を数えるシーン」は小説ではなかなか読者に味わわせることができない「時間」をじっくり使う演出で原作を凌駕する深みのあるシーンとなった。

 原作でもこの話は瞳子というキャラがツンからデレに反転するターニングポイントであり、これまで瞳子に対するフラストレーションを溜めていた観客を一挙に「瞳子の味方」に引き寄せる話であります。「祐巳―瞳子」編の主役である瞳子の魅力を印象付ける上で、この話が一番重要であるということをきっちり理解し、いつにも増してよい仕事をしたスタッフ達の識見と努力に惜しみない拍手を。管理人など原作の展開を知っているのですが、それでも30分間緊張感が途絶えることなくひきつけられました。原作に寄り添いながら、原作の持つパワーを「増幅」させ、ドラマ性を深化させて味わわせてくれた素晴らしい仕事です。「原作つきアニメ」の模範解答のひとつとして記憶にとどめられるべき傑作回。朝から(録画だったので)大変良いもの見させていただきました。ありがとうございます。

3/4

○今週のマリみて

 個人的マリみてシリーズベストシーンのひとつ、「由乃さんのそういうところ、好き」が炸裂する回であります。さすが生徒会長になる人はビッグですなあ。オイラも志摩子さんの如き深く広く揺らがぬ心の持ち主になりてぇもんでございますよ本当に。てか高校生にしてこの人格者っぷりはどうなのだ、本当に。何食ったらこういう人になれるんですかね。精進料理か。

 さて、感情論を爆発させる由乃さんなのですが意外と「小技が利く人」だってところを今回も発揮していて、バランスの取れたキャラクター描写になっております。生徒会選挙に立候補した後の瞳子のクラスの様子をすばやく察知して裕巳さんに御注進、喋るふりをして教室を偵察させるあたりとか、気のつく人ぶりを見せてくれます。ええ子ですなあ。

 ええ子といえば乃梨子の良い子っぷりも際立つ回ですよ。瞳子を呼び出して真っ向勝負を挑むわ、「私、瞳子が好き。友達って呼んでくれて嬉しかった」なんてキレイ台詞を平然と言うわ(ここら辺、お姉さまの薫陶を受けた成果ですな)、演説会前のお姉さま応援しまくりな様子とか、いつの間にこんな良い子になったのだと思うくらいの成長ぶり。

 とまあ、毎度ながらええ子やなあええ子やなあと言いながらマリみてを見とる日々であります。まあ虚構だから当たり前なんだけど、マリみてのキャラクターってみんな「わかりやすい」んですよ。「表の顔とは違う秘められた心がある」って点では現実と一緒なんですが、実はその「秘められたところ」ってのが現実と違って凄く「読みやすい」わけです。裕巳さんだけではなく、実は全員が極めて「読みやすい、分かりやすい」キャラクターだってのが、マリみて世界の安心感を作り出してるんだなあ。現実はねえ、ほんとにもうわけわかんねえっすからね。てか、「読みたくもない、わかる気すらおきない」みたいな(こらこら)

 とまあ、現実を嫌悪していないで、ちゃんと志摩子さんみたいなビッグなお方になるべく精進しないといかんなあと殊勝に思っておる今日この頃。back to reality(エミネム)は面倒ですが、まあバーチャルリアリティだけで生きられる世界はまだ到来していないので、止むを得ん。

○山口舞子「もうすこしがんばりましょう」5巻

 なに、もう完結か!3〜4巻で、キャラを増やし「学園モノ」フォーマットにリファインし、それが軌道に乗りつつあったのになあ。ちょっともったいない。ちょっとキャラを増やしすぎたところがあって、その弊害はこの巻とかでも出ているが、それでも十分に面白いんだけどなあ。たしかにネタの枯渇というか4コマじゃなくなってるというか「キャラで笑いを取る」以上のモノがないっていう感じは明らかで、ここら辺で終わっといたほうがラクってのはわかるんだけどね。でも、こういう作品はここから粘って平然とマンネリなキャラものを更に10年くらい続けてくれると、すっごく味のある作品として愛されるようになるのになあ。勿体ないなあ。

 まあでも、この人は「カギっ子」とか、他の媒体でのお仕事もしているので仕事を拝めなくなることはないでしょう。絵柄もかわいいし、ネタもバカと温かさが適度にブレンドされていていいし、今後ともご活躍を期待したい作家さんであります。

○ばらスィー「苺ましまろ」6巻

 もう完全にコント劇場ですな。絵柄の変化、背景の描きこみやディテールへのこだわりなども楽しみな作品です。千佳がフィーチャーされている「がんばれちぃちゃん」の回が素晴らしい。苦労人だなあ。アナが美羽に鍛えられてずいぶんとワイルドになってきてますな。

○入江亜季「群青学舎」3巻

 ここ数年の新作の中では群を抜いてレベルが高いシリーズです。森薫の「エマ」後期と一緒で「こういうのが描きたいんじゃあ!」という作家の欲望がダダ漏れの作品のオンパレード。傑作であります。漫画表現において最後に勝利するのは表現欲求に忠実な人間なのだなあと実感させられる濃厚で甘ったるい作品群の数々に拍手を。ただ、かなり欲望の「押さえ」が利かなくなってるところがあるので、ここらでオムニバスではなく、少し「枠」の制限がある連載作品に移行するってのはよい判断ではないかと思います。

 

2/27

○今週のマリみて

 年始にこんなもん書いたせいか、涙もろくなってしまっていけませんよ。裕巳さんを励ますべく、年始から集まってはしゃぐ皆々を見ていると、ああ本当にええ子達やなあとリアルに涙ぐんでしまう。自室のパソコンでいい年した男がマリみて泣いてるって、完全にヤバイ人だよ。

 微妙髪型になった由乃さんが久々にいいこと言うキャラとして活躍してまたのもよろしいですし。裕巳さんの夢を見た後にエンディングテーマを聞くとしみじみさせられますし。よいシリーズですなあ。

○雪が降ると思い出す

 というわけで、関東では午前中から雪が降っています。寒くて外に出られないので、雪が降ると思い出す現代日本至高の美文をお送りいたしませうかね。


 

 

 

 僕は間違ってばかりいたのです。愛というものや恋というものが如何なるものなのか、憶病と狡猾に二股をかける僕に解ろう筈がありません。愛しいと思う気持ち、慈しむという気持ちすら、僕が口にするのも滑稽です。でも、君。今宵は雪が降っています。どんなに塞いでいても、夜中に雪が音もなく降り積もる様子は、僕の心を甘い清らかさで満たしてくれるのです。僕もあの日の君と同じです。今、僕は、君に雪のことを知らせたい。外を見てご覧、ほら、雪が降っているよと、君に伝えたい。憶病な僕は本当のことを何も知りません。僕が真実だと思っていることは、全て巧妙な嘘なのです。しかし今、君に雪が降っていることを話したいことだけは、きっときっと、事実なのです。誰にも告げたくない。君だけに告げたい。嗚呼、そうなのです。僕も遅まきながらようやく解りました。雪が降っていることを君に伝えたいというこの想い。この想いだけを僕は大切にしていれば良かったのです。この想いだけが、哀しみも、悦びも、不安も、憶病も、未来も、過去も真実も嘘も蹴散らし、永久に絶対的価値を有するものだったのです。

 君はもういません。どうしていないのですか。僕がオズの魔法使いから勇気を授かったところで、もう、君の指に触れることすら出来はしないのですか。それは何故ですか。それでも僕は今、何時にも増して君を感じています。かつてないくらいに正直に、クリアに、僕は君の存在を感じているのです。雪が降っています。雪が降っています。伝えさせて下さい。君に伝えたいのです。雪が降っています。雪が降っています。雪が降っています。ねぇ、君。本当にご免ね。君にはもっともっと、いろんなことをしてあげたかったのに。僕はどれだけ、君の一生懸命さに報いることが出来たのでしょうか。

 この雪はどれだけ降り積もるのでしょう。四十日間、世界には雨が降って、方舟に乗ったノア達以外の者を滅ぼしたのだそうです。この雪は四十日間、降り積もりはしないでしょう。ここは、世界の終わりではないのです。

 

 ―― 嶽本野ばら「世界の終わりという名の雑貨店」

 


 

 大雑把な言い方になりますが80年〜90年代の少女漫画が到達した場所を実質的な意味で引き継いだのは嶽本野ばらと桜庭一樹だったのではないでしょうか(少女漫画自体は、80〜90年代を商業的洗練化という形で継承してしまい袋小路に陥っているように思います)。個人的にゼロ年代日本文化を語る上でこの二人は外せません。

 日本のよくわからんのは、この作品ではなく「世界の中心で、愛を叫ぶ」のほうがヒットしてしまうことでして。毒は毒のまま飲むべきなのです。そうすれば毒か薬にはなる。毒を薄めて飲んだら毒にも薬にもならんのです。いや、まあ毒飲まなきゃいけない義務はないからいいんだけど。毒にのた打ち回ることのない人生って、あんまり面白くもなさそうなんだけどな。余計なお世話ですねそうですね。

 

2/19

○今週のマリみて

 相変わらずキャラの作画が安定しませんなあ。「未来の白地図」の巻で御座いますよ。「瞳子、暴走」を上回る「島津由乃、大暴走」回となっておりまして、黄薔薇好きとしてはたまらん回です。今期のマリみてはユキヒロマツシタ監督時代よりもキャラの感情描写が直裁でわかりやすくなっており、由乃さんのような「元々感情表現が直裁で分かりやすい人」の描写はいっそう目立つようになりました。席順で有馬菜々と並んで座れないだけで拗ねて三つ編みいじりまくりとか素晴らしすぎます。蔦子さん、可南子さん、志摩子さん、祥子様などの気配り技をなぎ倒しまくりの島津由乃先生、天晴れであります。

 白地図如きで人生を悟ってしまう瞳子先生もツンデレ暴走キャラぶりを遺憾なく発揮しておられます。自己紹介で小公女をいきなり演じてみせたり、普通の会話の中でいきなり人生語りだしたりと、周囲を慮ることのない唯我独尊アーティストキャラっぷりが映像だとより際立ちますな。小説は文字表現だから瞳子さんのこうした言動の「違和感」が出にくいのですが、映像にすると常人とはかけ離れたトンでる女の子であることが鮮明になります。てか、祐巳さん意識しすぎですわな。頼まれてもいないのに人生語りだすって、どんだけ祐巳さんに打ち明け話したいんだと^;

 暴走した瞳子にプロポーズを断れ、最後は祥子様&祐巳さんの紅薔薇黄金コンビが抱き合って涙で〆。「でも、ちょっぴり切ないわね」とか「ごめんなさい、少し泣いてもいいですか」とか素で言いあえるこのお二人もやはり常識人からかけ離れたスペシャルな方々でありますなあ(笑)。

 さて来週はマリみて恒例行事の「祥子様のおうちでお正月」回。華やか艶やかで良いですなあ。

○村上春樹が文豪らしいことを言ってる

村上春樹講演要旨
ガーディアン誌の記事

 スカして「やれやれ」とか言わずに、堂々と賞を貰った上で公のスピーチとして「俺はお前らのやり方には与しないよ」と理解できる形で言ったんだから普通に偉いですよ。普通に偉い人を目にすることが少ないからずいぶんと騒がれてるみたいですが。

 ここんところの作品が「ヘタレ野郎のメソメソ節」というワンパターンからの脱却を明らかに目指していることといい、今回の発言といい「どういうわけか世界的文豪になっちゃった自分の運命」を引き受けようとしている気合が感じられて大変結構であります。もともと「作家とはなんぞや」みたいなことにやたらと自覚的な人でしたが。

 まあただそれで作品が面白くなっているか、文学的価値が高まっているかといえば正直な感想は「否」なんですが。もう別にいいですしね、そんなに面白くなくても。

 恐らく村上みたいな「世界中で読まれる日本人作家」ってしばらく出てこないだろうから「日本最後の文豪」として頑張ってええカッコしていただきたい。管理人は「風の歌を聴け」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「神の子供達はみな踊る」あたりで十分満足しましたので、別に新作とかどっちでもいいです。大江だって結局「万延元年」がピークだったわけで、そうコンスタントに傑作を出せるものでもありますまい。

 スピーチの中で「自作のテーマ」をサクッと要約してしまっているところがこの人らしい。でも実際の村上作品は「壁」とか「システム」とは何なのかってことを徹底的に分析する作業を回避し、隠喩と象徴でイメージ(主に「壁」や「システム」の理不尽さや残酷さの強烈なイメージ)だけを提示、作品としては「システムに傷ついた人間がスカした顔しつつメソメソしているところ」を物語として味わわせる部分がメインってのが常でして、テーマ意識あるんだったら、もうちょっとロジカルにやれば?とか思わなくもないのですが余計なお世話もいいところですね失礼しました。。

 個人的には村上春樹のメソメソ節があれだけ世界で売れるなら嶽本野ばら先生とかがもっと国際的に評価されていいと思っているのですが。あの美文調が翻訳しづらいというのはあるのでしょうが勿体ないですな。大麻でつかまっちゃったし無理でしょうか。

○景気対策

あらたにす「新聞案内」より

科学関連予算の金額と行く先は、10億ドルがNASA(宇宙開発)、30億ドルがNSF(基礎科学と工学)、20億ドルがDOE(エネルギー関係、高エネルギー物理、核物理)に、そして、8.3億ドルがNOAA(気象科学)である。

 しかし、それ以外にもある。科学ではなく、ヘルスケアという項目の下に書かれているのだが、100億ドルが健康研究とNIH(国立衛生研究所)の施設拡充に用いられる。

 さらに、エネルギーという項目の下にも、研究という項目がいくつか入っている。中でも気になるのが、25億ドル程度であるが、エネルギー効率と再生可能エネルギーの研究という項目である。加えて、化石燃料についても研究という言葉が入っている。

 以上を合計すると、200億ドル余であり、日本円にすれば1.8兆円となる。

 財政出動による景気刺激策は金かかる割には効果は薄いやり方だってのはもっともな話で、批判があって当然なわけですが、しかし1・8兆円を技術開発や研究にドーンとぶち込めるアメリカ政府に羨望を感じずにはいられないのであります。我が国も、もうちょっと「金は出すけど口は出さない」科学者のパトロンとして頑張ってくれないものでしょうか。伸江姉ちゃんの「金ねぇっつってんだろ」って声が聞こえてきそうですが。苺ましまろ6巻は今月末発売って何の話だよ。

日本市場ってどうしてこんなにクソなんだろうか

 財務大臣が辞めても市場は華麗にスルーし、デフォルトで「別に辞めたって大して影響出ないだろ」とみんなが思っている我が国ってマトモじゃねえだろ、という話。ごもっともです。

 しかし「世界に恥を晒した」と言っても、日本人記者ばっかりの中での記者会見だったわけで、特段「世界に恥を晒した」と言うほどのものでもなかった気がするけど。むしろ辞任したことによって世界でニュースになっちゃって本当に恥晒すことになってしまった感があります。まあ、もうこの国の大手マスコミにファクトの報告以外は何ひとつ期待してないのでどうでもいいですが。

ビッグ3の広告

 アメリカ人はこういうブラックジョークやらせると達者だなあ。

○本当の冬がやってくることになるのでしょうか

日本のGDPが12.7%減−日本経済メルトダウンへのカウントダウン

 世界に比べて日本はマシ、という話はどこへやらという事態になっております。いい加減「内需拡大」だけでどうにかなるとかいう世迷言はやめたほうがいいと思うんですけどね。

 今回のGDP下落は、外需縮小が主因です。
 本当に怖いのは、これが内需にまで連鎖することです。

 内需に比して外需の寄与度が低く見えるのは、外需の日本経済に占める比率が2割弱なためです。
 それでも1995年時点では、9%前後でしたから倍増しています。

(中略)

    内需型企業、なかでも中小企業は、利益水準も低く資金的余裕も乏しいため、売上が2桁も落ちるような事態になれば、ダイレクトに雇用・給与に波及するのは必定で、そうなれば本当に恐慌突入です。

    大規模な景気下支え策が絶対的に必要なのですが、日本政府の体たらくでは内需崩壊には間に合いそうもありません。

 結局、自己防衛せざるを得ませんが、その動きが広まれば「合成の誤謬」により、内需崩壊を早めることになるでしょう。

 しかしわかってはいても、個人レベルでは自己防衛せざるを得ないでしょう。管理人もいちおう昨年はコツコツ働ける時に働き、出費を押さえ、仕事先にいつもよりも愛想も売って来年もよろしくと顔を繋ぎ…と冬の時代を静かに過ごすための最低限の準備はしたのですが、さてはてやり過ごすことができるかどうか。

 激動の時代に入りつつあるということに「台風の前の子供」みたいなワクワク感がちょっとあったりもするのですが、現実はそんな甘いものではないでしょうしね。景気の悪化でイヤなのは人心の荒廃をもたらすことでありましょう。平時なら普通に生きることができる優しく弱く臆病な人々が無駄に傷つき、荒み、人間でなくなっていく姿を見なければならぬのはイヤなものであります。気の毒なことですが、すれっからしになりつつも己の心と矜持を守る他、人間であり続ける道はなく、できないものは人外魔境の世界に堕ちていくだけです。カネが途絶えると意外と簡単に人間は人間でなくなるものであります。ご用心ご用心。

2/13

○鎌倉さんが大変なことに

胡乱なページ

 村主×足立ペア成立は予想していたが、鎌倉さんが陥落するのか?それにしてもこの人は本当に「無茶な話を堂々と見せ」てくるよなあ。「無茶な設定の中で合理性・整合性を持たせるのに腐心する」という点で、ファンタジー作家にむしろ近い人なのかもしれん。とにかく、目が離せない展開になってまいりました。ええい続きはまだか。

2/11

○雪山は寒かった

 とても広いスキー場で、初心者な管理人でも安心して滑れてよかった。3年目にしてようやく道具を人から借りずに自分で(中古品を)揃えたのだがこれが吉と出た。道具をきちんとしたものにしたほうが楽しめるものですな。

○今週のマリみて

 各所で見られる顔作画の崩れが相変わらず気になるところですが、今回の話が個人的には今までの中でベスト。マリみてという作品が持つ「わかりやすい心理ドラマ」がたくさん堪能できる回でした。瞳子の外ヅラと内面を映像で表現するところとか、ベタだけど効果的で素晴らしいですな。あと、今回素晴らしいのは女の子達の細かい「気の利かせ方・フォローの入れ方」が丁寧に描かれているところであります。有馬菜々の登場に動揺しまくりのヘタ令様をフォローする祥子様だとか、瞳子を思うあまり暴走してしまう乃梨子をフォローする志摩子さんだとか、自分の暴走ぶりを反省する乃梨子に詫びを入れてフォローする由乃さんだとか、パーティー行きを断る瞳子をすかさずフォローする細川可南子嬢だとか、もう「座布団1枚!」と言いたくなる気の利く良い子ばっかりですよ。現実には、これほど人間の心理というのはわかりやすいものではなく、フォローの入れ方とかも、ここまでスッキリ爽やか的確適切になかなかいかんものです。虚構だからこそ形成できる理想的な「気配りワールド」でございます。ああ、どこかにこういう分かりやすい心理の持ち主ばっかりの世界はないものか(笑)虚構はいいよなあ、キャラがみんなわかりやすくてさ。

 今野先生の凄いところは、そういう気配りワールドを作っておきながらあっさりとそれをぶち壊し「気配りだけじゃどうにもならんのだよね。存在と存在をぶつけ合う覚悟がない奴はダメだから」と言ってしまうところであります。てなわけで来週は「瞳子、暴走」ではなくて「未来の白地図」でございます。いやあ、展開が速くてよいですなあ。

○まともな対策

米金融安定化策、官民で不良資産買い取り 最大1兆ドル

 不景気の時に政府や中銀がやれることなんて限られているのですよ。問題は「わかってる事をちゃんとやれるか」「マジメにやれるか」「さっさとやれるか」であります。

ガイトナー長官は演説で「銀行のバランスシート(貸借対照表)を健全かつ強くしなければならない」と語った。

 当たり前すぎるほど当たり前なことを言っているところを見ると「わかってる事をちゃんとやる」気はあるみたいです。1兆ドルで「マジメにやる」とアピールもしていますしね。ただし、ここまでは市場は既に織り込み済みでしょう。ポイントを稼ぐとすればどれだけ「さっさとやれるか」であります。お手並み拝見ですな。

 オバマの経済対策の二本柱のうち「グリーンニューディール」は漢方薬みたいなもので、メインはこの「不良資産処理」ですからな。新政権にとっては「いきなり正念場」であります。頑張っていただきたい。

 

2/3

○ちょいと雪山に

 行ってまいります。足を折らないように気をつけなければ。今年は不景気なせいかやたらと格安なところがあって、大変助かります。ああ、でも帰ってくるまで今週のマリみてが見れないのが辛い。

 更新が途絶え気味なのは、リアルで結構マジメにあれこれしているせいで、ネットに接続する時間自体が激減してるからでして。でも、時間はあるので単に時間の使い方がヘタクソなだけなんだよなあ…時間を有効に活用する方法をもうちょっと考えないといかんとほうぼうで言ってるのですが、言ってるだけでぜんぜん改善されないといういつものダメパターンにはまりこんでおります。

 

1/22

Mary,Mary,quite contrary,
How does your garden grow?

○新作「あなたの庭は」公開開始

 原作:管理人、作画:だいふく様による新作漫画「あなたの庭は」公開開始しました。よろしくお願いいたします。細かい話はまた明日以降にでも。

1/21

嬉しい事も、辛い事も
別れた友、淡い過去を
諸々、想い返すだけで
熱い涙 ぽとぽと
落とす程 心が綺麗なら
きっと 別の道を歩んでるんだろう

shing02(殴雨)

○「マリア様がみてる」4期3話

 妹オーディション前編。この話は由乃さんが牽引車役・乃梨子が影の主役という「黄薔薇・白薔薇メイン」回なので、三薔薇がバランス良く登場・活躍してよろしいですなあ。なにげに細川可南子嬢が涙ぐみ頬を赤らめ裕巳さんとおてて繋いであははうふふとするシーンなどもあり、大変見目麗しい30分であります。泣くといえば乃梨子も泣きますし。ああ願わくば管理人も朝目覚めたらリリアンの学生になっていて、お友達のキモチなぞに思いをはせて涙の一滴でも流したいもんですなあ。絶対ないけどな。

 それにしてもレイニーブルー及びその内情は学園中の共有知なのですなあ…注目度高いな薔薇様達。実に生活しにくそうですが、本人達はそれ程わからないものなのでしょうかね。

○オバマ就任演説

 感動的で訴えかけるものではあるが、具体性はゼロに等しい。まあ施政方針演説とか一般教書とかじゃないから具体性を求めるほうがおかしいのだが。

 しかし「俺達はどんな困難だって乗り越えることができるぜ、アメリカンドリーム万歳!」なんてマジで言う人物を大統領に選べるアメリカ人のある種の能天気さと自分達の力に対する信頼感、希望をあっさり持ててしまう楽天家ぶりは正直羨ましくもある。スレてスカしたやつになったって人生楽しくなんかないわけですからな。たとえそれで生き残れたとしても大した楽しみは待っちゃいないんだし。

○予定通りに行けば明日公開の予定

 新作漫画「あなたの庭は」は、作画さんとの公開準備打ち合わせも無事終わり、明日の夜くらいに公開の予定でございます。なにとぞよろしう。

1/17

○尾石OPアニメは必見「まりはほりっく」第二話

 要するに「まりあほりっく」が凄いという話です。参りました。第一話のED「君に胸キュン」は楽曲のアレンジが程よく現代的で大変よろしかったのですが、映像的にはやや細かい芸に走りすぎて映像と音楽のわかりやすいシンクロが作り出す快楽を味わうものとはなっていなかった(まあ、それでも昨日だけで30回くらいは繰り返し見たんだけど)

 で、第二話のOPですよ奥さん!なんですかあの異様にハイテンションな楽曲と、映像のカッコよさは!特に冒頭からマネキンが出てくるまでの導入部分の気持ちのいいことといったら!歩きやジャンプなどの「動き」と「音楽」が見事にシンクロするところとか、もう見てるだけで惚れ惚れさせられる。楽曲いいですなあ。エゴラッピンの「サイコアナルシス」聞いた時以来、久々にこういうハイテンションな曲でゾクゾクさせられましたよ。

 ただ、マネキンはちょっと手抜きかなあ…マネキンが登場しない部分の圧倒的クオリティの高さに比べると、マネキンが出てくるところはちょっとテンションが低くなるところがある。マネキンも手描きで見せるくらいでもよかったんじゃないだろうか。

 本編は「見せ方(演出)」でやたらと面白くしている感じでストーリー自体はそれ程のものは感じないのですが、でも「見せ方」の面白さだけで十分に見られる。うーむやはり新房×シャフトは鉄板ですなあ。

1/14

○「マリア様がみてる」4期2話

 裕巳&瞳子がおてて繋いで駆け回ってるシーンだけで素晴し過ぎて特に言うことはないのだが(毎回「瞳子ツンデレ劇場」ですな、今期マリみては)、やはり1〜2期に比べて全体的にキャラクターが細面・四角の「ディーン美形顔」に流れつつあるなあという印象。特に裕巳さんはもともと狸顔設定の丸顔キャラだったせいか、だいぶほっそりした印象。ただでさえ細長い細川可南子嬢は更に細長さが際立ってしまった。

 さて今回の「特別でないただの一日」は「細川さん家の家庭の事情」の話なのであるが、普通に「いい話」気味に処理されているのがやはり微妙。これは原作でも微妙だったので致し方ないところではあるが。祥子様の設定同様「身勝手な男に傷付く女性」という設定だからなあ。「母親が悪い」という説明台詞で逃げを打ってはいるがムリがありますわな。まあ短時間でこういうややこしい話を説明しドラマ的に処理するのは難しいので、これが限界ではないか。

 にしてもヘタ令様、ラストシーンで由乃さんと一緒に映る所以外、ほとんど出番なし。黄薔薇は3年生になると出番少なくなる伝統でもあるのか。となると由乃さんも3年生になると影が薄くなるのか。呪われし黄薔薇の宿命をふりほどけ島津由乃。

 ラストは紅薔薇激情姉妹劇場を濃厚に見せてくれ、小説同様次回へのヒキもばっちり。小説一冊分を1回でやってしまうのは贅沢でいいなあ。サクサク話が進んで、これはこれで面白い。管理人は「妹オーディション」あたりで新刊発行ペースに追いついてしまったクチなので、裕巳―瞳子のドラマはやたらと長く感じたもんですが、アニメだと結構テンポ良く関係性が描かれてスール確定まで一挙にいきそうな感じですな。来週は乃梨子の良い子っぷりが拝めそうです。瞳子が入ってからの乃梨子はそれまでの志摩子さん以外興味なしモードはどこへやら、一挙に他人の世話好きっ子へと変貌を遂げるのですよ楽しみ楽しみ。

○予告:新作漫画「あなたの庭は」が近日公開

 タイトルを聞いて名探偵ポワロを思い出した人はかなり好きな人ですな。workshop初登場のだいふく氏との合作漫画「あなたの庭は」が来週あたりに公開予定であります。金髪少女とイングリッシュガーデンと瞼の母の物語。お楽しみに。

○日記ですが

 正直マリみての感想以外、特に書くことがあまりない。他の新作がよっぽど素晴らしかったら書くこともありましょうが、まあそれ以外は水曜に一緒に書けばいいかな、みたいな。というわけで「水曜更新」がデフォルトになると思います。あしからず。

1/10

それが 大人になることなら ならなくていい
(貴島サリオ「私がそばにいる」)

○諸君「KEY THE METAL IDOL」が無料で見られるぞ!

Yahoo!動画

 日本アニメが栄光の70〜80年代を通過し、爛熟期を迎えつつあった90年代、当時の日本を代表するアニメスタジオ・スタジオぴえろの若手スタッフ達が発表した大野心作・あまりに愛すべき大失敗作である「KEY THE METAL IDOL」がヤフー動画にて無料公開中であります。

 管理人はこの作品を(作画水準と一部の演出を除いて)「優れた作品」であると言うつもりはない。正直「面白い」と言うのもやや憚りがある。ロクでもない作品であるといったほうが正確であろう。ひと言で評価すれば失敗作であるといわざるを得ぬほど破綻しているし、粗も多いし、見るのに忍耐が必要な部分も多い(悪く言い過ぎか)。

 だがしかし、このアニメを注意深く見ていくと「90年代〜2000年代前半に至るアニメ(及び日本)の全て」が描かれ、予告すらされていることに気づくことでありましょう。一級の歴史的資料として、そして90年代アニメーションのある種の充実ぶりを知る上で見て損はないと思います。とりあえずキャラデザインは今見ても可愛いので、それほど違和感はないはず。

 たとえば「エヴァンゲリオン」を語りたい若い人とかは、「エヴァ前史」としてこの作品を見ると結構役に立つと思います。

1/9

○1年前ですし

 旧ブログの記事になぜだか一昨日あたりからワラワラとアクセスが来て、消しときゃよかったと思う今日この頃。基本的にブログタイトルが全ての記事でして宇野常寛が「国内思想の輸入翻案業者」でしかないってことが広まればいいと思って書いただけなのですが。記事の内容自体は結構いい加減というかグダグダであります……まあ読めばわかるわなグダグダなのは。

 偉そうな言い草でアレだが宇野常寛氏は自説のネタ元を謙虚に提示し、それを基に作品評論を淡々としてくれる分にはそこそこ目端の利く良いライターとして業界に貢献できると思います。文化的雪かきは必要ですから。地道に泥臭い仕事をしてくれる人はいつでも歓迎されると思いますよ多分きっと恐らく。目端の利いたDVDのライナーノートとかちゃんと書いてくれる人がいるとDVD買うほうもちょっと嬉しかったりするわけです。

 尊大に振舞ってもそこここでお里が知れて失笑を買うなんてのは、ネタ元の宮台だけでいいんじゃないでしょうか。仕事を続けていけば勉強も自然とするし、色々な人に色々教えてもらえたりもして自ずと知識はついて良い仕事をするようになるのですから、焦らず地道にライター道を歩んでほしいものであります。東ヒロキだってデビュー作のオタク論は何もわかってない噴飯物な出来でしたが、最近の仕事は(社会的意義はあまりないものの)読み物としては悪くない水準だと思いますし。

○そんなことよりマリみて4期が

 はじまっているのですよ皆さん。監督交代で全体的に演技がアニメ的でわかりやすい動きになったのではないか。OPが二年生3人組メインなのは嬉しいですなあ。元気に動き回っている様子見てるだけで楽しい。EDは…中島敦子御大、「逮捕しちゃうぞ」といい、これといいどうしちゃったんでしょうか…いや、まあ綺麗だからいいんですけどね。ガチ百合っぽいのはどうも個人的に^;

 瞳子が早速ツンデレ爆発、裕巳はお姉さまの「あなたならできるわ」コールにスパークと、紅薔薇が中心になって作品をグイグイ引っ張ってくれております。由乃さんが何気ないシーンで細々と動くところとかもよいし、これがタダで見られるなんて日本はなんていい国なんでしょうか。いいやもう不景気でも。全て許す。

1/7

○映画「WALL・E」

 正月から出かけて1000円で見てくる。尺が1時間半なら名作だった。あまりに惜しい。愛すべき、しかし見るも無残な失敗作でありましょう。ピクサー作品始まって以来初の「本格恋愛映画」として途中まで申し分ない展開だったにも関わらず、作り手が「恋愛映画を作る」ことに自信を持ちきれず、結局は「恋愛映画を作りきる」ことができなかった。消費社会はダメだとか人生とはいかなるものだとか、いかにももっともらしい説教を入れるのはこの映画では単なる逃げであり、誤魔化しでしかないのである。そんなどうでもいい設定はこの映画の本質ではないだろう。あんたらが描きたかったのは「メカとオンナノコへの憧れ」であり、「メカとオンナノコに憧れるボク」だったんじゃないのか。なぜその初期衝動に素直にならずに説教を入れるのか。

 宮崎駿と同じで「メカとオンナノコのことだけしか語らないのはカッコ悪い、もうちょっとタメになるお説教もしなきゃ」というくだらない創作姿勢を悪い意味で踏襲してしまっている後半は見るも無残である。アホらしい。醜い男がメカとオンナノコに憧れ、近づき、結ばれる。それだけで十分映画になる。それだけで子供も大人も感動できるんだ。空々しい説教なんか聴きたかないんだ。

 というわけで、冒頭から「宇宙船の外での主人公達の宇宙ダンスシーン」までを見て、席を立つことをお勧めします。たしかにその後にもすばらしいシーンがたくさんあるのですが、全ては安い説教のせいで台無し。最後まで見ることなく幸福なる大宇宙のダンスシーンでその場を後にできる勇気があればこの映画は名作として胸に刻まれることでありましょう。

 空々しいお説教はやめなきゃいかんということを学ばされた点では勉強になりました。あ、CGはすごいよ。

1/3

cry baby cry

 管理人原作、かなへ氏作画によるお馴染み年始短編漫画「cry baby cry」でございます。短編というよりは詩のつもりなんですが。ポエムを平気で書くようになったら人間もうかなりアレですな(笑)

 要するに今年は「泣くしかないから我慢しないで泣いたほうがいいよ」という話です。涙とはある種の麻薬であり、リアリティからの逃避行動ではありますが、合法で健康的であります。

12/31

○2008年よかったもの一覧

 年々少なく、しかも偏向してきているのだが。ちなみに管理人が2008年にたまたま消費したものなので、製作年が今年かどうかは不明です。

○映画
「マイ・ブルーベリー・ナイツ」(ノラ・ジョーンズどうにかして)
「ダークナイト」(10年〜20年に1度出るか出ないかの大傑作)
「崖の上のポニョ」(ハヤオ先生超元気)
「ウェイトレス おいしい人生の作り方」(ラストシーンの奇跡)
「パラノイドパーク」(ガス・ヴァン・サントの映像詩)
「ボルベール<帰郷>」(変態監督の割と真面目な女性賛美映画)

○アニメ
「マクロスF」第17話の「星間飛行」を使ったOP(今年NO1)
「かんなぎ」のOP(ダンス!ダンス!ダンス!)
「コードギアスR2」(2008年及び現代アニメを象徴する作品)
「ひだまりスケッチ×365」(新房組の熟練技)

○漫画
「私のお嬢様」1〜2巻(なんちゃってヴィクトリアン四コマの快作)
「Giant Killing」1〜6巻(新時代サッカー漫画)
「へうげもの」(人間ドラマとしての深みも増してきた)
「おもいでエマノン」(鶴田謙二でしかもエマノン!)
「つぶらら」4巻(山名沢湖は個人的趣味としては最重要作家のひとり)
「当世白波気質」3巻(名作はひっそりと生まれ、読み継がれる)
「ジャイアントロボ〜地球の燃え尽きる日」(今川を復活させた戸田泰成は偉い)

○本
「とある飛空士への追憶」(本年度ラノベの収穫)
「マリア様がみてる ハローグッバイ」(グランドフィナーレ)
「Supercapitalism」(理屈で考えれば答えはラディカルになる)
「テロと救済の原理主義」(「尊厳変質」は今後も世界のキーワードとなる)

○CD
nomak「calm」(洗練と日本的土着感の一体化)
THE BLUE HERB「STILLING,STILL DREAMING」(「腑抜けたラップを聴く暇があったら俺は真先にsionを聞く」)
shing02「歪曲」(もうすこしがんばってほしいものの流石)

○テレビ
ETV特集「アンジェイ・ワイダ祖国ポーランドを撮り続けた男」(志魂とはかくの如し)

○展覧会

国立西洋美術館「コロー 光と追憶の変奏曲」
西洋美術館「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」

 まあ、こんなところであります。

 文化芸術芸能に関しては、管理人は「STILLING,STILL DREAMING」のTHE BLUE HERBが10年前に言っていたことがそのまま現実になっているということでいいんじゃないかと思います。

「日本のトップのリリースだとか、日本の五本の指に入るプロデューサーだの、おだてられて調子乗ってるお前、はやし立ててひと儲けしようとしているお前、こっから先お前らはゆっくり追い詰められる。黙殺しようとしても不可能だ。うんざりするくらい目の前飛び回ってやる。手前らが考えるほど単純じゃねえんだ」

 景気・不景気は関係ないと思います。死にゆくものを延命することは、たぶんもうムリでしょう。これから数年で、いろいろなものが「死んで」いくのを目撃することになるのでしょう。頼るべきは己の直感と経験と審美眼。覚悟を決めるしかありますまい。

12/30

○今野緒雪「マリア様がみてる ハローグッバイ」

 祥子様が卒業してしまった……

 実に完璧な最終回(といってもあとがきで「裕巳・祥子編はこれで完結、まだ続くよ」と書いてあったので、胸をなでおろしたのですが)でして、電車の中で読んでなかったら号泣ですよ。有馬菜々も予定調和的に登場し、早速由乃さんにデレております。由乃さんを振り回すタイプかと思いきや、その仮面をかぶりつつ実はお姉さま好き好きっ子になりそうで大変よろしゅおすなあ。

○ガス・ヴァン・サント「パラノイドパーク」

 いわゆる「思春期の男の子」が描かれているわけですが、アメリカ映画のこの手の作品は日本のそれよりも業が深いものが多いですな。日本の思春期モノでは「女の子が救いになる」という形で思春期のドグラマグラを回収する手が(オタク作品を中心にして一応)残っているわけですよ。でも、アメリカ映画の思春期モノの主人公って基本的にデフォルトで「彼女持ち」、そして「女の子は決して救いにならない」んですな。この映画でも、主人公の美少年の周りには女の子達がワラワラと寄ってくるのですが(まあ、このレベルの美少年だったらほうっておいてもそりゃ寄ってくるわな)、主人公の少年は彼女達をほぼ空気扱いです。

 無論、それは監督のガス・ヴァン・サント先生本人も同様の認識であります。さすがゲイだけあって(という言い方もアレですが)主人公の少年の撮り方の「中性的」な感じ、「男性性」を脱色して「少年性」だけを抽出したような撮り方の徹底性は凄いものがあります。それに比して登場する「思春期の女の子」への視線のまあ冷たいこと冷たいこと(笑)。登場する女の子達はそもそも美人を使わないし、性格も「見栄と背伸びと濃い化粧と仲間内での身分争い」に汲々とする愛なき不安なるエゴの怪物としてしか描かない(言いすぎですな、ちょっといい役もらってる子もいるから)「ヒロイン(男だけど)は主人公!主人公より美しいものなど出すか!」といわんばかりの美少年万歳映画に仕上がっております。この少年は「絵になる」良い俳優さん。この少年を見るだけでも価値のある映画でありましょう。

 ちなみに物語的にはオチを投げっぱなしジャーマンにした困った作品でして、前作「エレファント」以上に「詩」的な作品、象徴性の高い作品として見ないとなんじゃこりゃと思うでしょう。とはいえクリストファー・ドイルをカメラマンに起用した映像のキレイさやセンスのよさはやはりお見事であり、映像、音楽、スケボーなどを通じて現代アメリカの「気分」「空気」を描いた作品としては優秀で、さすがだなあと唸らされる作品になっております。

 ガス・ヴァン・サントは次の新作がアメリカでは公開されてますな。

○ひとり社会科見学(その2)

 さて、前回アローズの悪口を書いてしまったのだが、この間別の日に仕事で立川駅にいったときに、駅ビルのアローズ入ったらガラガラで店内も広く、棚とかの配置もゆったりしていて、ゆっくり見て回れる良いお店でしたよ。というわけで、新宿みたいなフロアの狭いところにいかずにぜひともフロアの大きいアローズへどうぞ。

 でもって、前回の続きということでアローズからビームスへ。以下、簡単な感想。

○店内はそれほど広くないのだが、巧い具合に客が移動できるようになっていて、なかなか巧みな空間構成をしていたように思う。

○「同じものを何個もおかない」が徹底されているので狭いスペースなんだけど選択肢としてはかなり多く、「密度の濃さ」をかなり感じさせる棚になっていた。アローズも基本そういう形なのだがビームスのほうがより過剰な感じ。

○感心したのは店員の「程よさ」みたいなもの。立ってるだけの人もあまり威圧感がなく、結構自然な感じ。客と話している人たちを見ても、楽しそうに服の話をしている感じで、ヘンに力が入りすぎていない。愛想がいいわけではないが、高圧的な感じがなく、店の中に立っていてもそれほど気にならない感じってのは、簡単にできそうでなかなかできない雰囲気なので感心。

○上の階(スーツなど高いモノ売り場)のほうは、さすがにカチッとした高そうな空間を作っていて、若干入りにくさを感じなくはない。ただ、これはどこも同じこと。

○品揃え的には「こだわりがあるな」と感じさせる作品が結構並んでいて、見ていてなるほどと思うが管理人の年向けという印象はなかった。まあスーツ・靴・コート類などはよさげものもあったが、さすがに高い。

 で、最後に入ったのがマルイメンズ館。これも簡単に感想。

○とにかく店員の愛想が圧倒的に良い。終始にこやか、敬語を織り交ぜつつもフランクな雰囲気、自然な会話の雰囲気をかもし出す能力も結構高い人が多く、まことに話しやすい。声かけの仕方もうまく、ウザい感じはしない。こちらの言うことは基本的に「そうですね」と受け入れてから提案してくることを徹底しているので、こっちは「否定されている」という感じがあまりない。見習わないといかんなこの愛想と人当たりの圧倒的な良さは。

○コートを探してるので、あれこれと提案してくれるのだが、それも軽いノリで、しかし熱心にやるので別段うるさく感じない。こちらの質問にはきちんと答えてくれる。ただ、やはり「売らんかな」根性が強いので、やや「細かいことはいいから買っちゃえ」的なノリで押してくる傾向はある。

○品揃えは圧倒的。なんせビル丸ごとメンズファッションである。年齢的には若いモン向けが多いのだがバリエーションが多いので管理人とかが見ていても十分面白いし、使えそうなものも結構見られる。あとアローズヤビームスと違って展示がしっかりしているのもわかりやすくてよろしい。「店のお勧め」みたいなものがさっとわかるつくりはやはり便利ですな。

○アローズ、ビームスなどと違い、基本は「白・灰・黒」で色合いや素材的にも光沢があったり、キレイなものが多く、個人的には見ていていちばん面白い。ビームス、アロースはちょっと落ち着いた感じというか、金持ちケンカせずというか、らぐじゅありーな感じがあるのだが、マルイメンズ館はもうちょい尖った雰囲気のものが多いし、キレイなものが多い。自分が着るか否かはともかく、服は男物でも女物でもキレイなものが好きなので、そういう意味では見てて楽しい。金なくても、ここで結構時間すごすだけでもそれなりに楽しめそうな場所である。ネットで「おお、かっちょええ」と思ったものが現物で見れるってのはいいです。買わないけどな。

○でまあ、いちおうネットとかでも目星つけていたブランドのものの実物見たりしてあれこれ見て回っていたのが、結局その中からではなく店で見て気に入ったものを購入。SCHULUSSELという日本ブランドのお店だったが、尖ったところと大人向けなところの折衷を狙った、なかなか良いブランドでした。買ったのはコートだけだったが、他のアイテムも魅力的なものが多い。

○店員さんも愛想良く(ちょっと売る気合が熱かったが)、さすが接客業だなあと感心する。前述したとおりマルイメンズ館の店員の人は会話の「力の抜け具合」がなかなか感心させられる人が多かった。「買え」というプレッシャーを与えすぎず、フランクだけどくだけすぎず、といったバランス感覚がしっかりしている人が多い。基本「愛想よし」「買わせるのが主目的」ではあるものの、あまりクドくなりすぎないところは偉いものである。

 というわけで、まあシュレセル(ドイツ語)の灰色のコートを無事購入して帰途に着いたのでした。結論としてはマルイメンズ館が買い物するにはいちばんしやすいかな、といったところです。とにかく品数・ブランド数多いし、前述したとおり店員の愛想が良くて活気があるので、あんまり緊張しなくていい。

 それにしても服は高い。オタク趣味のコストパフォーマンスのよさに比べると、やはりファッション趣味というのは根が張りすぎるのが問題である。

 

○予告(未定だけど)

 たぶん新年向けにかなへ氏と組んで毎年恒例(?)の年頭挨拶短編漫画(短編というか掌編)を公開しますので、お暇がございましたら年始に当ページにお立ち寄りいただければ。

12/24

○ひとり社会科見学(その2)

 ネットの偉大な所は「膨大な商品の写真をタダで見られる」ということである。たとえばコートひとつとっても、価格コムの検索をかければ、400〜500は平気で出てくる。マルイウェブチャンネルとかに行けば、若モノ向けの流行りはどんなもんかとかいうのもある程度は見えてくる。その他、高そうなブランドサイトにいけば、実際に買わないまでも「カッコいいもの・上質なもの」がどんなものかってのもある程度見られる。それをひと通りザーッと見ていって直感的に「いいな」と思ったものをピックアップしていく。そうすると自然と「自分の好きなコートの傾向」というのが浮かび上がってくる。そういう形で以前よりも遥かに「理想の○○の具体的なイメージ」というのを明確にできるようになった。

 これがなぜ重要かというと「自分の中で理想のイメージが確としてあれば、店に行った時に店の品揃え、ディスプレイ、店員の言うことなどを「飽くまで参考にすべき二次情報」として処理できる」からである。商品情報がないと「店に並んでるものの中から選ぶ」「店員の意見が正しく聞こえる」「ディスプレイがかっこいいと良く見える」が、商品を大量に「見てきた」という感覚があれば、基本的にそこに並んでいるものの好悪優劣はある程度瞬時に判別できる。ついでに言うと店員と話しても、その人のある程度のレベル、商品を愛してるか、常識があるか、といったところもある程度判断できる。細かい知識ではなく、自分なりの審美眼と基準がはっきりしていれば店員も店の雰囲気も特に威圧的なものとはならない。

 でまあ、コートを買おうと思い立ってから管理人の場合はウェブで恐らく500〜600着くらいのコートを見たが、「いい」と思うのはほんの僅かである。せいぜい20〜30といったところ。その20〜30を見て自分の中で「最低限このレベルに達していないと買わない」みたいなラインを設定して店に出かける。

 ネットのネタで「服屋に着ていく服がない」というのがあるが、管理人は「スーツ着て行けばいい」と思う。浮くけど差別はされないよ。今回は特にコート買うのでスーツ着ていかないと「スーツの上から着た時にどんな感じになるか」がわからんためスーツでいったのだが、そうじゃなくてもスーツ姿ってのは強いと思う。

 ショップにおいて店員が差別的対応をするのは「自分達と異文化の人間で、金を払わなさそうな人間」である。店員が愛想良くするのは「自分達と同じ文化圏の人間で、金を払いそうな人間」である。スーツ姿の人間というのはこの中間に位置する。「自分達と異文化かどうかは判別しづらいが、でも金は払ってくれそう」なカモとして見てもらえるのがスーツ姿。だから「服屋に着ていく服がない」人はまず「洋服の青山」とかいけばいいんじゃないでしょうかね。

 まあ、そんなこんなで新宿のお店めぐりをしてみました。まずはユナイテッドアローズの素人的勝手な印象論。

@ 率直に言えば「狭くてごみごみしている」店。もっとフロア広くしたらいいのに。ヴィレッジヴァンガードと同じウザったさを感じる。狭いのはいいんだが、狭い中に商品並べすぎなのである。くだらん演出しないで商品ちゃんと見やすい形に並べて見せやがれとか無粋なことを思う。「デート中の若いカップルが二人で服を選ぶ店」みたいになっていて、正直落ち着いて買い物できる雰囲気は皆無。風邪うつされそう。

A 「狭い中で多種多様な商品が見られる」という点では優れているし、よく工夫してある。「ごちゃごちゃした中から物を探す」楽しさ的なものはあるのかもしれないが、正直管理人は「そういうお楽しみ要素いらないから、普通に買いやすくて見やすいほうがいいから」という人間なので、あんまり感心はしない。新宿だから仕方ないのかもしれないけど、もうちょっとフロア広くしたり、棚と棚の空間広げたり、色々できるんじゃないと思った。

B 売っているモノはさすがによく選んであるなという印象。最近の流行りの傾向みたいなものが見てるだけである程度把握できるという点では若いモンにとっては勉強になる店ではあるんでしょう。ただ、年齢的には大学生から新卒3年目くらいがちょうどいい感じなのかなという印象。管理人には少々若向きすぎ。あんまり小汚くない落ち着いた色合いの素材のものが多いのでお上品。まあ管理人は個人的にやや物足りない感じはあるが。こういうのが好きでお洒落だと思う人もいるんだろうなあというのはわかる。

C 管理人は服を「やる気ゼロ(着れればいいんだろ)」「少しやる気がある(デザインらしきものの萌芽はある)」「がんばってる(デザインの分、金を余計に取りますよ)」「すごいがんばってる(服単体としてキレイ・カッコいい、値段を気にするやつなんか最初から相手にしてねーよボケ)」という四段階で勝手に分類してるが、この店は「ちょっとやる気がある」2割、「がんばってる」が6割強、「すごいがんばってる」が1割ちょっとって感じでしょうか。

C お買い得感はない。「がんばってる」レベルの商品ってだいたいどこでも「5000〜30000」くらいが相場なのだが、そういう価格帯でそのまんま売ってるだけって感じ。セール品とかもちょこっとあったけど「これで普通くらいだろ」という感じかと。「これがこの値段で!」という感動は皆無です。まあファッションで金のことを言うのは無粋・野暮なのでね仕方ないけどね。「がんばってる」レベルの商品を3000円〜5000円の価格帯で売ることを考えてくれるとみんなもっとうれしいと思うんだが。

D ごちゃごちゃして客が多いので、店員はよほど身を入れて商品を探している客じゃないと声かけられないな、という感じ。説明している店員の様子を観察すると、結構丁寧に説明しているけど全体的にクールかなという印象。(この後いったビームスの店員さんのほうが「服が好き・服の話するのが楽しそう」って感じは強かった。愛想の良さ、フレンドリーさに関してはマルイメンズ館がダントツ。)

E 総評としては「狭い・人が多い」に尽きる。もうちょっとフロア面積の広い支店を探して行く分にはいいんじゃないかとは思う。若くて、それなりに服に金が出せて、上品に洒落たものを着たい人にはいいんじゃないか。管理人的には「買い物する前のリサーチ場所としてさっと見るのにちょうどよくて、買う所じゃないな」という感じでした。

 一気に書くの疲れたので、とりあえず今日はここまで。次回はビームスとできればマルイメンズ館について。

 なお、念のため繰り返しておくと、ここに書いていることは何もわかってない素人が書いてることでして、別段アローズに悪意とかはないので誤解なきよう。好きな人は好きそうだから怒られると怖いので^;

12/21

○ひとり社会科見学(その1)

 最近「ひとり社会科見学」というのを地味に実施している。まあ社会科見学といっても工場とかではなくて「今まで絶対に足を踏み入れなかった店に入る」「空気読むとか気使うとかあまりせずに、なるべく店員と話して色々情報を聞き出す」というだけ。まあ簡単に言えば「ひやかし」である。ただし、いちおう金は払うので「ひやかし半分」くらいか。不景気なので客を粗末に扱うようなバカなマネはしないだろう、という足下見る気味の目算もありますな。

 とりあえず二週間ほど前に実施したのが「いかにも小洒落た美容院」。「ネットでクーポンが落ちてて床屋より安い」「その美容院が仕事でいくビルと同じ場所」という理由で行くことに決定。ヒゲ剃る時におしぼりを顔に当ててもらい頭と肩をマッサージしてもらえないのは残念だが、まあ「社会科見学」ということならいいかと。

 でまあ行ってみてわかった美容院について雑感

@ 仕事行く途中で寄ったので背広姿。空間の中でかなり浮いてはいたが店員はスルーして普通に対応してくれるので無問題。

A 勝手に自分に合わせたファッション誌を選んで渡してくれる。これが結構好みのものというか、「こういうのだったら見てもいいな」と思えるもので、なかなか良かったし勉強になった。

B 店内が綺麗。「デザイン性の高い空間に長期間滞在する」って美術館とか喫茶店みたいな所でしかなかなか味わえない経験なので、これは結構うれしい。いるだけでワクワクする感じはある。

C 美容師のお兄さんは基本的に親切。最初から「普段は床屋、今日は社会科見学がてら来た」と宣言したせいもあって、色々と初心者向けの解説をしてくれる。「もみ上げを切るか切らないかがなぜ大切なのか」とか「俺は後頭部が絶壁」だとか「髪質にあった髪型がある」とか「髪につけるワックスの塗り方」だとか、結構今まで知らなかったことを教えてくれて面白い。

D 美容師のお兄さんは、こっちがちょっとズレたことやヘンなことを言ってもとりあえずフォローしてくれる。内心どう思ってるかはともかくとして言葉遣いも礼儀正しいし喋り方もハイテンションではなく、落ち着いていて常識的。それ程強引にトークしてくる感じはなく、こちらが喋れば淡々と応じ、こちらがしばらく黙ってると話を振ってくる、といった感じでこっちとしては非常に楽である。むこうが面白いとは思えないが。

E 髪の毛の切り方は正直、床屋とそれほど変わらない。バリカン使わないのと、毛先の切り方が丁寧なくらいか。まあ、こちらの注文が「チャラチャラした髪型は嫌。無造作っぽい髪があっちゃこっちゃハネたようなの論外。きちんとした髪型で短めでよろしく。」という「なんで美容院くるんだよテメエ床屋行けや」というものなので、床屋と変わらないに決まっているのだが。美容師のお兄さんは細かいところで芸を見せていたらしく、その解説とかを後でしてくれたのだが、正直よくわからん。ただし、管理人は結構クセっ毛で、あちこちハネる髪なのでヘタな人がやると髪切ってしばらくあちこちハネるのだが、ここの美容師のお兄さんはそんなこともおきなかったので結構上手な人なのだと思われる。

F 「お店のおすすめ商品」みたいなのを勧めてくるのはちょっと困った。まあ、別にしつこく勧めるわけではないのでいいんだけど、通い続けてると3度に1度くらいは買わないと申し訳ない的な気分になってしまうんだろうなあと。

G 「また来てくださいクーポン」みたいなのをくれるので、やはり床屋よりも安い値段で次も行けてしまう。表の看板の価格は結構高いのだが、クーポンくれるので実は意外と安くなるのか。それとも、やはり初めて来た人間を囲い込むためのサービスで、しばらくすると「釣った魚に餌はやらない」になるのか。ちょっとそこはまだわからない。

H 待ち時間とかはそれほどないし、髪を切る時間自体も床屋とさして変わらない。待合室の本や雑誌のセレクションが床屋と違ってファッション誌だとかベストセラー本だとかで、正直あんまり面白くない。スポーツ誌・ジャンプ・マガジン・野球漫画・オッサン漫画というラインナップの床屋のほうがいいなあ。

 といったところだろうか。まあ、総評としては「基本は床屋とそれほど変わらないが、細かいサービスの方向・ベクトルが違う」といった感じ。床屋のサービスというのは「おしぼりを顔にあててくれる」とか「頭や肩のマッサージ」とか「ひげをそる」とかそういうものなのだが、美容院はその代わりに「内装が綺麗」とか「店員が色々話してくれる」とか「ファッション誌が充実している」とか、そういうサービスが提供される。

 前述したとおり店の人はかなり普通の対応をしてくれるので、そういう点での敷居の高さはあまりない。サービス業として、それなりに真っ当だし(クーポンで割り美視した後の料金なら)リーズナブルな価格設定だと評価できる。

 ただ、どうも店のお兄さん達のお洒落はよくわからん。内装が現代的でクールな内装なんだから、お兄さん達ももっとモダンでクールな格好だとカッコいいのに、とか思うが、まあご本人達の趣味ですからな。今の日本の「お洒落なお兄さん」って、大体「ぼんやりした色のTシャツと、細身だけど微妙にゆるめで色落ちした感じのジャケットとジーンズ、帽子」みたいなのが多いんだが、正直何がいいのかさっぱりわからん。タッパもあって顔もそこそこ悪くないのに、なんであんな貧乏くさい格好するのかなあ。

 でまあ、もう一回行くかというと微妙なところ。まあクーポンあるからいってもいいけど、行く度にお店グッズ勧められるってのはイヤだなあとか、そういう感じ。それほど床屋と変わらんしなあ周りの人間には全く「美容院いった」ということは気づかれません。いつもどおり床屋で髪切ってきたのねみたいな。今度行くときは「ダークナイトの主人公みたいな髪型にしてくれ」とかいいますかね。ああいうビシッとしたのがいいんですけど個人的に。ゴッドファーザーのアル・パチーノとか。ポマードでベタベタにするのはイヤだけど、ああいうカチッとしたのがいいんだが。

 さて次回は「服屋」。着ていたコートがさすがに古くなってホームレスチックになってきたのでそろそろ変えないといけないなと思い、とりあえずジャスコの歳末セールいってきたのだがどうにもロクなのがなかったし、ネット見てよさげなのはあるけれどサイズがどれくらいかコートって着てみないと微妙だしということで、どれ美容院も制覇したことだし今度は巷で時折小耳に挟むあろーずだとかびーむすだとかまるいだとかを覗いてやろうじゃねえか、ちょうど仕事が新宿であるし、ということでひやかしてみた。乞うご期待。

 うーむ、アニメの感想のほうが楽でいいな。

12/19

○よしなしごと

 ここのところなぜか自分が「なぜそんな考え方をするようになったのか」ということの「きっかけ」、みたいなことに気づくことが多い。気づいてみれば単純というか、それほどご大層なものでもなかったなあと思うことが多い。自分の中では「信念」みたいなものにまで高まっているものでも、それを持つに至った「きっかけ」を考えると「そんなにご大層に大事にするほどの絶対的真実なのかなあ」と思えるようなことばかりだったりする。

 たとえば、管理人の「人助け」だとか「やさしさ」についてのスタンス(まあ別に普段、人助けなんかロクにしてないし、やさしくもないので、飽くまで自分の中でのスタンスの話でしかないのだが)がどこから来ているかというとスタインベックの「怒りのぶどう」の3つのシーンと、中学・高校時代くらいの幾つかの経験に基づいているものなのだということに最近気づいた。情けないのは「それ以外特にない」という事実だったりする。明確な「きっかけ」となったこと、というのは意外とはっきりしていて、それ以外の有象無象の体験は、その「きっかけ」を補強するものにしかならない。

 で、スタインベックの「怒りのぶどう」のどのシーンがきっかけになったかというのを少し書くと。

 まず「怒りのぶどう」というのがどういう話かというと、大干ばつをきっかけにして、それまで自作農として自立自営して生きてきた農家たちが土地を奪われ、トラックに乗って仕事がある西部へと流れていく様子を描いた作品。要するに「転落して食い詰めた流民」になってしまった人たちの話である。

 で、この中で印象に残ってるシーンのひとつが主人公一家が路上で出会った人に「食事をあげる」シーン。道端にいるのは主人公達同様、土地を追われた元農家で見るからに旅の途中で金が尽き食い物もなくなり途方に暮れている。この途方に暮れた農家の女性に主人公一家の母親が自分達の食料を分けてあげるシーン。女性は最初、母親達の申し出を断る。飢えた子供がいるし、ダンナは頼りにならないしで、当然食べ物はほしい。だが断る。なぜかといえば彼女には「人にものを恵んでもらう」というシチュエーションが耐えられないから。それまで自作農として「自分のことは自分でやる」という生き方をしてきた誇り・矜持が彼女にはあり、人に食べ物を分けてもらう、などということはとてもできないのである。

 主人公の母親がすごいのは、彼女のその気持ちをよく承知していることである。「食料を提供する側」でありながら、彼女は決して上から物を言わない。食べ物を拒絶する女の態度を「当然」とみなし、あんたがそういうのはもっともだと認める。そしてそれでもなお「今は、自分達に食べ物をわけさせてほしい。もしあんたが私の立場だったらきっとそうしただろう。どうか、食べ物を受け取ってほしい」と頼んで食料を受け取らせる。管理人はたしかこれを高校生くらいのときに読んだのが、かなり衝撃を受けた。どこに衝撃を受けたかというと主人公の母親とこの女性が持っている「共通の哲学」みたいなものにである。簡単に言ってしまえば「ギリギリまで他人の世話にはならない。自分のことは自分でやるのが当然」という考え方であり、それこそが人間の尊厳とか矜持を形作るんだという確信に衝撃を受けた。

 もうひとつは、とあるハイウェーのコーヒースタンドのシーン。流民達がコーヒースタンドにやってきてパンを一斤売ってくれと頼む。コーヒースタンドはパン屋ではないので一斤単位でパンなど売りたくない。一斤でパンを売ってしまうと、店に出すパンが切れやすくなるし、パンはトーストとか料理として出さないと儲けが出ないから、というのが理由だったような気がする。そういう要素を上乗せしてパンを高く売ればいい気もするが、コーヒースタンドの人々もそういうマネはしたくないので、売るとなると普通の価格でパン一斤を売ることになる。そうすると、その分で本来出るはずの儲けが出なくなるので、店としては流民にパンを売りたくない。要するに、一見「商行為」のように見えるが、実質的には「売る側のうまみ」がやたらと少ない商取引である。でまあ、応対したウェイトレスは毎日のようにそういう流民がやってきて同じことを言ってくるのでうんざりしている。しかし店主は流民にパンを売ってやれとウェイトレスに命じる。ウェイトレスは不承不承パンを流民に売る。

 さて、その一部始終を店内で食事しながら見ていた男達が二人いる。彼らは長距離トラックの運転手で、きっぷも愛想も金払いもよく、店にとっては上得意である。この男達二人は、流民達が去った後、いつものとおり支払いの金をテーブルに置いて愛想よく去っていく。ウェイトレスが見るとそこには食事代に加えて数十ドル(いくらだったかは忘れた)の紙幣が置いてあった、という話。要するに店が実質的にカブる損失を、トラック運転手達はチップという形で補填してあげたのである。「あいつらは何もいわないんだ。それがあいつらトラックドライバーなんだ」とか店の主人だったかウェイトレスががうれしそうに言ってこのシーンは終わる。ここにもやはり「人助け」をする時のある種のルールというかフィロソフィーがあるように思う。そこに貫徹しているのは「人の誇りや矜持、尊厳を傷つけるべきではない」ということである。「人助け」というのは「非対称」の関係になることである。そして人間は「非対称の関係」であるべきではない、というフィロソフィーがあるように思う。「自分のことはギリギリまで自分でなんとかしている」人間同士が、その誇りと矜持を胸に対等に向かい合うのが自然で、そうではない関係性を築くのはどんな場合であれ「相手の尊厳を傷つけることになる」という考え方が根底にあるように思う。

 最後は、この小説のラストシーン。管理人が初めてこの小説を読んだのは確か中学生のころだったが、その時はこのラストシーンはそれほど印象に残らなかった。このシーンの凄みがわかった気がしたのは20もだいぶすぎて作品を再々読したときである(高校のころにも読んだのだが、その時もそれほどピンとこなかった気がする)。詳細は実際に読んでもらいたいのだが、「子供が大人に、女の子が母親になる」瞬間を切り取ったシーンとして、また作者の力強い人間賛歌として完璧に近い出来のシーンである。ここでも、ある「人助け」が行われるのだが、助けられる側はやはり助けられることを最初拒む。しかし助ける側は「そうしなくちゃいけないから」と言って助けるのである。西洋的価値観でいえば、この「そうしなくちゃいけない」はキリスト教的倫理観に基づくせりふなのだろうが、管理人はこのシーンをより動物的というか人間という「いきもの」の本能に近いものを表現しているように感じて、やはり衝撃を受けた。

 でまあ、ここら辺のシーンの影響を受けてしまったせいでどうなったかというと、基本的に管理人は「その人が自分ではどうにもならない状況じゃない限りあんまり人を助けるということをしない」人間になってしまっておるのですよ。相手が本当に「助けてもらう以外に状況を打開できない」時だけなるべく動く。助けるとしても最低限で自分でなんとかできるようなら手を出さない。なるべくさりげなく、自分が「助けている」ことがわからないように動く。それこそが他人の尊厳や矜持を守ることだと考えてきた。逆に「どうでもいいことで助けてあげる」ということは、相手を無能・バカ扱いすることであり、尊厳や矜持を認めないことになるんだと。

 しかし、どうもこの理屈で動こうとすると、日常生活においては徹頭徹尾「冷たい」人間になってしまうなあということに気づきまして。だって日常生活において「その人が自分ではどうにもならない状況」とか「本当に助けてもらう以外にどうしようもない状況」なんてめったにおきないわけですよ。日常生活において必要な「人助け」ってのは、そういうのよりもちょっとした小粋な親切だとか、どっちでもいいんだけどやってくれるとうれしいことをちょっとしてあげるとか、そういうのなんだよなあということに気づきまして。そういうのって管理人の基準からすると「相手をバカにしていること・相手をガキ扱いしていること」に入るから、あんまりしないようにしているんですが、そうすると単に「気が利かない」「冷たい」って思われるだけなんだなあと。実際はそういう細かい「人助け」をして相手と顔をつないで信頼関係を築かないと実は「切羽詰ったときに助けてあげる」ことすらできないという事実があるなと。そんなことくらい、もっと早く気づけよと思うんですが。

 要するに「怒りのぶどう」における「人助け」哲学ってのは感動的ではあるけれど、それが感動的であるのは「極限状況下にある」からというのと、「矜持・尊厳や個人の自立」に対するアメリカ人(というかあの当時のアメリカ人自作農)のスタンスという特殊な要因があってのことであって、ある種の普遍性はあるし、大事にしたい考え方ではあるんだが、それにこだわりすぎると逆によくない。「日常レベル」と「極限レベル」をいっしょくたにして、常に「極限レベル」で物事を考え、行動していたら「日常レベル」で生きている相手にとっては「なんだこいつは」と思ってしまうでしょうにということなんですよ。

 というわけでまあ、なんか自分の中で「信念」的になっているものって案外、根拠がいい加減というか再検討してみると「うんまあ悪くもないけどそこまでこだわることないんじゃない?もうちょっと融通利かせてもさ」的なものが多いなということがわかりまして、いろいろと見直さないといかん気がしています。なんというか、結局、人間って動物的なところがあって「自分の目の前にたまたまあったものを食って、それを血肉にしていく」部分があるわけですよ。でも、それは「たまたまあったから食った」だけであって、別に「普遍的」であるわけでも「絶対的に真」であるわけでもない。だとしたら、ちょっと再検討したり修正微調整したりしたっていいはずでして。

 まあ、傾向として「極限的・抽象的」な方向を重視しすぎて「日常的・具象的」な方向を軽視しすぎるというのがあるなと最近しみじみ思います。「極限的・抽象的」な方向が役に立つ時代は基本的に「乱世」「有時」のみであり、「平時」においては「日常的・具象的」な方向をある程度大事にしてあげないといかんのですよ。そういう部分をないがしろにするのはいかんなあ、と。池澤夏樹のいうところの「砂漠の思考」みたいなものに、ちょっと重きを置きすぎているなと。バランスが大切ですからな何事も。

  

12/15

○サントラ「題名のない子守唄」

 レンタル屋は入れてくれないみたいなので(モリコーネなのになあ)、リクエスト出すのも億劫だし結局自腹で購入。2400円は高いなあ。

 お目当ては映画の中で繰り返し使われていた主人公が歌う子守唄の旋律を使った楽曲群。サントラの題名でいうと「子守唄」や「子供っぽい遊び」あたり(アマゾンで試聴できるので興味のある方は是非)。映画の中でポイントになる「映画が動き出す」シーンで必ず流れてきてとても印象的だった。

 曲単体で聞いてもやはりよい。憂いを含みながらも美しくシンプル。特に「子供っぽい遊び」のほうのピアノから主旋律へと入っていく辺りのあざとさといったら。さすがモリコーネとしか言いようがない。俗っぽいとわかっていても抵抗できない魅力。最初のピアノであっという間に心を持ってかれる感じ。まあ、個人的に好みの入り方だからってのが大きいのだが。

 残念なのは、個々の楽曲が短いこと。サントラでシーンに合わせて作ってるから仕方ないんだけど、これだけ綺麗な旋律だから、もうちょっとまとまりのある曲にしたものも作ってほしいところ。あと、主演の女優さんが映画の中で子守唄口ずさむシーンがあるのだが、それが収録されてなかったのは残念。

○漫画「少女ファイト」4巻

 おお、良くなってる。正直3巻の「賭けバレー編」は上手ではあるが無理がある展開だし蛇足だなあと思っていたのだが、その「賭けバレー編」を実にうまく使って続くドラマを作り上げていっていて感心。絵は雑把だが、話作りは実に繊細で揺れ動くキャラクターの心理を触れ幅大きく、それでいて細やかに描いていて見ごたえある。まだ完璧に化けた印象はないが、徐々に傑作に「化けつつある」という感じ。主人公以外のキャラクターがしっかり固まって生き生きしだしているのもすばらしい。漫画はキャラだなあ。

○漫画「GIANT KILLING」5巻〜6巻

 こちらは5巻で化けましたなあ。椿君のゴールシーンで震えた。耐えて耐えて凌いで凌いで、そして逆転、というカタルシスをよくぞここまで作りこんだものです。作者の持久力と細かさに拍手。久々に掛け値なしで絶賛できる名作サッカー漫画が登場したことを祝いたい。

○漫画「しおんの王」7巻〜8巻

 アニメ版と基本オチ一緒だからなあ…しかし、この作家さんも4〜5巻あたりで一気に「化けた」人なので、その能力をもってしっかりとフィナーレを作り上げていました。

○漫画「はじめの一歩」85巻

 宮田の弱点を千堂でわからせるとは、贅沢な展開ですなあ。

12/12

○杉山小弥花「当世白波気質」第3巻(完結)

 描かれている世界は「戦後闇市」の世界ですが、作者が主人公・吉田の葛藤に託して語ろうとしているテーマは現代人の(特に男の)抱える困難と屈託でありましょう。

 それは言葉にしてしまえば安くなるものでしかありませんが、それを承知の上で全てをあけすけに言葉にして説明し尽くし、物語として語り尽くさんとした作者の気概に心から賞賛を送りたいのであります。黙説法を使って高尚深淵を装うほうが余程楽なのですが、それを選ばなかった偉さは褒められるべきでしょう。通俗と安さと軽さの中にも真実が宿り得るという確信なくしてはできぬ仕事であります。

 戦後闇市世界を覗き見させるミステリー作品としても、黒髪和風美女・千越を楽しむキャラ物としても、十二分な水準を保っております。エンターテイメント作品としてもプロフェッショナルな仕事を達成しているのではないでしょうか。近来稀に見る快作であります。お勧めです。

○ショックを凌げれば英断な気もするが

ビッグ3救済暗礁で失望感、株安・ドル安が加速

 さらに実際に3社が破たんすれば、そのマイナスインパクトが米実体経済を直撃し、リーマン・ブラザーズの破たんを大幅に上回る衝撃が世界中に広がるリスクがある。「救済をめぐるシナリオが不透明になり、市場の関心はこれまでの米政策期待から世界景気の悪化に向かう可能性が出てきた」(新生証券・市場商品開発部部長、作本覚氏)との声が広がりをみせている。

 リーマンの破綻が衝撃を与えたのは「ここ10年〜15年、欧米の成長を牽引してきた金融資本主義のエンジン(インチキの大元と言ってもいいが)」であった「投資銀行」の破綻だったからでしょう。「ああ、もうゲームは終わったんだな」ということを世界中のみんなに宣告したからこそ衝撃を与えたわけで。それに比べるとビッグ3の破綻は世界から見ると「仕方ないんじゃない」という感じがあるというか、アメリカの国内問題だよね、という印象があるわけです。リーマンやAIGとは問題のレベルが違うということは、アメリカ人以外はみんなわかってるのではないかと。たしかに破綻による実体経済への影響は確かに深刻でしょうが、世界から見れば「1回破綻させて救えるところだけ救う」というやり方のほうが「信用できる」感じはある。破綻のショックでパニック的にアメリカ実体経済が大幅に落ち込んだりするとヤバイですが、そういうことがなければ逆にアメリカの国際的信用が高まる決断だったのではないかなと。シビアですが。

 日本への影響については、次のようなことが、  三菱UFJ証券・チーフエコノミストの水野和夫氏は、仮にビッグスリーが破たんすれば、日本経済にも深刻な打撃を与えると懸念する。水野氏の試算によると、今年10─12月期の鉱工業生産は前期比・年率換算でマイナス6─8%の大幅減少に直面しそうだが、ビッグスリーの破たんで米経済が大幅に落ち込み、12月からの景気後退はさらにマイナス幅が拡大するとし、マイナス10%程度の生産落ち込みに直面すると予想する。

 まあ、いいことは起きませんわな。

○それより、日本として今後考えるべきはこっちの問題かなあとか

雇用崩壊−勝ち組企業によるリストラの嵐

社会的責任を回避した優良企業

 優良企業には、研究開発面・税制面・工場誘致面等様々な優遇施策が与えられています。

 これは、日本の産業界をリードし、雇用を確保することで国の発展に寄与する事が期待されているからです。

    しかしこの状況では、優良企業が利益を上げて内部留保を積みましても、日本の国全体としてプラスにならないのでないかと、疑念を抱く国民が増加することになります。

 いくら平時に税制等で優遇しても、「有事」の際に期待した役割を回避するようでは、優遇策の見直しを求める動きがでるのは避けられません。

 日本の企業はすでにアメリカばりにドライで非情になっているわけでして、「社会的責任(ライシュのいう「企業ステーツマン」的振る舞い)」を果たす余裕も意欲もすでにないのではないか。それなのに国も国民もいまだに企業を昔ながらの「社会的責任を担う主体」として仰ぎ見ているところに問題があるように思います。

 これまで、日本の経済政策・社会政策は基本的に企業に金を出すことで、下々へと還流させていくというスタイルが多かったのですが、それは企業が「社会的責任を果たす主体(雇用を守ったり、社会保障制度を担ったり)」であるという暗黙の前提があったわけです。しかし、そういう前提はもはや存在しない空想上のものでしかありません。

 そうすると、経済政策・社会政策も「企業から下々へ」という形から「下々へダイレクトに」という形にシフトしていく必要性が出てくるのではないかと管理人はなんとなく思っておるのですが。それこそアメリカのフードチケットとか、フランスの公的な住宅供給政策とか、そういう発想もそろそろ強化していかないと、「ほんとにヤバい人たち」がどんどん出てきちゃうような事態になるんじゃないかなあと。

12/10

○「へうげもの」7巻

 山上宗二が己について述懐しているところがあまりにも身に染みる。

「私には…他人の好みを辛く評すことで…己を高みに置き満足しておったところがありました…裏を返せば己に自信がなかったのです…ゆえに名物の如き既成の良さから飛躍できなかった…」

 批評・感想の類に価値がないとは管理人は思っていないし、批評・感想の巧拙や鑑識眼の高低は確かにある。巧い批評、水準の高い感想に需要があってもよい。ただし、批評・感想を書く人間は皆、この宗二の台詞を己に突きつけて臨むべきであろう。お前のその言葉は本当に対象や読者のためのものなのか。弱く卑屈で自信のない己の自我を守るために書き散らしているものではないのか。管理人はどう考えても己を守るために書き散らしてきた類だなあ。もう、いい加減そういうのはいいんじゃないかという気はしている。

○といいつつ他人様のネタを適当に

第163回:人間の価値を金で測る「クレジットスコア」導入に大反対する

 モリタク先生がアメリカの年次要望書で出てきた「クレジットスコア」導入をとりあげ、「外資が日本人の金融資産を狙ってるんだ!」と吼えておられます。

では、なぜ米国政府はそのような要求をしているのか。それは、外資系金融機関が、日本の膨大な個人資産を狙っていることと深い関係がある。つまり、クレジットスコアを導入することで、外資系金融機関に対して、日本の消費者金融市場へ参入しやすくするわけだ。なぜなら、そうした外資にとって、日本市場参入への最大の壁になっているのが、個人の信用情報を得にくいという点にあるからだ。

 本当に金を貸してもいい相手なのか、それが分からなければ消費者金融などできない。しかし、それをクレジットスコアという数字で簡単に得られるようにすれば、外資でも簡単に金が貸せるというわけだ。

 ややこしい話を一般人にわかりやすくする努力はすばらしいのだが、そのために「ハゲタカ陰謀論」で強引に押し切ろうとしているところがあるので、そのあたりは割り引いてファクトを読むべき記事でありましょう。

亡霊の論争する経済論壇

 論争でもっとも重要なのは、アジェンダの設定である。かつて朝日・岩波が設定した「資本主義か社会主義か」というアジェンダは意味がなくなったが、それに代わって世界的には、NYタイムズのような政府の経済への介入を求めるリベラル派と、 Economistのように市場を重視する保守派の論争が続いてきた。ところが日本では、朝日新聞が「格差是正」などの介入主義を主張するのは欧米のリベラル派に近いが、それに反対する(経済的な)保守派のメディアがない。そもそも保守すべき市場が存在しないからだ。

 実はこれはメディアだけの問題ではなく、今の日本の政治そのものの問題でもある。政界再編したところで、このあたりがスッキリすることはないだろうし。

原田奏「なぜ日本のショックは大きいのか」

日本は、アメリカの豊かな消費者向けの製品を提供してきた。高級車、大型SUV、大型で画質の高いテレビなどである。不況になれば、必需性の低いものから支出を削られる。高性能の車から走るだけの車へとシフトする。低付加価値製品への需要のシフトが起こって、日本の輸出の主力である高付加価値製品はより大きな打撃を受ける。

しかも、日本の生産構造が、これらの輸出向け高付加価値製品に特化している。設備投資も、ここに向けて行われてきた。輸出が減ると投資も減るという構造ができてしまった。しかし、高賃金の日本で今さら低付加価値製品も作れない。内需型の経済にすると言って、バブルを起こしたり、無駄な公共事業を拡張したりするわけにもいかない。円高に負けない経済にするなどと言うのは強がりに過ぎない。斬新な政策アイデアが求められている。

 「斬新な政策アイディア」って何よ。まあ分析が仕事の人に政策提言求めても仕方ないのだが。

グローバル化のビジネスモデルの見直しを

 手をこまねいて、世界景気が回復するのを待っているわけにはいかない以上、個別企業は改めてグローバル化ということを自らの立脚点で見直さなければならない。何を海外に求めるのか。マーケットか、生産拠点か、パートナーか。利益を生み出すバリューチェーンをどう作るのか、実現するための戦略は、リソースはどうするか等々。

 結局、自分達の状況を冷静に分析し、将来へのビジョンを考え、それにしたがって行動するしかない。処方箋は会社によって、個人によって違う。同じなのは「分析・思考・決断・行動」をサボるなってことですな。

 年食うとしみじみわかることのひとつに「考えないで動ける」「思考停止状態でいられる」というのは結構幸せなことなのかもしれん、というのがある気がする。おそらく「考える」人間は必然的にある種の「不幸」を抱えることを受け入れなければならないのだろう。そして、その不幸は何かによって相殺されると期待するべきでもないのだろう。たぶん、不幸は幸福によって償却されるようなものではない。「それはそれ(不幸は不幸)これはこれ(幸福は幸福)」である。

もし彼らが背を向けて
荒野を横ぎる時にお前を見捨てるとも
おお、運のわるい男よ
足の下に茨を踏みつけ
ひとりで血のしたたった道を旅して行け

夜が嵐でどよめいている時
もし彼らが光を高く掲げないとしても
おお、運のわるい男よ
苦悩の雷火でお前自身の胸に火を点じて
それをただ一つ燃えさせるがいい

−タゴール

 

みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ

−宮沢賢治

 

12/6

○珍しく多忙につき

 遠藤周作先生は作家業を「くるたのしい」と表現されたが、創作に限らず好きな仕事というのは往々にして「くるたのしい」ものでありましょう。超えるべきハードルがそれなりに高いものであり、しかしそれでいてきちんと努力すればなんとか超えられるレベルであり、人からそれなりに期待されている時、人間は「くるたのしく」仕事ができるのであります。長年働いていると、そういう仕事ができる機会というは本当に稀であることがわかってくるわけです。

 でまあ、ちょっとそういう「くるたのしい」仕事が入っておりまして、そんなこんなで更新が停滞中であります。仕事してると自然と頭がよくなるような仕事っていいですなあ。まあきっと気のせいでしょうけど。

 お絵描き晒しも三日坊主になってしまったが、年始までには再開する予定。来年は4期が始まるマリみて系お絵描きサイトに模様替えしたいとかなりマジで思っているのだが、リリアンの制服って特徴がなさすぎて却って描くのが難しくちょっと間に合わないかなあ・・・とか思っておる次第。

 

11/27

オバマ次期政権の閣僚人事

 注目どころをあげるとここら辺かな。

<財務長官>ティモシー・ガイトナー・ニューヨーク連銀総裁
<国家経済会議委員長>ローレンス・サマーズ元財務長官
<国務長官>ヒラリー・クリントン上院議員
<商務長官>ビル・リチャードソンニューメキシコ州知事
<国家安全保障問題担当大統領補佐官>
ジェームズ・ジョーンズ北大西洋条約機構(NATO)元作戦連合軍最高司令官
<司法長官>エリック・ホルダー元司法副長官

 ヒラリー国務長官は「2期目も俺やるつもりだけど、またやりあう気ある?ないなら国務長官やらない?」というオバマのメッセージではないかと。

 ガイトナー連銀総裁は日本で働いていたこともある人で年齢はオバマと同じくらい。サマーズはクリントン時代に日本を結構イビってくれた人で大ベテラン。日本的にはバランスが取れてるというかなんというか。

 司法長官に黒人のエリック・ホルダー氏を入れたのは大統領と同様、司法長官ポストは黒人まだやってなかったというのは意識してたのことなんでしょうな。

○本日の晒しもの

模写
色付き

 佐々木希を描いたはずが、なんだか広末っぽく・・・いやどっちにも似てないな。秋田のほうとかで見かける丸顔タイプだなあと。佐々木希ほど洗練されているのは滅多に居ないのだろうけれど、こういう丸っこい顔や愛嬌のある目の子はちらほら見る。

 今回描いてて気付いたが、唇をあまりドカンと厚みのある形で描かない描き方をする場合は、写真よりもひとまわり顔を小さめにするというか、顎を心持小さめにしたほうがいいのかもしれんなあとか。まあヘタに小さくするとたちまちバランス崩れるので、ほんと心持程度なんだろうけれど。下唇を描かないで、写真どおりの寸法で顔の輪郭を描くとちょっと顎が長い感じになって間延びしてしまう。まあ下唇をきちっと描けばいいのだが、唇というのも顔のパーツの中では大変厄介な代物でして。上と下がパチンとあわさってくれればいいのだけれど、ズレてて、しかも立体構造物なものだからマジメに描こうとすると大変難儀するのである。顔のパーツでは唇がいちばん難儀する。まあ目も難儀するのだが、唇は顔全体の表情や印象を決定付けるので結構きちんと描けないとつらい。

 目の下のラインも入れるか入れないか難しいところだが、入れるとリアリティは出るんだけどちょっと品がないというか媚びた表情になってしまうので入れないで消しゴムで黒目の下の部分を少し削って、目の下のラインを感じさせるようにしているのだが、ちっともわからんですな。目元や口元の皺や線とかも、写真だと気にならないのだが、絵でこれをヘタに入れると一挙に10歳くらい年を取ってしまうのも大変だし。デフォルメとまではいかないが、情報の取捨選択とそれにあわせた軽い調整はどうしても必要だなあ。

11/26

○あしたのジョーは生きていたとちばてつやは言う

ちばてつやさんがエンディングの秘話語る ラジオ番組で

 梶原一騎もアニメ版の出崎統×高屋敷英夫も絶対「死んでる」と思ってただろうけど^:

 ただ、あしのたジョーという作品は「ちばてつや」がいなかったら、あそこまでの名作にはならなかったと思われるので、この発言は結構重いなと。他の梶原原作作品に比べて、あしたのジョーは「人間の情」を豊かに感じさせるものになっていて、それはちばてつやの絵柄や演出、功績が大きかったんじゃないか。他の梶原原作のキャラクターに比べると、あしたのジョーのキャラクターは多面的で人間臭い要素が多い。それはたぶん梶原の味ではなくちば氏の味だったんだろうと思う。梶原とちばというまるで異質な二人の作家がぶつかり合い、お互いに譲れるところと譲れないところを出し合う。原作×作画の「格闘」の緊張も「あしたのジョー」を名作たらしめた要因じゃないかと。白木のお嬢様とジョーの関係についてもちば氏は今の形とは違うものを考えていたなんて話も聞くし。

 でまあ、「あしたのジョーは生きていた」という話をそのちば氏がするってのはいかにもというか、さもありなんという感じです。正直、アリかもしれんなあとも思ったり。「真っ白な灰」になるまで青春を完全燃焼した後も、目が覚めて人生は続くぜ、さあどうする?という、ある意味で「死んだ」オチよりもリアルなオチなわけでもあるし。「真っ白な灰になって何も残らない」宣言してたのに、「あれ?残っちゃった、どうしよう」みたいな。

 管理人的には「眼が覚めて白木のお嬢様と再会した時に激照れする矢吹君」をぜひ見てみたいですけどな。白木のお嬢様も超がつくツンですが、矢吹君自身もまた超がつくツンだったわけですから。二大ツンによるデレ競演。キャッチーだ。

 出崎統版の場合は生きていたとしても、しばらくしたらサクっと旅に出てしまうだけでしょうけど(笑)そういう場合、白木のお嬢様はどうするのやら。

 

11/25

○BSドキュメンタリーが総合テレビ深夜でやってる。

 「アジアで生きる子供達」のシリーズが放送中。今日も深夜やるみたい。BSドキュメンタリーはなぜか総合のNスペよりまとまりも密度もある佳作が多いのでお勧めです。月曜深夜の回はタイの漁村に住む少年の話。大人達がダイナマイトを使った漁で漁場を荒らし、手足や命を失っていく中で、主人公の少年が一家を支えるために働いたり、ダイナマイト漁で父を失った少年達を励ましたり、ダイナマイト漁をしないようにと訴える啓蒙劇を頑張ったりする話。ううむ、14にして既に管理人により遥かに立派だなあ。大人達も好きでダイナマイト漁をやっているのではなく、貧しさゆえ手っ取り早く稼ぎたいがゆえにやっている。14の少年は長期的に見て漁場を保護したほうがよいと考え、大人はそんなこと言っていられないと考える。どこもそんなのものなのかねえ。

○本日の晒しもの

模写

 もうちょっときちっと整えようと思っていたが時間がなくなってしまったので力尽きて適当に色塗ってごまかそうとしたら更にひどいことになる。

 この人も頭の形がいい。個人的にはゼロ年代を代表する人のひとりではないかと。顔の角度が微妙で、目の形や耳の形などがそれに合わせて変化していて大変まねするのが難しい(というかまねするのに失敗してる)。特に正面向いてる子のほうは大変。にしてもお手本ナシでゼロからこういう絵を描くんだから偉いもんですなあ。まあプロだから当然なのか。

11/23

今年〜再来年の景気・物価見通し

○株式会社第一生命経済研究所

日本国内総生産(GDP)成長率

2008年度 実質−0.6%
2009年度 実質−0.5%
2010年度 実質+1.2%

物価動消費者物価指数(生鮮食品除く総合)

2008年度 前年度比+1.3%
2009年度が同−0.8%
2010年度は+0.2%

○三菱UFJリサーチコンサルティング

成長率
2008年度 実質−0.6%
2009年度 実質−0.3%
2010年度 実質+1.1%

○ニッセイ基礎研究所

成長率
2008年度−0.4%
2009年度が−0.5%
2010年度が+0.8%

今後の分析としては、三菱UFJの以下の部分が短くまとまってたので抜粋。

>>今回は国内ではバブルが発生しておらず、バブル
>>崩壊後の景気後退の時とは環境が違う。ただ、海
>>外でさまざまなバブルが発生しており、日本経済
>>はその恩恵を享受して輸出を拡大させ、戦後最長
>>の景気回復を実現することができた。海外のバブ
>>ルがはじけて金融危機が発生し、結果として世界
>>同時不況の様相が強まってくれば、戦後最長の景
>>気後退が現実味を帯びてくる。

>>今回の景気後退がどの程度続くのか。マイナス材
>>料としての世界経済の減速の度合いと、プラス材
>>料となる原油価格の下落の影響、そして新たな懸
>>念材料となってきた国内の金融不安という3つが重
>>要なポイントとなってくる。

とのこと。で、その石油価格の下落によって、我々の光熱費はどうなるのか、という卑近な点については、第一生命経済研究所のレポートより抜粋。

>>原油価格の急落によってエネルギー価格が急速に鈍化する
>>ことに加え、景気悪化によって物価下落圧力が今後強まる
>>と予想される。
>>原油価格動向によって大きな影響を受ける電気代、ガス代
>>については、09年1-3月には、原油輸入価格が急騰してい
>>た7-9月の燃料費動向が反映されることからいったん上昇
>>するが、4月以降は下落に転じる見込みである。07年末以
>>降急激に伸び率が高まっている食料品価格についても、08年
>>春頃にみられたような急上昇と比べると多少一服感がみられる。

 冬がいちばんかかるんですけど。前倒しで安くしてくれんか。くれんわな。

○内需か外需か

外需依存は問題か

>>外需と内需で根本的に異なることがある。世界経済は今も、
>>基本的には大成長時代である。現在の世界景気の停滞は循
>>環的なものだから、いずれ時間がたてば必ず回復し、外需
>>は再び伸びてくる。わが国の輸出企業は、今の苦しい時期
>>を持ちこたえ、次の発展期に向けて国際競争力を高めるこ
>>とによって十分に対応できる。これに対し、国内市場の縮
>>小圧力は、人口減少と財政赤字で今後ますます強くなる。
>>介護や高齢者用品など、多少は成長する分野もあるだろう。
>>しかし、国内市場のみに依存していれば、所詮(しょせん)
>>は先細りである。
>>
>> 外需依存を高めれば、世界経済の循環には巻き込まれる
>>だろう。しかし、その循環に巻き込まれることと、一方的
>>な縮小市場への依存を続けることと、どちらがより適切な
>>のか、答えは明瞭(めいりょう)だ。日本経済の成長を望む
>>ならば、選択の余地はない。輸出、国際観光といった外需
>>の開拓しかないのである。日本企業にとって必要な選択も、
>>内需に戻るのではなく、世界経済の中で生き続ける努力を
>>強めることだ。国も企業も、世界経済と共に生きていく覚
>>悟を固めることこそが求められている。
>>
>> 世界は今、急速に一体化している。外需か内需か、とい
>>う区分そのものの意味合いが薄れてきている。重要なのは、
>>一体化する世界経済の中で、国際競争力や不況に対する抵
>>抗力を高めることである。人口減少の始まったわが国にと
>>って、外需依存は避け難い。それを「外需依存」と言うより
>>「世界経済一体化への適応」ととらえることが必要だ。

 管理人もほぼ同意見であります。我が国の人口が1千万〜2千万で、今の経済規模を確保しているのであれば「内需だけで回していく」という選択肢も十分にありえたかと思います。しかし、我が国の人口構成で「内需だけで回していく」というのは、はっきり言って「若者は老人の奴隷として生きよ」と言っているのと同義であります。現在「内需7割」で、よくこれだけもたせてるもんだと。

○本日の晒しもの

模写

 練習のための模写モノ。元ネタからちょこちょこと変えている。髪形とか手のポーズとか着るものとかを多少変化させる感じ。いずれにせよ全然似ない。この人の絵はとにかく頭の形が綺麗なのがいい。頭をなでたくなる絵を描く人だ。

 それにしても毎度ながら腕とか肘とかがヘンだ。てか、ちゃんと足を描かないといつまでたっても描けるようにならんな。

 

11/23

○晒してみる

線画
色つけてみた

 なんというか、描き始めた頃(約1年前)と大して変わっていないというか、進歩があるんだかないんだかわれながら微妙である。まあ、自分がアバウトだなあというのは見ていてよくわかる。何も考えずものを見て描きうつすだけだったのに比べると、立体や体のパーツ各部の構造などを意識して描くようにはなった。ただし、それが成果として絵に表れているかといえば微妙なところ。何も考えずにとにかく対象を線で写し取る作業をしているほうが実はうまく描けるのかもしれないとか思ったりするときもあるが、やはり知識や理屈で考えて作っていくほうが性には合っている。

 ペンタブ使ってコミックアートCGイラストというソフト(体験版だが使いやすいのでそのまま使用中)で製作。色の塗り方は未学習領域のため、エアブラシで適当にやっている。ネットで落としてきた写真を見て描いたものなので著作権的にはよろしくないのかもしれない。名前は誰だか知らんのだけど。

 とにかく人体というのは少しでもひねったり曲げたりするとそれに応じて全体が変化するため、大変やっかい。この絵にしても、体をひねり、肩を少し後ろに下げているため、肩や腕の部分の表現がやたらと難しい。正面絵で楽かななどと思ったらとんでもなかった。あとは手足がやはり難しい。この写真を選んだ理由は正面絵だからというのと「膝から下がないから」だったりする。正直、まだ膝下〜足にかけては上手に描けない。特に足、裸足が難しすぎるのだ。手も難しいが。

 描線が一定しないのはペンタブで一度描いた線を消しゴムで消して整える、というやり方をしているため。ペンタブの長所でもあるが、これをやってると「綺麗な線を引けるようになる」という能力がなかなか身につかないなとは思う。

 あとは顔が難しい。写真のほうはもうちょっと綺麗で可愛いのだが、絵のほうはちょっと不安定な顔になってしまっている。各パーツのディテールへのこだわりがまだまだ足りないのである。あと、顔にいかにパーツを配置するかの感覚が難しい。

 しかし、こんなものでもとにかく時間はやたらとかかる(この絵はなんだかんだと2時間強くらいかかった)。もう少しはやく描けるようになりたいな、ということもあってポーズマニアックというサイトの30秒トレーニングというのをやれる時にやってる。30秒ではとても描けないので90秒に設定して10本。以前は「そもそも描けない」ポーズが多かったのだが、最近は「とりあえず描くには描ける」ものが増えてきた。ただし、あんまり上手くはなっていない。

11/22

○男の繰言

 昨日に続き、どうでもいい話。

 男だからなのか気質的なものなのか、とにかく「自分の知らないファクト」とか「論題についてのその人なりの知見・分析」がない話にはあまり興味がわかない。正直、内容はなんでもいい。近所のケーキ屋の話でも全然かまわんのだが、ただ「ケーキ屋に行ってこれこれのケーキを食べて、おいしかった」と報告されるとどうも困る。もちろん社会人として相応の態度で聞くことは聞くが、どうしたって「それは小学生のガキが親にする話だろうが。俺はお前の親じゃねえ」としか思えない冷酷非情な自分がいる。

 たとえば(あまり機会はないが)子供がこういう「ただの報告」をしてくるのを聞くのは嫌いではない。もう年齢的に親に近いので、「俺はお前の親みたいなもんだな」という気分で聞けるし。子供は言葉遣い自体が面白いので、普通の報告でも面白い。

 女性の場合も(これも実はあまり機会はないが)「ただの報告」だけで終わらず、そこにその人なりの「感情・感想」が入ってくるケースが多いので、ほうほうなるほどと聞くことは可能であるし、正直そういう人の話は聞いていても別に飽きない。感想や感情を伝えたいんだ、というのがはっきりしてる人も管理人それほど嫌いではない。特に女性は管理人とはまるで違う視点で世界を見ているので、そういう別個の視点がはっきりしている人の話は(よほど歪だったり信じられないほど凡庸だったりしない限りは)興味深く聞くことができる。ただし、そうした女性の感想や感情を管理人が共有できるかといわれると、残念ながらあまりできない。したがって、女性サイドからすれば「話し損」になってしまうし、「こんな話してもこの人は面白くないんだろうなあ」と思われてしまう。うまくそこで「わかるわかる」とでも言えばいいのだろうが、正直「わからん/まあ、わからんでもないけどそれ程のものではない」ことのほうが多いのである。場の空気を読んで適当に合わせればいいし、正直そういうことをするとウケが確かにいいのだが、後で結局ホンネがバレるので、あまりやりたくないのである。

 感情や感想に「へえ、そういう風に感じるんだ・思うんだ」と思い、面白がることはできるが、どうも女性というのは「面白がられる・興味深く思われる」のはそれ程好きではないらしい。他人を面白がるのは好きなのだが、自分が面白の対象になるのは嫌いな人が多いので、当然管理人のスタンスだと「話し損」と感じることになる。

 管理人に感情や感想がないのかといえば、もちろんあるわけだが、残念ながらあまり他人と共有できない場合が多い。たとえばケーキ屋なら室内装飾やコンセプトの明確性・徹底性、品物のクオリティと価格設定のバランス、ケーキのデザインや味、その店の独自性がどこにあるか、個性的なサービスや品物のアイディア、といったところを見て、それが際立って優れているケーキ屋に遭遇すると良い気分になる。ケーキのおいしさの喜びよりも、そういうことから得られる喜びのほうが大きいだけである。ああ、世の中にはきちんと勉強して考えて行動しているセンスの良い方がちゃんといて、良い仕事やシステムやサーヴィスを適正な価格で提供しておられる、素晴らしいと。まあ、女性と共有できる感想・感情ではないなと思うので、話が合わないのは止むを得ないことである。「喜怒哀楽」という普通の感情がいまいち発達していないのかもしれないなあという反省はあるが。

 いちばん問題となるのは、ほとんどの場合図体のでかい男が、図体のでかいまま小学生と同じような話をするケース。気持ちはわからんでもないのである。要するに「感情・感想を交えて語るのがヘタな女子・子供」みたいなものなのだろう。基本的には経験を話して感情を共有したいのだが、感情表現はできない(男などというイキモノは感情表現などロクにできんのがデフォルトだと管理人は思っている)、結果的に「ただの報告」になってしまう、ということなのではないか。本人としては「感情を表出し、それを受け止めてもらう」という目的で話しているのかもしれないが、実際には感情も感想もなく、分析もファクトもなく、ただの「報告」になってしまう。

 ただ、男であっても「自分は口下手で、あまり話すのが得意ではない」という自覚をもって話している人が、こういう「ただの報告」をとつとつと話すのを聞くのはそれほど苦痛ではない。要するに話すほうも「まあ別に面白くないんだけどね」と思いながら話しているのが分かり、気を使わなくていい人ならかまわんのである。そういう人が、いやあつまらん話なんだけどねと思いつつぼそぼそと事実を話し、こっちもさして面白い風でもなく、へーそういうもんですかと返し、こちらも「まあ別に面白くないんだけどね」という話を適当にして、というスタイルは結構いいもんである。まあ、ここら辺は管理人の身勝手な趣味でしかないが。

 となると問題は男が「ただの報告」を話しているだけなのに、「自分の話は面白いし、他人は喜んで聞いている」と思っている場合なのだろう。器が小さい管理人は、そういう人間と相対するとどうしても「俺はお前の親じゃねえ」と思うし、結構露骨に態度に出す。でまあ、また器が小さいなあと反省するのだが。しかしなあ、面白くない話を社交辞令やマナーで「面白い」と言われて楽しいもんなんだろうか。管理人は社交辞令で面白いと言われても寂しくなるだけだし、そんな人と話をするのは時間の無駄としか思えないが。社交辞令的な付き合いから、その内もっと仲良くなれるかもしれないじゃん的な処世訓はわからんでもないけど、あんまり魅力を感じないのである。まあ器が小さいのだろう。

 というか、管理人自身もいざ自分が話すとなると、モロにこういう「面白くもない話を、面白いと勘違いして話している図体のでかい男」になっている。どうも近親憎悪的なものがあるのかもしれん。いちおう管理人は、なるべく直接的被害をなくすべく「文章化」するようにしているのだが。そうは言っても、意地汚くこうして書くもの作るものを公開してるのは、やはり誰かに聞いてうなずいてほしいと思っているからというのはあるのだろう。人に合わせられず、かといって孤独にもなりきれずという半端さが問題なのであろう。

 西洋ではこういう「つまらない男の繰言」は金を払って精神科医に聞いてもらうべきものとして扱われているのではないか。西洋に精神科医が多いのは、病人が多いからではなく、「くだらない愚痴をタダで聞いてもらうのは申し訳ない(てか、誰も聞いてくれない)」からかな。日本は昔だと「呑みニケーション」的なものがあったんだろうが、それがなくなったためにブログがこれほど発達したのではないか。

 まあ、男としては「面白く話す」ができるようになればいいわけだが、それにはそれ相応の才能が必要なわけで、なかなか誰も彼もができるわけではない。「男は黙って」という日本の美学は「自分は口下手ですから(面白く話すことなんかできない)」という諦念と共にあるのはいたって自然なことだし、そこには他者への配慮・倫理があったのだ。

11/20

○どうでもいい話

 おとついスーパーでおでんパックが安売りしていたので(2パックで500円くらい。通常は1パック350円くらいなので200円ほどお得)買い込んで大量におでんを食いまくったのだが、さすがに2パック+ジャガイモ+鶏肉を入れたため食いきれずに残して鍋に放置。翌日の夜に暖めなおして食べたらチクワがすっぱい。この段階で気付くべきなのだが、あれおかしいなあと思いつつさらにガンモも食べるとガンモもすっぱい。これはもしやと思ってジャガイモを食うとジャガイモまですっぱい。いかん、腐ってると気付いて残りを捨てたのだが、気付くまでに三つも食うなよ早く気付けよ生物としてダメすぎるだろ俺とか反省する。しかし、それから別に腹を壊すこともなく胃腸も至って健康なまま。ということは多少酸っぱくても別に食っていいのか?いや、3つだから大丈夫だっただけで、4つめになると胃腸が耐えられなくなるのかとか、そもそも腐りかけのおでん食って体はそこから栄養を消化吸収してくれるのか、とかしょうもないことを考えた。それだけ。

 腐りかけで思いだしたが、柿も腐りかけ(というと語弊があるが)が一番甘くてうまい。柿をほかっておくと少しずつ中がグジャグジャドロドロになっていく。外形がなんとか柿の形状を保てているくらいまで放っておいて、ゼリー状になった果肉をスプーンですくって食うと、毒々しさすら感じる濃厚な甘みが味わえてたいへんおいしいのです。美味しんぼの山岡さんが「和菓子は柿の甘さが上限」だとかなんとか言ってたけど、たしかにこれ以上甘くするとくどくて疲れるな、というギリギリ限界のレベルの甘み。ただ、この食べ方でも心配になるのは「どこで食えばいいか」というタイミングだったりするわけで、もうちょっとグジュグジュにしたほうがいいのかな、でも放っておくと本当に腐っちゃうし・・・という微妙なラインで迷う。食べる時も、なんか微妙な苦味に遭遇して「この苦味は種のせいか、それとも腐ってるせいか」とか考えながら食べてしまう。でも、よく考えるとそれで腹こわしたことはないんだが。

 あと、近所のスーパーはアボガドの腐りかけを値引きして売ってくれる(1個100円のものが20〜50円くらいになる。正価ではまず買わない)ので、これも結構ありがたくいただいているのだが、これもまた判定が難しい。アボガドの中というのは緑色なのだが、腐りだすとそれが黒っぽく変色する。その黒くなったところを除いて緑の部分だけを食べるのだが、問題は「緑と黒の中間色」「緑の中に黒が筋状にうっすらと見える」みたいな状態のものをどうするかだったりする。結局、その場のフィーリングで決めるが、食べたら食べたで「大丈夫かなあ」と心配になるし、捨てたら捨てたで「もったいなかったかなあ」と気になる。己の小者っぷりを実感させられて数秒ほどイヤになるが、値引きアボガドは安くておいしいので店頭にあるとつい買ってしまい、また同じことで悩み、また数秒イヤになる日々である。そんな細かいことでウダウダばっかりしている間にまたぞろ光陰矢の如く過ぎて老いさばらえて死んじゃうのではないかなとか時々思わなくもないが、まあそれはそれでいいのかアボガドおいしいし。

 ちなみにアボガドは、いちいち皮をむくのが面倒なので半分に割ってスプーン使って食ってしまうのが一番ラク。サンドイッチやサラダで使い時もスプーンで強引にくりだして使っちゃったほうがいい(ただし、ちゃんと熟してないと上手にくりだせない)。管理人も以前は毎回まじめに皮をむいていて、皮をむくと実がベタベタしてるので指が汚れて、そのわずらわしさがイヤでおいしいけどあまり食べなかったのだが「別に無理してむかなくてもいいじゃん」ということに気付いてから、大変気楽においしくいただけるようになった。世の中「別に無理してやらなくてもいい」ことで満ち溢れている。

 なんだか腐りかけのものばっかり食ってるように思われそうだが、まあ別段胃腸を壊すこともなく元気にやっております。そういやよしながふみの「昨日何食べた?」2巻がそろそろ出ますな。面白いですよ。

○微笑と虐待 証言 アブグレイブ刑務所事件

 アメリカ批判する時は気合入るなあNHKは。やればできるやんけと感心。実際にアブグレイブで虐待に関わった現場の兵士達のインタビューが中心だが、それだけで終わらずに「虐待が常態化する組織がどのように形成されるに至ったか」を順を追って丁寧に説明してくれる所がよい。マクロレベル(組織上の変更)とミクロレベル(関わった個人)の二つの視点から事件が分析されていて、とても分かりやすかった。結果を早く出したい政治家、政治家の思惑に合わせて動く上層部の人間(の一部)、組織編成の変更、民間軍事会社の加入によって生じる規則順守の崩壊、命令とあれば疑問なく虐待行為に参加する末端兵士・・・関わるひとりひとりの問題がしっかりと浮き彫りになる巧みな構成は迫力があった。グッジョブ。

○今週のCBSドキュメント

 トンガで起きたアメリカ平和部隊内での殺人事件の話。アメリカも隠蔽好きだよなあ・・・・・分かってて悪いことしてる連中ってのは強いし、なかなか勝つの大変なんだよなあとしみじみ思わされる。

 

11/19

○ボケッとしている間に

2つの現場に血付着の足跡 元厚生次官ら連続殺傷事件

 動機が不明な状態なので血も涙もない銭勘定の話だけしますと、こういうことが繰り返されると高級官僚の皆様の警護コストが必然的に上昇し、それは結局税金によって支払われ国民にツケが回ることになります。

オバマ氏、抜本転換を強調 温暖化で「新たな一章」

 相場の世界では「○○は買い」と巷で言われるようになった時には、その銘柄の旬はすぎていると申します。

ナショナルジオグラフィック ニュース地球温暖化が氷河期の到来を阻止?

 温暖化問題がいまいちピンと来ないのは「温暖化の実害」ばかりが声高に叫ばれ、「温かくなったらいいこともあるんじゃないの?」という素朴な疑問に対する答えがないことだったりする。寒いところがあったかくなると食糧生産が総体として増えるんじゃないの、みたいな素朴なやつ。

 まあ、あと素朴な感情としてはGeorge Carlin先生のお話が結構しっくりくる。桂枝雀の落語の枕に「天気予報の話」ってのがあるんですが、それとよく似た話になってて、笑いに洋の東西はないなあと感心。

George Carlin - Saving the Planet

○なんでロクに歴史を勉強もせずにエラソウなことばかり言いたがるのか理解に苦しむ。

http://anond.hatelabo.jp/20081118225445

 宮崎駿を最初に支持したのもラナやナウシカに萌えていたオタク。映画業界に相手にされなかった押井守を今の地位に至るまで支え続けたのもラムやパトレイバーのキャラに萌えていたオタク。萌えアニメのDVDやグッズを買い、声優のアルバムを買いコンサートに通うことで、多数のアニメーターや声優達の生活を細々ながらも支えているのも萌えオタク。富野御大の最大支持基盤もオタクでありガンダムはファースト以来常にキャラ萌え作品として「も」消費されてきている。

 そもそも、アニメスタジオがオタク的文脈から離れた作品を時折発表できるのも、「オタク向け作品の販売」という土台があればこそ。ついでに言うとオタク的文脈から離れた作品も評価購入する最大層もオタク。そのことを忘れてクリエーター達がオタク批判をするのは、単に「金回りがよくなって上等な人間になりたがる」ようになっただけの話。別に悪いことではない。上等になりたきゃどうぞ。その上等さに金を払ってくれる人がいるならね。

 萌えに代表されるオタク文化全般に後ろ暗さやみっともなさがあるのは事実である。ただし、オタクの抱える後ろ暗さやみっともなさは本来オタクだけのものではない。本質的には人間が普遍的に抱える後ろ暗さやみっともなさである。性と死への欲動、過剰な自意識、他者を一方的に消費したいという自己中心性・幼児性。オタク作品にはそうした後ろ暗く、みっともない欲望を満たすという機能が厳然として存在する。消費する側にその自覚があるかないかは人によるが。

 我々の社会はそうした欲望を「抑圧しなければならない・糊塗しなければならない」と考える社会である。代償的にとはいえ、そうした欲望を「満たす」ことを堂々とやっているオタクは、そうした抑圧下にある人にとってはフリーライダーである。どんな社会でもフリーライダーは須らく嫌われる運命なのである。人間は自分の受けている苦しみや抑圧の保障として他の奴も同じ苦しみや抑圧を等しく受けることを求める。オタク、特に萌えオタクは性や他者への欲望という点で「抑圧されていない」ように見えるため、批判の対象になりやすい(実際は、オタクほど性や他者への欲望という点で抑圧された存在はないのだが。)

 だが、その後ろ暗くみっともないオタクこそがアニメをここまで支えてきたのである。アニメだけではない。およそ「文化」と名のつくものの全てはその出自において後ろ暗さやみっともなさを必ず抱えている。美しさに憧れるのは己が醜いことを知っている者だけである。美は醜の中からしか生まれ得ない。美だけを取り出し、その出自である醜を切り取れば良いように思えるが、それは誤魔化しでしかない。

 「客が悪い・醜い」とか言う奴は誰にせよテメエの鏡を見てから言うべきである。テメエの顔と心の醜さに言及せずに他人の悪口を言う奴なんか信用できるか。

 

11/18

○存外

 世間では「物語」は死んでいないのだな、ということに気付いた。つまるところポストモダンという思想は多分「このまま進んでいくと俺達どうなってくんだろう」という「思考実験」みたいなものでしかなかったのではないか。現実世界の反映でもなんでもなかったのではないか。子供が想像力ありすぎて色々考えてたらやたら怖くなっちゃった、みたいなものではないのか。ぼのぼのが「しまっちゃうおじさん」を想像して震えてるみたいなものではないのかと。

 管理人は結構リアルに「全ての物語は物語でしかなく、それが明らかになった以上全ての物語は既に死んだものとしてしか存在し得ない」と思って長らく生きてきたし、そういう感覚であらゆる物事を見る(徹底できないので屈託が生まれるわけだが)し、物語を作るときにも基本的にその認識をデフォルトとして作ってしまっているところがある。だが「そんな考え方をデフォルトにしなければならない」義務は別にないんだ、ということにようやく気付きました。デフォルトにしてもいいし、しなくてもいい。そデフォルトなんだって事を声高に叫んでもいいけど、叫ばなくてもいい。それだけのことなんだろう。

○お絵描き話

 当たり前のことをいかに知らないでいたかということばかりなんで面白くないのですが。「ゼロから絵を描き起こす」のと「写真や他の人の絵を参考にして描く」のは全然違うなということです。そして、ネット上の絵の結構な量は実は後者なんですよ。

 基本的に人物画において背景をつけたり、ポーズをつけたりするというのをゼロから考えてやるのは厄介きわまりない作業。背景なしで人体単体を描くにしもゼロから作るとなると、細かいところでボロが出やすい。

 しかし、写真を参考にするとこれがあっさりと解決されるわけです。写真というのは既に写真を撮った人が構図を決めてくれているし、リアルな人体が写ってるので参考にしていけばボロがでにくい。無論、写真を丸写ししてし萌え絵にしたりすると、やたら生々しくなってしまうのでデフォルメはするわけですが「お手本としての写真」のあるなしは、ただの自転車と電動モーターアシスト付き自転車くらいの違いはある。

 でも、プロの漫画家とかだって「お手本アリ」で描いたりするわけだから、何かを参考にして描くこと自体は悪いことではないわけです。ただ、そうなってくると「どれくらいお手本を参考にするとパクリ(著作権侵害)で、どれくらいだとパクリじゃない(著作権侵害しない)のか」という問題が出てくる。これって結構微妙なところなんじゃないかなと。「どこまでやっていいのか」みたいな線引きは結構あいまいだなあと。特に「他人の絵を参考にする」場合は、どこからがアリで、どこからがナシか、判定は結構難しい気がする。

 

11/15

○公開開始

 作画:十子、原作:宮元佐々木でお送りする漫画「キネマ」第五話「maybe」をアップ。

 毎度ながら読者に物語と時間軸を再構成することを要求する極めて不親切な設計になっております。基本的にはたいへん単純な話になっておりますので、あまり複雑に考えないで読むのが吉です。第1話から第4話までで語られていた設定や登場人物を思い出しつつ読み進めていただければと。

 逆に言うと一見さんには全く分からない作りになっています。初めての方は是非、完結を機に第1話からザッと読んでいただければと。「ちゃんと最初から読んでるけどわかんねえよ」という場合は、原作者である管理人の問題なので何らかの形で言っていただければ改善したいと思っております。

 サブタイトルは第3話以外は基本的に歌のタイトルや歌詞からとっている。「maybe」というタイトルの曲は邦楽洋楽含めて大量にあるので、是非読者諸兄の思い出した「maybe」と共にラストシーンを読んでいただければ幸いであります。

 

11/14

○予告:「キネマ」第五話(最終回)を明日公開の予定

 管理人原作、十子氏の作画によるWEB漫画シリーズ「キネマ」の第五話がこの程目出度く完成しまして、明日本家サイトworkshopにて公開の予定です。最終回になります。個人的にはちゃんと最終回できたかな、と思っているのですが、さてはて。

 「キネマ」も第一話を脱稿してから早4年強。十子氏の作画でWEB上に公開してから丸3年ということで、かなり付き合いの長い作品になりました。終わらせるのは正直言うともったいないのですが、「現実と虚構の位置づけ」だとか「近代という時代における希望」だとか、この作品で自分がテーマにしていたことについて、ある程度観念的なレベルで「決着がついて」しまったところがあり、決着がついてしまった以上、それをひたすら反復して表現し続けるのも意味がないだろうという気がしていまして。決着がついてしまうと、そんなこともっと速く気付いていたんじゃないかと自分を小一時間問い詰めたくもなるのですが、ボーっとしている上に頭の弱い管理人は、この程度の決着をつけるのにも結構時間がかかるんだなあと。

 で、問題は「観念的に決着がついたところで、現実レベルや感情レベルでの「決着」ってのは基本的に別問題であり、そっちでは決着なんか全然つかないんだよね」ということがありまして、そこにどう「決着ならざる決着」をつけていくことが可能なのかってことかなあと。「妥協する」とか「逸脱する」とか、そういう方法ではなく(それは単に「決着」の無限延期でしかないわけで)、それでいて「ああ、決着がついたなあ」と感じることが人間果たして可能なのか、という辺りが問題なんだろうなあと最近は思っております。なんのこっちゃさっぱりわからんですな。管理人も良く分かってません。「さーてと僕は何をしようか/少なくとも校舎の窓は割らないよ」(YO−KING)といった感じでしょうか。

 個人的に連続物の最終回というと、10年以上前に「LEGEND」という逆シャア前夜〜後日譚のパロ小説を3年強くらいダラダラとウェブであげた時以来でして、今回できあがった最終回を見ていると、結構同じパターンだなあということに気付きました・・・進歩ないなあと。「ボケっとしている間に時はたくさん過ぎてった」(YO−KING)

 

11/11

○西洋美術館「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展

 上野は今、フェルメール展と大琳派展もやっておりまして、どちらも盛況。その分、このハンマースホイ展は客が少なく、ゆったりじっくりと鑑賞でき、大変よろしいのです。

 油絵にしては淡白な塗りだなあと思っていたのだが、実物を見ると室内画の壁面や空の塗り方は精密かつかなり手間がかかっており、北国(デンマークのコペンハーゲン)特有のどんよりとした灰色の空気をリアルに再現することへの情熱はかなりのもの。あとデンマーク人らしく家具と食器への愛もビシビシと感じる。木材・金属・陶器などの質感や光沢の表現が非常に美しく、灰色の地味な画面の中でひときわ目立つ。

 「モノ」や「場所」へのこだわりが強すぎるためか、登場する人物達は「モノ・空気と等価(あるいはモノ・空気以下)」な存在として扱われる。通常、絵の主役となり、もっとも際立つものとして描かれるのが常である「人物」が、ハンマースホイの絵では「陶器」や「家具」や「部屋」と全く同列に描かれているのを見ると、自分の感覚が揺るがされる感じになってなかなか面白い。(誤解のないように言うと決して人物が「ぞんざいに描かれている」という意味ではない。人物もしっかり描かれているのだが、しかし絵の「中心」として必ずしも扱われていない、という意味です)。

 しかし、そんな作家も女性の後姿、「うなじ」を描く時だけは押えが効かないのです。灰色のどんよりとした雰囲気、端正な家具、静かで生気の薄い絵の中で「うなじ」だけがやたらと生々しく際立つ。「非人間的なもの(モノ・場所)」の中に囲まれた「人間的すぎるほど人間的」な「うなじ」。このギャップ・コントラスト作り出す印象が極めて鮮烈でして、見る価値のある画家だなあと思いました。江戸時代の美人の基準もうなじでしたが、こんな所に日本人の同好の士がいたかと^;12月までやってますので、曇り空と家具とロイヤルコペンハーゲンと女性の後姿(特にうなじ)が好きな人は是非。

○国立博物館「大琳派」展

 こちらは人多すぎて、あんまりじっくり見られなかった。

 宗達・光琳もほうほうさすがにご立派ですなあ、と感心させられるものが多くて良かったのだが、個人的に印象に残ったのは鈴木其一。特に草花や鳥を描かせた時の鈴木其一のデザイン的洗練度の高さと達者さは水際立っている。色も綺麗。「うまい」という言葉がいちばん似合うのは鈴木其一じゃないかなあ。

 宗達の作品では「新古今集抄月詠歌巻」というのが印象に残った。銀色の透かしみたいなものが下絵になっていて、その上に新古今集の歌が書かれているのだが、この銀色の透かしがなかなか綺麗。金色のバージョンもあるのだが、個人的には銀色バージョンの妖しい美しさが良かった。

 あと良かったのはモノ。個人的には日本美術は絵よりもモノですよモノ。茶碗・茶道具・硯箱・着物などのクオリティの高さは凄い。管理人のようなド素人でも、見ていると「これいいなあ、ほしいなあ」とはっきりわかるほど「いい」ってのがわかるんですよ。今回の展覧会もひと目見て「これはいいものだ」と分かるものがたくさんありまして、目の保養になります。

 ただ、とにかく人が多すぎた。もうちょっとゆっくり見せてもらえないとなあ…いいモノがいっぱいあっただけに残念。ちなみにフェルメールは更に盛況で見れたもんじゃない。

○お絵描き関連で

 気付いた事シリーズ。自分は「頭蓋骨」というか「頭の形」の好みがあり、しかもそれが好き嫌いの判断の最終部分で結構ウェイトがあるものだってことが初めてわかった。そりゃまあ美人だったり可愛かったりしたら、どんな頭の形でもいいなあと思うわけですが、最終的に突き詰めていくと「頭の形」、頭蓋骨のフォルムが結構ポイントになってることがわかった。

 骨を見ている、というので思い出したのが数年前に出た結婚式。花婿の嫁さんと花婿の実弟の嫁さんがいたのだが、顔や雰囲気は全然違うのだが、とても良く似ている感じがして、どこが似てるんだろうと思ったら、頭から肩のあたりまでの「骨格」が驚くほど瓜二つだった。兄と弟でこうも好みが似るのか、しかもポイントは骨格かと感心した記憶があるんだが、自分も実はしっかり「骨」を見ていたことに最近気付きました。

 で、この「頭の形」の好みは実は二次元キャラに関しても例外ではないかもしれないということにも気付きだしまして、実は「二次元」だから「三次元」だから、とかそういう問題よりも「頭の形」で好き嫌いの判断をしていたのかもしれないとか思ったり思わなかったり。

 こうやって自分の美意識というか、こだわるポイントが明確になるのは確かに面白いのですが、同時に明確になる事によってよりこだわりが強くなるところもあって、いいんだか悪いんだかやや心配な部分もありますな。ダメ人間化が進みそうな予感というか^;

11/7

○「リアルのゆくえ(大塚×東)」

 図書館にあったのでタダなら読むかと。

 若い読者のために言っておくと本書の中で大塚が「物語消費論」や「不良債権化する文学」を自分の業績としてやたらと誇り、90年代は俺の時代だったみたいなことを言っていますが、なんてことはない元ネタは柄谷・蓮実らによる対談シリーズ「近代日本の批評」でありまして(特に蓮実のパート)、大塚オリジナルの主張だといえる部分が果たしてどれくらいあるか疑問。功績としては蓮実が「近代日本の批評」でやった分析を現在に当てはめて語ったことくらい。まあ「文化的雪かき」としては褒められるべきでしょうが、オリジナリティはない。

 「不良債権化する文学」で文壇と戦ってきた的なことを言っていますが、文壇の中ですらあまり話題にならず、それを大塚がひとりで「俺の言うことを黙殺する文壇は真実から目を背けている!」と騒ぐというひとりマッチポンプをやっていただけだったと記憶しておるのですが。笠野頼子だったかが一人でマジメに応対していたけれど、文壇的には特に話題にもなっていなかったし(だって蓮実がもう全部言ってしまっていたもの)

 こういう大塚の「俺様はビッグなんだぜ」という身振りをやめられない病気は昔からですが、まあ止むを得ないところはあります。彼の時代のオタク・サブカルは「ブンガクから「ああ、君らは程度の低いほう担当ね」と下に見られることへのぬぐいがたいコンプレックス」がありますので。それによって生じた強烈なルサンチマンと「人間扱いしてもらうためにはどういう身振りをすればいいか」という優等生的計算と戦術に基づいて大塚は論陣を張ってきた人なわけです。その執念というかルサンチマンと行動力は立派ですが、執念だけでオリジナリティはない。

 たとえばオシイ監督も「映画に「ああ、君はアニメ屋ね」と下に見られることへのぬぐいがたいコンプレックス」を持っている人なわけです。それでもオシイには、犬とか鳥とかオカッパ頭の女の子とかに対する独自の「趣味」があるから見ていて楽しめるわけです。ところが大塚にはそういう「趣味」すらない。「ロリコン」とか「オタク」とか「宮崎勤」とか引っ張ってくるわけですが、それすら「戦術的に後から持ってきたもの」でしかない。この人のものを幾ら読んでも「何かを語りたい」という欲望を感じないわけです。「立派な人だと思われるようなことを言いたい」という欲望ばかりが先行してしまい、「今、言うべき「立派なこと」ってなんだろう」とばかり考えている。まあ、それはそれでエライんでしょうけど、面白くはない。

 そんな大塚が東に「お前やお前の世代はオリジナリティがない」「日本人はもっとモノを考えるべきだ」とえらそうに語るわけですから、なんだかもう「ああ、こういう大人にはなりたくないなあ」と教訓にする以外、特に読みどころはない。本当は自分ではいっさいモノを考えず、「正解が何か」という感覚、「場の中で一番良い場所を獲得するためにはどうすればいいか」という感覚、「声のデカさ・自己アピールの強さ」だけが超一流、という「日本で成功する人の一典型例」ではあります。そういう人として尊敬されるべきではあるのでしょう。そういう人としては、たしかにたいへん優秀ですしね。

 東もデビューしたての頃は、そういう大塚的な振る舞いをコピーしていたところがあったのですが、最近は「若手第一人者」的ポジションをすっかり確保したこともあって、あんまりがっつかなくてもよくなったんでしょう。大塚の説教もアオリも柳に風で受け流してしまっています。大塚のひどさのおかげで、なんだか随分マシな人に見える。そういう意味では東にとって良い本なんではないでしょうか。これを普通に読んだ人は「大塚ってのはダメだな、東のほうがマトモだわ」と思うでしょうから。

 内容的には特に目新しい話はなし。以前も書いたように東は「制度設計」の話をするなら具体的にすべき。「制度設計以前の理念をどうするかだろ」とか言ってる年寄り連中を相手にしていれば時間はつぶせるが、そんなものは仕事とはいえないと思います。

 

11/6

○NHKスペシャル「日本とアメリカ〜ホワイトハウスに日本を売り込め」

 アメリカの日本大使館が頑張って新政権スタッフや親日派議員、知日派に日本をアピールしてるけど、スルーされ気味で猫も杓子も中国中国言ってますがな、という何を今更感漂う話をしております。個人的に知らなかったファクトとしては、オバマ政権のアジア戦略担当のメンバーくらいか。まあ、大使館の皆さんが幾ら躍起になって日本を売り込もうにも本国がどうしたいのかはっきりしないんだからどうにもならんですわな。

○アメリカ民主党の政策綱領

 というのが党大会の時に発表されていて、オバマの政策の大枠の方向性みたいなのを考える上では、多少参考になるかなと。

アメリカ民主党政策綱領要旨

 一、500億ドル規模の景気振興策を実施する
 一、中低所得者を対象にした減税を進める
 一、多くの国民加入が可能な医療保険の整備
 一、石油依存からの脱却を図る。地球温暖化防止に主導的に取り組む
 一、究極的な核兵器廃絶をめざす。包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准をめざす
 一、ロシアとの核兵器削減交渉を進める
 一、イラク駐留の米軍戦闘部隊を16カ月以内に撤退させる
 一、対テロ戦争の主眼をアフガニスタン、パキスタンに移す
 一、情報機関を改革し、情報活動の透明性を高める
 一、日本など同盟諸国との強固な関係を維持する
 一、アジアで新たな多国間の枠組み構築をめざす
 一、北朝鮮の非核化をめざす。米朝の直接外交を進める
 一、中国に責任ある役割を求める。ひとつの中国政策を維持し、中台問題の平和的解決を支持する

 500億ドル景気振興策については、エコノミスト誌が「ブッシュが散財しまくったのに、そんなに金を出せるのかね」とイヤミ言ってましたな。「中低所得者減税」にも同様の懸念がある。「カネモチから取ればええやん」という話だが、実際にはそういう政策を選択する可能性は低いでしょう。そうすると、恐らくは軍事支出をどうにかして削りましょうということになるんだけど、アフガンをマジメにどうにかしようと言ってる手前、どれだけ削れるのか。日本にも協力要求してくるでしょうな。

 「温暖化防止」をビジネスチャンスに、というのはヒラリーも言っていて経済学者によると、この政策プランに関してはオバマのほうがヒラリーよりも算数が分かってて合理的な規制プランや排出権取引システムを考えてる、という評価を受けていたように思います。ただ、管理人は「環境ビジネス」が新たなフロンティアになるっていうのが、まだピンとこないんですけどね。

 個人的には温暖化防止よりも「石油依存からの脱却」のほうに力を入れたほうがいいと思うんですが。日本もそうだけど「外国にエネルギーの供給を依存しなくてよくなる」ってのは国としてかなり魅力的なことだと思うんですけどね。エネルギーを各国が自立供給できるようになるってのは「歴史の転換点」になるほどのインパクトなわけで。というわけで温暖化よりもそっちのほう頑張っていただきたい。てか、そっちのほうがコケるリスクが少ない気がするけどな。

 あとは「多くの国民加入が可能な医療保険」ってやつが目玉ですが、これはヒラリーが「全員強制加入」と言っていたのから後退させたやつ。ヒラリーとしては、これが気に入らないから最後の最後まで粘ったってのがあったんだろうな。管理人は個人的にはヒラリーのほうが理想主義的ではあるけれど正しいと思うんだけど、まあ「多くの国民加入が可能な」くらいのほうが実現しやすいってのは事実ですな。

 アジアの多国間枠組みというのは一体どんなものをイメージしているのかよくわからんですが、外交は結局はパワーゲームですので、中国を軸にして進むことになるのでしょう。中台関係が微妙にきな臭い所はあるので、在任中にモメないといいけどね、みたいな。

  

11/5

○オバマで決まりらしい

 管理人はそもそも民主党がオバマを選んでくるとは思っていなかったので、まるで予想外の結果でした。「勝ちたいならオバマだけど、民主党にその度胸はないだろう」と踏んでいたもので。アメリカ人の変化のスピードの速さを甘く見ておりました。

 今回の選挙で見えてきたことは2点あって、まずひとつは「ディーンから始まった民主党型「ネット選挙」が完成形を迎えた(ある意味でディーンは速すぎた)」ということでしょう。

 共和党はキリスト教右派を中心にした「草の根保守」の動員力で勝利を重ねてきたわけです。ネオコンとキリスト教原理主義がリベラルや知識人にバカにされながらも、今に見ていろこの野郎と勢力を拡大していったのがここ10年のアメリカだったわけです。民主党は2度にわたってこれにやられたわけですが、ついに「ネット草の根選挙」という対抗手段・動員戦術を見出し、それがオバマの勝利に結びついたということなのでしょう。ただし、この戦術で優位を保てるのは恐らく今回だけ。次回は共和党サイドも「ネット草の根」でやろうとするので、民主党は次なる戦術を今から考えていかないといけない。

 共和党が毎回大統領選挙の度にやらかす「民主党支持層を投票にいかせない、投票してもカウントしない」作戦への対抗作戦を民主党が全国で徹底的にやった(期日前投票や選挙登録に実際についていったり指導したりする)ところなども、「ケンカに弱い民主党」らしからぬ強かさを感じさせます。さすがに2回もブッシュにやられると色々と反省して強くなるものです。

 もうひとつは、「白人のアメリカ」の終わりの始まりってことになるのではないかと。「優秀な黒人・有色人種はナンバー2には就任させても絶対トップには立たせない。大事なところは絶対白人」「人口構成で白人が減っても、富と暴力だけは白人がガッチリ確保する」というえげつない差別構造で今までやってきたわけですが、それでは世の中が回らなくなってきているのだろうと。アメリカ白人が育んできたものは、これからアメリカの「文化」として残っていくものとなるのでしょう。白人層の「実質的な力」は長期的に見れば低落していくことになるのではないかと思います。まあ、黙ってるとは思えないので、何度か揺り戻しがあるでしょうが、長期的に見て「子供を生み育てなかったハンデ」ばかりはどうにもならんと思います。

 ただし、民主党・オバマが今回の大統領選挙で何か新しい理念を提示したかというと実はそんなことはないというのが率直な印象です。要するに「戦上手になった」とは思うものの、それ以上の何かをこの8年で獲得したわけではない。そのツケをどこかで民主党はまた払わされることになるとは思いますが、それはまだ先の話。

 

11/4 ○世界基準

自分が世界で何番目にカネモチか判定してくれるサイト

 日本人は日本人だというだけでかくも恵まれておるのだなあ、贅沢を言ったり不満を持ったりしてはいかんなあ、としみじみ実感させられるサイトでありますよ。管理人の現在のポジションだって「60億人が全く平等なスタートラインでヨーイドン」する状態になったら、絶対獲得不可能ですよ。

 上も膨大にいるということもわかって、上昇志向持ったところで際限ねえよなあということもよく分かります。なかなかタメになるサイトです。

 

10/31

○NHKスペシャル「日本とアメリカ〜日本アニメとハリウッド」

 今、ハリウッドで一番力がある製作会社・マーブルのプロデューサー(だと思うんだけど)が日本を度々訪ねては漫画やアニメなどを渉猟しているそうだよ、という話から始まって手塚プロ(鉄腕アトムの映画化)とゴンゾ(アフロサムライの製作)がハリウッドと一緒に仕事していく中で生じた摩擦を追っていく構成。手塚プロのほうは「アトムのキャラデザイン・動き方でモメる」という話で、アメリカ側のデザインがおとなっぽすぎると手塚プロが文句をつけて修正してもらうまでを追っている。ゴンゾのほうはアフロサムライの出演声優が突如変更で、そのせいで該当キャラの絵(口の動き)を描きなおさないといけないとか、ハリウッド流の宣伝・広告手法を使ってるといった流れ。

 ゴンゾのほうは社長だか副社長だかが出てきて、会社案内みたいなのも少し入るんだけど、それによると「ブレイブストーリーとか作って収益を上げたものの、ここ数年深夜アニメの枠が半減して経営的に苦しい会社」だそうですよ。どこのおとぎの国のゴンゾの話だと目をこすってしまいましたが、まあいいや。

 ゴンゾとりあげるならストライクウィッチーズを思い切り映して、「これがハリウッド流のマーケティングの成果です!我々はお客様の喜ぶものを徹底的に提供する姿勢をアメリカから学んだのです!」とか社長が言ってくれれば楽しめるものになったのだが、無論NHKでストライクウィッチーズなど登場するはずもないし。アフロサムライとブレイブストーリー以外はNHKでは映せないのでしょうか。ラストエグザイルとカレイドスターくらいはなんとかなるんじゃないかと。ロミオとジュリエットとか。

 まあ、どちらも具体事例として興味深くはあるのだが、もうちょっと踏み込んだ話をしてほしかったな、というのが感想。ビジネスの話なら金はどこがどれくらい出してるかとか、不況の影響でハリウッド自体の直面している資金難な状況とか、色々突っ込めるところはあるはず。文化交流的な話をするなら、アフロサムライにおける日本人の捕らえられ方をめぐるギャップだとか(作品として面白いものの、カタいこと言うとアフロサムライにおける「日本」の描かれ方は誤解と偏見の塊なわけで、その「誤解と偏見」をウリにするというねじれた戦略が取られていることにもうちょっとツッコミいれてもいいだろうと)、日本メーカーが海外でアニメ販売してもあんまり売れてない(ファンサブ話な)現実とか、色々あるだろうよと。ビジネスの話としても全然ツッコミ不足だし、かといって文化的な話としても薄っぺらい。ヘンに「現場主義」的な視点に立ったせいで、軸足がはっきりと見えなかったのが残念。まあ「現場主義」的な視点から、色々な問題があることを「垣間見させる」という狙いだったとしたら悪くない出来ですが、オタクの巣窟たるNHKがそんなヌルいことでいいのかとか勝手に期待値を高くしてた分勝手に失望していたりする^;

○管理人は世帯主なので

 1世帯あたりでお金をくれるのは素直に嬉しいわけですが、経済政策としては別に「やってもやらなくても変わらない」政策でしょうな。むしろ昨日も書いたように、今日決定されるであろう利下げが「やってもやらなくても変わらない」のかどうかのほうが観察対象としては興味深い。

 

10/29

○ワンナウツがなかなか

 時間延長のせいで見逃したり15分録れてなかったりということがあって困ったものなのですが、継続視聴中でなかなか面白いです。「心理戦」に特化した野球マンガ、というコンセプトを徹底しているのが偉い。リアリティにこだわりすぎて「幾らなんでも心理戦だけでは野球は語れない」と考えて、余計な要素を付け加えてしまいそうなものだが、この作品は「心理戦・知的決戦を制する→勝利」というルールが今のところ常に貫徹されている。その分リアリティは確かにない。しかし、ある程度のリアリティを犠牲にしたことによって作品の魅力を明確に打ち出し、固定維持できているわけで、こういう見極めがはっきりしている「潔い」作品は良いです。

 強いて言えばもう少し登場人物がキャラ立ちしてくれると更に面白くなるかなあと。まあ心理戦なので感情を出しにくく、キャラを立てるのが難しいってのは確かなのですが。

○Gガン面白いなあ

 ドモン君がついに金色になる回。生死ギリギリの瞬間に「明鏡止水」の境地に達する、というベタでお約束な展開が素晴らしすぎる。もう、次どうなるのかが完全にわかっちゃうのに、予想通りの展開が見れて嬉しいという^;「お約束」「定番をそのまま味わえる良さ」を全力で使っている感じ。やはり歌舞伎や文楽の快感と似ているなあ。「お約束がお約束どおりに進んで盛り上がることが快感」っていうのは古典芸能と良く似ている。

○日銀が結局利下げするらしいという話

 31日の会合で0・25%下げるとのこと。これで、どれくらいの効果が出るかってのをリアルタイムで観察できるので勉強になりますな。

 

10/28

○色々とめまぐるしい感じ(ひとりごと)

 いかに自分の予想とか見通しというのが当たらないものかというのが良く分かります^;個人的にも色々と見通しや予想がハズレ、勝負弱さと頭の弱さを露呈する事態が色々と生じておりまして、年食っても大して賢くもならんし成長もせんものだなあ、と自分に呆れておる次第であります。とはいえ、見通しを立てないことには方針も決められないわけで。

 とりあえずアメリカは残り10日間大きな出来事がなければオバマ/民主党政権で決まりということらしい。大統領選挙もさることながら、議会のほうでも民主党バカ勝ちすると2年間はオバマ/民主党が相当自由度高めで政権運営できるということになりそう。今度の注目は閣僚ポスト(国務&財務)が誰になるかということになってくる。で、オバマ就任で経済がどうなるかとかはまださっぱりわかりません。減税して国民皆保険やって、といってるのはわかるけど、それ以外は調査不足のせいかオバマが何も言わないせいか知りませんがいまいち漏れ聞こえてこないので。ライシュのSupercapitalismで提唱されてる政策がそのまんま実施されたら面白いとは思うけど、あんなラディカルなことまずできないだろうし。

 円高で貿易黒字が吹っ飛んでしまった我が国は、アメリカ様にとっては危険性のない便利なお友達ポジションですので、ツッコミ入れる相手としては既に役不足、適当にあしらって便利使いするのが丁度いいので日米構造協議的な理不尽なイジメ政策が取られることはないのではないかなと。まあ「あそこは言うこと聞くから、とりあえず言っておけ」程度には外圧かけてくるでしょうけど共和党政権以上の放置&便利使いポジションになるだけかと。

 ツッコミ入れる相手としては中国ってことになるとは思うのですが、中国とのパイプはアメリカ民主党それなりにあるので、表向きは人権問題やら貿易問題で対立をフレームアップさせたりしつつも、腹の内で気脈は通じ合わせるというクリントン政権時代の腹芸外交が復活するだけかと。二カ国とも「心底お金が好き」という点では共通しており、そういう意味では日本よりも遥かに話が合う、というのが管理人の基本認識であります。

 中国が今度の経済危機を予想以上にうまく乗り切り国際的プレゼンスを一挙に向上させアメリカに何かを「仕掛ける」みたいな展開になった時にどうなるかっていう不安はありますが。そんなに上手く乗り切れるとは思えないので、国内の不景気と混乱を収拾するだけで手一杯になるかと。

 国内はといえば、マトモな経済学者は「アメリカは来年はリセッションだよね、仕方ないよね」と言っているし、ヨーロッパやアジアはアメリカ以上に打撃受けている状況なので「海外要因」で景気が上向きになることはないというのが大前提として考えないといけないでしょう。

 直近でおきているのは要するに「円高不況」であって、必ずしも日本がダメだからという風に見るべきものでもないのでしょう。今までの円安が結構ムリヤリだったので、ある意味で正常化の過程でもあり、正常化が円高ということは、それなりに我が国の基礎体力が評価されてるってことでもあるわけで。円高の中でも生き残れる部分、円高の強みを生かせる部分でなんとかやっていくしかない、という現実があるだけ。

 株価が下がってるのは、まあ止むを得ないことでしょう。これまで「半ばムリヤリ円安にする」「労働基準法無視して国内の人員を安く使い倒すのを許す」という二つの補助輪で企業をサポートしてきた我が国なわけです。ただでさえ損切りモードでさようならしたい外国人達が、適当に手を出していたところを見て「こいつら補助輪なしでどの程度走れるのかしら」と不安に思うのは自明の理。あいつら抜け目ないから補助輪外しても大丈夫な会社の株はきちんと買ってるんじゃないかと。

 結局は「補助輪なしだとこの程度です」と正直に数字を出して市場のお裁きを待つ他ないわけです。お裁きが出るのがとりあえずは年末、そして春先。この時にどれだけ死屍累々になってしまうかにとりあえず注目しないといかんのでしょう。

 強いところは強く、ダメなところはダメ、とい面白くもない優勝劣敗の世界が展開されることになる。ロクでもない世界ではありますが、もはや国が「補助輪をつけてあげる」ことでダメな所がどうにかなるような余裕はどんどんなくなってきているんでしょう。残る手は金融政策なんでしょうけど、それも実は「いざやってみたら大したことなかった」というオチが待ってるのではないかと思うのですが、それは経済学知らないからなのかなあ。

 まあ、とりあえず現状のまま事態が推移するとすれば、「もっとベッタリと国と仲良くできる卑怯な連中」と「本当にマトモで強い連中」以外は、経済的に嬉しいことはあんまりない世界になりそうです。「力のない半端モノ」には辛い時代になる。そして日本で一番多いのは「力のない半端モノ」だというのが現実かと^;余計なお世話か。

 円安という片輪が外れてしまった以上「労働基準法無視して国内の人員を安く使い倒すのを許す」というもう一つの補助輪を外すわけにもいかないので、こちらはさして改善されることはないと思われます。ただ、個人的に周囲の店とかで働いてる人を見ているとどうも「日本人で「今まで採用対象外にしてた人(おっちゃん・おばちゃん・おじいちゃん)」を安く使い倒したほうがいいんじゃないか」という企業サイドの「切り替え」が起きている気がします。そういうのが来年は各業種で更に進むかと。サービスのクオリティが低下する(まあ別に我慢できないほどのものでもないし)、ワープアレベルの年収の人が若者だけではなく全年齢層に拡大して増えていく、というイメージ。正社員だけ守るといっても、正社員の多くも過重労働で時給換算するとバイト並の賃金みたいな人ばっかだしなあ。

 ただノーフューチャーではあるものの日本って年100万ちょいあれば病気しない限り「その日暮らし」をまったりとできてしまう現実がありまして、その現実がある以上、企業もその辺りの年収の人を今よりも増やしてとりあえずはどうにかしようぜって思うのではないか。中年〜年寄は子持ち・病気持ちが多いのでワープアレベルまで落とされると悲惨なことになりかねないなあとは思うんだけど、多分そういう方向に行ってしまうでしょう。あとは「外国人入れようぜ」ってことになっていくのかなあ・・・・・・国内の人員を有効利用することが先な気がするんだけど。

 生活的には食品の値上げはとりあえず一服した感じ。後は電気・ガス・水道などの基礎インフラの値上げが抑制され、不況に合わせて住宅費用も適正に下がってくれればいいなあ。国民の住居費を半減させるような政策ってないのか。家賃相場が今の3分の1くらいだったら、世界的に見ても生活しやすい国だと思うんだけどな日本って。住居費の心配が結局、みんなを不安にしてがっついて働かせてるってところはある気がするんだが。

 まあ、それはともかく状況としては年末から春にかけて厳しめな傾向が続き、春先で少し被害状況がはっきりしてきて長期停滞か回復の兆しが見えるか目処がたってくるんじゃないかと。年頭・春先の早めの回復とかは恐らくなく来年一年は灰色な年だろうなあというのが予想です。ただ、ヨソは灰色どころではないので、世界的に見れば結構マシなほうなのかも。まあ、でもヨソは10年〜15年くらいバブルで成長して浮かれていられたからねえ。我が国はずっと灰色なわけで、どっちがいいかってのは微妙なところになってきていますな^;まあずっと灰色のほうがまっとうなのかもしれない。

10/24

○映画「アフロサムライ」

 国際共同制作ということで、良くも悪くも異文化コミュニケーション作品になっていて大変興味深い。映像の出来としては、これまでのゴンゾ作品の中でも出色。現時点でのゴンゾの最高傑作はラストエグザイルか岩窟王かカレイドスターかアフロサムライかって感じではないでしょうか。

 さて、結局のところ外人にとっての日本というのは「サムライ、ゲイシャ、ヤマトナデシコ、テクノロジー、ロボット、ニンジャ、ゼン、ブッキョー、クレージー」あたりなんですなあ、というのが良く分かる映画です。ある意味で「バカ丸出し」なのですが、作り手がそのことに自覚的に確信犯的に爽快にバカをやって最後まで突っ走っているのがよろしい。バカをやるならマジメにバカをやれという話でして、それが徹底されていた点は賞賛されて然るべきであります。ヘタに「日本文化を誤解される」とか言ってヘンな気配りをせずに、黒人にとっての「理想のサムライ映画」を作ってやるぜ!と根性入れて作ったスタッフ達に拍手。

 もちろん日本人から見ればギャグとしか思えないような映像が次々出てくるので、マジメに見られたものではないのですが、総体としてはかなり力の入った、丁寧に作られたアニメーションなのです。気合の入ったアクションシーンのの数々、シンプルで分かりやすい復讐劇のシナリオ、サミュエル・L・ジャクソンの狂言回しの語りの洒脱、音楽の使い方のクールさかっこよさなどなど、日本人スタッフだけでは思いつけなかったであろう面白さ・エンタメ要素が満載です。

 個人的に良かったのは音楽の使い方と、あと女性キャラのデザインですな。特に女性キャラは「黒人女性的な美人の記号をアジア系と折衷して作った」デザインになっていて、これが大変よろしかった。鼻が少し丸い感じで下のほうが出ていて、下唇がちょっと厚めな感じの顔といいますか。これを若干和風にリファインすると思っていた以上にいい感じのデザインになるわけです。東洋系とアフリカ系というのは白人よりも近いというか、親和性あるんですよね。これも恐らく日本人スタッフだけでは作りえなかった造形かと。

 尺が長いのと、かなり冗長な感じがあるのが玉に瑕ですが、予算と人員をしっかりと割いたゴンゾの仕事が見られる作品であります。個人的にはボンズの「ストレンヂア」よりも遥かにこちらのほうが良かった。

  

10/21

○映画「魔法にかけられて」

 ディズニーのセルフパロディー。もうちょっとネタを濃い目&ブラックにしても良い気はしたけど、家族で楽しめるロマンスみたいなコンセプトだから、このくらいが丁度よいのでしょう。ディズニーらしいウェルメイドで丁寧な作りで楽しめます。

 主人公のディズニー映画的プリンセスも魅力的に撮られてはいたが、個人的には王子様が最後に選ぶ「理知的でクールで優秀なキャリアーウーマンだけど、心は超ロマンチック乙女」な女性のほうが良かったな。最後で2D化したキャラデザインも含めて。

○映画「迷子の警察音楽隊」

 挿入される歌や音楽がどれも哀調を帯びて美しい。翻訳される歌詞もどれもいい。

 「気まずい雰囲気」「盛り上がらない場」「うまく流れない会話」「お寒い雰囲気」など、我々が日常生活において感じる「齟齬感」「なんだかなあな感じ」を、大変丁寧に、そしてユーモラスに描いていて、なかなか身につまされる映画でありますよ。こういう感覚ってやっぱり中東も日本も変わらないんだなあと。

 人生に疲れてるキレイなお姉さんと主人公の警察音楽隊の隊長のロマンスの描き方が実にどうにも。老年の男のロマンスのリアルさを感じさせる大変居心地が悪くなる映画でもあります。

 アラブ人とユダヤ人という設定なんだから「民族対立・人種対立」的なものを描きたくなりそうなものだが、そこにはあまりタッチしすぎず、「人生ままならない」のはアラブもユダヤも一緒だよね、という話にまとめてるところも良い。全編に漂うとぼけたユーモアが好ましい佳作であります。

 どの映画見ても言ってることだが女優さんが綺麗である。中東でベールだとか女性の顔を覆う文化が発達したのは、たぶん女性が綺麗すぎで平均水準が高すぎたからじゃないかとかしょうもないことを思いました。

○映画「運命じゃない人」

 プロットも優秀だし見せ方・演出も的確で達者。俳優達の現代的な脱力感や喋り方なんかも上手い。「映画そのものの楽しさ」を味わわせてくれる佳作であります。しかし、技術的に達者すぎることによって「技術だけで撮ってる」感じが最後までしてしまい、物語の強度、テーマ性などの観点から言うと若干物足りなさは残ったかもしれない。でも素晴らしい。拍手。

 

10/20

○NHKの海外ネットワークで

 ヨーロッパの経済危機のレポートがやってて、「とばっちりを食っているかわいそうな庶民」的なスタンスのものがやってるわけです。

 しかし、どうも出てくる人達出てくる人達、イマイチ同情を感じない自分というのがおるわけで困ったものだなあと。いや、お気の毒にとは思うんだけど「でもその程度のことで同情される程お前はダメなわけ?」と思ってしまうところがありまして。仮にも「先進国・西洋圏の国籍を持つ人間」という世界的に見れば結構恵まれた立場にいるのに何をグズグズ言ってるんだ的な気持ちがあるわけで。

 アイスランドの若い漁師の兄ちゃんが家と高級車をローンで買って金融危機で通貨下落して返済額が高騰して「国に詐欺にあった気分だ」とか言って嘆いているところなんて、正直アホじゃねえのとしか思えんわけです。家と車を手放して安アパートにでも越してから言えと。赤ん坊が生まれたばかりなんです、とかいってるんだけど、だったらなおさら家だとか車なんざに拘ってる場合じゃないだろと。そもそも自分たちの国が「他人様のお金を預かって資産運用させていただいてアガリを貰って稼がせていただいている」という自覚があったのだろうか。景気拡大がいつまでも続いて、自分達の金融商売がいつまでも万々歳だなんて見通し立ててる奴らって、単に人生や社会をナメてそのツケを払わされてるだけでしょ。悪いけど、もっとなんとかしなくちゃいけない優先度高い人達世界に幾らでもいるから、としか思えない。一瞬でも薔薇色の未来をマジで思い描けたんでしょ?それだけで十分よかったじゃん、と思うんだけど。

 まあ、いかに日本が長らく不況で、自分の感覚が「不況モード」「新自由主義モード」「自己責任論」に毒されているかという話ではあるんですが。無論、幾ら頑張っても生活を維持すらできなくて、先行きもわからなくて辛くて苦しくてってのはあるわけで、そういう人が時代が悪い、経済が悪い、社会が悪いと言うのは分かるけどね。そういうレベルじゃない連中が、ちょっと不況になったくらいでアタフタしてるのを見ても正直「ああ、随分とヌルい環境でお育ちになられたのですね」としか思わんところがあるわけです。

 こういう感覚って、日本の上の年代の人達と話してる時も生じたりするんですけどね。政府が悪い、経済が悪い、会社が悪いとか言ってるけど、正直「今あんたと話してるのは、そういうもののせいにする以前のレベルの問題だと思うんですけどね」という感覚。ただ、こういう感覚って気をつけないと自分も他人も「追い込んでしまう」「助けを求めるべきなのに助けを求めずにつぶれてしまう」ものなので、あんまりなあとも思うんですが。現に、管理人より若い世代は、この感覚が管理人以上に厳しく、「おいおい、もうちょっとヨソに文句言ってもいいんじゃないの?」と心配になってしまうところがある。ある意味マジメすぎる。

 まあ、こういう話をすると「自己責任論が国や企業によって押し付けられて、人々はムリヤリ「自己責任教」に入らされている」という意見が出てくるわけですが、個人的にはこれは「半分当たっていて半分間違っている」感じでして。「自己責任」という言葉にはプライドや矜持、人としての尊厳みたいなものが絡んでる。人としての業が絡んでくるものだから、みんなこれほどこだわるし、ある時には人にも求める。単にムリヤリ政府に言われて押し付けられているというだけでは説明はつかん気がする。

 大雑把に言ってしまいますと、まず「人としての尊厳やプライドや矜持ってのは我が国においては「ぜいたく品・嗜好品」の部類に入るものである」という前提があるように思います。そういうものにこだわれるのは、まだギリギリじゃない証拠、本当に切羽詰ったらなんでもするよね、というのがこの国では室町末期・戦国以来のデフォルトとなっていて、それは為政者・国民ともどこかで「共有している感覚」なんじゃないかと思います。

 でまあ、一部の為政者や経営者(あと権力者的に振舞うクリエーターとかもその片棒を担いでる)は相変わらずそういう「昔ながらの感覚(プライドなんてぜいたく品だ、切羽詰ったらなんでもやるだろ)」で生きているし物事を動かそうとしている。でも、さすがに文明開化を始めて100年以上経ってますので「さすがにもう「プライドはぜいたく品」なんていうのがデフォルトな世界はイヤだなあ」と思う人も増えているわけでして。そういう人が自らの矜持を維持すべく「自己責任」感覚を護持してるんじゃないかと。それをある意味で「利用されてる」んじゃないのかと。「自己責任」の問題は、そこら辺がちょっと「共犯関係」「同一プラットフォーム上の問題」になっていて簡単に切り分けられない部分がある気がします。下々が「自己責任」でキチッとやると、お上が「じゃあもっと自己責任で」という風に言ってくる、みたいな「負のスパイラル」みたいなものがあって、それは結局、下々とお上が「同一のプラットフォームを共有しているからこそ」生じ得るんじゃないかと。

  

10/18

○アニメ「かんなぎ」第二話

 「仲違い→事件→仲直り」という地味かつ王道のパターンの話なのですが、見ていて退屈しないのはひとつひとつのシーンのキャラクターの感情や芝居を丁寧に作っているからでありましょう。丁寧な仕事をしてくれれば、それだけで「画面はもつ」ものなのですな。

 作画もキレイなままよく動くし、しょうもないギャグで力を抜いてくれるし、「ウェルメイド」と呼ぶにふさわしい作品となっております。それにしてもオープニングが実に良いですなあ。

○山名沢湖「つぶらら」四巻

 まさかまさかの超展開(でありながらも、地味さは変わらないところが山名先生の素晴らしいところ)でラストを一気に駆け抜けていきました。「アイドルへの純粋・一途な憧れ」だけでひたすら(地味に)暴走していく主人公と、山名沢湖ならではまったりした日常的世界観が見事に調和した傑作であります。完結を機に未読の方は是非。

 

10/16

○音楽版「もののあはれ」みたいなもんでしょうか

http://www.nicovideo.jp/watch/sm4947752

http://www.nicovideo.jp/watch/sm4947752

 エスカフローネのサントラにある名曲「Farewell」を思い出しました。菅野先生、さすがですというべきかなんというか。

○お絵描き話

 話してばっかいないで晒せ、という話もあるんですが、肩と腰と足をどんな角度や曲げ方でもある程度自然に描けるようになれれば・・・肩や腕は前に比べると少し分かってきた感じはありますが、足・下半身はとにかく難しい。腕も難しいけど。アングルや向きが変わったときに「どう見え方が変わるか」というのを分かってないで描くと速攻でバレますからな。

 しかし、絵を自分で描いて人体の仕組みをあーだこーだと見ていると、漫画とかだとそこら辺の表現がテキトーだったり大雑把だったり(デフォルメとか以前に、単に気にしてないというレベルだったり)することが多く、なるほど美術系の人が漫画家を「絵が(技術的に)下手、オタクは絵が分かってない」みたいなことを言いたくなる気持ちってのは、ひょっとするとこういうところから来るものかもしれんなあと納得したりする。まあ、でも正確ならいいのかって話もあるからねえ。

 さて、描いてて気付いたことシリーズとして、漫画やアニメにおいてなぜ目がでかくなるのか、というのが少し分かったというか、ある意味「普通に描いてると大きくしたくなるんだな」というのがわかったのでそのことについてメモしておこうかと。たぶん全然理屈としては間違ってると思うのだが、個人的な実感として。

 キャラクターだけではなく人間を見るときもそうですが、我々は「顔」にどうしても集中がいく。そうするとキャラクターを作るときに「顔」をリアルなサイズにすると、実はキャラ全体の印象が弱くなってしまうのですよ。まあ体の別のパーツを強調するような絵ならいいんですけどね、胸とか足とか。でも普通のキャラクターはやはり「顔」がそれなりに目立たないと印象に残らないところがある。アニメや漫画のキャラが子供っぽいプロポーションになりがちなのは別に作り手がロリコンだからではないんですな。キャラを印象付けるために「顔」をある程度大きくしなければいけないので、自ずと「頭でっかちな児童体型」に近づいていくわけです。

 (話はそれるが、そういう技術的要因と共に「日本女性の中には成人してからもアニメキャラっぽい人が一定数いるという現実」もアニメ・漫画キャラに影響を与えているような印象もあります。というのも、最近、外出た時はもっぱら道行く人の「頭と体のサイズ比率」みたいなのを見比べているのですが、そうすると結構リアルな成人女性でも「頭でっかちで肩幅狭めで、細い」というアニメキャラみたいな人がいるんですな。)

 さて、「顔」をそれなりに大きくするというおはいいことなんですが、顔を大きくすると、今度は「大きな顔を埋めるパーツ」というのがどうしても必要になってくるんですよ。のっぺらぼう部分の面積が広い場合、個々のパーツが小さいと逆にヘンな顔になってしまうんですよこれが。よほどバランス感覚が秀逸な人じゃないとリアルな造形・サイズのパーツを広い面積の顔にくっつけてきれいに見せるってのは難しい。

 さて、顔のパーツというのは眉、目、口、鼻しかないわけですが。その中で「大きくできる」パーツって実はが目しかないんですな。

 鼻は大きくしすぎると異様なんですよ。第一「線で鼻を表現する」って結構大変です。いわゆる「鉤鼻」や「鼻がない表現」がなぜ採用されるかも描いてるとよくわかる。よっぽどきちんとリアルを丁寧に描けば別なんですが、「線で鼻の立体感をきれいに表現する」ってかなり手間がかかり、それだったらたしかに「鉤鼻・鼻がない」ほうがラクだし合理的だし、可愛く見える。ですから、鼻をでかくするってのはかなり難しい。リアルの顔においては「鼻の形」って結構大きな要素になってるんですが、アニメ・漫画キャラにおいては、鼻は「描きにくい」ゆえにリアルほど目立てない。

 口はある程度大きくできるし、実際漫画・アニメなどで口は結構デフォルメされて大きく描かれる場合があります。ただ、そうは言っても限界はあるわけですし、口が顔の中で占める率を一定以上あげると怖くなってしまうので、それほど大きくはできんわけです。

 眉も太く・長くするったって限界があるわけですよ。結局、そうやってみていくと「広い顔の面積を埋めるために使えるのは「目」だけ」になる。リアルな顔においても「目が大きい・強い」というのは、まあきれい・可愛いと評価される際にポイントになる部分なので。多少大きくても許される、ということもある。

   まあ、そういうわけで「漫画とかアニメのキャラって、なんであんなに目がでかいの?」という質問には、まず「目がでかい以前に、まず顔・頭がでかいんです。顔・頭がでかいと自ずと目は大きくなるんです」という話をしないといかんなあという気がします。

 そうすると「なんでアニメ・漫画のキャラってあんなに顔がでかいの?」という問題になるわけですが、それは基本的に我々が「顔」を見て人の感情や好悪を判断するからでありましょう。別にアニメ・漫画に限った問題でもないように思います。

 というわけで、管理人目下の悩みは「目をどうやって描くか」ということであります。あと、「顔にバランスよくパーツを配置するにはどうすればいいか」ということであります。リアルの写真の模写をしたおかげで、リアルな人間のパーツのつながりみたいなのはわかったのですが、漫画・アニメ的なキャラにおいては、それを意識しつつも「崩す」必要がありまして、それに結構抵抗感があるんですな。

 

 

10/14

答えを欲しがる あいつに言ってやれ
そう急かすなよって 順番があるんだ(SION)

○相場が下落する時は乱高下を繰り返しつつ着実に下がっていくのが常道ではないのか

 とはいえ、アメリカが渋々資本注入を決めたのは大きい。遅い遅いと批判されているが、日本に比べれば遥かに速い。

 ただ、りそなを救済したから日本経済はよみがえったかといえばそんなこともなく、「実感なきいざなぎ超え」程度の景気回復しか実現できなかったわけです(結局のところ「再配分できる余裕がないレベルの景気回復」でしかなかったから「実感なき」景気回復になったのであり、その程度の景気回復でしかなかったということ)。しかも、それだって中国(輸出先)とアメリカ(円安で共存共栄関係)という「頼れる海外要因」があったればこそ可能だったものですし。欧米にはそんな「頼れる海外要因」はないのですから、当然、派手に回復して全てが薔薇色になるはずがないのです。信用不安も落着したわけではないし、ダブついているアメリカの住宅も行くところまで値下がりするしかない。「ツケを払わされる局面」なんですから、ちゃんとツケは払ってもらうしかないのです。我々もそれに付き合わされるわけですが。

 公的資金導入しただけで景気回復なんてことにはならないわけで、これからしばらくグズグズウダウダした時期をやるしかないのでしょう。そして我が国もそのとばっちりを確実に受けることになるわけです。「失われた10年」の時には、まだ個人レベル・地域社会レベルの「有形無形の蓄積」がまだ残っていたのですが、このたびの不景気はそうした「有形無形の蓄積がない・あっても残りわずか」な状態で本格的にやってくるものなので、余裕ゼロの切羽詰った事態があちこちで生じることになるやもしれんということです。余裕の不足、度を越えた抑圧は人を強くすることなどなく、単に歪ませるだけでありまして。

10/13

○映画「ストレンヂア 無皇刃譚」

 初監督作品しては十二分に素晴らしい出来であり、特にアクションシーンはボンズらしいダイナミックでありながら細やかな芸が随所に光る見事なもの。一見の価値があるでしょう。

 ただし、逆に言うとそれ以外、特に何も見所がない映画でもあるといえます。「黒澤明のパクリが半ば目的化」してしまっており、しかもそれに何かを積み増せているかといえば残念ながら積み増せていないのであります。

 「黒澤明的ではない部分がどこにあるか」ということを見ていくと、結局は「ガキと犬がけなげで可愛い」「主人公が外国人」「異能集団達の作る秘密基地でラストバトル」「子供を殺してしまって後悔する主人公という設定」くらいしかないのです。

 主人公が外国人という設定は一応登場するものの、それによって主人公にどんな心理や苦悩が生じるのかを描くことはあまりなく(差別回避のために髪を染めていました、くらいの見せ方しかしない)外国人であることの意義があまりよくわからない。「主命で子供を殺す」ことに外国人ならではの違和感や葛藤苦悩があるとかならまだ分かるんだけど、そこら辺はむしろ日本人的なベタな葛藤しか見せてないし。敵方が外国人なのは「異能集団」「秘密基地」要素を出すためにも必要な設定なのでわからなくはない。

 あとは「主命で子供を殺してしまった」というトラウマなのだが、さして綿密に描かれることもなく、結局のところ「娯楽映画として必要だから作った葛藤」以上のものとして演出されていない。これは管理人の感覚で言ってるってものでもない。「訴えたいテーマに沿って葛藤を作る」という当たり前のことをするかしないかの話であり、それを「どれだけ徹底してやるか」という話です。もし、無名の葛藤がメインテーマだというのであれば、クライマックスで「子供を見捨てるか否か」という葛藤が到来するのが常道。しかし、監督(そして脚本家)はクライマックスのアクションを優先させ、無名の葛藤を「本番のアクションに入る前(寺での問答と気絶している時の回想)」でさっさと終わらせてしまっている。クライマックスは、ガキを置いてけぼりで男同士が戦う。これで「子供を見捨てるか否か」というテーマが大事だなんて観客が思うわけがないのです。

 「子供を見捨てるか否か」というテーマを脇に置いた時、残るのは何かといえば「異能集団たちの作る秘密基地でのラストバトル」であります。そこに何か新しいもの、現代に訴えるべきものがあるかといえば何もない。あるのは黒澤明ワールドで好きに遊びたい、という作り手の欲望だけ。別にそれでいいんだよ娯楽なんだから、というのであれば、最初から最後までアクションやってればいい。最初から最後まで「異能集団と主人公のバトルアクション」だけやって遊んでいればいい。「子供を見捨てるか否か」なんて、とってつけたような葛藤を入れないほうがよほど潔い。

 それができないところに「初監督」の逡巡というか、煮え切らなさがあるように思います。中途半端なヒューマニズムもやりたい、自分達の好きなこともやりたい、あれもやりたこれもやりたい、そんなことで良いものができるのかという話です。

 でも、アクションシーンは良いので一見の価値はある。これだけは確か。

 

10/10

○change the rule

 世界ザマぁ、日本チャンスみたいな話がちょこちょこと見られるので、イヤミを言いますと。

 グローバリゼーションを今までみたいな「アングロサクソンのルール」で「金で金を借りる連中と」やらなくてもよくなるかもしれない、というのは喜ばしいことです。しかし今回の恐慌でグローバリゼーション自体の進行が止まることはないでしょう。単純に「貿易はきちんとやれば儲かる」という事実があり、「きちんとやれば儲かる」ことがあれば必ずやりたがる奴が出てくるのは必然。「儲けるよりも国を閉ざしていたい」という人がいるのは(前も書いたが)心情的に理解できるが無理がある。

 たしかにルールは新しくなっていくでしょう。しかし「アングロサクソンのルール」がダメだったからといって、「日本のやり方(そんなものが体系的にあり、外部に説明できるだけのものであればの話だが)」が国際的支持を得られるわけでもない。欧米がコケたことと日本の評価は無関係。一時的に期待されることはあっても、今まで通りにしていれば今まで通りに失望されるだけ。

 スティグリッツが「グローバリゼーションはちゃんとやれば素晴らしいものになるんだよ」と言っているとおり、「小異に目くじらを立てすぎず、国の発展段階などを考慮した上で、みんなが大体納得できるレベルでフェアでクリアな取引をするルール」を作っていく余地はまだまだある。アングロサクソンのルールは極めて粗雑でダブルスタンダードで恣意的で利己的であり、それが少しマトモになるだけでも大分風通しがよくなる。日本のチャンスというのは、これから作られる世界の「マトモ」に合わせて自己変革するチャンスであって、それ以外のチャンスは基本的に個人や会社などカネ持ってる人達にとっての「ゲームのチャンス」でしかない。

 ルール策定で「フェア」さ「クリア」さを確保するために日本が働く姿なんか想像したいところだが、それができるほど国内がフェアでクリアかといえば、さあどうでしょうねという話なわけで。これまで日本は散々「フェアじゃない」「ルールがない」と批判されてきましたが、それは別に「アングロサクソン標準で批判されてる」わけではない。ふつうに誰もが思うようなレベルで「フェアじゃない」「クリアじゃない」「ルールがない」から批判されてきたんじゃないかと思うのだが違うの?無論「フェアじゃない」「クリアじゃない」状態になったのには、バブル崩壊だとか未曾有の不況だとかのグダグダがあって、やむにやまれぬ非常措置的な部分もあったにはあったのでしょうが、それが常態化してしまったらやっぱり信用なんかしてもらえるはずもない。たしかに批判されればそりゃ「お前もな」といいたくなる相手ばかりではあるのだが、「お前もな」と言い返しただけでは結局何も変わらないわけでね。まあ、でも「お前もな」と言い返したほうがラクだからなあ・・・シニシズムとかニヒリズムとかって結局「いちばん分かりやすくてラク」なんだよね。だから強いんだ。

 先ほども書いたように「不況で鍛えられた個人・会社単位のカネモチが儲ける」ことはあるだろうと思うが、日本という国自体が今回を機に一挙に浮き上がるという姿は残念ながら今のところ想像できない。むしろアメリカのほうがさっさと復調してしまうのではないかとか。まあ、別にそんなこと思ってるの管理人だけではなく、かなりの日本人がそう思ってる感じ。ドルの外貨預金の問い合わせがやたらと多いって話だし。要するに、みんなアメリカそのうち復調すると思ってるわけですよ。円高でも、円よりドルのほうがいいだろって思ってるわけで。

 生活レベルで不況の影響が来るのはこれからですが、まあ15年も不景気やってたので、今更どうこうわめくものでもないしね。

映画「マイ・ブルーベリー・ナイト」

 管理人が王家衛作品に期待するものが満遍なく備えられている大変な傑作であり、監督としての円熟ぶりというか充実ぶりが素晴らしい作品でありますよ。映像は綺麗だし、カッコイイショットが満載だし、音楽は相変わらずええですし、グズグズメソメソした人達ばっかり登場するし、変わり者の二枚目もちゃんと出てくるし。しかも今回は珍しくハッピーエンドで綺麗にシメていて、それが決してイヤミではなくすっきり爽やかに終わってるし。言うことなし。ああ、ネットでの評判なんか気にしないでやっぱり劇場にいくべきだったかとちょっと後悔。

 ただ、ネットでのいまいちな評判もわからなくはない。要するにノラ・ジョーンズがどうにも困った主演女優でして……いや、別に悪いわけではないのだが、「良くもない」というか「普通」すぎるんですよね。アベレージヒッターすぎる、みたいな。他が明らかに「良い」分、ノラ・ジョーンズの「普通」さが際立ってしまったせいで映画全体がノラ・ジョーンズが出てくるたびに止まってしまうというか……王家衛のセレクションなのか?決して「悪くはない」から可哀想なんだけど、でも残念ながらノラ・ジョーンズが映画の格を二段くらい落としてしまっている。それ以外が良すぎるせいで、際立ってしまったというか、とにかく非常に惜しい。

 それ以外の役者は素晴らしい。特にジュード・ローとナタリー・ポートマン最高。ナタリー・ポートマンは今回初めて「ああ、普通に女優さんとしても優秀なんだ」と感心するほど良かったし綺麗だった。見てるだけで絵になる。撮り方もいいが、まずもって素材がいいんだなあと。

 ジュード・ローは今までだったら金城武とかがやる役回りの男をやっているんだけど、これが思った以上にハマるし、芝居もやはり達者なもの。もうちょっと愛嬌が出てくれば完璧。

 それにしても王家衛は天才だなあ。映画のヤマ場になるキスシーンとか、どうしてこういうことを思いつくかと。ただ、それもノラ・ジョーンズのアップショットがギャグっぽくなっちゃったせいでイマイチなんだけど・・・・・・キスした後の表情はチャーミングで良かったんだが。監督的にはもっと、ああいう「素」っぽい感じを前面に出してほしかったと思うんだろうけれど、硬かったなあ…うーんノラ・ジョーンズだけ差し替えてリメイクとかできねぇかなあ。勿体無いなあ。

 

10/6

どうやって生まれてきたか首をかしげてる
子供たちを抱き上げキスをして躍らせておくれ
(Dance me the end of love)

○2000年代のアニメはまずもってダンスであることを忘れてはいけません

 大地丙太郎やワタナベシンイチらが作品内にダンス&ミュージックを導入してくれたことに我々はもっと感謝せねばならなんのかもしれません。こんないいもの見られるようになったんだから。

かんなぎOP

 リアリティや生々しさの感覚を保持しつつ、リアルを超越したアニメでしか出ない躍動感やキレの良さを達成しようとしている大変野心的な快作でありましょう。これまでのアニメのダンスシーンの中でも出色の出来。必見であります。山本寛はやっぱり立派なモノだなあと感心。

 そういえばガンダム00の第一話もモビルスーツ戦をかなり頑張っていて感心しました。さほど面白くはありませんでしたが。あと釘宮素晴らしいと思わされるトラどらの第一話も上々の滑り出し。「今日の5の2」がネタはいまいちなものの、映像的には結構頑張っていて感心した。なんか今季は第一話がみんなそれなりに気合入ってるし頑張りが見えるものが多いのではないでしょうか。

 

○俳優・緒形拳氏が

 お亡くなりになったそうで。

 管理人が生で見たのは串田和美と(ほぼ)二人で演じる「ゴドーを待ちながら」でした。嬉しいことに最前列の座席で、それこそ30センチか1メートルもない距離から緒方拳ばかりずーっと見ていたのですが、驚かされたのはその「芝居の細やかさ」です。彼を見ているとひとつひとつのセリフ、動作に合わせて表情や芝居がきちんと「設計されている」ことがはっきり分かるのです。役や台本を徹底的に読み込み、緻密に作り込んで舞台に出るのは役者として当然なわけですが、その徹底ぶり、細かさ、観客への伝達度の高レベルぶりが素晴らしかった。無論才能もある方だったとは思いますが、それ以上にプロとしての根性というか「徹底性」「どこまでもやり尽くす執念」があの演技を作っていたのではないかと思います。


 

 10/3

You don't know what you'll do until you're put under pressure
(Across 110th Street)

○プレッシャーに晒されたら何するかなんて、実際に晒されるまではわからん、というような意味

証券化商品の時価評価、米証取委が基準緩和

 やれ日本はフェアじゃないだとか、公正なグローバルスタンダードルールに従え土人どもだとか言っていた人達も、自分とこがヤバクなればこんなもん、という話です。

 で、まあこういう時に、タランティーノの「ジャッキー・ブラウン」のOPAcross 110th Streetを聞くと、なかなかしみじみさせられるものがあります。それにしてもいい曲ですなあ。中盤から遠慮なく入ってくるストリングスが素晴らしい。

○映画「ボルベール<帰郷>」

 スペインのヤバイ人、ペドロ・アルモドヴァル監督作品。今回もネタ的には「相変わらずだなあ」と思わされるものなのですが、それでいて実に見事な映画に仕上がっており唸らされる。

 特に脚本の上手さ、達者さが素晴らしい。登場する多様な女性キャラたちにそれぞれ「秘密」を持たせ、それが複雑に交錯し、重なり合い、共鳴していく巧みな構成がお見事。しかも、単に巧みなだけではなく、ドラマとしても盛り上がりがあり、世代を超えて強く生きていく女性達の物語としてのスケールの大きさも感じさせてくれる。「女性」を一貫したテーマにしたのも吉と出て、今までのアルモドヴァル作品の中で随一の傑作となっております。まあ、随所で見せる女性の撮り方が相変わらず「ダメな人だなあ」と感じさせるに十分なものなのですが。

 色彩の豊かさ、ペネロペ・クルスをはじめとした女優さん達の美しさも素晴らしい。とりあえず、これまでのアルモドヴァル作品の中では出色の出来。拍手。

 それにしてもスペインもダメ男ばっかりなんですかね。海外作品見てると「なんでみんなそんなダメなの?」ともう心配になってくるといいますか。いやまあ映画の中だけだと思うんですけどね、きっと。そうあってほしい^;

○映画「神様の愛い奴」

 表現すべきものを何も持たない人間が、それでも表現欲求と表現できる環境だけはもってしまい、作品を作ってしまうとこういうものになるという良い症例。創作者の「反面教師」としては機能するであろうが、簡単に言えばただの駄作。

 奥崎謙三ではなく、この映画を企図し製作した人間達の空虚さがあまりに無残であり、それゆえに見るに耐えない作品となってしまっている。奥崎は「ゆきゆきて神軍」の頃と大して変わっていない。変わったのは作り手のほうだけだろう。作り手たちは「自分たちが奥崎に付き合ってあげている」とでも思っているのだろうが、実際は「奥崎が作り手に付き合ってあげている」のである。ある意味、奥崎の「優しさ」だけがこの作品の救いか。

 「偶像破壊」をしたいという企図は感じられるのだがそうする動機が作り手にはない。破壊にも情熱が必要なのである。情熱なき破壊など退屈なだけ。

 作り手が己の惨状を自覚しているならまだ救いがある作品になろうものの、その自覚すらないので見ていて物悲しく、特に後半は退屈なだけ。ただただ無残であり、その無残さがある種のリアリティをかもし出しているといえなくもないが、正直極めて程度の低い、退屈なリアルでしかなく、そんなものを見せられたところで嬉しくもなんともないのである。

○映画「しあわせな孤独」

 注目のデンマーク人監督スザン・ピエール作品。映像や女優の見せ方は上手で、映画として十二分に鑑賞に堪えるものを作れているのは立派だが、お話はつまるところ昼メロ三角関係劇場以上のものではない。正直、三角関係劇場なら「君が望む永遠」のほうが水準が高い。このレベルのシナリオで国際的評価を得られてしまうとするとアージュとか金巻兼一ってかなり凄いのかもしれんなあ。

 ラストの主題歌の歌詞が映画の内容とリンクして良い感じにシメていたのと、主演女優のソニア・リクターが綺麗だったので良い映画、ということにしておく。

○映画「Sweet Sixteen」

 ケン・ローチ版「キッズ・リターン」とでもいいますか。イギリス労働者階級モノは、この作品に限らず数多くありますが、この作品の特徴は「親のダメ人間度レベル」と「子供の純情度レベル」の高さでしょう。主人公の少年が野暮ったい顔をしていながら実に純情で良い子なのだ。母親思い、家族思いの良い少年であり、まさに「Sweet」な少年。崩壊した家族をもう一度再生させるために彼はヤクの売人としてせっせと働くのだが、「親のダメ人限度レベル」の高さの前にはその努力も無駄に終わるのでした・・・…という救いのカケラもない話。

 それにしても、こないだ見た「ナイロビの蜂」といい、これといい、「登場する大人が全員ダメ人間」というのはイギリス人のデフォルトなのですか?「大人なんですから、いい年なんですから」と小一時間説教したくなるようなのばかりがゾロゾロと登場してきて凄い。日本人はやっぱりマジメな人が多いし、マジメなのは子供やヨノナカにとってやはり良いことなのだなあ、としみじみ思わされます。

  10/2

今野緒雪「マリア様がみてる − 卒業前小景」

○桂さんがついに主演で一話貰ってる、よかったねえ。

○「白(志摩子さん)−紅(瞳子)」「白(聖様)−黄(由乃さん)」など、今までになかった組合せが絡んでいるのが実に面白い。今野先生サービス精神全開です。

○「白(志摩子さん)―白(乃梨子)」は相変わらず新婚夫婦のよう、仲良くて結構なことです。

○なにげに「白(乃梨子)―紅(瞳子)」の仲の良さも描かれていて、未来を感じさせてくれますなあ。

○直接絡んでいるわけではないが「乃梨子・瞳子―聖様」という組み合せもあって、これもなかなか面白い。聖様は誰と絡ませても面白いな。

○卒業前になって由乃さん覚醒エピソードが来るかなあ、と思っていたが、聖様に相談しにいくくらいでそれ程劇的な覚醒はなかったりする。

○メインのお話はもちろん「紅(祥子様)−紅(裕巳さん)」の黄金コンビでして、これがまた大変素晴らしい。

○ここのところ「ビッグになってきた」感が強調されてきた裕巳さんですが、今回は落ち着きを見せつつも「お姉さま一筋」な純情妹キャラが際立っており、大変よろしい。

○裕巳さんが祥子様を探して学校を回るのですが、それがこれまでの二人の軌跡を辿る旅になっているという構成が泣ける。

○そうやってじわじわと盛り上げたラストの盛り上がりは「白―白」の二人を遥かに凌ぐものであります。赤に黒に涙。やはり紅薔薇は二人とも激情型ですな。

○一点だけ不満を言えば「挿絵が少ない」ことに尽きる。まあいいけどね。

○というわけで、次回は卒業式当日になってしまいそうな勢いであります。マリみての「ヒロイン」(裕巳さんは「主人公」であって「ヒロイン」ではない)である祥子様がいなくなってしまうというのは、シリーズ的にはかなり大きいよなあ。ちゃんとこの後も続いてくれるのかどうかが、まず不安ですな。

○いや、てか続かないと有馬菜々にデレる由乃さんが見られないじゃないか(そればっか)。

○にしても、あっという間に読み終えてしまうな…今野先生が100人くらいいて、毎日新作一本ずつWEBでアップしてくれればいいのに。

 

10/1

○詰め腹の切らせ方が難しいのはどこも一緒か

米金融安定化法修正案、1日上院採決・下院幹部も賛意

 日本でも公的資金注入のタイミングが「なんでテメエで損こいた奴の尻拭いを税金でやらなきゃいけないんだ」という感情論のせいで遅れましたしな。アメリカの議員・国民も同じ感情論に流されてしまいたくなるのは分かるけどね。結局、人間というのは「詰め腹を切らせる」ということをどこかでやらせないと気が済まないところがあるわけです。合理性とは関係のない、感情の問題でそういう部分がある。

 しかし、可決されると思いますが。今回の法案の可決の可否は別に「サブプライム問題解決のための最終決戦」でもなんでもない。金額的に言って、今回の法案「だけ」でサブプライムショックがどうにかなるというものでもないとみんなわかってるわけです。要するに「こんな対策すらケチるようだったら、もうダメだなこの国」と見切りをつけられるか否かの瀬戸際でしかないわけで。したがって、「方法がいいものかどうか」とかでグダグダ言うのはこの場合、あまり本質的ではない(無論、方法のマズさは後々に禍根を残しはしますが、「何も対策しない」よりははるかにマシなわけで)。「決断のスピード」「市場に悪いなりに「先の見通し」を与えることで落ち着かせる」というバーナンキ・ポールソンの戦術を、ここでやめさせても意味があるとは思えない。ちょっと駄々こねてみただけでしょう議会も。こんなところで否決して「アメリカ終了のお知らせ」を自らアナウンスするほど頭悪くないと思うんですが。

○お絵描き話

 模写といいますか、写真をうだうだとペンタブで描くというのをやっておりまして、まあどうせやるなら綺麗な女の人がいいということでやっておるわけですが、どうも絵を描くという点においては外国人女性のほうがいいなあ、と。なんというか日本女性って顔にしても腕や足にしても、筋肉とか骨とかが全部脂肪で覆われちゃってどこがどこやらよくわからんので練習台として結構不便なんですよ。筋肉とか骨とかがはっきり分かるほうが立体をとらえやすいし、描きやすいなあと。「なるほど、筋肉ってこうなってるんだ」という発見がしやすいといいますか。

 まあ、だから外国人のほうが素晴らしいとかそういうわけではないのですが。飽くまで「練習素材としてどっちがいいか」という話。

 

 

 9/30

厚い地層の底からやうやく滲みでてくる水のやうに詩よ
なむじの滲みでてくるところは深い深い沈黙の底だけだ
(高橋元吉)

○我々はいつまでシャーマンを必要とするのかという話

『おまえが若者を語るな!』 後藤和智著

 立ち読みでざっと読んだだけなんですが。きちんと学問してる人達にとっては昔から宮台とか香山なんかハナから相手にされていないというか、「ああ、あのマトモに大学で勉強できなかった人ね」みたいな扱いなわけですが、それを新書という形で露骨に言ってしまった点が本書の価値でありましょう。

 さて、管理人はどっちかというと「マトモに大学で勉強できなかった人」なので、必ずしもこういう人達に100%与するわけでもなく、宮台とか香山にも一定の功績とか役割とかがあると思ってはおります。

 社会についてマジメに研究したければ、当然のごとく実証的なデータをコツコツと集め、それに基づいて分析するのが「王道・基本」であります。物事を科学的に、マジメに考える人ほど、そういう「王道・基本」をきちんとやることを大切にするわけです。しかし、この「王道・基本」には問題がありまして、端的に言うと一般人にとって(あるいは「王道・基本」の大切さをあまり理解していない人にとって)は、この手のマジメな分析は極めて「わかりやすくない/はっきりしない/つまんない」ものなのです。現実なんてものは往々にして複雑ではっきりしないものですので、マジメに研究すればするほど「大体こういう傾向がありますねえ」くらいのことしか言えないわけです。そういうのを積み重ねるのが大事なんですけど、でもはっきり言って、そういうのって「つまらん」わけです。いや、やってる人は面白いんですけどね。説明されるほうは「なんか手続きは面倒なのに得られる結論は地味だなあ」的な印象をどうしても受けてしまう。

 とはいえ人間、自分の生きている社会や世の中がどんなものなのかなあ、ということはなんとなく気になるわけでして、「パッとわかりやすく説明してくれる人がいるといいなあ」とか思うわけです。複雑で分かりにくい現実を、わかりやすく、できれば面白おかしく説明してくれるシャーマン的な存在、というものを社会はほしがるわけですよ。

 で、それを昔やっていたのは神様であり文字通りシャーマンだったわけです。神様を退場させた近代以降は「ブンガク」がそれをやっていました。ブンガクが「諸学の王」と言われていた時代があったのです、みんな忘れてるけど。今でさえ「作家」が文部省だとか文化庁のナントカ審議会とかに平気で出てくるのは、その名残です。しかし色々あって(まあ、簡単にいうとエラくなったせいで驕りすぎて)ブンガクがグダグダになっていきまして、次に「文芸批評」がそれにとってかわりました。そして文芸批評もグダグダになってくると、次に「心理学(精神分析)」と「社会学」がやってきたわけです。名札は変わりましたがやってることは同じで基本的には「シャーマン」であります。複雑な世界を分かりやすい言葉で説明してみせるという社会の要請にこたえる巫女さん、それが彼らの役割です。

 ただ「ブンガク・文芸批評」と「社会学・心理学」の違いってのはあるわけです。「ブンガク・文芸批評」というのは「俺たちってシャーマンだよね」ということにかなり自覚的なジャンルですし、読んでる人も「シャーマンのご託宣だ」と思いながら読んでいるわけです。要するに、そこに描かれている世界は、「現実の世界を説明しているけれど、別にそこに何か確とした裏づけがあるわけではない。科学的ではない。」ということをみんな承知で読んでるわけです。

 ところが「社会学・心理学」というのは、「俺たちってシャーマンだよね」という自覚が薄い。読んでる人も「これは何か科学的裏づけがあるんじゃないか」と思って読んでいるところがある。国を動かす政治家や官僚も、「作家の○○さんの小説にこう書いてあるから、こういう風にしましょう!」というのはちょっとアレだな、と思うわけですが「社会学者(心理学者)の○○さんが、こう書いているので、こういう風にしましょう!」というのは結構言いやすい。

 しかし、何度も言うように彼らのやってることは基本的に「シャーマン」であります。「科学的」ではなくて、自分自身の捉えた世界を、自分自身の感覚と言葉で話しているわけです。だから、それを「科学的なもの・権威のあるもの」として扱っちゃうのはリスキーだよね、という本書の指摘はいたって健全であり、まっとうな指摘といえましょう。

 本書は要するに「巫女さんにご託宣もらうのと、地道にデータや統計集めて分析をして答えを出すのと、どっちのほうがいい結果が得られると思う?」と言いたいわけです。答えは明らかだろうよ、と。まあ、仰せごもっともです。

 でも、じゃあ「シャーマンなんていらないのか」というと、そこは微妙な話になってくるのですよ。前述したように現実の分析というのは基本的に大して面白くないものなので、本書の著者が称揚しているような「きちんと研究している人達」は決して「シャーマン」にはなれません。たとえ、最も確度の高い情報・知識を持っていたとしても、それを「わかりやすく、面白く伝える力」がないと、世間は有効利用してくれないのが現実であります。そういう道筋を作ることを誰がするのか?結局、日本においては「シャーマン」な人がそれをやるしかないんじゃないかと思うわけです

 なんでかというと日本人って「プロのアカデミシャンを全然尊敬してない」からなんですよ。本当に尊敬してない。言うことも聞かない。「大学と実社会は違う」のひとことで済ますわけです。そういう現実を考えると、単に「俺達のほうがもっといい情報を持ってるよ」と言うことには意義があるけど、それだけじゃ足りない。それだけだと、話が分かりやすくて面白い宮台のほうが「政治力」を持ってしまう。それを批判するのはたやすいけど、でも宮台だってある意味では「苦労」して(地道な苦労ではないにせよ、いちおう苦労は苦労なんじゃないかと。誰だって生業を持ち生きていくのは苦労だ、という意味では苦労して)「政治力」を獲得してきたわけで。批判するんだったら、やはり批判した人が「政治力」を獲得するために苦労するしかない。プロのアカデミシャンを尊敬しない日本人を変えるか、自分が「政治力のあるシャーマン」と「アカデミシャン」という矛盾した存在を確信犯的に兼務するか。方法は色々あるけど、そういうことをやっていかないとどうしようもないわけです。

 あと、フツーの人が世の中をどうしようか的なことを話す場合、どうしても「話のたたき台になるもの」みたいなのが必要なわけです。でも、なかなかいい「たたき台」ってないんですよね。だって現実って複雑だから、「だいたいこういう感じだよね、今の世の中」みたいなことを説明するにはある程度ムリヤリまとめるしかないわけで、そんなムリヤリなことをやるのは大雑把でいい加減な人なわけです。そして、そういう「たたき台」に求められるのは「だいたいそういう感じだよね」と頷けるレベル、「大ハズレしていない感じ」なんだと思います。で、そういう大雑把な「たたき台」を作る人として宮台とか香山というのはたいそう使い勝手がよろしいのです。彼らはたしかに大雑把だけど、でもその分わかりやすく、文章はたいへん達者です。そして「だいたいそんな感じかもね」と思える程度のレベル「大ハズレしてない」感じがある(実際はどうかはともかく)。

 考える時、人は往々にして「使いやすさ・わかりやすさ」というものを優先してしまうのですよ。複雑なことを考えられる頭がほしいと思いつつ、物事をなるべく単純に、わかりやすく、できれば面白おかしく理解したいと思ってしまう。

 でまあ、管理人も若者論はともかくヨノナカを大体大雑把に考える時とかは、宮台のモデルを使ってしまってる、ということはよくあります。たしかに、「脱社会的存在」は噴飯モノではあるけど、ここんところの宮台の国家論とかは「大ハズレ」はしてない感じはあるし。ブルセラ万歳とか終わりなき日常だとか言ってた時よりははるかにマトモな感じになっていて、正直驚いてるくらいです。相変わらず大雑把ではありますが。

 でまあ、こういう「シャーマン」な人達は全部ひっくるめて「日本思想」「国内思想」と呼ぶんじゃないかと思うんですが。ただ大学で現代の「日本思想」「国内思想」っていうジャンルはあんまりないんだよなあ。線引きがいい加減だからな^;

 とりあえず本書を通じて宮台氏が「ゆとり教育」推進の戦犯の一人であることは広く知られるべきだと思います。えらそうなモノイイと、やったことの結果のギャップはきちんと認識されるべきでしょう。

○日本語ラップはやはり「挽歌」が似合うなあ

Candle Chant ( A Tribute )

 しみじみ歌うのが日本の歌だなあと。良作です。歌詞の水準の高さも特筆すべきものがあります。

 さて、BLUE HERBのアルバム借りてきて聞いていて、随所に見られる作り手の知性や感覚に唸らされつつも、完全に入り込めない感じがどうしてもあって、なんなんだろうなあとつらつら考えますに。

 管理人個人的に「ストリートで生きる俺たち」というものが日本において「リアルたるのか」という疑問があるんですな。BLUE HERBのリリックの根底にはやはり「ストリートで生きる俺たち」ってのが濃厚にあって、そこでどうもひっかかってしまうんじゃないかと。

 そりゃね黒人は「ストリート「で生きるしかない」俺たち」っていうリアルがあると思うんですよ。白人の差別ってのは実に隠微で徹底的ですから。でも、日本人の場合はちょっと違うだろうと。日本人は「ストリート「で生きることを選択した」俺たち」にしかなれないんじゃない?とか思うわけです。飽くまで選択肢の一つであり、そこに追い込まれたといえるほどのものではないんじゃない?という気がしてならない。お前は格差社会がわかってない、とか言われそうだけど。

 そこの部分がひっかかるのでどうしても「切実さ」のレベルが一段下がっちゃうところがあって、それが入り込めない理由になっているのかなあと。Shing02はそこら辺を意識して、うまく回避しているんですよね。自分を「ストリートで生きるしかない俺」みたいには規定せず、いろんな人と連帯できるコスモポリタン的な位置づけで規定しているところがある。それは多分「ストリートで生きる俺」というのが好きな日本人にとっては物足りないし、スカした野郎だぜ、って思われる原因にもなっちゃうんだろうなあ。管理人はどっちかというとコスモポリタンのほうがまだリアリティあるように思うんだけど。そんなことはない、今の若い子の中にはストリートにしかいくところがない子がいっぱいいるんだ、ということはあるかもしれないので、なんともいえないんですが。個人的感覚としては「黒人ほどの切実さがあるかどうか疑問」だなあと。

  

9/27

○アニメ「コードギアスR2」最終回(ネタバレ)

 「泣いた赤鬼」オチかよ!(以下ネタバレ(既にバレてるが))  
 
 
 
 まあ要するに「人間ってのはバカで痛い目にあって反省しないと治らん動物なので、たまにバカが調子こいて戦争とかやって犠牲者出したり、バカが独裁者になってムチャクチャやったりするのは仕方ないよね、そういう経験を積んでは反省してってのを繰り返さないとダメなんだよイヤだけど。それが人の運命なんだけど、だからって運命に流されてばっかりじゃダメでちゃんと抗わないと進歩もないよね」って話ではないかと。たいそう「現実的」かつまっとうなモノの見方ではあります。「ニュータイプ(あるいは人類補完計画)でみんなわかりあえてエイエンの世界で万歳三唱ってわけにはいかないよねー」ということをきちんと言った上で、でもだからって自分の意志ばっかり通そうとして他人を動員しようとばかりしていると結局は戦争とか独裁とかになって大変だし、だから結局は話し合いが大切なんだよね、という現実的なところまで進んだ感じ。

 しかし、そもそもガンダムの「戦争とニュータイプ」話やエヴァの「戦いと補完計画」というテーマが、そういう「話し合いが大事だとか言ってグダグダやってる現実」の閉塞感を打ち破りたいということからスタートしたんじゃなかったっけか、とか思ったりもするわけで、そう考えると進んだんだか元に戻ったんだかよくわからん部分がある^;まあ「全ての葛藤が解消される魔法みたいな方法・世界」なんてないよ、ということを確認したのがエヴァ劇場版、そのことに心底ガッカリしてたのがAIR、で、そこから面倒くさいし大変だけど地道にやろうぜ、というところに至ったのが今回のコードギアス、ってところなのかもしれません。

 ダークナイト見たばかりなので正直、「なんだよまた「ダークナイト」かよ!日米そろって「泣いた赤鬼」大好きかい!」とか思いながら見てたんですけどね。まあ、作り手たちが現代共通のテーマと格闘した結果、同じ結論にシンクロして到達したってことにしておこうじゃありませんか。ルルーシュ君も最後はナナリーに看取ってもらえてよかったし。

 ただ、この終わらせ方でやるのであれば「独裁者」となった後のルルーシュの「悪人」ぶりを徹底的に描写すべきだったのではないかとは思った。10分くらいは延々と「反対派の徹底した弾圧・虐殺」「苛烈な言論統制」等の「独裁政権の極悪非道っぷり」「軍事独裁体制の不条理」を見せて見せて見せ付けるべきだったように思う。それこそヒトラーも真っ青なことをやらせるべきでしょう。その部分を2〜3分の説明で済ませてしまった時点で、肝心のテーマの説得力が一気に薄っぺらいものになってしまったのは残念。ただまあ、つかまったメインキャラたちを打ち首獄門にするシーンを延々と見せるわけにもいかんですからねえ。仕方ないかなあと。

 わかりやすい葛藤や対立、カタルシスのある物語、ドラマやキャラ萌えがないといけないアニメの世界で表現できる「リアル・現実」というのは結局ここら辺が限界なのかなあ、と思ったりもした最終回でありました。ラストのとってつけたようなカレンの最後のナレーションで語られた内容(貧困だとか国家間の話し合い・交渉だとか)が、この作品が「表現しようにも表現できなかった部分」を端的に表現しているように思います。そして、恐らくこれからアニメや漫画が「リアル」を語ろうとするならば、実は「戦争」ではなくて、そういう部分をこそなんとか語らないといけなくなるんだろうなあと思ってるんですが、たぶん無理じゃないかなあ、と。「国際外交交渉」とか「開発経済」とか「社会制度設計」とかをアニメや漫画でガチンコで描いても面白くならんよなあ、と。でも、現代の「戦争」って、もうガンダムとかエヴァとかルルーシュで描かれている分かりやすい「戦争」とは違うものになってるわけで、そこら辺に今後作り手がどうやって創作という形で切り込んでいくかってのは興味あります。難しいとは思うけど。

 そういえばスザク君がカレンに問詰されているシーンで「組織にしか入れない人間はどうするんだ!(要するに「俺みたいに頭は悪いけど正義感だけは強い男はどうすりゃいいんだよ!」ってことですな)」と叫ぶところが正直でよかった。なんだ、自分でも「俺はバカだ」って分かってたのかと。なかなか良い子じゃないか(笑)

  


  

9/27

○マクロスF最終回

 あーだこーだ言ってる人が結構いるが、マクロスという作品は基本的に「最後は乙女の純情と歌で全部解決!」というのが基本なわけでして、一体これ以上マクロスに何を望むのか、何を期待していたのかが良く分からん。ええやん。

 最後までアクションシーン大サービス、ピンチと攻勢を緩急つけて繰り返して30分間テンションを保ち、両ヒロインの歌も盛り上がりと、大変良い仕事、何も言うことはない最終回であります。グッジョブ、かなりグッジョブ。2000年代後半のテレビアニメは監督・菊池康仁の時代として語られることになるやもしれん、と感じさせるほどのとっても良い仕事だったと思います。後は自らのオリジナル作品でどれくらいの力量を見せてくれるかですよ。出渕・庵野・河森といった80〜90年代テレビアニメの代表作家たちと仕事をした(ある意味でとても丁寧に「骨を拾ってあげている」)人として、どんな答えを出してくれるのか大変期待したいところであります。

 第一話の時に指摘した「新しさの欠如」は最後まで払拭されなかったわけですが、これも別に批判されるようなことではないわけです。どう見てもこのシリーズは「新しいもの」を目指すために企画されたものではなく、「これまでのマクロスシリーズの総決算&新世代マクロスの足場造り」として作られたものだということは明らかであり、その企画意図は完璧に達成されていたと思います。敢えて言えばアルト君に余計な設定(女形)をつけなくてもよかったんじゃないか、という気がするくらいかな。あとクランだけ可哀想じゃないか、とか。

 三角関係が解決してない?解決してシェリルかランカが泣きを見るところを見たいとでも言うのか君達は。「三角関係をきちんと解決させるのがいかに大変か」は「君が望む永遠」とか「スクールデイズ」とかでもう良く分かっただろうに(笑)

 というわけで第一話と最終回だけなら100点満点あげて良い出来。シリーズ全体でいうと、色々とアラはありますが、これまでのサテライト作品と比較すれば格段の水準の高さですので別に批判するようなところではありません。

 まあでも、個人的にはこの作品は第17話のオープニングが全てなんですけどね。「キラッ!」が全て、ということで。この作品で提出された要素でこれから生き残るのはCGと「キラッ!」とひょっとしたらクラン、この三要素だけでしょう。

 


 9/26

○ひとりごと

 そうか今週は最終回ウィークなんだ、ということを「ひだまりスケッチ365」のラストがいつになくしめやかなのを見てようやく気付く。来週からもうひだまりは見られないのかと思うと結構ショック。こういう「普通に終わっていく」形というのもなかなか寂しい。うめ先生が頑張って新刊出してくれればまた新シリーズあるかなと期待。

 1月まではマリみて新刊とマリみてWEBラジオで凌ぐしかないなあ。てかマリみてのウェブラジオってラジオドラマもタダで聞かせてくれんのね。もう早速GetASFってソフト使って第一回放送から丸々保存ですよ。そういえば有馬奈々の声優が生天目さんに決定だそうで、お婆ちゃんが孫に生まれ変わったよみたいな話ですなあ。由乃さん、かつての天敵にデレることになるわけですか。「1人2役」が聞けそうですが、第四期ではそこまでいくかなあとか。

 もうこの際「マリみて」「苺ましまろ」「ひだまり」「らき☆すた」を各シーズン交代制でグルグル作り続ける体制を誰か作ってくれないものかしらとか思う。あと「ぱにぽにだっしゅ」も入れてほしいかな。そういう専門チャンネルを月1000円くらいで作ったら払う人いっぱいいると思うんだけど。1000円じゃ無理か。こういう作品ってはっきり言って「顔なじみ」なキャラにちょこちょこ新キャラ加えていくほうがむしろファン的にも嬉しい構成だから、新しいものじゃなくて「おなじみのものを長く」作ってくれたほうがいい。サザエさんみたいなものですよ。我々はやはり子供の頃に「サザエさん」とか「ドラえもん」とか、「顔なじみのキャラの話をダラダラと毎週見る」という形で育ってるので、そういうのがいいなあと。

 そういえばガンダム00の再放送も1時間枠にして終わらせてたな……うん、全然面白くなかった。どうも最終回あたりを見ていると、作り手それほどノってないというか、まあプロだし良い仕事はするけどさ、それ以上に何かやる情熱とかは特にないんだよね的なものを感じる。作り手達の過剰な熱気とか過剰なやる気みたいなものって不思議とフィルムのそこここに滲み出て、観客を捉えるものなんだなあ、ということを「熱気のないフィルム」を見て思ったりする。ガンダムも、もう富野御大無視して「宇宙世紀モノ」作りまくればいいんだと思うんだけどなあ。Vガンの後とかなら空いてるじゃん一杯。ターンエーガンダムに最後につなげればいいだけの話なんだから。どんどんやっちゃえばいいのに。ヘンな遠慮して時代設定を変えるから微妙なモノを量産することになるんですよ。ガンダム一杯出さなくたって別にいいですよ。カッコイイ敵モビルスーツがあればガンプラ市場だって盛り上がるでしょうに。そうじゃなきゃガンダム水滸伝ですよ。大量にガンダム出せるし、燃えも萌えも可能だし。武侠モノって「燃え」だけだと思ってる人は甘いですよ。武侠モノは分かりやすい「萌え」の宝庫でもあるのですよ。金庸読めば分かる。

 そういえばマクロスFももう最終回ですよ。やはり短いなあと。マクロス7だって、結局あのシリーズの長さがあったればこその面白さだったと思うんだけどなあ…って、まあこの世知辛いご時世に4クール52話をサテライトにやれってのは無理なお願いなのでしょうか。お話的にも良く出来ていたんだけど、どうものめりこむものがなかったなあという印象。吉野氏的なプロフェッショナルなエンタメ職人芸「だけ」だと、限界があるのかもしれんなあ。まあ河森スピリチュアル路線よりはよっぽどマシだったと思いますが。とりあえずサテライトは多分儲かっただろうから良かったと思います。そういえばオタク獲得路線が功を奏したらしくストライクウィッチーズも好評だそうで、ゴンゾも少し息を吹き返したそうで、良かった良かった。見てないけど。

 来季はとりあえず山本寛の「かんなぎ」がどんな風になるのかがちょっと気になるくらいでしょうか。でも「普通にやる」と言ってるしなあ……

 にしても、こういう無内容なひとりごとは幾らでも出てくるなあ。

  


  

 9/24

○市川準監督がお亡くなりになったそうで

 個人的に「東京兄妹」「東京夜曲」の二作品が大変印象に残っている映画監督です。特に「東京兄妹」の映像美は未だに「東京」を舞台にした作品のレベルを判定する際の基準線として管理人の中で機能しているように思います。映画一本で「ものの見方」を伝授してくれるような、そんな映画だったように思います。物語は記憶からなくなっても、「東京兄妹」の幾つかのショットはなぜか記憶に残り、東京の街を歩いている時に時折ふと「あ、この感覚は東京兄妹を見た時に感じたものだ」と蘇るのです。

 池脇千鶴を撮った「大阪物語」を見て、ああこの人は多分もう「東京兄妹」みたいな作品は撮らないつもりなんだろうなあ、と漠然と思って、それ以来あまり追いかけなくなってしまいましたが、食わず嫌いは良くないのでその内見ます。


9/23

○OVA「星の海のアムリ」第一話

 米タニ監督は良くも悪くもプロというか、目線が現実的だなあという印象。逆に言うと、この作品を「今後10年のアニメ界の方向性を決定付けるマスターピースとしてくれるわ!」という野心、「日本のアニメ業界の救世主となってくれる!」という野望がハナからなかったんだなあと(あるわけないわな)。管理人は勝手にそういう作品としてこの「アムリ」に期待していた所があるので、そういう意味では肩透かしというか期待はずれ感がかなりあった作品でありました。勝手に過大な期待をして勝手に失望するなよ、という話ですけどね。

 端的に言えば「キャラの体や手足が普通に動き、芝居をするシーンが極端に少ない」のですよ。CGキャラが苦手とする部分に挑戦しているシーンは削り、派手な宇宙戦アクションや、凝ったカメラワークなどCGが得意とする分野を中心にした作品を作っているわけです。いたって理に適っている。キャラクターたちにしても、無重力空間で飛んだりはねたり浮いたりしてるところが多く。まともに手足を動かしたり、動作やしぐさを見せたりするところが少なくなっている。結局、キャラクターを「作る」ところまでで力尽きて、「動かす・芝居させる」ところまでいかなかったのが第一話ではないかと思います。

 でも、これからのアニメを考えた時に「CGキャラが不自然でなく動き、芝居し、話す」ことこそが重要なわけですよ。CGが「最も苦手とするところ」である「キャラクター描写」に挑戦し、新たな表現の可能性を開拓してこそこの企画の意義というか、新世代への布石としての価値が出ると思うのですが。

 もっと言ってしまえば「CGのアクションシーンなんてCGの特性を熟知しているゲーム業界の天才たちがムービーでもっと凄いのいっぱい作ってるじゃん」って話なんですよ。そんなもんを「アニメ」「OVA」というもので見たいのかって言ったら別に見たかないのですよ。萌え3Dキャラにしたって、それだけなら既にみんなゲームで見てるわけですよ。なんのためにアニメでこれをやるのかってのを考えたら、「ゲームではできない表現をやる」からなわけでしょう。そういう「アニメというジャンル・メディアだからこそできること」をもっと見せつけててくれないと価値がない。「芝居や動きやしぐさ」で「キャラの魅力」をつくるってところで「アニメならでは」を見せてほしいわけで。アニメ作ってる人達だって、そこをもっと見たいと思うんですが。

 ガオガイガーみたいな派手なロボットアクションをCGで見せてくれたという意味では米タニ監督のよさが出てるのですが、今回の作品に関してはそっちを幾らやってもダメだと思います。ロボットではなく「人間のキャラ」が主戦場だと思うのですよ。

 もちろん「キャラの描写」で勝負しているシーンが全くないわけでもないですよ。主人公が子供の頃を回想するシーンとエンディングアニメ」では、キャラクターを中心にしたシーンが展開されていて、そこには作り手の苦心の跡が見えてよかったです。しかし、そこですら「子供が手で描いた絵日記」みたいな絵を挿入して「CGのアラを極力減らそう」としているわけです。違うだろうと。むしろそこを「CG」でムリヤリでも芝居をさせ演出と見せ方で雰囲気を作ることこそが大事なんだろう、と管理人などは見ていて思うわけですが。

 現実的で理に適った選択が必ずしも「面白さ」を生むわけではないんだなあ、ということを考えさせられた作品でありました。まあ第一話は立ち上げで暗中模索な部分が多いでしょうし、第二話に期待したいところであります。「無茶しやがって」と思わせる何かがあるといいなあと。

 まあ最初に書いたとおり、勝手な期待をして勝手に失望してるだけで別に作り手のほうは「そもそもそんなこと考えてない」ってだけの話かもしれませんが^;


 

 9/22

ことごとに悲しかりけりむべしこそ
あきの心を愁ひといひけれ
―藤原季通

○今週の「コードギアスR2」

 最終回近辺だから仕方ないとはいえキャラクターを安売り決算セールしすぎな気がしますが。前回同様、絵ヅラは派手だし動きも多いが、展開自体は遅い。「ルルーシュVSナナリー直接対決」というクライマックスを盛り上げるための回でした。

 CCが珍しくしおらしいというか人間臭いキャラになっていて、なかなかよろしい。そういや1期もラスト辺りでCCが結構しおらしくて可愛かった。普段クールなんだけど、切羽詰るとしおらしいというのはなんていうんですかね。

○今週の「ひだまりスケッチ365」

 ヒロさん可愛いなあ。以上。

○今週の「マクロスF」

 「愛、覚えていますか」をこう使うか!映像的にも凄い頑張ってるし、「開戦前の盛り上がり→開戦」へと盛り上がっていくドラマもとても劇的だし、言うことなし。サテライト大変良い仕事してます。拍手。

○勉強になりました

 水道橋博士の「博士も知らない日本のウラ」シリーズ。

どーなる日本の経済

霞ヶ関のウラ

 「日本の経済」のほうで勉強になったのは「年金は積立式ではないのに、積立式みたいな言い方をして足りない足りないと言ってる。全然破綻してない。消費税でどうにかする必要すらない。」という話。そうかそうだったのか。少子高齢化によって人口構成がかなり変化することと合わせて考えた時、現行制度のままでとどうなのかっていう部分がはっきりしなかったのが残念。

 本の世界では今をときめく高橋洋一先生が登場する「霞ヶ関のウラ」も面白い。埋蔵金って何というのが良く分かる。あと、財投改革→郵政民営化→道路公団改革→公務員改革と高橋氏が進めてきたことの意義が説明されていって、なるほどそういうことなのかと結構納得させてくれる。高橋本を読む前にまずこの放送を聞くといいんじゃないかと思います。

○こちらも勉強になった

9月危機の教訓

>>今回の事件を「やっぱりアメリカ人はバカだ」と
>>嘲笑するのは簡単だ。しかし飛行機に乗らなけれ
>>ば、飛行機事故にあわないのは当たり前で、それ
>>は乗らない人が賢いからではない。その代わり彼
>>は海外渡航するとき、船で行かなければならない。
>>アメリカの成長率は1%台だが、日本の成長率(4
>>〜6月速報値)は年率マイナス3%である。本当の
>>バカは誰なのか、判明するのはこれからだ。

 日本と同じことしてやんのザマァとか笑っている場合じゃないだろ、という話です。仰せごもっともでございます。

 


   9/19

だってただ単に気晴らししたかったんだ
蓄積された痛みが一ヶ所に
集まらないように散らしてたんだ
shing02「湾曲」

○まずは一服といったところ

株式市場は強含みへ、米当局の本腰で安心感

 整理信託公社(RTC)型の不良債権処理機関というと中坊公平氏がやってたアレですか(ちょっと違うのか)。日本の場合は、銀行の不良債権処理がヤクザの脅し&正確な数字隠してズルズルと遅れたことが長期不況の一因となったわけですが、アメリカの場合はそういうことはないのかね。

 とりあえずAIGの処理で、悪いなりに「先の見通し」がつく形になったのは良いことだったとのではないか。たとえ「ロクでもない未来」であったとしても、「これからどういう具合にロクでもないことになる」か、ある程度予想が立つという安心感は大切ですからね。リセッションの「本番開始のベルがきちんと鳴った」というのは良いことですよ。日本のように「どう考えても本番始まってるのに、誰もベルを鳴らさないで自己欺瞞を繰り返す」よりもマシ。

 あとは今回のことを教訓にした金融業の規制をどう作っていくかっていうことを速めにアナウンスできればいいんだろうけど、それは次の大統領が就任してからですな。

○shing02「歪曲」

 ようやく聞く。「湾曲」と「殴雨」の二曲だけでも十分聞く価値のあるアルバム。全編日本語のラップを聞いていると色々と考えさせられることが多い。以下、かなりアバウトにつらつらと。

 なんというか「現代日本人にとっての「和」「日本」とはなんなのか」というのを考えさせられたわけです。そりゃまあ外人は昔のいわゆる「邦楽」の音(尺八だとか鼓だとか)を聞いて「これぞジャパニーズの「和」の音だぜ」と、「これこそがジャパニーズのアイデンティティであり強く打ち出すべきものだぜ」、とか言うわけですよ。お前は日本人でアジア人だろ、そのルーツを大切にしろよ。黒人のマネをしたってホンモノにはなれないぜと。サムライ最高じゃねーかブシドーってかっこいいぜ、みたいな。でまあ、そういう相手に「和」を前面に打ち出してこれがジャパニーズだぜよ、というのはアリだと思うわけです。

 でもこの「歪曲」は、そういう外人ではなくて現代の日本人に向けたものなわけでして。そうすると、現代日本人にとって、尺八やら邦楽的な音だとかをストレートに打ち出して「これが俺達の「和」だろ!これが「大和」だろ!」と言うのはちょっと違うなあという気がしてならんのです。うん、まあそうだよねえと頭では思うけど、でも現代日本における「和」「日本」というものは、もうちょっと隠微で微細な(それでいて確実な)ものとして生息してるものだと思うわけで。そこら辺をもうちょっと考えてほしいと思ったり。

 アルバムの中で特に「湾曲」を評価するのは、この作品が必ずしも「和」の音で作られていないにも関わらず(まあちょっと昭和歌謡曲っぽいけど)、日本の香りが濃厚に漂うものになっているからであります。

世界が冷たく感じるなら
それはきっと君の方が暖かいからだよ
震える体を抑えるために
隣に居て欲しい夜
僕は君の事を夢に見る
温い想い肌に着る

 メロウで繊細なサビ、リリックの中で採用される「夢の通い路」「世界と自分」といった「物語の枠組」、そういうものの中に隠微に「現代日本」が、あるいは「和」が入り込んでくるわけですよ。そういう形でこそ、我々は我々の「日本」を感じられる。というかそういう形でないと「和」や「日本」をリアルに感じられないのではないかと思うのです。

本音はね、疲れちまってる
好きだけれど、嫌々やってる
本音はね、あきれ返ってる
我慢し過ぎて普通になってる
本音はね、忘れちまってる
思い出すにも出せなくなってる
本音はね、今でも待ってる
汚れててもたまに磨いてる

 こちらはアルバム中最高の名曲「殴雨」の一節(こちらで無料で落とせます)この作品の最大の特徴は「湾曲」でも微妙に感じられる「昭和」歌謡的な音(浅草かどっかでおっちゃんがペンキの缶たたきながらやってそうな曲調なのです)を使ってるところ。尺八の音よりも、こういう音のほうがむしろ「和」「日本」を感じられる。そこにニヒリズムとロマンチシズムがないまぜになった(「昭和枯れすすき」とかに相通ずるところがある)リリックが被さることで名曲が誕生してるわけです。

 「現代日本人」に「日本」ってものをいかにリアルに感じてもらうのかっていうのは確かに難しいので、色々な試みがあってよいと思うのですが、個人的には「湾曲」や「殴雨」のような戦略のほうがうまくいくんじゃないか、という気がします。まあ、是非ほかの曲もアルバムを買って比較してもらいたいと思います。

 日本語ラップには数多くの困難が伴いますが、その水準は年々高くなっております。特に技術的な面では、こちらなどを見ていただければ既にかなりの水準に到達していることは分かるでしょう。内容はともかく、言葉遣いの技術は「オヤジギャグ」「ダジャレ」とバカにするだけでは勿体無い水準にまで到達しているのではないかと管理人は思います。

 ただラップも「詩」である以上、先行ジャンルと同様「やまとうた」や「近代詩」の伝統に連なる要素を取り入れていくことは避けられないし、そうしないと真の意味での「日本語ラップ」ってのはなかなか難しいんじゃないかと。先行文化に対する知的蓄積 、要するに「教養」を持ち、それを現代的にリフォームして提供するテクニックが必要ではないかと。社会に対するきちんとした分析的視点がなければ本当にイイものはできんだろうと。要するにバカじゃちゃんとした社会批判も出来ないし、いいリリックも書けないじゃん、ということでしてね。まあ、やってる人達はじかに言葉や観客とふれあってるわけだから、わかってると思いますが。

 もちろんヒップホップの形は多様であり、お客の需要や表現する側のやりたいことも多様なので、別に上の内容も「こうでなくてはいかん」という話ではないです、と逃げを打っておきつつ^;

 というわけでなんのかんのいいつつ「歪曲」はやはりなかなか良いアルバムでしたので機会があったら是非。

○マリみて新刊が10月1日に

 タイトルが「卒業前小景」ですか、寂しいですなあ……アニメは1月開始。ちなみに「はじめの一歩」も1月にアニメ新シリーズ放送開始だそうです。来年は正月からアニメが楽しみであります。

  


 

  9/17 ○決断のスピード感には素直に感心する

FRB、AIGに9兆円融資=政府80%の株取得権、実質管理下に

 最も愚かな決断は「決断をしないという決断」であるともいいますし。最善手かどうかはともかくとして、状況に応じて素早く手を打つ姿勢は感心しますな。個人的にはきちんと誰かに「詰め腹を切らせる」ってのを分かりやすい形でやったほうがいいと思いますけどね。無論、誰か一人に責任おっかぶせることなんてできないとはわかっているわけですが、モラルの問題を考えると「仁義を通すパフォーマンス」はあったほうがいいのかもしれない。まあ、誰もやりたがらないから無理だろうけど。

 是々非々で助けられるところは助け、無理なところは助けないというやり方は先日も書いたように「市場の疑心暗鬼」を払拭することが難しいのも事実。とはいえ今回のAIG救済で「大物の破綻処理」には大体方向性がついたという形に持っていったのは確かで、そういう「素早い行動・アナウンス」を市場にわかりやすい形で見せたって点はポイント高いんじゃないか

米FF金利2%に据え置き FRBの公開市場委

金融市場安定へ38兆円資金供給 日米欧が協調

英銀、リーマンの米主要事業取得 2100億円で

 市場のインフレ懸念の強さのほうを重視して金利は据え置きとか(結構大胆だよな)、リーマン破綻といいつつイギリスに買わせるところ買わせて損を減らそうとしたり、国際協調の根回しもしてあった模様だったりと、まあ理に適った手は打ってるなあという感じです。「撤退戦」「敗戦処理」の将としてはバーナンキは優秀、という評価になるのでせうか。正直「演出」はそんなに上手じゃないけど、ちゃんと行動してメッセージを送ってるし、焦らさずにほしい時にメッセージを送るタイミングの速さは的確だよなあと感心。

 もっとも、問題はこれから来る破綻後の「とばっちり」がどれくらいになるか、誰も予想できていないということでありますが。金融業者達の桁違いの貪欲さと恥じらいのなさが白日の下に晒され、みんなドン引きっていう展開なんでしょうけど。

  


  

 

  9/16

ぬれた心で
彼は待っていた
夜が朝をつれて
運命のほころびをつくろいにくるのを
ただ待っていた待ちながら
ひとりで雨にぬれていた(郷原宏)

 

  ○リーマンが逝った

 リセッションもいよいよたけなわ、さあさあ皆さんツケを払うお時間がやってまいりましたよというところでせうか。政府が「決断した」というよりは、「庇いきれずに已むなく」という雰囲気が出ているのは「大失策」ではないにせよ、失策だよなあ。せっかく思い切り血を流したというのに「本気度」が分からないで疑われたまんまなわけで。実際にアメリカの本気度が分かるのは「次でどうするか」ってことになってしまった。

流転の果て

 つぶれるべきものがつぶれるまで、市場の疑心暗鬼は収まらない。今回、投資銀行の大手は一挙に片づいたので、残っている大きな「腐ったリンゴ」は、(FRBのつなぎ融資を求めた)AIGとファニー・フレディぐらいだ。特に後者は遅かれ早かれ国有化するしかないのだから、処理は早いほうがいい。

 などと池田先生はサクッと言っておられますが、そう簡単に決められる問題でもないわけです。AIGのテンパり気味も尋常じゃない上に市場で誰もババをひくつもりはない、というのが目下の展開のようです。バーナンキ大変そう。

[AIG]S&Pが格下げ 米リーマン破綻で連鎖も

 しかし、米ウォールストリート・ジャーナル紙(電子版)によると、FRBは証券大手ゴールドマン・サックスや金融大手JPモルガン・チェースなど金融大手各社に、AIG支援のため700億ドル(約7兆3500億円)規模の民間融資枠を設定するよう要請した。AIGの融資要請を断ったものと見られ、他の民間金融機関の対応がカギを握ることになる。

 かといってリーマン破綻の余波がこれからどれくらいになるかすら分かってない今の状況で、ほっとけほっとけ悪い会社は退場させて新陳代謝させなきゃいけないよっていう清算主義だけではどうにもならんところがあるわけです。

 池田ブログのコメント欄でサクっと指摘されている通り、 ただEconomistによると、リーマンのからんだCDS(credit-default swap)は8000億ドルもあるというから、その負債の大部分はCDSを発行した他の投資銀行に移転され、連鎖倒産が起こる可能性があります。

 なんて状態なわけですので。この上、ホイホイとAIGも破綻させて放ったらかし、とかするとちょっと出血多量で壊死するところが多くなりすぎないかってのはある。

 不況と景気後退は既に始まっているのは子供でも分かる話で後はどれくらい長期化するかが問題なわけです。みんなアメリカがどんな手を打ってくるかでその目星をつけようとしているわけですが、アメリカ政府&FRB自身も状況を見ながらやってるので、なかなか目星をつけにくい。ヘタに原則論的に動かずに、是々非々でどうにか凌ごうという発想は必ずしも悪くない気はするのですが、それが結果的に「市場の疑心暗鬼解消」に至らない原因にもなってるわけで、まことに痛し痒しでございます。

○プーチン

「パンドラの箱を開けたのは誰だ」CNNのプーチン首相独占インタビュー

 CNNによるプーチンのロングインタビューの和訳。整然と「俺の言いたいこと」だけを全くブレずに語っている感じが実にこの人らしい。とても整理されていて冷静なモノイイなんだけど「聞く耳持たん」感じはしっかりわかるというか^;相手を揺さぶるようなファクトを大して握っていないCNNのインタビュアーでは役不足か。

○映画「ナイロビの蜂」

 イギリス人が登場する映画は、どうしてこうも出てくる大人が全員ダメ人間なんでしょうか。アフリカで貧乏人使って医薬品の治験をしまくり、しかもその治験もいい加減で死人が出まくりなのに隠蔽して薬を発売しようとするダメ製薬会社を告発しようとした女性が殺される話なのですが、そもそもこの「製薬会社を告発しようとした」女性がダメそうな人なのです。たしかにやってることは正義の味方なのですが。

 外交官のダンナと結婚してスーダンに赴き、そこで製薬会社の悪事を暴き、イギリス政府に突きつけようとするわけですが、彼女のその調査活動もろもろが「そもそもダンナがいないと成立しない」ものなんですよ。にも関わらず、何を調査しているか、どんな活動をしているかはダンナに一切秘密にしている。「あなたはあなた、私は私、個人主義万歳」といいながら、やってることは「外交官の妻でなければそもそもムリ」なことなわけで、この自己矛盾に気付かずに正義の味方として突っ走る姿がまずダメな人感漂うわけです。でも、「政府関係者を利用できる立場」でもなきゃ「正義の味方」なんかできないのが現実だよ〜ということを監督は言いたかったのかもしれませんが。

 そのほかのキャラも基本的にダメ人間劇場でして、主人公の妻のイトコくらいですよクセがあるけどいい人ってキャラは。製薬会社のアフリカでのけしからん所業についての映画(現実にも似たようなことが起きている)なはずなんですが、実際見ていると「イギリスって、ほんとにこんなにダメな人ばっかなの?」とイギリス人が心配になってくる映画であります。

 


 

 9/15

女よそなたはわかけれど美しけれどもこなたが身を捨ててまで惚れる気はなしすますのはにくけれど愛そのよきはねたましくそなたでなうてもこの俺はたんと知つた女があるまた金がある意気地もある所詮そなたは河原のよもぎ茶前酒後また雨のあとの窓のながめにはよけれども飛ぶ鳥よぬれた燕のそれこれのつれづれに(木下杢太郎)

 まあ基本的に愚痴っぽく虚勢を張ってる感漂う詩なのだが、「知った女があり金があり意気地もある」男にとっては、「若く美しい」女性も「河原のよもぎ、茶前酒後、雨のあとの窓の眺め、飛ぶ鳥」程度のものにしかならんぞ、というのは一面の真実を帯びているなと。で、女性は基本的に「知った女があり金があり意気地もある」男こそが理想なわけですが、それは要するに自分を「河原のよもぎ」レベルに扱う男を理想とすることであります。「貧者に高く評価される」か「富者に安く評価される」か、どちらが幸せかということでありましょう。

 少女漫画において男がトラウマ持ちなのは、「知った女があり金があり意気地もある」だけでなく「トラウマ持ちで存在論的な癒しを求めている男(たったひとりの女神様がどうしても必要な男)」でないと女性を「河原のよもぎ」扱いするという現実認識に基づく予防線なのかもしれませんな。少女漫画において男の「トラウマ」は「私でもお近づきになれるかも(共感しあえる)」という「垣根を下げる」効果をもたらすと共に、「私だけに縛り付けることが可能かもと思わせる」条件でもあるのではないかと思ったりした。

○なんでこんなことをいきなり言い出すかというと

 二次元世界においては基本的に男は「富者」なのだなあとしみじみ思ったからであります。消費主体としてのオタクは「知った女があり金があり意気地もある男」なのだなあと。美しく若く可愛い萌えキャラは、男たちにとってはつまるところ「雨の後の窓の眺め」なのだと。

 というのは、キャラを描いていて、「自分がどんな顔が好きなのか」ということについて少しマジメに考えているからでして。でまあ、二次元三次元とにかく色々と浴びるように見ていった結果、いちおう「大まかな方向性」みたいなのはあるんだなあということがわかりました。しかし、「大まかな方向性」はあるものの、突き詰めようと思うと「それほど突き詰めて「この顔が好き!」といえるほどこだわりがあるわけではないなあ」という現実に直面するのですよ。なんたる美的感覚の鈍さよ(笑)昔、「赤毛のアン」を読んでいて、アンが自分の顔のパーツのどこが好き、どこが嫌いと言っているのを読んで「こんな風に自分の顔を客観的に見てたら大変だろうに」とか思ってたんだが、アンは審美眼が鋭かったんですな。要するに管理人は顔の美醜についての具体的感覚が極めて大雑把でいい加減だったんだな、と。

 で、なんでこんなに鈍いというか大雑把というかどうでもいい感覚しか持っていないのか、ということをつらつら考えるに、ああそうか「豊かすぎるから」「選択の余地がありすぎるから」ではないか、と考えたわけですよ。「可愛いモノを消費する主体」としての自分は現在、圧倒的な富者なのです。したがって、個別のキャラの美や可愛さを突き詰めて考える必然性がなく、「大まかな方向性」にひっかかってくるものを「雨の後の窓の眺め」のごとく愛でていればよかったわけです。

 そういう意味で、「○○は俺の嫁」と本気で思えたり、ランカ可哀想とDVDを割ってしまうような人というのは、とても純情というかマジメな人だし、自分の審美眼がある意味で確固としてある人ですよ。「知った女があり金があり意気地もある男」なのに、敢えて一人の女の子キャラを一途に思うわけで、なかなか立派なモノです。

 そういうわけで、もうちょっと自分の審美眼というか好みというものを突き詰めて考えないといけない気がしている今日この頃。パッと見たときに「好き・嫌い」というのは幾らでも言えるのですが、それじゃどうにもならんのですよ。そういう悪い意味でのブンガク的な審美眼はどうでもよくて「睫はどういうのがいいか」とか「目はどういうのがいいか」とか、「各パーツの配分はどういうバランスがいいか」とか個別具体的に自分に問いかけなければいけないわけで、そうすると結構いい加減な己というものに気付くわけです。

 ただまあ「基本的にどうでもいいと思ってる自分」、というのはなかなか治らない気もするのですが^;

○今週の「反逆のルルーシュR2」

 ナナリーは輸送機をフェイクで出していという説明が出たのでホンモノと確定してよいのかな。戦争シーンよりもルルーシュ君がナナリーを切るまでの葛藤をもうちょっとしっかりと時間かけてやったほうが良かった気がするけどな^;結構あっさり切っちゃった感がある。

 というか、チェスのさしあいみたいな戦争シーンがそれ程面白くなかった。この作品の最大の欠点は「戦術闘争シーン」「策略シーン」の「仕掛け」部分で面白い思えるものが少ないという点だよなあ。福本伸行作品は、やはり戦術・策略の「仕掛け」部分でまず面白いと思える。それでいてドラマ性もあるわけで、改めて福本は凄いなあと。全然関係ない結論に至ってるな^;

 


 

 9/11

○今週のCBSドキュメント

 1本目はアメリカ各地の工場でおきている粉塵爆発事故の話について。問題になっているのは、工場の監督官庁が粉塵爆発に対応するように指導してないんじゃないかという部分。検査してパスした3日後に粉塵爆発事故がおきる、なんて工場もあったらしく監督官庁としてそれはどうなのって感じで議会で民主党の突き上げ食らってるそうですよ。「清掃をきちんとしようねって規定は70年代からある。それを守っていれば粉塵爆発なんかおきない」と言って、新しい規定を作りたがらないところがいかにも共和党政権であります。人の生き死にがかかわるような規制分野で「規制はいかん・自由主義万歳」というのを徹底すると、当然人がガンガン死にますよという話であります。企業が悪いのは確かだが、悪いものに歯止めかけるのを誰かがやらんといかんわけで。アメリカのことをちっとも笑えない状況な我が国にとっては、結構身に染みるドキュメンタリーであります。

 2本目はシカゴ警察の不正・腐敗っぷりのドキュメント。凶悪犯罪に対応する特殊チームが検挙率アップのために書類の不正改ざん・手続き無視などを重ねた挙句、ついには犯罪にまで手を染めていくという映画真っ青のお話であります。「凶悪犯罪を取り締まるためにはヌルい方法じゃ無理だ!」という理屈がエスカレートしていく様がリアル。「ダークナイト」を見た後なので、ますます悩ましく思える問題^;

 3本目はハワード・ヒューズが設立した医療財団について。元々ハワード・ヒューズが税金逃れのために作ったペーパー財団だったんだけど、それが巡り巡ってまっとうな医療財団となり、今や全米の優秀な医療・生物研究者にとって「カネは出すけど口は出さない」という理想的なパトロンとして名を轟かせ、成果を挙げているという話。出自はともかく今はいいものになってるからいいじゃん、という感覚はアメリカ的といえばアメリカ的ですな。面白かったのは人間の幹細胞研究をヒューズ財団が支援しているって話。アメリカでは政府が倫理規定で幹細胞研究を止めてるんだけど、止めてるのは飽くまで政府の研究機関や政府がカネ出している研究機関だけだそうです。ヒューズ財団のような民間財団からカネを貰ってるところは平気で幹細胞研究をやってる。ここら辺のリバタリアンな感じ、好きにやるぜが許容される所はちょっとうらやましいけど、それの暗黒面として1本目みたいなこともあるわけで、なかなか悩ましい。

 あと、面白かったのが研究助成を受けているハーバード大の教授の話。息子が糖尿病をわずらったことをきっかけに、それまでの研究を止めて糖尿病の研究をはじめ、今や世界的権威になっているという話。頭のいい人、能力のある人だからってのはもちろんあるんだろうけど、子供が病気した時に「自分で治療法を開発しよう」と思い、それを実行してしまう自由さ、自立心はやっぱり凄いよなあ。娘さんも同じ病気にかかってしまい、ますます研究に打ち込まないといけませんと話してるんだけど、なんだか人としての格の違いを感じさせられてしまいましたよ。俺って小者だよなあ、と^;

 ちなみに、この番組の前にやっている「第二アサ秘ジャーナル」も最近「大人の工場見学シリーズ」の総集編やってて面白い。こういうクオリティの高い番組の後にガンダム00とか見ると、もう「お前らリアルの面白さに全然勝ててないじゃん」とガッカリさせられるというかなんというか…いや、録画で見てるんだけど^;

 まあ、個人的な嗜好の変化ってのもあるのかもしれませんが。最近みうらじゅんと安西肇の「勝手に観光協会」とかがやたら面白くて毎週楽しみになってきてる。なんつーか「全国の地味な名所旧跡めぐり」って自分ではやりたくないけど、ちょっと覗いてはみたいっていうのがあって結構ニッチ突いた良い企画だなと。

 あとはDVDで今頃「ザ・ホワイトハウス」の第一シリーズ見てます。日本語字幕三倍速で見て、その後英語1・5倍くらいで見る、みたいな感じで英語の勉強がてら。キャラ立っててなかなか面白いです。報道官のおばちゃんがカッコエエ。

 


 9/9

   ローカルで申し訳ないがテレ玉(テレビ埼玉)のアニメ話。

  ○Gガンダムがようやく面白くなってきた

 東方不敗が登場してからやっぱり面白くて、なぜこんなに面白いのかと考えながら見ている。ハーメルンの終盤でも感じたことだが、今川作品の面白さは「作品作りの中で「理屈」を最優先させない」ところ、「矛盾や不合理を平気で押し通す」ところにあるのではないか。富野御大はGガンについてのインタビューで今川監督を「バカをやれる男」と評しているのですが(褒め言葉だと思う)的確な批評だなあと。

 今週なんてシャッフル同盟の連中が突然輝きだして、デビルガンダムに操られていたガンダムファイター四人を(どういう理屈か全く説明抜きで)正気に返らせたと思ったら(これまたどういう理屈か全く説明抜きで)石と化してしまってるんですよ。で、それにキレたドモン君がドラゴンボールの如く通常モードから真赤モードになってシャイニングフィンガー!ってな具合で、もう説明一切抜きで突っ走るわけです。

 で、それがダメかというと全然そんなことなくて実に実に面白いわけですよ。そして多分「説明」や「理屈」を入れたら、この面白さは出ない。たとえば各シーンで「あの輝きは精神エネルギーが云々…」とか「エネルギーを使い果たしたシャッフル同盟の肉体は急激に石化云々…」とか、「ドモンの怒りがシャイニングガンダムのポテンシャルを…」とか、いちいち説明入れていたら、そこで観客はいちいち冷静になってしまって盛り上がれないんですよ。畳み掛けるように「理屈はよくわからないけど、いちおう状況は推測できるし、なんか凄く盛り上がってる」シーンを連発すること以外に、この面白さは出せない。観客に冷静になってあれこれ考える隙を与えずに、どんどんテンションの高いシーンを繰り出して観客の頭を麻痺させてくる。

 何に近いかというと、歌舞伎や浄瑠璃で「見せ場だけ」、「さわりの部分」だけを連続して聞かせるみたいな感じに近い気がする。バレエとかでも「名作のハイライトシーンだけ見せる」という公演があるけど、ああいう感じかな。おいしいところだけを、濃縮してたたみかける。細かい部分は説明しないけど、お前ら分かるだろ、みたいな。

 で、そういうことをするためには実は「理屈ぬきで納得させる映像の力」が非常に重要で、最近の今川作品がやたら理路整然としていて丁寧なのはたぶん「理屈ぬきで納得させるだけの映像」を作れない環境でしか仕事していないからなんじゃないかなあと思ったりする。アニメではないが、作画力のある作家さんと組んでいる漫画「ジャイアントロボ−地球が燃え尽きる日」はGガンよりもエネルギッシュな名作になっているわけだし。(新巻がもうすぐ出ます、楽しみ)

 というわけで、サンライズはガンダム00とかもういいから、今川脚本谷口監督でガンダム水滸伝でもやろうよ。ガンダム幾らでも出せてお得ですよ。

○まずカネモチや企業が儲からないと庶民におこぼれが来ないとか

 まことしやかに言われるわけですが、まあ実際はどうかということでモリタク先生の記事が面白かった。中国の話だけど、ご紹介したいのは中国とはあんまり関係ない所。 危険水域に達してきた中国の格差拡大

 ここに興味深い報告書がある。アメリカにおける所得格差を分析した結果が記されたもので、中国とは直接関係ないのだが、なるほどと納得させられる記述があった。

 経済成長率が低迷し、経済全体のパイが伸びなくなったときに、金持ちがどう行動するかというのだが、その報告書によると、金持ちは自分たちの取り分を増やそうと画策するというのだ。

 全体が伸びていくときは、金持ちも鷹揚に構えているが、頭打ちになったとたんに下の人間を押さえつけにくるというわけだ。そこで、労働者はさらに低賃金になる。今の日本でも思い当たるフシがある。

 もひとつ。こちらは2007年の記事ですが。

節約した人件費の向かった先

 人件費の圧縮は、企業による必死の生き残り策の一つなのであり、これをしなければ日本企業は海外企業に太刀打ちできない。いい悪いは別にして、非正社員の増加は必要なことだったというわけだ。

 一見、もっともらしい理屈だが、果たして本当なのだろうか。そこで、これまでのGDP統計をチェックしてみたところ、興味深い事実が浮かび上がってきた。

 例えば、2001年度から2005年度にかけての「雇用者報酬」の推移を見ると、8兆5163億円も減少している。ところが、企業の利益に相当する「営業余剰」は、逆に10兆1509億円も増えているのだ。

 非正社員を増やしたことで、4年間で8兆円以上も給料を減らしたのに、逆に企業の利益はそれ以上に増えていることを示しているのである。

 これはおかしいのではないか。もし、日本企業がグローバル競争に勝ち抜こうというのなら、人件費の節約分を製品価格の引き下げに振り向けているはずである。しかし実際には、人件費の下落を上回る分が、まるまる企業のもうけになっていたのだ。

 では、人件費を減らしたことで企業が得た利益は、最終的にどこに行ったのか。

 一つは株主である。財務省が発表している「法人企業統計」でみると、2001年度から2005年度までの4年間で、企業が払った配当金は3倍に増えている。

 そして、もう一つは企業の役員である。やはり「法人企業統計」によると、2001年度から2005年度までの4年間で、資本金10億円以上の大企業の役員報酬(役員給与と役員賞与の合計)は、なんと1.8倍になっている。さらに、先日、日本経済新聞社が発表したデータによれば、主要100社の取締役の 2006年度分の報酬は、ここ1年で22%も増えていることが分かる。

 この二つのデータを合わせると、2001年度から2006年度の5年分で、大企業の役員報酬は倍増している計算になる。具体的な額として、日経新聞には、今年の1人あたりの役員報酬は平均6000万円と記されていた。

 これはあまりにもひどい。これこそまさに「お手盛り」ではないか。非正社員を増やして給料を下げておき、自分たちの給料を5年で倍増させているのである。

 要するに、大企業の役員たちは、消費者のことも、従業員のことも考えていないのだ。彼らは、景気拡大や構造改革を、自分たちの給料を増やすチャンスとしかとらえていないのである。

 結構、この問題は以前から「実際のところどうなんだろう」と思ってたのですが、要するに高度成長型の社会ならともかく、それほど成長しない社会の中で企業やカネモチを儲けさせたところで、下々におこぼれが来るかというとそんなことはあんまりないんじゃないの、という結論なのかな。アメリカとか見てても富の偏在は以前よりも進んでいるし、間違ってないような気はする。

 役員報酬が高いってのは、必ずしも「お手盛り」ではなくて「経営者サイドは訴訟されるリスクが高くなっており、その費用やリスク込みで高騰している」という背景があるという解説をどこかで聞いた記憶がありますが、それにしたって限度がある気はしますけどね。大体、大企業の役員とかがこれだけ貰っちゃうと、キャリア官僚とかが「なんだよ、それだったら俺たちだって…」と思っちゃって、色々と天下りに精を出したくなっちゃうだろうよ、という気もしますし。

 株主が利益を受けているんだからいいじゃん、という考え方もできますが、株主ってのは基本「既にカネモチな人」のことだからねえ。「ゴミ投資家」シリーズによれば、株の世界では1億円以上持ってないとゲームにロクに参加できねえよって話ですから。

 じゃあ、どうすりゃいいのよっていうのが難しいところですが。

補足:上記についてのもうちょっと詳しい話はこちらなぞどうぞ。

 じゃあ、どうすればいいのよということについての一案としてはこちらとか。

管理人は正直まだ金融政策ってのがよくわかってないのでなんとも。勉強せんと。

 


 

 9/8

○NHKスペシャル「調査報告:日本軍と阿片」

 歴史的状況を鑑みて「国家や軍が阿片売買に関わっていたなんて!」と道義的・倫理的な側面からこの件を論じることはとりあえずしない。それよりも見ていて情けなくなるのは関東軍という組織(そして、それに率いられていった日本)が「阿片売買」なしでは経済的に存立し得ず、戦争もできなかった、ということだったりする。もうちょっと手堅い植民地経営や戦費調達の方法を確立する知恵はなかったの?という部分でガッカリさせられる。そうはいってもイギリスも中国支配は阿片でやったわけなので、日本だけじゃないといえばそうだけど。負け戦が決まった後で軍幹部が「自分達が阿片売買をしていあなんて分かったら国の恥だ」と言って阿片埋めたりしてるので、やってることがロクでもないっていう自覚はあったんだろうけど。他になんも手がなかったんですかねえ……面倒くさいから手っ取り早い方法を選択して、それをズルズルダラダラ常態化させただけのように見えるのがまたなんとも。

○漫画「よつばと!」8巻

 既に円熟の境地といいましょうか。背景の描写のこだわりも、キャラクターの表情や微妙なギャグの飛ばし方も堂に入っていて自信を持ってやってる感じ。だから、ますます読んでるほうも安心して楽しめるし笑える。

○漫画「のだめカンタービレ」21巻

 二ノ宮氏はなにげに「天才と凡人」の話を結構しっかりとやりますなあ。大事なところなのでじっくり見せたいのは分かるが、若干展開がスローダウンしているのが気にかかるところ。

 


 

9/7

○今週の「コードギアスR2」

 うーん「死んでたと思ってたけど実は生きてた」というのは別にやってもいいんだけど、見てるほうが納得できる「生きていられた理由」をきちんと出さないとねえ……ほら衝撃のアルベルトだって、再登場した時はちゃんと「こうやって生き残ってました!」とムリヤリでも説明があったじゃん(なんでジャイアントロボが例に出てくるのかは聞かないように)。「意外性」や「次週への引っ張り」という点では衝撃的で良かったので、来週なんらかの説明があれば文句ないですが。てか、まだ22話なのね。てことは、あと1ヶ月くらいは続くのか。

 あとキャラをホイホイ殺しすぎな気が^;なんか「処分セール」みたいな勢いで殺していくのもどうなのよ的な感がある。まあでも面白いんですけど。

○食糧問題

世界中で生産された食物の半分が食べられることなくムダに捨てられている

 無駄遣いけしからん!という話を本来はすべきなんですが、管理人などは「そうか、それだけ余分な食料がまだあるのか」と思ってしまいます。マルサス主義者や「成長の限界」論者の胡散臭さがよく分かるネタでありましょう。

○ぴえろは試しにこれをアニメの中に入れてみては

アニメ超えてるよ…『Naruto Ultimate Ninja Storm』最新プレイムービー公開

 まあ、このクオリティのものを作るのと、同じクオリティを手描きで作るのと、どっちが手間暇かかるか微妙ですが。「ネットが負けるほうに賭けるのは愚かである」という言葉に倣えば「CGが負けるほうに賭けるのは愚か」かもしれません。

○You rap about it, yeah, word, k-keep it real

米住宅公社支援、公的資金注入で最終調整 米紙報道

 今こそ日本国民は「失われた10年」の時に散々アメリカ人エコノミストから言われた「提言」やら「イヤミ」やらをそっくりそのままアメリカ人に言ってやりゃいいのです。まあ、日本とアメリカでは世界経済における立場が違うので、公的資金の注入は止むを得ないとは思いますが。

○お絵描き話

 人体をもう少しきちんと理解しないといかん、ということでここ2週ほど暇があると写真を見ながら絵にしていく、という作業をしております。分かったのは「時間をかければかけるほど絵は良くなる」という事実であります。基本的に対象を良く見て、ネチネチネチネチと絵を直していく作業が「無駄に終わる」ということはあまりない。必ず改善されるな、という気はします。最初のうちは顔とか全然似なかったのですが、最近は少しはわかるようになってきたというか。

 ただ、写真を見ながら描いてると、「リアルな顔」が基準になってきまして、いざいわゆる「萌えキャラ」的な絵を描こうとすると脳と手が抵抗しはじめて困る。まず、「目が大きすぎる」というところで抵抗感が出てきてしまって、うまく目を大きくするのに一苦労だったりする。結構デフォルメしたり嘘をついたりしないと、巷でよく見るような萌えキャラは描けないんだなあ、と当たり前のことに気付かされるのでした。

 でも、しばらくは写真を描くほうに専念しよう。元がわからんとデフォルメもしようがない部分があるので。まあそれ以前に線が全然安定しないんだけど。

 


 

9/5

生きていることが
たえまなしに
僕に毒をはかせる
いやおうなさのなかで
僕が殺してきた
いきものたちの
おびただしい
なきがらを沈めながら
(会田網雄)

○映画「ダークナイト」(ネタバレあり注意)

 ハリウッドのメジャー作品で、ここまでやるのか…凄い作品が出てきたものです。しどもど言わずに見たほうがはやい、というのが正直なところ。

 基本的な図式は「西部劇」のそれであり、そういう意味でアメリカ映画の伝統的ソウルを見事に受け継ぎリファインした作品です。ラストも「西部劇のヒーローは共同体の中に止まることはできず、去っていく他ない」という伝統的な終わらせ方をしっかりと継承しております。作品全体を「苦悩する現代アメリカの姿」として捉え、現代性を指摘することは確かに可能ですが、物語の基本的な要素・テーマ等は西部劇や(町山智弘先生が指摘していたように)ダーティハリーなどで既に語られてきたものでしょう。

 しかし、そんなことは正直どっちでもよくて、とにかく最初から最後まで画面の前で開陳される「作り手の悪意」に引きずり回される映画でした。正義や倫理や善意を徹底的に攻撃する作り手の気合と情熱、その「本気度」の高さに圧倒させられます。良い映画というのは必ず抜き身の刀を目の前にした時のようなヒリヒリとした感覚が味わえる瞬間があるのですが、この作品は冒頭からヒリヒリさせられっぱなしでした。暴力描写が過激だからではなく、作り手が「本気」なのが分かるがゆえのヒリヒリ感。善意や正義や倫理を安直に語る連中の鼻先に匕首を突き付け「お前、どれくらい本気で正義とか言っとるんじゃコラ」と「正義や倫理を語る覚悟」を迫る映画であります。

 ハラハラドキドキさせられるエンターテイメントではなく、どちらかというと見ていてどんどんやるせなく、悲しくなってくる映画であります。何かに苦悩して吼えている獣を目の前で見ているような、そんな映画でしたよ。うーんアメリカ人凄い。

 あ、あと音楽が素晴らしかった。あと音響。映像よりも「音」で「痛み」を強く感じさせる映画でした。

○外人から見れば単純な話ではあるのだが

ビル・エモット 特別インタビュー

 「ダメならダメで混乱して政界再編することになるんだし、一回政権交代してみればいいんじゃない?」という、かなり投げやりなコメントをしてくれるビル・エモット。混乱のとばっちりを食う人のこと考えてないだろ^;

 まあでも、現状認識は基本的に同意できる。「今、日本がやるべきことは?」という質問に対して答えた部分をちょっと引用。

 とにかく橋本政権以来の市場指向型改革を、「グラジュアリー(ゆっくり)」でもいいので続けること。そして、小泉政権下での急速な市場指向型改革の副産物である所得格差拡大への対策を打つこと。今聞かれても、答えは同じだ。

 前者で言えば、外資の活動を制限する各種規制を緩和し、同時に企業買収をもっと容易にし、外資を呼び込み、日本国内の金のめぐりを良くすることが有効であるといった。後者では、特に最低賃金の大胆な引き上げが重要だと説いた。

 グローバル経済ルールを導入しつつ、格差拡大による社会の不安定化を極力抑える綱渡りしかないぞということなのでしょう。最低賃金の引き上げを元エコノミストの編集長が提言するってのもなんですな。市場経済万歳なビル・エモットから見ても日本の賃金は「幾らなんでも低すぎだろ」というレベルだってことなのではないかと^;

 


 

 9/4

必死に言い聞かせるんだ
俺一人放り出されたわけじゃない
不安のカケラもない奴なんて
強がってるかイカレてる奴だけさ
(SION「ちょっとでいいんだ」)

○良いニュース

エネルギー・食糧の急落−資源バブル崩壊の連鎖

 石油と食料品に関しては、ようやく天井が見えてこれから下がり始めるかなという感じになってきましたな。我が国にとってはこの資源・原料価格の低下が何よりの景気対策でありましょう。貧乏国の食糧供給危機もひと息つけると良いのですが。電気代とかガス代なんかも、いい加減に値上げやめやがれって感じです。

 ただ、石油にせよ穀物にせよ新興国の需要が大きくなっていることは厳然たる事実なので、昔みたいにリッター90円とかにはならんのでしょうな。ま、昔よりたくさんの国のたくさんの人が豊かで文明的な生活を送れるようになっているということは大変結構なことでありますから、やむを得んのですが。

○小川忠「テロと救済の原理主義」

 イスラム原理主義、ヒンドゥー・ナショナリズム、国柱会といった事例を通じ、「原理主義運動」が「近代」「西洋」と対峙した人間によって形成されていく過程をわかりやすく論じた好著であります。若干、分析や論考が大雑把というか情緒的・ブンガク的に流れがちという問題はありますが(イスラム・ヒンドゥー・日本の共通性を論じようとしている点は分かるけど、ちょっと乱暴すぎるところがある。「近代」を人類の普遍的な発展過程と捉えてるところとかもちょっと大雑把だし)、大変示唆に富む本でしたよ。特にイスラム原理主義と呼ばれる思想の大元であるサイイド・クトゥプについての記述とか、スリランカ内戦の分析とかは大変勉強になった。そうか、あんたらも日本人と同じく白人と近代のせいで苦労したんだねえ、うんうんみたいな。

 「自爆テロする奴らは理解不能の狂信者」とか「イスラム教は教義自体がそもそも野蛮」とか「日本みたいな多神教の国は一神教と違って平和的」といった考え方がいかに皮相で歴史を知らない考え方なのかってことがよくわかります。あと宮沢賢治と国柱会の関係を論じ、宮沢賢治の「自己を犠牲にして人を救う」という思想と、テロリスト達の「一殺多生」という思想が実は極めて近いものなんじゃないかと指摘していたところはグッジョブ。なるほどこういう風に説明すれば賢治の「ヤバい部分」を綺麗に説明できるなあと。

 良書なので時間があったらきちんと要約を出したいと思います。とりあえず面白かったところとして本日ご紹介したいのはグローバル化に伴って、今、世界各国で「誇りの不平等」が生じており、「尊厳変質社会」が各所で見られている、というところ。ちょっと引用してみる。

 南アジアや中東で発生しているテロをめぐる一つの有力な言説は「貧困、不平等ゆえにイスラーム原理主義が蔓延する」というものである。このような認識に基づいて、大規模な経済援助を行い、同時に民主化を進めれば、テロを根絶することができると考えている人が多い。しかし、欧米諸国が主導する経済支援、民主化論は、一つの重要な要素を見落としているのではないだろうか。

 それは、中東に生きる人々の「誇り」の問題だ。国際文化交流の世界に二十年以上身を置いて感じるのは、世界には貧富格差のみならず、「誇りの不平等」が存在していることだ。「誇りの不平等」の問題を放置して、経済的な側面のみに気を取られていると、つまり相手の誇りを無視して、一方的な経済援助や民主化を進めると、かえって事態を悪化させることにつながるのではないだろうか。

 特に中東の人は誇りとか矜持みたいなものをとても大切にするお国柄なので、この部分で鈍感なアメリカ人やヨーロッパ人の話すことには耐えがたいものがあるのだろうなあと思う。こういう感覚を「卑屈だ」とか「くだらん」とか言って切り捨てるのは簡単なわけだが、「卑屈だ」「くだらん」と言えるだけの誇りや矜持を持てなかった人々にとっては簡単に切り捨てられるものではない。貧しい者ほど豊かさにこだわるのだ。豊かなものは豊かさにそんなにこだわらない。「誇り」という資源を当然のように持つものと持たないものとの格差は経済格差と違って見えにくいが、確実に存在する。これは日本とかでも結構当てはまる部分が多い気がする。ネガティブな感情やプライド・誇りへのこだわりをを「卑屈だ」とか「くだらん」とか言ってばっさり切ってそれで事足りると思ってる人は結構多い。それで事足りたら人間、苦労しないのだ。

 「尊厳変質社会」というのは、アクバル・アーメッドというグローバリゼーション研究をしている先生の作った言葉だそうで、そこもちょっと引用。

 従来の社会を支えてきた地縁、血縁、共同体に対する忠誠心、連帯感、一体感が、近代化、グローバリゼーションに伴う社会の構造変化のなかで解体しつつある。そうした状況にあって、浮遊するアイデンティティーが糾合され、過剰で誇張された共同体意識、連帯意識が、敵意と他者に対する暴力を通じて形成される。実体の伴わないあいまいな「誇り」が、人々のアイデンティティー喪失感を埋める形で形成され、これが人々を暴力に向かわせる危険な状態を生んでいる、というのだ。

 まあ、日本の場合、農村から都市への人口流入の際に既に一度徹底した「尊厳変質」が起きているわけですが、グローバリゼーションは更なる「尊厳変質」をもたらすことになるのかもしれない。ただ、日本なんかでは若者世代は最初から「地縁・血縁・共同体に対する忠誠心、連帯感、一体感」なんてもののない世界で成長してる部分があるようにも思うので、ちょっとそこら辺は違ってくる気はするが。

 


9/2 

ぼくたちの世界は何に似ていただろう
そこにはギリシャ人が言う、生成の雲の中から生まれる宇宙の始まりの雰囲気があった
人はそこに終わりの始まりを見ることだけを信じる
始まりの始まりを、ではない
−ポール・ニザン

○今週の「コードギアスR2」

 この期に及んで人類補完計画ですか…とがっかりすることもできるのですが、前向きに評価ポイントを書いていきましょう。

 谷口監督的には、今回までで「ガン×ソード」最終回(ポストエヴァ)をやり、来週以降の展開で「ガン×ソード最終回の後」をやろうということなのではないか。エヴァの「人類補完計画」の大元はSF小説の「人類補完計画」などではなく、実際は富野御大の「ニュータイプ論」なわけです。「富野−今川−谷口」というサンライズ作家の系譜を勝手に捏造して語るとすれば、谷口監督は庵野監督同様、「先祖」である富野御大の「ニュータイプ論」をまずは否定し、その「後」の世界を今後の展開で描いていくつもりなのでありましょう。

 管理人的には「だったら、もっとさっさと「ガン×ソードの最終回」を通過して、「ガン×ソード後の世界」を中心に作品を作ってほしかったなあ」とも思うのですが。まあ、短くてもやるっていうんだからいいんじゃないでしょうか。

○総理辞任

福田総理辞任−近づく衆議院総選挙

 「サミット・内閣改造の後も支持率低下」「財政規律VSバラマキの対立激化に端を発する与党内の求心力低下」「捩れ国会で正常な国会運営のハードルが高すぎる」「会期長くしないと重要法案(テロ特措法)通せなさそうだけど難しそう」「解散総選挙を自分で戦うつもりは誰もない」等の諸要素を勘案し、「速めに辞めるのが最も良い選択」と判断されたのでしょう。最後まで「調整型」として周囲の事情を考慮した結果ともいえる。

いろいろもう死んでいる

 情緒的には竹熊氏のようなことを言いたくなるのはわからなくもないのだが、状況はそこまで切羽詰まっていない。国際報道を見てもタイ・バンコクの暴動のほうがアジアでは注目されているくらいであり、「日本はまだ放っておいて自分でなんとかさせておけばいいだろう」と判断されているレベルでしかない。通貨が本格的に信頼を失い、ハイパーインフレが起き、失業率が二桁になり、各地でデモや暴動が起きまくるような本当に切羽詰った状況は幸か不幸かまだ遠いのが現実である。

 簡単に言えば「グローバル経済体制に本格参入するか否か」という選択を前に逡巡している、というのが我が国の状況なのでしょう。一部の国際企業や製造業を除き、日本社会の構成員の過半はグローバル経済への本格参加を極力避け、ローカル化を進めてきたのが実情です。しかし、企業という「出島」だけではなく、政府や官僚や法律、ひいては国民全体が「アングロ・サクソンの優勝劣敗ルール・契約社会ルール」を受け入れ、渡り合うことがグローバル経済への「参加資格」として求められているのが現在の国際社会でありましょう。「そんな他人のルールのゲームに参加して競争なんかしたくないよ、負けるもん」と考えている日本のエスタブリッシュメント層(及びそれを支持する多数の国民)は法律と規制と税制と言語の壁による隠微なる鎖国体制を敷いているわけです。「そんなことないよ、我が国は自由でオープンな資本主義国だよ」などと能天気に言っている人は、商売のひとつも始めてみるといいのです。

 鎖国すべし、グローバル経済体制への本格参入など害悪のほうが多い、という意見は理解できる。グローバリゼーションや新自由主義が「公正」で「健全な競争」が行なわれる世界を実現すると思っている輩はスティグリッツでも読めという話。グローバリゼーションの進展と共にゲームのルールが改訂されていくことは期待できが、日本にとって「不完全で不合理な、他人の決めたルール」で戦わなければならない、という状況は当面変わらないと思われる。「ルールの改訂交渉(外交)」が日本の不得意分野であることも(アメリカへの軍事的依存という特殊状況が背景にあるのですが)大きい。日本のエスタブリッシュメント層が鎖国をしたがるのは、自分のためというばかりではない。

 しかし、そうはいっても「グローバリゼーションをつまみ食いしながら自給自足で回していけるかどうかは、相当微妙」なのも事実であります。我が国の人口はあまりに多く(人口が10分の1ならまだなんとかなるが)人口構成も高齢者が多い。「働かない人間の分までどこかで稼いでこないといけない」という極めて単純な図式の問題を解決しなければならないのに、その解が見つからないまま本格的少子高齢化社会へとなだれ込んでいるという現実があります。一発逆転ホームランとしては「技術革新による生産性の飛躍的向上」なのでしょうが、知識産業・サービス業などで「生産性が飛躍的に向上」するような技術革新が続出することは現時点では考えにくい。あるいは「蓄積した国富を有効活用して内需を拡大し、自国内でお金が回るシステムを構築する」ことができれば、という希望もあったわけですが、どうやらそれも見果てぬ夢でしかなかったようです。

 結局のところ「グローバリゼーションのつまみ食い」部分を少しずつ拡大し、「ゆっくりとなし崩し的に国を開いていく」という形が選択されるのだと思います。ゲームに参加するなら本腰入れて参加したほうがプレーヤーとして認知されやすく、発言権も確保できるという意見もありましょうが、我が国はそうしたドラスティックな決断はできないし、ドラスティックな決断が良い結果をもたらすとは限りません。国際的にはグローバリゼーションや新自由主義の「見直し」が始まっており「グローバル経済ゲーム第一回」はとりあえずお開き、しばらく休憩、という雰囲気が漂っています。日本としてはこの流れを有効利用しつつ、他国が休憩している間に徐々にグローバリゼーションに適応していくべく漸進的改革を進めていく他ないでしょう。やがて来るであろう「グローバル経済ゲーム第二回」の開始時に、本格的にプレーヤーとして参加するまで我慢我慢でいくしかないのではないかと。

 われながらつまらん文章ですな。大状況をとりあえず確認するために、ということで書いてみたのですが、結局「グローバル経済体制」っていう言葉があいまいすぎるんだよなあ……

○資本主義・新自由主義をデフォにしてモノを語るなという向きもあるが

「右翼」対「左翼」の二大政党に再編せよ

 おなじみモリタク先生の話。「新自由主義」への対立軸として「社会民主主義」を提示しているが、我が国の人口及び人口構成で「社会民主主義」をどうやってやるのかが見えない。「みんなに回すお金はないよな」という事実は厳然としてあるわけで。ヨーロッパの「社会民主主義」が成立しているように見えるのは、「面倒見ないといけない人口が少ないから」ということと「移民と若者に徹底的にツケを回しているから」というのが結局大きいわけで。見栄えは良いし、「人間を大切にする制度設計」は大いに見習ってほしいところだけれど「国際間ではなく国内(世代間・人種間)で弱肉強食をやってるだけ」という内実を無視するわけにはいかない。

 モリタク先生の言う「新自由主義(右翼)VS社会民主主義(左翼)」という対立軸はわかりやすいのだが実際は「そんな対立軸は現存していない」ように思う。個人的にはライシュが「暴走する資本主義」で書いているように「資本主義の領域」と「資本主義ではない領域」のラインを明確に線引きすることが大切であり、「どこで線引きするか」を政治の世界で決める、ということなんだと思う。そういう観点からすると「右翼VS左翼」みたいな図式はむしろ事態をわかりにくくするように思うのだが。

 


8/30

指さきのあるかなきかの青き傷それにも夏は染みて光りぬ(白秋)

 夏の終わり。それにしても白秋って本当に上手いよなあ畜生。

○仕事がようやく終わる

 ようやく普通の生活モードに移行できそう。やはり過ぎたるは及ばざるが如しで、働きすぎはよろしくないですなあ。

○町山先生のアメリカ話

http://www.nicovideo.jp/watch/sm4310406
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4310778

 ブッシュ政権及びアメリカ社会の実情とマケインとオバマの来歴をこまごまと。個人的になるほどと感心したのは「民主党政権になると日本にまた圧力をかけてくる、と思ってる奴らが多いけど、アメリカのターゲットは既に中国であり、日本なんか相手にしないから圧力なんかかけてこない。民主党政権の仕事は「中国に圧力をかける」だぞ」という話。そうか、納得。

 経済政策の話も「自由放任(ハイエク・フリードマン))VS統制(ケインズ)」という対立軸を設定して話してくれて分かり良い。「アメリカのGDPのほとんどはサービス業」という話も、ああやっぱりそうなのねという感じ。

 印象的なのは終始具体的に話す町山氏ですらオバマの政策をいまいち個別具体的に話せない所だったりする。でも、町山氏によればオバマで決まりってことらしいのだが。

 


 

8/26

立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい(吉野宏)

○ハイエク−知識社会の自由主義

 池田氏の著作は図書館で借りてばっかりで買ってなかったので、たまには買わないと、ということで。本屋さん行ったら最後の一冊だった。

 ハイエクの思想を簡単に紹介する本、というだけでもそれなりに面白い。

 しかし、本書最大の魅力は池田氏による「今、なぜハイエクを読むべきなのか」の説明部分だろう。その説明自体が良質かつシンプルな現代時評となっており、これからの社会の進む方向を考える上でのポイントが分かる。特に法律や政治・経済システムなどの「制度設計のあり方」を考える上で、どんなことを押さえて考えるべきかを示唆してくれる部分が多く、短時間で読める割に実入りの大きい本でした。「初心者向けのハイエクの説明」の部分と「ハイエクから派生した池田氏の説明」の部分、一粒で二度おいしい本といえましょう。

 個人的に印象的だった部分を幾つかピックアップ。全然ハイエクと関係ないところが多いが。

●懐疑主義の話がシンプルにまとまっていて分かりやすかった。

●社会主義計算論争の話で出てきた「オペレーション・リサーチ」の話。アメリカはこの方法で補給を手厚く行なったが、日本は計画性なく武器に予算をつぎ込んで餓死者だしまくり。

●自由の意味について。自由の意味とは「無知な人々が最大の選択肢を持ち、いろいろな可能性を試すことが出来ることにある。」という説明は分かりやすい。「社会に目的なんてありえない」とさらっと書いているけど、この認識がハイエク、そして池田氏の考え方の根本にあるのでしょう。

●自由には「消極的な自由」と「積極的な自由」がある、という話。なるほど、自由の話をする時は、こうやって分類すればいいのかと納得。

●利他的な遺伝子が生き残るよ、という「集団淘汰」の話。

●日本の法制度についての話。英米法と独仏法の違い。日本は独仏法よりもさらにドグマティックかつ官僚主義。

●「公平・平等」意識の背後にある部族社会的感情の説明。

  


 

8/25

天長地久有時尽(天長く地久しきも時有りて尽く)

 最近の漢詩紀行は「あ、これ知ってる」という超有名な詩が良く出てきていいです。

○今週の「コードギアスR2」

 CCが実にあっさりと復帰してしまったなあ…もう少し引っ張ってラストの「ここだ!」ってところで記憶を戻す手もあった気がするんだが。「女に助けてもらう」ドラマではなく、飽くまでルルーシュ君本人のドラマ(女は見守るだけ)をやるつもりということかな。ルルーシュ君の「父親もろとも封印作戦」は理屈は分かるけど、「爆弾数発爆発させただけ」で簡単にできちゃうってのはどうなの?なんの対策もしてない皇帝バカすぎるだろ^;

 スザクの底の浅さは素晴らしいですな。うん、こいつは元々こういう奴だ(笑)

サブプライムはまだ序幕?

>>アメリカ経済は、まだ最悪の状況を脱していない。すでに
>>5000億ドルが失われたが、これはまだ序幕だ。ファニー・
>>メイとフレディー・マックはすでに破綻しているので、た
>>だちに国有化し、株式はすべて没収すべきだ。金融機関の
>>破綻も、ベア・スターンズぐらいではすまない。バブルで
>>大もうけした巨大銀行が、その崩壊によってもうけを吐き
>>出して消えることは、金融システム正常化の過程では避け
>>られないし、避けるべきではない。

 でもヘタレ気味のアメリカ様は「ダメ銀行の早期排除促進」などという果断な手を打てるはずもないわけで、日本同様ダラダラと不況をひきずる展開が予測される。ダラダラ、といっても日本よりは遥かに進行スピード速いのですが。

GDPが示す世界経済の急変−景気は1998年アジア通貨危機レベルへ悪化

 サブプライム不況の震源地であるアメリカがなにげに1・9%成長で、欧州と日本が早くもマイナス成長入りということに釈然としない部分が^;

 この記事では、国内の景気対策についても言及していまして、

>>景気対策をするなら、「地域振興券」を10倍規模にして
>>サッサと金をばら撒いた方が、景気浮揚効果も高く、速
>>効性もあります。シンプルな対策なので、次期衆院選に
>>も有利になる可能性が高いでしょう。

 ポイントは「10倍規模」でして、そりゃまあ10倍規模ならカンフル剤くらいにはなると思いますが(随分と高く付く上に長持ちもしないカンフル剤だけど)、我が国がやれるわけもないし、あんまりやっても意味ないし、現実性の低い提案と言わざるを得ません。

景気後退は来年度中まで続く公算 財政による景気対策は「愚の骨頂」

 こちらでは、そもそもカネなんか撒くな、と言っております。1兆2兆を適当にばら撒いたくらいでは、1週間ホッとするくらいなので別にどっちでもいいんじゃないかとか思うわけですが。かといって、

>>燃料費補填や金融支援は急場しのぎ「市場の機能不全」への諸対策が急務

 この提案もあんまり意味がないというか、我が国においてはあんまり実現性のなさそうな話なわけです。「市場の機能不全」って要するに「コンプライアンス不況をなんとかしろ」ってことだろうけど、「ルール設定」の問題は日本社会の構造的変化の中で起こっていることであり一朝一夕でどうこうできるものではないだろうし。「中途半端な財政出動景気対策+中途半端な法改訂」が行なわれるくらい、という予想が現実的でありましょう。そういう意味で与謝野氏の「景気後退は海外要因」という言葉は間違っていない^;「幾ら国内要因を注視し、改善しろと騒いでも基本放置するしかないから、海外要因のほうに目を向けたほうが実効性高いよ」というリアルな助言なのではないかと。

○個人的な意見としては

 期限付き(半年〜1年限定だよ、とあらかじめアナウンスしておいて)ガソリンの税率を下げるのが良いと思うのですが、それだとカネがかかりすぎる上に福田総理の関係者各位にご迷惑がかかってしまうから無理なのでしょうな。原油高の影響を受けてる業種に個々に補助金出すよりもずっとラクチンな上に、個人消費の喚起策としてもnot so badなレベルだと思うのですが。

 モリタク先生のこんなご託宣もあるわけですから。

原油バブルは近いうちに必ず崩壊する

>>もちろん、現在の調子でストレートに石油価格が
>>下落トレンドに乗っていくとは限らない。おそら
>>く、価格が乱高下を繰り返す時期がやってくるだ
>>ろう。それが、原油バブル崩壊を予知するシグナ
>>ルである。そして、最終的に1年以内には大暴落
>>を起こす可能性が大きいと考える。

 その1年を税率下げて凌いで、価格自体が下がったところで改めて適正な税率を決める、というあたりが穏当なのかなとか思うが。

低価格シフトが進む衣料品−インフレ下の消費低迷に対する価格戦略

 消費レベルでは再び「安さ万歳」路線へと流れつつあるということでありましょう。個人レベルではさほど悪くないのですが、経済全体を考えるとあまり良いこととは言いがたい。

 個人レベルの話をしますと某衣料品メーカーのファミリセールに行ってきたのですが、昨年に比べて明らかに値引率・品揃えとも良く、お買い得商品が増えた感じでした。ネットオークションの転売屋(経済行為としては極めて合理的で理解できる行動なのだが、感情的には蹴っ飛ばしたくなる)対策が始まってからファミリーセールの「お買い得感」は低落傾向にありましたが、今年はそんな余裕もなくとにかくなんでも売って儲けとかなきゃ、というモードに入りつつあるのかもしれません。

 さて、なにげにこの記事で景気観測なども載っておるのすが、

>>今の景気の位置は、「不況に入ったばかり」というところでしょう。

 だそうでして、今年後半〜来年も覚悟を決めて生活防衛しとかないといかんですな。

9月の臨時国会が「福田退陣」の舞台か

 福田総理は「昔ながらの自民党的な人たち」を重用することで却ってその死期を思い切り加速させてしまっているような気が……小泉氏とは全く逆ベクトルで「自民党をぶっ壊す」をやっているのかもしれない。

○グルジア話

グルジア紛争

グルジア紛争とロシアの立場

アメリカはグルジア紛争をどう考えているのか

 地政学的には「起こるべくして起きた」感がある、ということでしょうか。周辺諸国もびびりまくりです。

グルジア、ロシア:トビリシより

>>ラトビア、リトアニア、エストニア、ポーランド、ウクライナの大統領
>>が明日の昼間中に、トビリシに到着予定である、とグルジアの外務大臣
>> Eka Zguladzeから連絡があった。

 「大国が隣にいて、地政学的に要所」という状況は我が国も実は同様だったりしますので、遠い国の出来事とばかりも言っていられないところがあります。

○副大統領候補に民主党重鎮のバイデン氏起用を発表、オバマ氏

 グルジア紛争勃発時にハワイで休暇中だったと言われてもねえ…まだ大統領候補なわけだしオバマも。

 管理人は「ロックスター的なノリ」で押し通したほうがいいと思っているクチですので、一大仲直りイベントを開いてヒラリー登用とか、ケネディーの娘使ってセレブ感出しまくり、とかのほうが良かった気がするのですが。ただ、マケインのほうも「カール・ローブを引き入れてネガキャン開始」という作戦ミス(幾らアメリカ人でも4年前のことくらいは覚えてるだろう)を犯しているので、どっこいどっこいの勝負。互いにダメなカードを切り合っている状況。

 


 

8/18

○今週のアニメ「コードギアス R2」

 R2から加入したメインキャラとしてロロ君においしいところもって逝かせたり、ちゃんとC2とカレンとの縁だけはきっちり残しておいているあたりに製作者達のエンタメ魂と良心を感じさせます。全てを失い、八つ当たり気味に父親とのラストバトルへとなだれ込む展開はわからんではありませんが物語的にはグダグダ感漂いますな。なにげに黒の騎士団側の「日本を返せ」という要求をブリタニア側が呑んだのかとか、中華の立場はとか、未回収な部分がちょこちょこあるので、それなりに続きは楽しみではあります。まあ後はいかに華々しく死に花を咲かせるかだけですが。デスノートみたいにみっともない最期というのも味わいはありますが、個人的には派手にバーンと逝ってくれるほうが好み。

○今週のアニメ「マクロスF」

 新OPはランカとシェリルのデュエットですか……どっちつかずのアルト君に愛想をつかし、「バカな男にひっかかった者同士」に友情が芽生え、二人で仲良くユニット結成!という展開がアニメでもあると楽しいんですが。初代マクロスは本質的には「アイドルは男よりも客(オタク)を選ぶのだ!ザマァ見ろ!」という大変オタクの願望を露骨に結晶化した作品でしたので、今回もそういう展開が……待ってはいないだろうなあ。

 三角関係作品においては「視聴者が男に殺意を抱く作品は良い作品」でありまして、今回の展開はそれをしっかりクリアしております。まったくもってどいつもこいも許し難い^;

○放送大学で

 昨日あたりから「ヨーロッパの歴史」の集中講義が始まってるのでとりあえずガシガシ録画中。面白いかどうかは知らんけど。これまでダラダラ見てた中で一番だったのは藤原帰一先生の「国際政治」がダントツです。余計なバイアス抜きで外交政策に関する分析・分類がクールに進められていて大変勉強になります。再放送の折には是非。

○それと

 今度の日曜美術館(NHK教育)で「北京故宮 書の名宝展」の特集するみたいなので、興味ある人は是非。なかなか見に行くのも大変ですし、人も多いのでテレビで見るのがラクでいいかと。

 


8/13

○展覧会話

 しまった今日からお盆休みで人出が多い、と出かけてから気付いたものの後の祭り。

○国立西洋美術館「コロー 光と追憶の変奏曲」

公式サイト

 ルーヴルの全面協力を貰っているだけあって、画集などに載っている代表作がバンバン展示されている大変贅沢な展覧会。見ていて思ったのは「同じことを倦まずたゆまず繰り返しやり続ける」ことのエラさといいますか……ほんと、同じような構図・同じような題材を色々な方法でああでもないこうでもないと根気良く繰り返し、改善し、洗練させていく様子が分かって頭が下がります。展覧会のテーマどおりの展示といいますか。一生かけて自分のスタイルを作り上げ、練り上げ、完成させていく凄みを感じさせる展覧会でありました。ラヴェルの「ボレロ」みたいな感じですな。

 代表作の「真珠の女」や「モルトフォンテーヌの想い出」も良かったのだが、個人的にいちばん良かったのが同じ「想い出」というタイトルがつく「ヴィル・ダヴレーの想い出 森にて」という作品。深く濃い緑の中でぽつんと一人座っている女性が、野生の鹿にふと気付く様子が描かれている。森の濃密な緑(と黒)と、そこにぽつんと一人座っている女性の姿が実に印象的。「モルトフォンテーヌ」シリーズに比べると「ヴィル・ダヴレー」は緑の色が濃くて力強いのですが、その中でもこの「森にて」は圧巻。8月末までやっていますので、上野に行ける人にはお勧め。

 不満を言えば、土産屋のポストカードの発色が悪いことくらいか。あと上述の「森にて」のポストカードがなかった。200円とっていいから、もうちょっと綺麗なもの作ってくれないものか。100円がイヤなら400円のやつ買え(しかも種類少ない)っていう商売はどうなの。

 上野なんて行く暇ねーよ、という方は下のサイトが大変充実しておりますので是非どうぞ。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 主要作品の解説と画像・壁紙

○江戸東京博物館:特別展「北京故宮 書の名宝展」

公式サイト

 1300円は高いだろ、しかも人多すぎだろ、とは思うものの展示されているモノの良さと量は確かに素晴らしく「名宝」と呼ぶにふさわしい展覧会。目玉展示物は王羲之の「蘭亭序」で、これは学校で書道を教わったことがある人なら結構教科書とかにも載ってる有名なモノだから見たことあるのではないかと。

 あと目玉商品としては顔真卿の「行書湖州帖」とかでしょうか。素人的にはまずは分かりやすい楷書とか隷書とかのほうが見ていて「へぇ〜すげぇ〜かっこぇぇ〜」と素直に感嘆できるのですが、そういうのを見た後に顔真卿だとか他の人との行書とかを見ると、なるほどこれはこれで味わいがあるもんだなあ、こういうのも書きたくなるわなあと、なんとなく分かってくる。

 それにしても字というのは本当に個性が出ますな。「俺はこれがカッコイイと思うぜ!」という美意識が個々人で違うし、その個々人の違った美意識を見るほうも許容できる。「なるほど、これはこれで確かに完成してる、カッコイイ」というのが展覧会を見ていると感覚的に分かってくるのが面白い。

 個人的には明代・清代の楷書・行書あたりがカッコよかった。ただ、名前をよう覚えられんので、誰のどれってのがいまいち挙げられないのだが。とりあえず目録見て覚えていた作品では、姜宸英って人の「行書勉斎記軸」が印象的でした。

 それにしても展覧会も入場料高いぞ。この入場料取るんだったらちゃんと予約制にして入場人数を時間ごとに制限するくらいのサービスはしろよと思う。バンバン人入れて、人ごみの中で作品見せるような大衆路線やるんだったら、価格ももっと大衆的にしやがれと正直思います。金儲けるには今のほうがいいんだろうけどさ。もうちょっと「見せ方」のほうでもベンキョウしてちょうだいよ、と個人的には思ったりする。映画も美術館も1000円が基本ですよ(本当は500円が基本と言いたいところだが、さすがにそれだとコンテンツのクオリティが落ちてしまいそうなので)。1000円を基本にして、そこから今度は「見せ方」のオプションで値段を上げていく、くらいが丁度いいんじゃないかと思うのですが。

  


8/11

○お絵描き話

 絵を描く人からすれば「何を当たり前なことを」という話をつらつらと。

 相変わらず暇がある時にはペンタブでキャラクターの絵を描いておりまして。頭から始めて足元以外は基本的な描き方が少し身についてきたのですが、できあがったものを自分で見ると「いかにも初心者が描きそうな絵」が目の前にあるわけです。サイトとか回っているともうパッと見た瞬間に「ああ素人さんですな」と分かる感じの絵があるわけですが、それと同じものを自分が思い切り描いてるわけですよ。まあ当然なんですけど。

 それでまあ、つらつらと何が問題なのかなあと自分の絵を見て考えるわけですが、どうも「情報が少ない・情報の出力が不明瞭」だということが大きいなという結論に至りまして。上手な人の絵というのは「題材についての情報が明確かつ過不足なく表現されている」ゆえに美しいのではないかと。

 たとえばキャラの「腕」を描こうとすると色々な「情報」を絵の中で提示する必要があるわけです。腕の中には骨があって、幾つかの筋肉に分かれていて、しかもそれが曲がったり動いたりしてたり、どんな角度から見えていたりするとか、そういった「情報」が絵の中で表現されていると自然と「綺麗な腕だな」と我々は思うのではないかと。どうも自分が絵を描いている時のことを思い返すと、そういうことをきちんと考えていない。

 かといって、上手いキャラ絵を描いてる人が「精細に腕の筋肉や骨格を描写しているか」といえばそんなことはない。パッと見あっさりしてたりするわけです。でも、それは別に「筋肉や骨格についての情報が少ない」のではなくて「大量の情報を把握した上で、必要な情報だけを抽出して出力したり」「ポイントになる部分を選択し、強調したりデフォルメしたりしている」わけです。管理人のように「知らない故にあっさり」しているわけではない。

 自分の好きな絵を描く人の絵をトレースしていると「ああ、この人はよくわかっていらっしゃる」とか「この人は、こことここを押さえておくのがポイントだと思ってるんだな」とか、そういう「発見」があってなかなか面白い。面白いんだけど、それがすぐに自分の身に付くかというとそうでもなかったりする。やはり自分である程度、骨格だとか筋肉について知らないといけないし、どういう風に情報を出力するか、どこをポイントだと考えるかを体得しないといけないらしい。実物から学ぶのが大切だとか、デッサンが大切だとか言われる理由が少しわかりました。

 まあ、そんなこんなでもう少し描線がきちっとしたものになって(ていうか、きちっとしたものに修正できるようになって)、「いかにもヘタクソ」な感じを脱したらネットでも晒そうかと思っております。もう半年くらいかかりそうな感じですが…何せ絵を描くってめちゃくちゃ時間かかるので……こんなに湯水のように時間をとるものだとは正直思ってませんでした。まあでも面白いのですが。

 


 

8/11

 映画話でも。

○映画「明日、君がいない」

 ガス・ヴァン・サントの「エレファント」が「詩」であるとするなら、この「明日、君がいない」は「小説」といったところ。見せ方がたいそう下世話で分かりやすい。オーストラリアの高校生も業病持ちが多いよ、という話です。学園一のスポーツマンのイケメン君も、綺麗な顔したあの子も、優等生のマジメ君も、皮を一枚はげば不幸と業と悩みが渦を巻いてグルグルしてますよ〜大変ですね〜というのを実にわかりやすく見せてくれる映画であります。

 芸術作品としての完成度で言えば「エレファント」のほうが遥かに上等ではあるが、ミステリー仕立てで興味を引いておいてオチは投げっぱなしにすることで、逆に「文学性・テーマ性」を持たせる、という仕掛けがある程度うまくいっており、その点は評価できるように思う。あと、各キャラの「インタビュー」の使い方が底意地悪いのは買える。この底意地の悪さを良い意味で発達させられるかどうかがこの監督の今後を左右するかと。それ以外は別に見所があるようには思えなかった。良くできているけど、何も新しいものはない。

○映画「ウェイトレス おいしい人生の作り方」

 能天気な邦題サブタイトルからは遠く離れた不幸人生物語だが、ラストで突然訪れるハッピーエンドが素晴らしいので名作。

 ダメな夫(独占欲が強い、暴力をふるう、妻に自分の言うことには絶対服従させる)とのノーフューチャーな暮らしを続ける女が妊娠して通い始めた産婦人科医と不倫する、なんていまどき昼メロの企画でも採用されねえよ、という筋立てなのだが、大事なのはこの筋立てではない。ラストで彼女はそれまでぞっこんだった産科医を実にあっさり振ってしまう。その扱いの軽さたるや「今までの展開はなんだったの?」と思わされるほど。

 では、この映画は何がやりたかったのかというと主に二つ。まずは主人公の「ウンザリな日常生活のリアリティ・ディテール」にこだわった描写をやりたかったんだろうなと。特にダメな夫の描写が見事で、「ああ、こんな奴と一生生活しないといけないと思ったら気ぃ狂うわ」と納得させられるダメっぷり。しかも、そのダメさが必ずしも「あり得ないダメさ」じゃなくて「ああ、こういう奴いそうだねえ」と納得させられるリアルなダメさが過剰になった感じなので、結構ホラー。女の人は結婚に慎重にならんといかんねえ、晩婚化って女性が賢くなった証拠だよねえ、としみじみ思わされるリアルダメ男の描写が素晴らしい。 

 もうひとつは「不幸な境遇の人間が「子供」と出会い、親になることで変わる」という「変化と成長」のドラマでしょう。この「変化と成長」の瞬間は本当に一瞬で、それほど劇的に描かれるわけではない。しかし徹底した「不幸な日常」のディテールが描かれ、それにある意味で屈っしていた主人公を散々見せた後に、この確実な「変化と成長」が訪れるので、みじかくてあっさりとした見せ方ながら非常に力強く感動的なシーンになっている。彼女はまさに「一瞬」で変わる。世界中のあちこちでおきているようなその瞬間に、確かに「奇跡」が起きている。「奇跡」はそんな風にこの世界でたくさん起きているのかもしれんよ、という作り手のメッセージが力強く、感動的であります。

 それにしてもオーストラリアもアメリカも不幸な人ばっかりで大変ですな。

○ケン・ローチの新作がまもなく公開だそうで

「この自由な世界で」公式サイト

 宣伝に「感動作「麦の穂を揺らす風」のケン・ロート」って書いてあるんだけど、あれ感動作か?アイルランド独立運動の業の深さをマザマザと見せ付けてくれるめちゃくちゃウンザリする内容だったように思うのですが。もちろん名作であるということには全く異論はないですし、ケン・ローチは良い監督であります。世の中そうそう何もかもすっきり爽やかにおさまるもんじゃねえぞ、ということを斯様に徹底的に観客に味わわせてくれる監督はなかなかいませんので。しかも、そのケン・ローチが今回は現代のイギリス社会そのものを標的にして映画を撮ったというのですから、期待も高まるというものでしょう。タイトルにあるとおり、今回のテーマは「自由主義経済」であり「移民の問題」でありましょう。昨年見たヨーロッパ映画は、どれもこれも「移民問題がヤバイ」ってばっかり言ってましたが、今年も相変わらずなのですなあ。

 で、この映画の上映館のサイトいったら「シティ・オブ・ゴッド」の続編ってのが公開中らしく、それも見てみたいなあと思ったりするけど渋谷は遠いので多分どっちもDVD待ちかなあ。

○そういえばトルナトーレの「題名のない子守唄」がDVD化してた

 トルナトーレ先生がイタリアで移民問題の背後にある人間の業病を抉り出している作品。ただ、まあこの人の場合は「ムリヤリ話を悲惨にしてないか」疑惑があるので、額面どおり受け取りがたいものがあるのですが。社会的背景を抜きにして見ると「ドS男による女性賛美映画」という、いつものトルナトーレ節です。女の人を痛めつけて痛めつけて、それでも力強く立ち上がる女の人に感動したいんだ俺は、みたいな。痛めつけないで普通に女の人大好きだって言えばいいだけな気もしますがSの人は痛めつけないと気がすまないみたいです。

 個人的には「そもそも、そんなに女の人を痛めつけられる周囲の環境とか人間達とかにもっとツッコミ入れたら?」と思ったりするのですが、基本的に女の人にしか興味ないからねこの人。まあでも名作です。モリコーネの音楽も凄く効果的に使われていてかっこよかったし。サントラがレンタル屋にないんだよなあ。

 


8/9

○開会式

 チャン・イーモウすげぇわ。人も金も遠慮なく使った大変立派なショーを見せていただきました。

 イヤミを言うと「少数民族の衣装を子供に着せて中国国旗を持ってこさせる」という演出が時節柄微妙ですな。

 ポイントポイントで子供(しかもきっちり可愛い子をセレクトして)を使ってくるあたりがいかにもチャン・イーモウらしい。「初恋の来た道」にせよ「至福の時」にせよ、この人「中華の宮崎駿」っぽい御仁ですからな。師匠のチェン・カイコーとの最大の違いはそこ。チェン・カイコーは基本的に男の子とオッサンに萌えな御仁なので、どうしても地味になりがちであります。

○ロシア……

1500人死亡と、ロシアが空爆 南オセチアの武力衝突

 しれっと開会式に出席しておいて、思い切り戦争はじめやがりますよプーチンは。1500人っていきなり何その半端じゃない死者数。

 最早アメリカに抑止力がない以上(まあ昔からそんなになかったけど)、こういう事態はあちこちでおきていくことになるのでしょう。21世紀はそういう時代なのでありましょうなあ。

○そのアメリカ様といえば

エドワーズ元上院議員、不倫関係を認める

 なるほどね、それで副大統領候補を固辞してたわけですか。一番理想主義的で理念を訴えるタイプ、しかも「奥さんの闘病を支える夫」キャラとかで売っていただけに、このスキャンダルは政治生命に関わるなあ。てか、相手の女はテレビ関係者ってまたベタですなあ……結局、民主党リベラルエリートはみんなこんなんばっかし…ってことはもうアメリカ人ならみんな知ってることなんでしょうけど。

 


8/7

 不景気話。

○年初から「景気後退入りした」とか発表出すわけにもいかんのだろうが

景気判断「悪化」に 6月の一致指数、1.6ポイント低下

 とはいえ、何を今更感漂うわけであります。てか年始頃の景気予想で「年末に上昇する」ばっかり言っていた日本の経営者とか経済ジャーナリストとかって確信犯なの?それともバカなの?

 いずれにせよ、「アメリカの景気の底は2009年末くらい」なんていう暗い観測もちらほらと見えるようになってきて、不景気長期化モードが止まらない今日この頃。長期化は避けられないのかなあ。

○アメリカ様もいざテメェのことになると根性ナシかよ

数百の米銀が破たんの可能性、業界救済のための納税者支出は2兆ドルも─ルービニNYU教授=バロンズ

 日本のバブル崩壊以降の展開とここまで同じだと、なんだか悲しくなってきますな。あれだけ日本の対応にケチつけて、ご立派な処方箋をあれこれご提案してくだすっていたというのに、いざ自分のこととなると腰が引けまくりで周りに気を使いまくりで日本と同じことやってるってなんのギャグ?

 スジ通して、自分も血を流すべきところは流すってところを見せない限り、どうにもならんでしょう。最小被害で血を流せる部分を作って、派手に「血を流したよ」とアピールするくらいの芸や落ち着きはあると思っていたんだが、今のところそれもなく本当に昔の日本と同じ。ヤクザ絡みで銀行関係者が殺されてないくらいだろ違うのは。会計規準見直し論もまだくすぶってるらしいけど、そんなことしたら本当にドルが信任なくすよ。

○でまあ、生活に直結する部分といたしましては

「消費者にインフレ、生産者にはデフレ」の深刻な現状

 食費はまあ、安いものを食べていればいいわけですが、問題はむしろ電気・ガス代ですな。これの値上げ率が結構きつい。

○かと言ってもうみんなやる気もないし

日本人「勤勉続くと思わない」61%

 仁義なんてそもそもなかったし、随分昔に期待もしなくなっていたけど、それでもカネ払いだけは良かったからみんな我慢して働いていたわけで。カネ払いすら悪くなったらそりゃまあ働かなくなるわなと。

 ただ、日本人ならではの「勤勉さ・マジメさ・責任感」によって得ていた恩恵(社会インフラのレベルの高さ)とかが、今後グズグズになっていくのは避けられないのでしょうな。テクノロジーでなんとか代替できればいいのでしょうけれど、限界があるかなあ。やはりロボット開発は国運を左右する重大事ですよ。

 


 

8/6

○映画「スカイ・クロラ」は押井版「灰羽連盟」である

 見てきました。基本、いつものオシイ映画です。1ミリも変わってません。作家は本人が幾ら「今回は違う」と言っても、所詮同じところをぐるぐるぐるぐると回り続ける運命なのでありましょうか。

 お話的にも、舞台設定とか作品構造とかも、芝居とか演出のコンセプトも「灰羽連盟」に近いものを感じました。まあ主張するテーマはちょっとズレるんだけど。

 灰羽は主人公ラッカを中心にしたギャルゲ構造(ラッカは女の子だけど構造的にはギャルゲ)でメインヒロインがレキ。スカイ・クロラも主人公のパイロットを中心としたギャルゲ構造で、メインヒロインが草薙っていう司令官。レキと同じく彼女は今いる世界から抜け出すことが許されない。

 静かな日常や人物間に漂うニュアンスや違和感を大切にするコンセプトとかも良く似ているし(この点ではスカイ・クロラのほうが作りこみがしっかりしていた)、思春期の「どこにもいけない日常性」をテーマにしている点も良く似ている。

 オシイ監督的には「ゲーム的リアリズム=最近の若い子の感性」みたいな感覚なのかな。なにそれ俺の思ってることと一緒じゃん、じゃあそれで映画作れば若い子にも売れるかな、みたいな。「ゲーム的リアリズム」も現実もそんなに幸せなものじゃないけどねあはははは、とかイヤミを言う時点で売れませんよ監督^;

 空戦シーンや空や外国の風景や街並みや路線電車や家具調度品がとても綺麗でよい。

 あと、音がとても良いし音の演出が細やかで気が利いてる。イノセンスの時も思ったが、アメリカで音作りするようになってから格段と音がよくなってる。川井憲次の音楽も毎度ながらよい。

 声優の芝居は榊原さんの声がたっぷり聞けたから他は不問に処す。

 それにしても押井監督は毎度毎度同じ顔の女性しか出さないな。本当に好きなんですね、こういう顔が。

 車の中のラブシーンよりも最後のドッグファイトの空戦シーンのほうが遥かに官能的なのがオシイ作品らしい。

 てか監督、ラブシーンになると毎度毎度「手のアップ」ですな。パト2でもやってた。

 結論「ちゃんと同業者の仕事を見てから作って。外見変わってもテーマとか方法論とか雰囲気とか色々カブるから。」

 


8/5

○映画「崖の上のポニョ」は宮崎駿版「よつばと!」である

 それくらいしか言うことないなあ。十二分に良い出来、大いに楽しめるアニメーション映画であり、劇場で見ることを強くお勧めしたい。御大元気だなあ、と安心させられる快作であります。

○映画「長江哀歌」

 主演の俳優・女優がいい。特に主演の俳優のオッサンの佇まいが最高である。ダムの底に消えることが決定し、解体されていく街の様子や佇まいも実によろしい。侘び寂びの世界である。素材の良さをじっくりと見せてくれる監督に拍手。ところどころで入る突飛なシーンについては「別にあってもいいけどなくても良かったんじゃねえの」とちょっと思った。

 


8/2

○マクロスFの新OPがグッジョブすぎる件について

 おお、なんかサテライトが急激に「やればできる子」になっていてスゲェです。ここまで大胆にポップにしてこれるとは思いませんでした。軽やかで可愛らしく夏にふさわしい大変良い仕事であります。マクロスってのはこういう軽くてキャッチーなことを平気でやれるところがマジメ君なガンダムと違うわけでね。これくらいやってくれないといかんわけです。

 菅野先生も久々にシンプル(この人の作る曲の中では、という比較級の話ですが)であざとさ抜群な曲を出してきたし、今季のOPの中では「ひだまりスケッチ365」と並ぶ快作であります。冒頭の雰囲気とか曲の入り方とか思いっきり「YAWARA!」のOPの「ミラクル・ガール」とか思い出しますなあ。最高です。

 本編?時間が変更されてて見れなかった。でもOPだけでいいや。

○ひだまりスケッチ365

 ああそうか、ここに描かれているのは理想的な「社交」の世界なのだなと思い至る。「社交」とは本来こういうものであるべきなのだ。常に一定の「抑制」と「礼儀」の中で展開される美しき交流。きっと千利休が今週のひだまりスケッチの五人を見たら「客は亭主の痛まぬように、亭主は客の気にあたらざるように」を実現していると言って褒めるのではないかと思ったりした。

○コードギアスR2

 中華と手を組んで連合国家作ってアメちゃんと戦いましょう万歳ってあんた^;まあそりゃ中国わたった段階でそういう展開は予想できるといえば予想できるわけですが……

 こんな露骨に分かりやすいいかにもTBSでございますなネタをマジメにやりますか。まあ作り手的には内心ギャグなんでしょうな。プロデューサーの言うことを表向き聞きながら腹の中で笑いをかみ殺して作ってる作り手の顔が浮かぶようであります。

 しかし残念ながら物語としての強度は完全に失われてしまっている。つくづくPと放送局に恵まれないアニメですなあ。カレンとCCが両方とも魅力的な分、まことに残念であります。

○「イヴの時間」

イヴの時間(公式サイト)

 ヤフー動画で第一話無料配信中ということで見てみる。

 本来なら「美術キレー何これ個人製作なのスゲー第二の新海じゃん」とか盛り上がるべきところなのだが(実際「ペイル・コクーン」の予告編見た時は結構盛り上がったのだが)、正直それ程感動があるかといえば、なんかすっかり新海美術の水準に慣れちゃって、「まあこれくらいはできるよな」みたいなお前何様だよ的態度で見てしまい感慨があまりなかったりします。キャラの作画もしっかりしてるし、お話的にもそれなりに考えてあるのだが、見ていて「新しさ」を感じないとこれ程心が動かないものか……困ったな。もう少し盛り上がるべきな気もするのだが。

 瑣末なことをいうと「カフェっていう設定は微妙に「新しくない」んじゃないか」ということなんだと思うのです。ちょっと遅かった、みたいな。じゃあ何が新しいんだよ、と言われるともちろん全然思い浮かばないのですが。とにかくなぜかキービジュアルであるカフェのシーンを見た時に、そのいかにも最近のカフェでございますってデザインだとか雰囲気だとかを見た時に、「あー、なんか周回遅れ感が漂うなあ…」と思ってしまってノレなかったところがありまして。いや、管理人流行なんか全然知らんので、根拠はゼロなんだけどね。大体、未来の話だからカフェのデザインなんかどうでもいいんだけど。

 とりあえず美術は綺麗ですし、空気感とかも独特だし、良くできた15分アニメです。タダですし、見て損はありません。個人製作アニメの世界の水準の高さ、新海だけじゃないぞってことを証明する上でも大切な作品なんだと思います多分。

 


8/1

○映画「キングダム−見えざる敵」

 マイケル・マンはやっぱり今のアメリカの映画監督の中では貴重な人だと思うのです。

 基本的に観客を画面に釘付けにし続けるために徹底した仕事をする超プロフェッショナルなエンタメ職人なわけですよ。しかし、それでいて毎度「エンタメ職人だったら選ばないようなホンをわざわざやる」というヘンなアンバランスさを持っていて、見ていてとても興味深いのです。

 前作「コラテラル」も各所でホンの不備(殺し屋の行動が合理的でなさすぎる)が批判されていたわけですが、はっきり言って批判されているホンの不備なんか監督自身だって最初から分かるレベルのものなんですよ。それを分かっていて、なおも「サスペンス・アクションを盛り上げるテクニック」を総動員して映画を撮ってしまう。そこに何かただならぬ情念を感じる人でして。

 この「キングダム−見えざる敵」も、冒頭から最後まで徹底的に「エンタメ職人」ぶりが発揮されています。アクションシーンの迫力、ハラハラドキドキさせるサスペンスを高めるテクニックの周到さ、観客に衝撃を与えつつも目をひきつける過激な「暴力」描写、バディ・ムービーとしての王道なドラマ展開、犯罪捜査モノとしての面白さ等…持てる技術をこれでもかと言わんばかりに映画に投入している。しかし、そういう技術を投入して作られる物語は「観客の気分が悪くなる」「爽快感がミジンもない設定」なのです。

 なんというか「凄い上手な落語家が全然シャレにならないような状況を思い切りシャレにして噺をしていて観客ドン引き」みたいな感じですよ。管理人としては何がこの監督をそこまでさせるのかにとても興味があります。正直「マイアミ・ヴァイス」みたいな映画を毎年作っていれば、間違いなく成功できる人なのですよ。だけど、それをしないで「コラテラル」だとか「キングダム」だとかを撮るわけです。

 いちばんわかりやすいのが冒頭のアクションシーン。しょっぱなから「サウジのアメリカ人居住区にイスラム原理主義者が乗り込んできて居住区住民を無差別ジェノサイド」するシーンなのですよ。女子供も容赦なく殺されていき、はっきり言って最低最悪のシチュエーションなのです。でも、作り手は見事な演出とショッキングな描写の連発で「観客の目を釘付けにする」ことに成功している。そうすると見ているほうはなんとも居心地の悪い感じになるわけです。

 どうも監督の狙いは、敢えてそういう「居心地の悪さ」を観客に感じさせることなんじゃないかと思ったりします。「エンタメとして楽しむのはどうなのっていうネタを敢えて極上のエンタメ作品として仕上げて観客にぶつける」というのがこの人の「作家性」なのかもしれないなと。

 脚本についていえば「サウジの政治」へのツッコミが甘く、クライム・サスペンスとしてはともかくポリティカル・サスペンスとしてはかなり薄っぺらい感じは否めませんでした。ただ伏線の張り方や各キャラクターの見せ方、活躍のさせ方など、実に良く出きていて教科書のようです。特にクライマックスシーンの長いアクションシーンのスリルとサスペンス度は凄い。

 落語家の間にも「どこまでを「洒落」で済ませられるか」を競い合うような性悪ブラック&へヴィーな文化があるんですが、マイケル・マンの作品にはそれと同種の性悪さを感じます。

 


7/26

○ダークナイト近々公開

公式サイト

 といっても8月9日から。

 ジョーカー役は役作りにはまり込んで不眠症になった挙句にお亡くなりに(治療薬の複合摂取による事故死らしい)なったヒース・レジャー。ヤバイ人やらせたら天下一品のゲーリー・オールドマン師匠も登場してくださいます。監督は「プレステージ」の作りこまれた映像・脚本が素晴らしかったクリストファー・ノーランですよ。

 このメンツで思い切りカネかけてバットマン映画を作らせる企画屋は凄いなあ。いやそりゃまあ歴代バットマン映画のヒット及び「ビギンズ」の成功という実績があるわけで、ある意味で鉄板な企画なわけですが、でもこんな濃いメンツ集めて思い切り作らせちゃう度胸ってのはやはり大したものだなあと。

 内容も実質ジョーカーがメインのピカレスクロマンで、徹底的に「悪」の論理を押し出しす話だそうですよ。ノーランみたいな頭のいい監督が「悪」を本格的に描くとなると、かなり期待できそう。ただ2時間半という上映時間が少々しんどい。途中でインターミッションとか入らないの?2時間以上の映画は入れようよ、しんどいよ。

 今夏はポニョもスカイ・クロラも面白そうだし、仕事がひと段落ついたら近所のシネコンにレイトショー通いでもしようかと。レイトショーでも千数百円とられるわけで、結構高いんだが。メジャー系の大作は安く、独立系・単館系作品は高くするとか、価格設定多様化してもいいんじゃないかとか思うのだが。

○アニメ「ひだまりスケッチ365」

 力もノウハウも蓄積したスタッフがヘンに力を入れたり悪ノリしたりせず、手馴れた様子で期待されている通りの仕事をしてくれるということがいかにありがたいかということをしみじみ感じさせてくれるアニメであります。暇があるともう一度見たくなる。文句なし。

○Nスペのインド話

 1本目の「貧困層向けビジネス」の話がなかなか面白かった。特に商社が農家から農産物を買い上げ、その場でカネを支払い、カネの支払い所にショッピングセンターを立ててそこで消費をさせ…という商売の仕方がなんだかわかりやすすぎて凄い。いや、でも「豊かさへの渇望」をこれほどダイレクトに感じさせる仕組みってなかなかないしなあ。人間というのは「目標」が自分の中で明確に設定され、「目標までの道筋が明確」になると圧倒的な強さを発揮するもの。「豊かさ」の可視化、「自分もああなりたい・なれるかもしれない」と思わせるものをじかに味わわせるってのは、貧困層を揺り動かし市場とするためには必要なポイントなんだろうなあ。

 2本目はインドの製薬業界の強さを分析してるところが面白かった。ジェネリック薬品の研究開発力を高めるという戦略を徹底してるところが強い。やるなら徹底的にやらないと強みにならんわけですな。

 

 


7/23

○アニメ「一騎当千」

 今週は呂蒙をひたすら萌えキャラとして立たせるエピソード連発。完全に萌えアニメになってますな。

○アニメ「RD潜脳調査室」

 アクションシーンが気合入っててなかなかよろしかったです。キャラクターの萌え化努力といい、アクションの頑張りといい「やればできる子」な感じは随所にでているのですが「IGっぽさ」を意識するがゆえに変に中途半端に終わっているのが大変残念であります。無理して優等生したって仕方なかろうて。

○ひとりごと

 別にそんなに年食ってるわけではないのですが、若い人に「年を取ること」ってどういうことかって伝えようがないんだなあ……と20代前半くらいの子の文章を見ていてしみじみ思う今日この頃。「その言葉は10年後・20年後も継続可能で、責任を持てるものなのか」ということへの畏怖がないまま強い言葉をどんどん発してしまっているなあと。いや、もちろんいいんだけどね責任取らされるのは自分だから。いや、あくまで個人内部の世界の話であって、具体的な形で「責任」をとらされるわけではないのですが。管理人もそんな「責任」があるとは無論、思っていなかったわけですが。

 でもそういう意識が「なかったことのツケ」みたいなのは、それなりに後で払わされることになるのが人生だというのが次第次第にわかるようになってまいりました。ほら、エミネム先生もWhen I'm goneで言ってるじゃないですか「You rap about it, yeah, word, k-keep it real」と。「言葉を発する」ということは自らの周りに言葉の檻を作ることであります。言葉は自己を肯定するのに便利ですがそれは対価として思考と行動の可能性を限定させることを求めます。そんなことあるわけないじゃん、言いっぱなしで10年・20年後にはきっと自分で言ったことすら忘れてるよと思いがちですが、言葉というのはそんなに甘いものじゃないのです。一度発して形にした言葉というのは、ふとした時に、あるいは無意識裏に自分自身にまとわりつくことになるのです。

 「若かった頃の自分が書いた言葉」にある時、襲われ食らわれる経験をする覚悟がないのなら、ヘタなことを書かずに、そっと胸のうちで留めておいたほうがいいことって多いんだけどね。言葉にしてしまわずに、心にしまっておくというのは意外と生きるうえで重要なテクニックなのかもしれないなあと。平安人達の「言霊」という感覚というのは結構正しいという気がしております。

 Eminem - When I'm Gone(名曲、ミュージッククリップも良くできています)

  


7/21

○仕事中

 実は「うわっ修羅場になるな」と思っていたのですが、思いの外サクサクと物事が進み、結構余裕を持って進行してくれて「ああ、今年は良い夏だなあ」と一人で喜んでおります。とはいえ真面目に働かないといけないので更新頻度はあまり上がりません。

○「あしたのジョー2」

 ハリマオ戦終わって、いよいよホセ・メンドーサとの戦いが決まるあたり。以前も書きましたが「あしのたジョー2」は「白木葉子の孤独」を描く物語という側面があります。この作品における矢吹丈という主人公は様々な人々と実に豊かな「つながり」を持っている富者なのです。自由に孤独に生きながらも、同類である力石・カーロス・ホセ・権藤などとの強い精神的な紐帯が彼にはあるわけ。

 一方の白木のお嬢様と来たらあんた……弱音を吐けるのは「優しいお爺様」くらいなもので、ストレス解消に車を吹っ飛ばさないとやってられない孤独な人です。父親・母親・兄弟などは全く出てきません。同年代のお友達もいなさそうです。なぜ、そんなに孤独かということは実は描かれていないのですが、簡単に言ってしまえば彼女自身が彼女の周りにある人間関係を「拒絶」したからなのでしょう。白木のお嬢様は恐らく矢吹君のように自由に、熱く生きたかった。そして矢吹君のように「自由に熱く生きる」者同士のつながりがほしかった。彼女にとって力石、そして矢吹君は「なりたかった自分」なのです。

 で、ここ数話のお嬢様は「自分が「矢吹君は野生を失いつつある」と思ってハリマオ戦なんか仕組んだけど、それが矢吹君のパンチドランカー症を悪化させてしまったのではないかと不安になって動揺」しております。彼女が矢吹君に「野生」を求めた背景には「「なりたかった自分」であるところの矢吹丈」を維持するためというエゴがあるように思います。そのエゴが矢吹君に致命傷を負わせてしまったのではないか…白木のお嬢様の動揺は彼女自身の業病と絡んでくるが故に深刻なものとなっていくわけです。

 まだ最終回まで行ってないのですが、白木のお嬢様をメインで見ていって気付いたことがひとつ。以前は管理人、最終回で白木のお嬢様が決定的に「敗北した」(矢吹君に「愛している」と告白することで)と思っていたのですが、必ずしもそうではないのかもしれんなと。最終回でたしかに白木のお嬢様はある種の「敗北」を迎えるわけですが、その後に「救済」がやってきているのではないかと。

 どこでだよ、というと矢吹君が戦いが終わった後、白木のお嬢様にグローブを渡すところでです。ここで矢吹君は白木のお嬢様を女として「愛している」と言うのではなく、血まみれのグローブを渡し、「あんたに持っていてもらいたいんだ」と言うわけ。管理人思うに本来なら、矢吹君がグローブを渡すべきは白木のお嬢様ではなく権藤ですよ。しかし、矢吹君は敢えて白木葉子にそれを渡してるわけです。

 それは彼女を「女として愛した」のではなく、この瞬間、まさに力石・カーロス・ホセ・権藤と同じように彼女を「愛した」ことを意味しているのかもしれないなあと思いました。それまで頑なに、「あんたは女、俺達は男」という姿勢を崩さなかった矢吹丈が、最後の最後で彼女を「女」というカテゴリーから外した、と考えることも可能かなあと。

 そういう意味で、「あしたのジョー2」のラストは白木葉子が矢吹丈という理想像を「殺し」、「なりたかった自分」を獲得する物語になっている、と読むこともできます。それはアニメ「あしたのジョー」の最終回で矢吹丈が理想である力石を「殺し」、「なりかった自分」を獲得したのと重なるのです。

 白木葉子様のその後の人生が大変気になる今日この頃であります^;個人的に矢吹君の命日にゴロマキ権藤と居酒屋で一杯飲んでいてほしい気はします。何も言わず、二人でコップ酒を飲んでいてほしいですな。

 にしても丹下会長は本当にいい人だ。この人の「父性」は、少年漫画の諸作品の中でもかなり異質ではないだろうか。たとえば同じ梶原原作の星一徹とかと比べてみると、いかに異質かが明らかです。日本人離れしています。

○アニメ「マクロスF」

 「お客様が喜ぶ展開・ネタ」がしっかりと提供されており、しかも綺麗な映像、派手なアクション、水準を維持した可愛いキャラ絵も提供している。もう言うことなしでしょう。過去のマクロスネタを巧みに組み込んでいる点も評価高いし、三角関係をガシガシ乱発してるし、キャラクターの立たせ方もキャッチーだし、ほんとに「サテライトはやればできる子」という感じです。てか今までの作品はなんだったんだ…

 じゃあ熱心に見てるかというと実は、あんまり熱心には見てないんですが。なんというか「今、これをやる必然性」みたいなのが個人的には感じられない所がありまして。マクロスプラスには「今、これをやる必然性」みたいなものがあったように思うのです。それまでのアニメを総括し、葬送する、みたいな。「エヴァ」や「ジャイアントロボ」と並んで、「マクロスプラス」はそういう役割を自覚的に果たしていたような気がします。今回のマクロスFは、どうもそういうのが感じられないなあと。あえて言えば「CGの本格導入」なんでしょうけど、思っていたよりもエポックメイキング感がない……贅沢病なんですけどね。

○アニメ「ガンダム00」

 面白くならないなあ。黒田洋介は細かい設定や人物関係をを綺麗に折り重ねていくのが上手なタイプではなく、単純素朴だが幹の太い、アクチュアリティのある「物語」「ドラマ」をしっかり見せるのが得意な人だと思うのですが、そこら辺の特性をイマイチ監督が見極め切れていない気がします。

○アニメ「コードギアスR2」

 うーんそれは「ウテナ」と「忘却の旋律」で榎戸洋司が大体やっちゃってるテーマじゃないかな、って感じです。大分時代を後戻りしてしまったというか。CCのネタは桜庭一樹の「ブルースカイ」の第一部とかを彷彿とさせますなあ。

 ラストのシメ方でいかに榎戸を超えるか、というところですが正直、現在の設定ではそれほど大きく榎戸を越えるような展開にはならんでしょう。風呂敷が十分に広がってない感じというか。

 


 

7/17

 ダラダラとよしなしごとを。

○Nスペ「激流中国」最終回

 「激流中国」の最終回が「怒江」のダム開発話、というのはなかなか凝った作りですな。中国各地で続く開発による自然破壊・環境汚染の話。ダム開発のために村人が田畑を奪われ、強制移住させられ、反対運動は官憲に弾圧され…と「この道はいつか来た道」感バリバリの展開を見せられる。中小企業がコストの圧力のために環境基準を守らず排水を垂れ流しにし当局に摘発され、その間に大勢の人が汚染に苦しみ…なんてのも「この道はいつか来た道」ですし……ただし中国や現在の途上国で見られる「いつか来た道」は昔の我々と比べても規模や深刻さが段違いになっていることを忘れてはいかんわけですが。

 にしても、これを見ていると人間は歴史から学ばないのではなくそもそも学ぶつもりがないんだということがしみじみ良く分かるし、福本伸行がカイジで喝破したところの「人間は他人が苦しんでいても心が痛まない」というのが本当だなあと思わされるわけです。そりゃまあ「順調に発展が続けば環境汚染が経済的に見合わなくなり、みんな高い環境基準を自主的に守るようになり、環境が回復するよ」ということなのでしょうけど、その間に犠牲になった人は基本放置なわけでね。

 Nスペ、次はインドだそうです。

○不景気な世界

米政府、ファニーメイ・フレディマックに対し公的支援−市場崩落の連鎖は防げるか

 サミット前あたりから「ベア・スターンズに続くヤバいところがいくつかあるんだけどどうにかしないとアメリカヤバイぜ」的な報道がいくつかあったんですが、これのことなのでしょうか。

 しかし、今回はベア・スターンズ救済の時ほど鮮やかに「危機回避」ができるかどうか微妙、という観測もあるようでして。

米住宅2公社への“早期”公的資金注入が不可能な理由

 カリフォルニアでは取り付け騒ぎが起きてブッシュが会見、なんていう分かりやすい展開も始まっているようですな。

 デカップリング論もどこ吹く風でございます。

インド経済、壁にぶち当たる

 中国も、みんなして「五輪後が怖いよう」モードに入ってますしね。景気はむこう数ヶ月が底で、年末にかけて回復するなんてみんな言ってたんですが本当なんでしょうか。本当だといいんだけど。

○そりゃまあそうだけどさ

  グローバル化は日本にとって不利益?‐資源価格上昇が影を落とす世界的な所得収斂のメカニズム‐

 そりゃまあ理屈で言えばそういうことになりますわな。しかも、現在の「グローバル化」は「どっかの誰かが勝手に決めたクソルールでしか戦えないグローバル化」でもあります。しかし、これなくして「世界市場」への参加切符はもらえないというのも事実なのですが。

 問題は「これまで蓄積した富を「グローバル化の「犠牲」者への手当て」のために使って変化をのりきるのか、単に「グローバル化を押し止める」ために使うか」ってことなんだと思います。我が国は今のところ後者に力を傾注しているのでありましょう。

 で、なぜ「グローバル化を押し止める」ために国富を使うかということなんですよ。「グローバル化の犠牲者への手当てをするよりも、グローバル化を押し止めて先延ばしにしたほうが割安だから」というのであれば、それはそれでいいのでしょうけれど、それって本当かなあと。単に「俺たちが死ぬまでは今の状態をどうにか維持したい」というだけでやってるんじゃないかという疑惑がどうしてもむくむくと頭をもたげるわけでして。

 まあ、念頭にあるのは「仁義なき戦い」の世界なんですけどね。「オヤジはもう俺達のことなんてロクに考えてないぞ!そんなオヤジのためになんで命を張るんだ(渡瀬)」「たとえそうであっても、どんなにロクでもないオヤジでも、やっぱり俺達のオヤジなんだ、俺たちを食わせてくれたんだ(菅原)」という感じでしょうか。管理人はあの映画を見た時に「ああ、そうか日本の「オヤジ」と呼ばれる人種はもう随分前からこういう連中だったんだ。」とかなり得心しちゃったんですが、それは映画に毒された見方ですかね。

○映画「ゲド戦記」

 金曜ロードショーでやってたのを見たのですが。別に悪くもないって感じです。良くもないけど。宮崎門下生ということでいえば「アリーテ姫」とか評価した人は「ゲド戦記」だってそれなりに評価してあげてもいいんじゃないのか。どっちも「エンタメ考えてない」「シンプルで動きのない淡々として映像」「安いテーマをご大層に扱う」ってあたりは共通しているように思います。宮崎駿の影響下から脱しようとすると、こういう感じになってしまうという「症例」として分かりやすい。対極に「茄子―アンダルシアの夏」とか「ストレンヂア(未見)」とか並べるとわかりやすいかなと。

 普通に「初監督の人が撮った作品」という感じです。「自分がなにをやりたいか」というのが絞りきれておらず、あれもやりたいこれもやりたい、あれもやらなきゃこれもやらなきゃ、形も整えなきゃと頑張ってみたけれど、なぜだか出来上がったものはどれも半チクで総体として面白くもない、というパターン(自戒を込めて言っております)。もうちょっと周りのサポートの仕方もあっただろうに、という気はしますが、まあ監督が決断を下さないと仕方ないから監督が茫洋としていたら作品も茫洋としてしまいますわな。

 「命を大切にね!」なんて安い説教よりも、しょっぱなから「大した理由も明らかにしないまま突然登場して父親を刺してしまう主人公」ってのを見せたところが一番評価できる気がします。

 


7/15

 引き続き省力更新中

○アニメ「恋姫無双」第一話

 関羽と張飛が出会うところからって、また随分と桃園までの前説が長そうな^;キャラもアクションもしっかり描けてるし、テンポも悪くないのだが「三国志ならでは」感はほとんど感じられない第一話でして、それで大丈夫なのかとちょっと心配かと。第一話だけ見ると中華風スレイヤーズみたいな感じに見えてしまうがそれでいいのかと。いいのかもしれんが。

○アニメ「スレイヤーズ」第1話〜第2話

 キャラを立たせつつ手堅くお話が進む「往年のテレビアニメ」っぽさは懐かしいが、さすがに見てて楽しいかというと微妙。鈴木真仁の声がしっかり聞けるってところは個人的にポイント高く、それ故に切り難さを感じなくもないが、たぶん切る。

○アニメ「乃木坂春香の秘密」第一話

 「学校」って当事者じゃなくなってから見ると本当に歪な空間だなあと思わされるわけです。この作品を成立させている「環境」それ自体のイヤさで見ていてうんざりさせられるというか。まあでも、そういうくだらんバイアスをかけないで見る分には作画良く、ヒロインは魅力的で、大変キャッチーで見やすいよくできた萌えアニメであります。

○アニメ「精霊の守人」

 いちおうダラダラと見ているのですが……神山作品のテイストなのかどうか知らないが、とにかくこの人の作品はことごとく「優等生的安い説教」で終わってしまうのがどうにかならんかと。師匠(かどうかしらんが)のオシイが支持されたのは「ずっと学園祭の前日だったら楽しいのに」とか「小汚い東京のアパートが好きなのに」とか「サイボーグになれたらいいのに」とか「人間よりも人形の女の子が綺麗でいいのに」とか、そういう「ダメな欲望」をストレートに描いてるところだと思うんですけどね。いや、まあ未来を担う少年少女のためには、そういうのよりも「精霊の守人」のほうがいいとは思うんだけど……

○アイロニーを捨ててしまってよかったのか

 まあ管理人の皮膚感覚みたいなものでいうと(ていうか、皮膚感覚でしかモノをいえないのですが)、日本の文化シーンのメインストリームが2000年代の中盤あたりから少しずつ「アイロニー」を捨てていった感じがあって、正直管理人も「もうアイロニーはいいんじゃないか。アイロニーの世界で居直っていたら腐っていくだけなんじゃないか」という意識がなきにしもあらずだったわけです。でも、上の「精霊の守人」を見たり、最近の若い人とかのモノイイをネットで見ていると、人生にはやはり多少「アイロニー」的なものが必要なのかもしれないなあとか思ったり。

 大雑把に言ってしまうと表向きはともかく実質的に90年代日本の文化シーンにおいてこの「アイロニー」的な表現は最大派閥であり多数派でした。はっきり言って90年代の文化シーンの真の意味でのチャンプはみうらじゅんでありオーケンであり伊集院光でしょ(異論は多いと思うが^;)。彼らは極めて優秀なので「アイロニー」というものにある程度「距離感」を持っている。「アイロニー」というものが実は日本文化のメインストリームのひとつであることを自覚していたというか。ですから「アイロニーを「芸」にして使いこなす」ということができている人たちでして。

 ただこうした「アイロニー」的表現を支持していた人は「自分たちはマイナーであり、少数派である」という意識が強かったのではないか。しかし、そうした自意識は実は間違っていて、上述したように「アイロニー」こそが主流であり、王道なんですよ日本では。「俺たちは少数派だから」と自嘲している自分が実は「(文化シーンの中では)最大派閥である」ということに気付けていないケースは結構あって、そうした「自覚なき権力者」への反動がその後の「優等生」の台頭を招いているように思います。「俺みたいな人間はマイナーで、マイナーゆえの権力意識を持っているけど、でも俺の権力意識なんか世の中の人には関係ないだろう」と思うわけです。でも、実際は彼らは「メジャー」なんですよ。そうすると彼らの「権力意識」というのは微々たるものではなく、むしろ巨大なものとして文化シーンを「抑圧」するものとして働いてしまうわけです。自覚しないまま彼らの「権力意識」は「大きな権力の発露」になってしまっていたわけです。

 それに対する反動として作家・創作者サイドからまず「優等生」が登場し、それが一般に普及していったように思います。「作家や小説家が「まっとうなこと」を言うようになり、「優等生」な発言をするようになってきた。そして「アイロニー」に逃避するものを自己改革を怠り、アイロニーというぬるま湯で自らを慰めている弱虫だと指弾するようになったわけ。結果として「アイロニー」的なものは若い人たちの間で急速に消えているように思います。昔だったら「どうせ俺なんて…」と言うことも許されていたのですが、今ではそれを言うと「逃げているだけ」「自分を甘やかしているだけ」といわれて逃げ道を塞がれてしまうというか。

 でも、人間というのは基本的に「負ける」「挫折する」「失敗する」「くじける」「しくじる」人のほうが多いわけで、そういう人たちの慰安所・避難所として「アイロニー」というのは悪くないのかもしれないなあと最近管理人思っていまして。「俺ってダメだなあ、でも俺みたいに「ダメな俺自身」を分かってる人間って結構イイ奴なのかも」と思って少し安心するのはむしろいいことなのかもしれないと。権力意識持ってもらっちゃ困るんだけどさ。

 まあでも、若い子からアイロニーが消えているといいつつ「さよなら絶望先生」とか「銀魂」とかがきちんと支持を集めているんで、アイロニーの火は消えていない。以前より「主流派」ではなくなった、というくらいのものなのかな実際は。ただ、何度も言うとおり日本において「アイロニーは多数派でありメインストリーム」な時期のほうが多いので、気が付くとあっという間にみんながアイロニカルになってるってことがまま起きる。その自覚を忘れて「アイロニー万歳・マイナーな俺万歳」ばっかりやってると、たちまち醜悪な「自覚なき権力者」ができあがってしまうわけで、そこら辺を気をつけつつ「アイロニー」を適正に使っていくことはこれからも必要になるんじゃないかと。要はバランスなわけです。

 


 

7/11

 引き続き省力更新中。新番組色々。

○アニメ「一騎当千」第一話

 まあ正直に申し上げると第一期から結構ちゃんと見ていたりするんですけどねこのシリーズ。アクションの派手さがどんどんインフレしていっている&作画水準も向上しておりますが、同時に「キャラ物」としての面白さを出すべくテンポよくキャラを立てるための「ネタ」的なシーンを次々と繰り出していて楽しめます。第一期とかは主人公の孫策周り以外は結構ハードな人たち&展開が多く、コメディ的「キャラ物」要素は実は希薄だったりしたのだが、今回はそういうこともなさそうですな。キャラ的に注目なのはやはり孫権と劉備&関羽コンビかなあ。製作者の術中にはまりすぎだ。

○アニメ「ストライクウィッチーズ」第一話

 GONZOが経営的にヤバいことになってるそうなので是非売れてほしいなあと思ったりするわけですが……微妙であります。端的に言えばキャラデザと企画の不一致。このキャラデザインでは「萌え」はできても、戦闘でのギリギリの「燃え」をやるのには限界があるのではないか。「顔を一定以上は崩せない」中で「燃え」をやるってのはかなり難しいんじゃないか。第一話もかなり「燃える」展開をやれているのですが、キャラクターデザインが「燃え」を阻害してしまっている。

 作り手が「いや、このキャラデザインでも顔を崩してテンションを上げるんだ!」と覚悟を決めてくれれば変わってくると思いますが第一話ではそこまでいってなかったように思います。なりふりかまってる場合じゃないので頑張ってほしいところですが、個人的にはよくて中規模ヒットくらいで終わるだろうという感じです。どうも、このスタジオもガイナと同じで「完全にオタクになりきれない」というか、すっきりしない部分があるような気がする。「オタク向け」として作っているけど「本当に好きでオタク向け作っている」感じがしないというか。

○アニメ「紅」最終回

 今更見る。結局、お話が「美少女のために男が頑張る」っていうベタな話以上のものがないわけで。そのベタな物語にこの絵柄や演出が果たして必要だったのか。管理人は必要を感じなかったので、幾ら凝ったことをやられても「ふーん」としか思えなかったのですが。どんなに優れた表現でも、その表現を使う「必然性」が感じられなければ、切実さが出ないと思うのですが。まあ、でも見ているだけで楽しめるアニメではありました。拍手。

○アニメ「コードギアスR2」

 小ネタを楽しむアニメに変貌しつつあったのですが、一挙にシリアスに押し戻しました。でも中国行って以降はやはり迷走している感があるなあ。

○それよりも

 ひだまりスケッチ録画失敗した。時間変更やめてくれ。

 

 


7/8 

省力更新モードで

○「ひだまりスケッチ×365」第一話

 シャフトらしい凝った造りだけど絶望先生二期のような自己満足的実験映像ではなく、飽くまでエンタメとしての節度を保って見せているのが大変よろしい。物語的にも第二シリーズからお初に見る人に向けて分かりやすく作ってある。色使いなどもいかにも最近のシャフトという感じで良いし、作画も気合十分。各シーズンにこういうまったり萌え作品が一本あると良いですな。

○ペンタブを買って

 ヤフオクで送料込み1300円というアレな値段なのだが、それなりに使える。紙に書くのよりも遥かに綺麗な線を描くのが難しく、紙に線描くのだって満足にできない人間にとっては結構しんどい。でも線の補正機能だとか、幾ら練習しても紙がたまらないとか、すべての画像データをお手本にできてしまうところとか、やはりデジタルの力は素晴らしく、最近はもっぱらペンタブ。ただし上達はあまりしてない…ディテール及び手足と体を描くのが難しい。というか、マジメに描こうと思ったらひとつの絵に大量の時間と手間を投入するほかないんだなあ。当たり前なんだが。

 でもペイントソフトのエアブラシ使ってザーッと適当に色を塗るとそれっぽく仕上がるのは楽しい。  


7/4 truth is like a handkerchief

真理とは−、
それはおたがひが勝手に
ハンカチをそれにひたせば満足できる
十二色の染壺のやうなものだ、
(小熊秀雄)

○オバマは基本「ブーンドックス」のトムなわけで

 出てきた頃のロックスター的な分かりやすさ、「アメリカン・ドリーム万歳」「イエス・ウィー・キャン」などのバカっぽさが薄れてくると次第にトム的な「黒人リベラルエリート」のイケてなさ(大衆的に見た時のね)が自然と出てきてしまうわけ。「わかりやすさ」「バカっぽさ」を最後までしっかり維持することは大事なんだけど、どうも最近「ぼくはお利巧さんの本格派」アピールが強すぎる。その「エリートのイケてなさ」が民主党が負け続けてきた要因だといい加減勉強できんものだろうかとか個人的には思うのだけど。アメリカ人は「政治における芸能的要素」に敏感なようで疎いなあと思ったりする。

アメリカ大統領選の欠けた争点

 ル・モンド・ディプロマティークだけあってバリバリ左派主張なわけですが、「人種問題」に関するオバマのスタンスが民主党リベラル層の「平等」思想の本流にあるっていう指摘は重要。

>>あり得べき不平等、つまり「人種」間やジェンダー間
>>の不平等ではなく、現にある不平等、つまり所得と富
>>の不平等に取り組むことを目標にするのなら、言い換
>>えれば、人種差別や性差別(今日のアメリカにおける
>>選別の基準)による不平等ではなく、新自由主義(選
>>別の根源)による不平等に取り組む施策を推進しよう
>>とするのなら、今の黒人男性候補も白人女性候補も同
>>じ程度に期待できない。

>>言い換えれば、クリントンとオバマはアメリカの
>>リベラル派の象徴である。リベラル派の政治倫理
>>は、人種差別や性差別による不平等に対する否認
>>と闘争に力を注ぐ。その一方で、差別に由来する
>>のではなく、通常は搾取と呼ばれるものに由来す
>>る不平等は、視野の外に置いている。

 

 まあ、こんなもんをアメリカ人の教授に書かせているル・モンドには「フランスの人種差別だってそれなりのもんだろうがよ」、とか、「お前さんの国は少し新自由主義でも取り入れてロクに働かずにストばっかり打つ公務員をどうにかしたらいいんじゃないの」、とか色々いやみを言いたくもなるわけですが、それはそれとしてここで書かれている指摘自体は結構正しい。

憂国呆談

>>でも、彼の主張は、形を変えたモンロー主義みたいな側面も
>>あるんじゃないかな。だって彼の言っていることって、「ア
>>メリカは捨てたもんじゃない。アメリカに集う者が心を一つ
>>にできるはずだ」って。その根底にあるのは、極めて内向き
>>な発想だよね。決して、「アメリカはもっと謙虚になって、
>>世界のために尽くしていこう」って意欲ではない。

 田中康夫の指摘。対アジア外交についてのオバマの文章などを見ていても、はっきり言ってよく知らないし興味もないのね、という感じが見受けられる。マケインとイラクについて議論しなければいけないわけだが、その時にも「国際関係の中でどう考えるか」的な視点をきちんと持って話せるかどうか微妙なところでして、だからなおさら「そんなことはいいからアメリカン・ドリーム万歳!」とバカになりきらないといかん気がするんだけどね。

 


 

7/2 From the negative world

君はマイナスの国から
やっとゼロについたと言う
俺はどこにいるんだろう
君に嫉妬してる(SION)

○まともねえ

まともな生活

 吉井勇だったかが「親の期待が子をいかに腐らせるか」みたいなことを詩で書いてたのを思い出します。

 「過度な期待」を自分に&他人に抱くということは「期待さえしなければ生まれることもなかった罪悪」感を抱く契機になりかねないということを忘れてはいかんわけで。「期待」って「うまく使うと薬になるけどヘタ打つと毒になる」もので、そう気安く使っていいものでもない。

 別に難しい話でもなんでもなくて「期待の作用=期待にこたえようと頑張る力」「期待の副作用=期待にこたえられるかどうかの不安&期待にこたえられなかった時の罪悪感」っていうのがあるってだけのことです。薬使う時と一緒で「服用時には医師と相談して十分注意してお使いください」という話。

 他人に「期待」する時も気をつけないといけないけど、自分に「期待」する時も気をつけないといかんわけですよ。「自分への期待」だけは人間なかなか切り下げられないですからねえ^;プライドが絡むからなあ。

雇用環境も福祉も欧米以下!日本は「世界で一番冷たい」格差社会

 なんせ、こういうことらしいですから「まともになれない」ってのも別に自助努力だけの問題でもないんじゃないかとか思ったりするんですけどね。

○今週の「あしたのジョー2」

 ハリマオ戦終了。変わり果てたカーロス・リベラが矢吹君を訪ねてくる話。変わり果てたカーロスに涙する矢吹君は白木のお嬢様が入ってきた途端、「見るんじゃねえ!」と激怒するわけです。これ、白木のお嬢様的には辛いよなあ。要するに「お前は女!俺達は男!入ってくるな!」って理不尽に言われてるわけで。

 「あしたのジョー2」は通して見るの三回目くらいだけど、今回は特に「男の子に(物理的な意味ではなく)なれなかった女の子」としての白木のお嬢様が印象深い。「あしたのジョー2」は「白木のお嬢様の敗北の歴史」なのである。このキャラクター造形は「お兄様へ…」にも引き継がれる出崎作品の典型ですな。

 にしても「ボタンをとめられないカーロス&矢吹」のエピソードは本当に上手いよなあ……

 


7/1 Supercapitalism!

 なんだか小規模に需要があるみたいなので、少し頑張って。

○「暴走する資本主義(Supercapitalism)」(超適当な)要約続き

第四章〜第六章まで。
全部まとめ版は旧ブログのほうにでもアップしておきます。

第四章 飲み込まれる民主主義

○「消費者・投資家」としての我々の発言権や権益が企業やファンドによって拡大していったことに比べると、「市民」としての私達の声はどんどん縮小してる。

○これは超資本主義の下で企業が合理的な行動をした結果起きていること。企業は競争に優位に立つために、お金を集めてロビイストに払って政治に働きかける。

○超資本主義の下で競争が激しくなり、株主・顧客の要求が高まれば高まるほど、企業は政治へのロビー活動にお金をかけるようになり、その金額は拡大の一途。給料が高いので議員経験者・元政府職員などはこぞってロビイストになり、効果的な働きをする。

○政策決定には、こうした企業・産業団体の影響が色濃く反映されることになる。「専門家」と呼ばれる人たちも、こうした企業・産業団体の影響の下で政策提言を行う場合が多い。メディアも顧客企業寄りの広報専門家の言うことをそのまま流したりする。

○ロビー活動の世界も競争が激化したため、参入するのにお金がかかるようになってしまった。政治的争いに参加するにはカネが必要であり、NGOだとか市民団体ごときではとてもではないが、企業や産業団体のようなカネをかけたロビー活動に太刀打ちできない。

○同じ理屈で労働組合の政治的影響力も低下している。議員達を動かすロビー活動にカネがかかるようになった結果、労働組合は労働問題に直接関係する問題以外に影響力を保持できなくなってしまった。

○無論、ある問題については大規模に報道がなされ「市民の怒り」が火を噴き、大きな世論が生れる、ということがある。しかし、そうした場合も実は「パフォーマンス」的な解決劇が行われて、実質的には企業の利益に反さないような調整がしっかり行われるのが常。公聴会で議員が社会的な問題を起こした企業を激しい言葉で叱責する様子とかがテレビで流れたりするけど、その後に議会で何が決まったかちゃんとチェックしてみると実はなんにもしてない、なんてことがよくあるよ。

○そのため「市民」としての私たちが「社会的平等」だとか「公平さ」とかを求めようとしても、政治を動かすのはかなり難しくなってるのが現状。

○「消費者・投資家」としての私たちには、ちゃんとした代表がいる(大企業・ファンド)んだけど、「市民」としての私達の代表は実質的にいなくなってしまってる。議員はいるけど、ロビー活動資金の高騰・ロビイスト達の活動の活発化で、彼らは「市民」としての私たちを代表する存在ではなくなっている。

○これは別に現状を正当化したり非難したりしているわけではなく「現状を説明」しているだけ。私達の民主主義は、超資本主義に飲み込まれて現状ではこうしたものになってしまっている。同じ傾向は他の国でも見られる。

○私たち自身の選択によって現状の「民主主義」のあり方も変えていくことができるのも事実。

第五章 民主主義とCSR

○CSR(企業の社会的責任)は結構なことだけど、そもそもな部分でおかしい。

○企業は「責任」というけれど「企業の社会的責任」を定義した法律や規則に基づいたもので動いているわけではない。

○投資家や消費者が「社会的責任を果たさない企業」にカネを出さなくなるだろ、というけれど現実にはそうした行動は一時的なものに終わることが多い。

○第四章で述べたように企業はCSRといいつつも、「公共の利益」よりも、自分達が競争で優位に立つことができる法律・規則・規制をロビー活動で実現させている。

○CSRの考え方は、こうした企業の矛盾した行動から目をそらさせてしまう。大切なのは我々が決めることのできないCSRの規定ではなく、我々の決めることができるはずの「公共の利益」に基づいた法律・規則が制定されることだ。

○CSRは、超資本主義の下で我々の「民主主義」が第四章のような形に変質していることから目を逸らさせてしまう。

○それにCSRは企業が「道徳的に振舞う主体」として「個人」と同じものであるかのように認識させる点でもよろしくない。「企業」は「個人」とはそもそも違う。「企業」が「責任を果たす」という表現は、企業があたかも「個人」であるかのように思わせるが、それは見せ掛けにすぎない。

第六章 超資本主義への処方箋

○斯様な現状下で、どのように「民主主義」をより良い形に変化させることができるか、政策提言を行いたい。

○まず政策決定のシステムを改めるためには色々な方法があるよ。

○たとえば「要職の選挙には公的資金を活用する」「放送局が選挙広告を無料で流す(アメリカは候補者のテレビCMに莫大なカネをかけるので)」「ロビイストが顧客企業から献金を集めるのを禁止する」「企業・経営幹部から議員への寄贈・接待の禁止」「議員経験者が退任後5年間ロビー活動をするのを禁止」「ロビイストの活動収支公開」「公聴会で発言する専門家は利害関係者との金銭関係を公開」などなど。こうした法律を、きちんと運用できるだけの監視も必要。

○ただし、こうした改革を実際に行う当事者が「ロビイストから金を貰ってる議員」だから、実際にやるのはかなり大変だけどね。

○とにかく民主主義のあらゆるところに「超資本主義」が侵入しているのが現状なので、「どこまで侵入できるか」をもっときちんと決めてルールにしようってこと。

○企業だって際限なくカネを政治家に渡したいわけではないから、こうしたルール設定はある程度歓迎してくれる。企業間の献金競争・ロビー活動競争の「休戦協定」を作らせるのが大事。

○あと、改革を行うためには「現行制度のどこが問題か」をみんながきちんと理解することができることが必要。

○問題が起きた時に現行の法律・規制がどうなっているのかを考えられるようにしよう。企業の失敗をやたらと攻撃する政治家・運動家や、「我々は社会的責任を果たしてる」と盛んにアピールする企業や、ロビイストの理屈なんかを安易に信じてはいけない。メディアも、きちんと「何が問題点か」を明確に知らせるべき。

○そして特に強調すべきこととして「企業は人ではない」ということを認識しよう。企業というのは法的擬制であり、契約書の束以外の何物でもない。企業は、「契約書の束」異常の発言の自由、法の適正手続き、政治的な権利を持つべきではない。そういったものを持つのは「生身の人間」である。

○企業を「擬人化」し、あたかも一個の「人格」であるかのように捉える考え方は一般的に見られる。その結果、間違った義務・権利が企業に求められてしまう。

○たとえば法人税。法人税は企業をひとつの「個人」であるかのように見て税をとっている。そのせいで企業側も「民主主義のプロセスに企業は参加できる」と考えてしまう。しかし、税金を払ってるのは実際は「企業」ではなく消費者や株主や従業員ではないか。

○というわけで、法人税は非効率的で公正なものではないのでやめたほうがいい。「生身の人間」から効率的・公正に税金を取る方法があるはず。

○たとえば、法人税を廃止し、企業が株主を代表して獲得した収益全体についてそれぞれ株主が個人所得として税金を払う、といった方法がありえる。

○これによって全ての「法人所得」は「個人所得」として扱われる。

○また、企業が不正をした時に「企業体が刑事責任を問われる」というのもおかしい。企業があたかも「人格」を持って悪事を働いたかのようにみなすことになるわけで、実際はそんなことはない。

○アメリカに本社を構える企業が海外に労働力を求めたり、収益を他国に預けることを批判したり罰したりするのも意味がない。それも企業をあたかも「人格」を持った存在であるかのようにみなしている。企業は人格ではないのだから「愛国心」とか「愛国的行動」を求めるべきではない。

○軍用契約や公的責任などを「自国(アメリカ)企業だけに限定する」の意味がない。

○自国の企業だからといって研究に補助金を出すことも筋ガット折らない。それが米国の競争力向上に結びつくことはない。実際、アメリカの各企業はインドや他の国に研究開発費を振り向け、それで利益を得ているのだ。

○政府の目標は「米国人」の競争力を強化することであり、「米国企業」の競争力を伸ばすことではない。企業は競争力を伸ばすためにグローバル化戦略を進めている。政府は、その中で競争力を維持できる「米国人」をどうやって増やすか考えよう。

○企業は「人格」ではないのだから訴訟の権利を持たせるべきではない。

○最後に大事な点として「人間」だけが民主的な意思決定プロセスに参加することを許されるべき。

○企業の政治活動と個人個人の「市民」の政治活動が「使えるカネの量」の差で不均衡が起きているのが現状である。こうした現状を改善しないといけない。

○たとえば企業は株主にロビー活動や政治的活動の説明を行い、株主の同意を求めないといけないようにすることができる。

○また、年間1000ドルの税額減免を納税者ひとりひとりに与え、その控除枠を使って自分の選ぶ政治活動団体に寄付することができるシステムなどを作っても良い。

  

補足:要約だけだと「企業批判」っぽく読めてしまうのだが、実際に本書を読んでもらえばそういうわけではないことがわかると思う。経済学者ですから企業の行動の合理性を筆者は良く分かっている。問題は「民主主義」をどういうものにするか、「企業」ってものをどう見るかってところなんだということを指摘してるだけ。ただ、それを見落として個別の政策提言だけを見ていくと、なんだか「すべての人を敵に回し」かねないことを言ってるなあ、とか思ったりする。あと、実際にはアメリカの具体的な事例・データがかなり提示されているので、要約で書かれている主張の説得力は結構高い。第四章のアメリカ政治の分析とかは「なーんだ日本とやり方は違うけど大して変わらないことやってんのね」ということが良く分かる具体的な記述が多くて面白いです。

  


  

6/30 when it blow that's wind

なにもさうかたをつけたがらなくてもいいではないか
なにか得たいの知れないものがあり
なんといふことなしにひとりでさうなつてしまふ
 といふのでいいではないか
咲いたら花だつた 吹いたら風だつた
それでいいではないか
(高橋元吉)

○Nスペ「沸騰都市 イスタンブール 激突ヨーロッパかイスラムか」

 深夜に多分再放送とかあると思うので、是非。経済成長が続くトルコでは、同時にイスラム保守派が台頭しておりまして、国是であり国の経済発展を支えてきた政教分離政策が揺らいでいるんだよね、という話。

 イスラム保守派の台頭はイスラム教固有の特徴と、必ずしもそうではない問題が混ざっている感じ。

 まず「必ずしもそうではない」ほう。「農村人口過剰による都市への流出→都市貧困層の拡大→工業化・経済成長による格差拡大」といった、どこの国でもよくある状況が生じており、それが「元々地方出身で保守的な都市貧困層がイスラム保守派を支持する」という流れにつながっている。これは別にイスラムだけではなくアメリカだってそうだろう、という話です。

 ただし「イスラム保守派支持層には「イスラム経済圏」というバックグラウンド・経済的実質がある」という点は世界宗教たるイスラム固有のものがある。この点について「でもイスラム圏国家に「トルコにはEUに加盟してほしい」という意見が増えているだけどね」という話が番組内で紹介されていたのが面白かった。ヨーロッパ経済圏とイスラム経済圏の「つなぎ」をトルコに担ってもらいたい、と思ってるんだそうで。保守サイドだって必ずしも安泰じゃないということが分かる。

 イスラム経団連のオバサンが「ヨーロッパに合わせなきゃ!」と張り切りながらもEUから色々注文つけられると「異質なものをヨーロッパは受け入れるべき」とか言い出すあたりを意地悪く写すところとかも秀逸。ヨーロッパとイスラムという二つの極がしっかり見える構図なので、ドキュメンタリーの構成もそれに沿って作られていて出来が良かった。

○教育テレビ「サイエンスゼロ「骨や臓器を作り出せ 驚きの3D技術」」

 こっちは再放送あるかなあ…「三次元プリンター」という技術が紹介されていて驚く。三次元CADデータがあればその場で粉から固めて削りだして彩色して三次元のブツが作れるという優れもの。三次元デジタイザを使って実物などもすぐに3Dデータ化して三次元のブツにできちゃうよというお話。これがそこら辺のDTPショップに入るようになったら、もはやフィギュアは実物ではなくデータだけ売ればよくなってしまいますよ!

 無論、そんな利用方法を考えて作っているのではなく、これを使って壊れた骨のパーツを作って再生医療に使おうとか、古代遺跡の復元やレプリカなどに使おうとかはでは臓器や細胞を作ろうとか、そういうのに使う取り組みが始まってるよというお話で、大変未来を感じさせるものであります。これが一般化して国宝・重要文化財クラスの日常生活用品とかの立体レプリカが100円1000円で手に入るようになったらいいなあ。こないだ国立博物館行ってきた時に何が良かったって茶道具とか椀とかなんですよ。とにかくフォルムが超絶洗練されている。ああいうのレプリカでいいから日常生活で使えたらいいなあとか思ったりするわけです。というわけで速く来い未来。

○ホログラム映像がついに

USCが開発した「レイア姫の3D映像技術」、動画で紹介

かっこええ。

○結局スペインでした

 C・ロナウドの影に隠れてしまいましたが、今シーズンのフェルナンド・トーレスの活躍っぷりは凄かったわけで、最後にこういう形でご褒美があって報われてよかったですなあ。それを言うならバラックだってチェルシーで活躍したやん、という話もあるが^;

 管理人はイタリアがインザーギつれてかなかった&ミーハー気質ゆえポルトガル頑張れ、オランダ強いぞとか思ってたたわけですが、結局どちらも決勝トーナメントどまりでした。スペインで印象的だったのはアラゴネスの強気交代策。トーレスが文句言っても変える時はズバッと変えて文句言わせなくしたもんなあ。  


 

6/27 Don't be cowards

卑怯者は目的の毛布で良心を包むのが上手だよ、
卑怯者の影は水にも映らないよ。
(中桐雅夫)

 相変わらず中休み気味であります。すいません。

○今週のCBSドキュメント

 今週は面白かった。まずは電波を利用したガン治療機械を開発したおじいさんの話。医療とは全く関係のない人だったのだが、自らのガンとの闘病、そしてガン病棟で見た子供たちの姿を見て、電波を利用して副作用のないガン治療ができないか研究をはじめ、機械を作り出してしまった。ナノ粒子と併用することで、ガン細胞だけを体内から電波を使って焼き殺すという方法を開発中だそうで、実用化できればガン治療に革命が起きるぞ!という感じだった。やはり思い立ったことを実際に動いてモノにしてしまうっていうのがアメリカ人だよなあ。偉いなあ。

 二番目はネオコンの論客がイラク戦争の正当性を主張する話。「どのみち危険だったんだから大量破壊兵器あるなしなんか関係なく叩き潰さないとダメだったの!」「今まで見たいに「攻撃されたから戦争する」じゃなくて「危ないところはこっちから攻撃する」じゃないとダメなの!」などなど……うーむ。ただ、こういう人たちが実際に政治家を動かすまで力をつけていって、最終的には戦争までいってしてしまうところもアメリカ人らしいよなあ。

 以前も書いたがアメリカのネオコンやら宗教右派やらをバカにする人たちは、彼らがインテリどもにバカにされながらも地道に勢力拡大のために働いてきた事実を見落としている。バカにするのは簡単なのだ。でもアメリカの政治を席巻し、戦争を実際に起こしたのはバカにされながら支持を拡大してきた奴らなのである。

 三番目はベネズエラで全国的に実施されている「貧困地区の子供たちに無料でクラシック音楽を教える」というプロジェクト。そういえばこないだのニューズウィークで、このプロジェクト出身の指揮者が新進気鋭の指揮者として紹介されていたような気がする(番組にも出てきていた)。学校にも行けない子供たちなので、基本的に一日中練習しまくっているので、みんな上手。プロになるとかそういうことではなく、「楽器を奏でることができる」っていうことがその子供の人生の支えになるんだ、だから教えるんだ、という教育者達の志が熱い。なんでクラシック音楽なのか、というところで「子供たちの現実の生活とは違うものが必要なんだ」と先生が説明しているのがとても印象的だった。文化の本質を突いた発言であります。よほどのナルシスストでなければ、我々は自分自身を「美しい」などとは思えない。しかし芸術は我々に「自分が美しいと思える何かを生み出す」という経験をさせてくれるのであります。そして、この「美しい」という直感は人を支え、人の尊厳を守るものでもあるのです。それこそが文化芸術の本質でありましょう。素晴らしい。

 まあでも、それ以前に貧困をなんとかしろって話もあるわけですが…チャベスじゃ見込み薄いなあ。

○教育テレビ「源氏物語の男君」

 朱雀帝のお話。朱雀帝というのは光源氏の兄であります。

 この朱雀帝が皇太子だった時にぞっこんだった婚約者が朧月夜という人手、彼女に弟の光源氏が手を出して恋仲になるわけです。でまあ、婚約は破談ですよ。

 しかし朱雀帝は諦めきれず、帝に即位してから彼女を尚侍として迎え入れて寵愛するわけです。でも朧月夜はすっかり光源氏に惚れこんでおり、幾ら朱雀帝の寵愛を受けても源氏を忘れられず、時折密会を重ねる始末。で、朱雀帝はそのことを知っていながらもそれを許し、朧月夜を寵愛するという……最後は朧月夜の父親が「いい加減にしろ!」とブチ切れて光源氏を都から追い落としにかかるわけです。

 男目線で言えばどう考えても朱雀帝のほうがイイ奴であり、それに比べると光源氏のDQNっぷりがよくわかるわけですが、しかし紫式部の結論としては「でも、やっぱり選ぶんだったら朱雀より源氏よねー」ってことなんですよねーと瀬戸内寂聴がニコニコしながら語っていました。そういや光源氏って「二枚目・万能・血筋最高・でも不良っぽくて危なっかしい・トラウマ持ち」という、今の少女漫画の「理想の男性像」と寸分たがわぬ造形だよな。日の下に新しきものなしでございますか。

○まだ買ってないけど

 Shing02先生待望のアルバム「歪曲」が出ましたよ!日本語ラップには英語にはない難しさ、高いハードルがありますが、その困難を自覚的に引き受けつつ最前線を走るshing02先生の到達地点をまずは聴いていただきたい。これで終わりではなく、先があるはずなのだ。

○こっちは買った^;

 山口舞子の哀愁&ハートウォーミングな萌え四コマ「カギっこ」2巻も出ております。早速読もう。

 


 

6/24 the sea roaring in my heart

胸中に海鳴りあれど海見たし(折笠美秋)

 梅雨と一緒に中休み気味に。

○さすがSUEZEN、モノが違うぜ

グレパラ第二回

 あまり同意を得られないのですが管理人は「ヤダモン」はNKH教育10分アニメの中でも屈指の名作だったと思うのです。久々にSUEZEN先生の「ヤダモン目」を見て懐かしさに打ち震えるのでありました。ネタも面白いですよ。

○アニメの未来

星の海のアムリ公式

 DVD発売されてましたね、すいませんまだ見てないです。監督インタビューで製作の苦労などが垣間見えるので是非。

俺の嫁ジェネレーター

 未来は着々と近づいてきているようであります。なんの未来だ。

OAD「ネギま!?」

 OADって何の略なの?
 正直一般化するとは思ってませんが、創作サイドからこういう新しい形の商売手法を提案してくるのは立派であり、今後ともいろいろ試してみていただきたいところであります。頑張れ赤松。

録画するのは泥棒ですか?

 結論としては「買えよ」ということなんですが。でもアニメってテレビという「タダで色々見放題」な環境だったからここまで伸びてきたわけでね……それとどれだけ近い環境を作るかって視点が必要だと思うんだけど。というわけで管理人は「月額固定性配信チャンネル」がいいなあと思ってるんですが。

○えーと、これは出来の良いデマではなくてガチ?

http://luxemburg.blog112.fc2.com/blog-entry-81.html

 なんだか他の記事内容見ると露骨に偏向バイアスかかりまくりなので眉に唾して裏取らないとなんともいえませんが……


 

6/22 Supercapitalism!

 というわけで「暴走する資本主義」の要約。まあ実は各章の最後に筆者自ら章のまとめをしてくれてるんですけどね。それを更に短くした感じ。実際は具体的な事例・数字がいっぱい出てくるので説得力がある。

「Supercapitalism」要約(かなり適当)

序章 パラドックス

○資本主義と民主主義は別のシステムだ(もちろん資本主義をやるためには民主主義のほうがいいけど)
○民主主義とは「社会全体の利益に繋がる仕組みやルールを市井の人が協力して決めていくシステム」のことだ
○1970年代以前の資本主義は今の資本主義とは大分違っていた(第一章)
○資本主義は1970年代以降変化し、企業の競争力が増大し効率化・グローバル化が進行した超資本主義になった(第二章)
○その過程で我々は「消費者」「投資家」としての力を大きく伸ばしてきたけど、「市民」として公共のルールやトレードオフを決める力をかなり奪われてる(第三章)
○つまり資本主義が超資本主義に変化していく中で、民主主義の力が弱まってしまった(第四章)
○昔に比べて政治家が極端にあくどくなってるとか、企業家達が極端に強欲になってるというわけではない。彼らの周りの環境が変わってることが大きい(第四章)
○企業に社会的責任を求めるだけでは問題は解決しない(第五章)
○「企業」という実体のない契約書の束ではなく、生身の存在である「我々自身」が主体的に物事を決めるべき。「消費者」「投資家」としての価値観だけではなく、「市民」としての価値観で社会や経済のルールを決めていかなきゃいけない(第六章)
○そのためにうつことができる手はは色々あるけど、それはみんなが思ってるものと大分違うよ。(第六章)

第一章 「黄金時代」のようなもの

○1970年代まで、アメリカは「民主的資本主義」と呼ぶべき社会だった。
○大企業が大量生産でモノを大量に売り、生産性を飛躍的に向上させた時代だった。
○同じ産業同士で陰に日向に協調したので競争は激化せず、価格を下げなくてもよくて収益が高かった。
○労働者はひとつの組合に組織されていたので、給料も福利厚生も「ひとまとめ」に決められていた。
○企業にとっても「ひとまとめ」で交渉できるのはラクだったので、労使間は結構うまくいってた。
○主要サービスの価格は政府に規制されていて、競争は激化せず、価格を下げなくても収益が上がった。
○大企業の経営者には「企業に収益をもたらす」だけではなく、社会的責任を担う「企業ステーツマン」としての役割も求められた。
○このシステムの長所は数千万の安定した雇用と福利厚生が確保されていること、利益が広範に分配されること、それが支出に回って経済が安定すること。
○中間層・中流階級が増加した結果、政治的にも安定した。この時代は「黄金時代」であるかのように思える。
○しかし、それは見せ掛けに過ぎない。このシステムには短所もたくさんあった。
○まず競争を引き起こさず効率性が犠牲にされ、イノベーションもあまり起きないこと。
○それに、このシステムは機会均等という点でも問題があった。黒人、女性、貧困層などは不平等な扱いを受けており、システムの恩恵にあずかれなかった。
○日本やヨーロッパでもアメリカとは違うものの、似たシステムの社会が実現していた。

第二章 「超資本主義」への道

○冷戦時の軍事開発は様々な新技術を生み出した。その技術が民間で使用されるようになった時、資本主義は超資本主義へと変化し始めた。
○コンテナ、貨物船、光ファイバー、人工衛星、コンピューターは物資の輸送コスト、通信コストなどを大幅に引き下げ、他業種への参入障壁を押し下げた。
○これによって各業種に新規参入企業が増え、競争が一挙に激化した。
○金融規制緩和によって、投資信託やファンドが大規模化し、企業は株主に高収益を上げるように圧力を加えられるようになった。
○「民主的資本主義」は終わりを迎え、メインプレーヤーだった大企業、労組、政府などは力を失った。
○権力は消費者と投資家が力を握る「超資本主義」の時代がやってきた。

第三章 我々の中にある二面性

○私たち個人個人はより「お買い得な品物」を求める消費者であり、よりリターンの高い投資をしようとする投資家である。
○ウォルマートのような大手スーパーは、「消費者としての我々」の欲求を統合し、巨大なパワーを持つ企業となった。
○ウォルマートは「お買い得の品物を求める私たち」をバックにして値引きを要求し、コストを圧縮する。
○ウォール街や投資ファンドは「投資家としての我々」の欲求を統合し、巨大なパワーを持つようになった。
○年金基金や株式投資で「より高いリターンを求める私たち」をバックにして、企業に高収益を上げろ、コストを削減しろと要求する。
○企業は激しい競争に加えて、こうした「消費者・投資家」の圧力を常に受けている。
○結果として企業はそれまで担っていた福利厚生・雇用・賃金などを切り詰めていくことになった。
○「市民」としての私たちは「ひとりひとりの福利厚生・雇用は大事」と思うが、「消費者・投資家」としての私達はそれと逆のことを企業にするよう圧力をかける。
○だからといってひとりひとりが「市民的価値観と相反する消費・投資から手を引く」というのは不可能だろう。
○それよりも「市民」として持っている価値観を守るための社会的ルール・規則を作っていくほうがよい。
○労働法、有価証券取引税、最低賃金保証、健康保険など様々なルール・規則があり得る。
○「消費者・投資家」としての幸せだけではなく「市民」としての幸せも実現できる社会は、こうしたルールをどう決めるかによって違ってくる。

とりあえず今日はここまで。個人的には第三章「我々の中にある二面性」の説明が、いろいろなことをくっきりはっきりさせてくれてよかった。

 

○今週のアニメ「あしたのジョー2」

権藤「なんか御用がおありだとか」
矢吹「ああ」
権藤「わざわざ私を訪ねてくだすったんだ、よっぽどのことですね」
矢吹「是非あんたにって思ってよ」
権藤「わかりましたおひきうけしましょう」
矢吹「え?俺はまだ何も……」
権藤「男がよくよくのことでやってきたとき、矢吹さん、あんた訳を聴いて引き受けたり断ったりしますかね」
矢吹「ありがとよ」

 ゴロマキ権藤、漢だ……ただ、こういう関係は「互いを「男」と認め合った者同士」でしかやっちゃいけないと思うわけで、誰彼となくやっちゃいかんわけです。

 白木のお嬢様も本当は力石や権藤のように矢吹君を愛したかったんだろうなあ。  

○ジンバブエは

 どうにかならんのでしょうか……ならんのね。

 スーダンからこのかたアフリカの「政情不安定化→暴動・虐待・虐殺」ルートが明らかに拡大している。個々の事件が解決したんだかしないんだかグダグダのまま次から次に……


 

6/21 Like a beautiful wishes

落ちて来たら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう

美しい
願いごとのように
(黒田三郎「紙風船」)

○スーパーキャピタリズム読了

 良書であります。今まで頭の中でうまく整理がつかずにいたことをライシュ先生が「バカだねえ補助線を一本引けば綺麗に理解できるじゃないか」と解説してくれる感じ。新しいファクトではなく、既にみんなが知っているファクトをいくつかの原則に基づいて綺麗に並べて説明してくれる。なんだかとってもすっきりしました。頭の中で繋がってなかった事実がうまく繋がったり、「たぶんこういうことなんだろうけど…いやいや、でもさすがにそこまでは」みたいに思ってたことが「やっぱりそうだったんだ」と分かったりと、得るところの多い本です。こういう「モノの見方」を具体的に養ってくれる本はいいなあ。

 アメリカ社会・アメリカの政治システムについての解説・分析なので日本にそのまま適用はできんのですが、著者と同じ方法で日本社会の分析も可能な感じ。やり方がちょっと違うだけ。レッシングの「腐敗」の研究と通じる部分があってとても面白い。自分用にマジメにレジュメ書く予定なので具体的内容はその時に。

 一番大事な「じゃあどうするの?」という部分が書かれている最終章がこの本のクライマックスなのだが、それが思っていた以上にラディカルで驚いた。理屈バカがここにいる!みたいな。オバマが大統領になって、この人が書いてる提言が本当に採用されるとかなりの大変化になる。でもラディカルすぎて実現するかどうか微妙。従来の民主党や民主支持層の経済思想ともかけ離れている内容であり、理解を得るのは難しい気がする。オバマ支持してる人これ読んでるのか?

 にしても誰だよ「暴走する資本主義」なんてタイトルつけたのは。どう考えてもタイトルの直訳「超資本主義」でいいじゃん(翻訳の中でもこの言葉を使ってるし)。

 さっぱり本の内容が分からない無駄な感想ですな我ながら。そのうちマジメに要約書きます。とにかくすっきりさっぱりする本であります。


 

6/19 drunk flipper

詩よ
田を作る者の歌であれ
磐石を据ゑる者の歌であれ
黙々として働き
黙々として生きる者の前に決して饒舌であるな
ひとりでいい気になってゐる酔っ払ひの座席で決してあるな
(高橋元吉)

引き続き省力更新中。分量は多くても、書いてある内容がなきに等しい。

○制度設計の話

http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080618#p1
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976

 まあ仕方ないんだけど「設計図をどういうコンセプトで引くか」の部分で延々と議論が続くので実に退屈極まりない……結局のところ東氏の「環境設計」にせよ宮台氏の「エリート主義・教養主義」にせよ具体的な図面が全然提示されてないわけで。どちらも不完全・未完成でいいから「とっかかりになる図面」を公開してくれって話です。宮台氏だったら「教養とは何か、どうやってそれを叩き込まれたエリートを育み、政治システムの中で有効活用するか」の具体的見取り図を見せてくれって話なわけ。東氏にしても「エリートの代替物となる環境システムってどんなものとしてあり得るのか」を具体的システムを見せて語るべきでね。ギートステイトみたいなお遊びやるんじゃなくて、工学のエリート達とガチで討議してよと。それをやれば自ずと彼らの主張の強度や「現時点での実現可能性・未来での実現可能性」はより露になるわけ。

 それは政治の仕事だ、自分たちはコンセプトデザインだけ「思想」だけやってればいいんだ、ということが振る舞いとして現れている時点で信頼感なくなるんですよ。「ああ、こいつら暇つぶしにグダグダ言ってるだけで本当はヨノナカなんかどうでもいいんだね」としか思われないわけ。元々我が国では「思想」が「高等遊民のお遊び」扱いで、「思想」と「政治」をつなげる回路が未発達なんだから、自分でつなげる回路を作らないと話にならんですよ。

 宮台氏のほうが「回路」を作る作業においては先行してるわけだが「エリート主義」に関しては今のところ具体的な動きは見えないし。そもそも宮台氏に関しては「ゆとり教育」政策策定の段階で、この人の理念を具体化したときのダメっぷりが思い切り証明されてるんですが。まあ一度の失敗でどうこう言うのは野暮ってものですがね。

 柄谷行人だって「NAM」とか「くじ引き制度による民主主義システムの更新」とか提案して実践運用し、見事に討ち死にを果たしてるんですよ。あれを見て「自分も同じように討ち死にするのはカッコ悪いからイヤだ」と引きこもったら負けですよ(浅田彰の限界は結局そこでしょう)。「俺はアイツと違って無様に討ち死になんかしない」あるいは「俺は討ち死にしても諦めず突撃できるけどな」と思える奴が思想家なわけで。悪いけど日本ではそこまでやって初めて「思想家」なわけです。それをやらないと、どんなにいいこと言ってても「酒場のヨタ話」にしかならんですよ。

 実践だけでもダメだし、思想だけでもダメなわけで、実践と思想の往還の中で自らのズレを常に自覚し、その中で実践と思想をたたき直し洗練させていく。それしかないんだってのは、もう昔から明らかになってるわけで。思想家が「本出すのが「実践」」とか思ってもらってちゃ困るんですよ。もっと働けと^;

 まあ他人様に「英雄豪傑たれ」と言っても詮無きことですが……

○「ニューヨーク街物語」

 ブルックリンで理科の塾をやる先生のドキュメンタリー。アメリカ版でんじろう先生みたいな感じで、軽快なトークと実験や体験学習を通じて理科の楽しさを子供たちに味わわせていく姿が素晴らしい。にしてもアメリカ人の子供のノリの良さは凄い。先生が子供たちを楽しませつつも用語の暗記をさせるところなどは海軍式の反復練習をしっかりこなさせているところとかもアメリカらしいですな。

 しかしアメリカといえども、こういう自由闊達な教育をやろうとしたら野にくだらないといけないのだなあと同時に思ったりもした。

○「CBSドキュメント」

 上記のニューヨーク街物語とカブったため一本目は途中から。グアンタナモに拘束されたかわいそうなドイツ人青年の話。基本的には映画「グアンタナモ−僕らの見た真実」と同じ内容なので、そっちを見たほうがわかりよいかと思う。アンカーのおっさんも最後に紹介してた。にしても、これを見ていて思うのは「なんで、こんな非効率なやり方をわざわざ選択するのか」ということだったりする。国防総省に合理主義者はいないのか。

 今回凄かったのは二本目。アメリカの地方都市にあるブラック・ムスリムのパン屋が陰で街を牛耳る非合法組織を展開していて、地元の人も怖くて何も言えず、警察とも仲良くしてやりたい放題だったんだよね、という小説も真っ青な話。そのパン屋を取材していたジャーナリストが殺されたことをきっかけに捜査のメスが入って…という展開なのだが、まだ完全解明はされていないみたいです。カチッとしたスーツ着て黒人青年達が冷静に店の中を荒らしまくっていく防犯カメラ映像がなかなか衝撃的だった。「俺と悪魔のブルース」じゃないんだからさ、ほんとに……

 三本目は統計データを使った新たな選手評価を編み出した人のお話。大学で経済学を学んだ後、工場労働者やりながらコツコツと自分の野球理論同人誌を自費出版していき、最終的にはメジャーリーグに認められていった立志伝がわかりやすく面白い。東大総長やってた頃のハスミ先生がアメリカでは院卒でタクシードライバーなんてのもザラにいるよーとか言ってたけど、そういう中からこの人みたいな人もでてくるんですな。

○クローズアップ現代

 女医さんが働きやすい環境を作らないと逃げられるよ、という話。厚生労働省が医者の数を増やすことに決めたのとあわせ、こういう取り組みが「やむにやまれず」という形であれ起こり始めているのは、ある意味で希望の見える話であります。  

○漢詩紀行

 NHK教育でやってる5分番組で、ここんとこ毎日録画して見てるんだが、かなりいいです。朗読の後に日本語訳と背景解説が入るので分かりやすいし、詩と縁のある場所を映像で見せてくれるし。今日は曹植だったんだけど、この人は三国志のキャラってだけじゃなく、ほんとに詩がうまかったんだなあと感心。漢字が難しいので、なかなかネット上で紹介できんが。

○スーパーキャピタリズムが

 邦題は「暴走する資本主義」だが、アマゾンで注文してたのが本日到着。値段高いからもっと分厚いかと思ってたけど意外と普通なのね。サクサク読もう。

○DUO3.0が

ようやく最後まで終わった…まだ全然覚えてきってないので、これから仕上げないといかんけど。


 

6/18 We have nothing but want to be loved

私たちなんにもないけど愛されたいもん(西原理恵子)

 引き続き省力更新中。

○異性しか残ってなけりゃ切実にもなろうさ

 要するに「なぜモテ(恋人)がそこまで問題になるのか」という話でして。西成の暴動について書かずにモテばっかり論じるのは贅沢病、みたいな批判は違う気がするという話。切実になるには切実になる理由があるわけで。

 承認論という学問ジャンルがあるかどうかしらんのですが、ざっくり言ってしまいますと人間は衣食足りた上で「親」「社会」「同性」「異性」あたりから「あんたがいてくれて嬉しいよ/あんたがいてくれないとイヤだよ」と思われたいわけです。

 非モテの問題というのは「異性」の承認の問題なわけですが、「異性」だけがなぜ斯様にクローズアップされるのかが問題なわけです。どうしても「親や社会や同性の承認は既に得られていて、異性が最後の砦だから」「異性の承認は「性」というものが絡むので他と質的に違うから」と思われがちなのですが、管理人はそれだけじゃないだろうと思います。要するに「親や社会や同性から期待していた承認が得られず、もはや「異性」しか承認の望みが残っていない」からこそ、ここまで「モテ/非モテ」が切実な問題になっているんじゃないのと。そうじゃなきゃもうちょっと余裕のある話になる。問題は、そういう余裕のない、切実な問題になってる人がある程度はいるだろうということなわけです。

 素直で見目も可愛い子供の頃ならともかくとして思春期過ぎてワガママで気難しいガキなんぞを大人が無条件に承認するわけないというリアルがあります。親だろうがそれは一緒で「敬して遠ざける」という日本伝統の排除技法は結構使われてるんじゃないですかね。てか、それしか方法ないし。かくして「親からの承認」はもう無条件に得られないと子供はある時気付くわけです。ハタから見れば「当たり前だろ」ってだけの話なんだが。

 社会からの承認のほうは、ここ10年の労働環境の激変+メディアを中心とした唾棄すべきレッテル貼り+それを無碍に飲み込み(自分だけは巻き添えを食わないとタカをくくった)人々によってハードルが高くなってしまった部分があります。「正社員」的な存在以外は全員半端モノとみなす差別意識が醸成され、多くの人は労働に従事して社会に貢献しているのに社会からの承認を受けているようには感じられなくなっている。まあ、本質的には「あなたがいてくれないと」と思われるような仕事自体が少なくなっちゃったってのが大きいのですが。

 同性からの承認、いわゆる「友達」関係については若者の生態がそこら辺イマイチよくわからんので適当なことしかいえませんが格差社会化が生じているように思われる。「友達いない」という人と「たくさんいる」という人が二極化してる。

 そういうわけで親からも社会からも同性からも満足に承認してもらえない人にとっては「異性からの承認」しかもう残ってないわけです。「親」「社会」からの承認を得られなかった人間にとっての最後の頼みの綱が「異性からの承認」なわけで、だからこそ「異性(モテ/非モテ)」は切実かつ存在論的な問題になってしまう。

 本田透の「電波男」が「母親から愛されなかった」「学歴社会への絶望」といった「告白」を前提にして書かれているってところに端的に出ていますが(あの本は、あの告白がないと切実さを確保できない)、ある者にとって「モテ」は最後の砦であり、そこで絶望するということは「誰からも承認されない」ということを意味することになるわけです。そうすると切実にもなるし、存在全てを賭けた問題にもなるでしょうと。

 なお、この問題は「男だけ」の問題ではない。元々は「男の問題」としてギャルゲで描かれたわけですが、それを高屋奈月が漫画「フルーツバスケット」で少女漫画にリファインしたところ女子が圧倒的に支持したのです。彼女たちが己を仮託したのは理不尽なシステムによって差別され、禍々しい姿ゆえに親から疎まれた美少年たちだったわけでね。

 さて、管理人的には異性とか同性とか親とか社会とかいうジャンルの問題よりも「承認−被承認」という関係が往々にして非対称(その承認が100%のものかどうか見えない部分ができる)になりがちであるということのほうが問題な気がしています。非対称性(見えない部分がある)は必ず不安を生む。したがって、非対称な関係内での「承認」は原理的に決して「満足」いくものにはなり得ない。情報開示が実質不可能だもの。

 そんなものに存在を過剰に賭けすぎちゃったら一生不安定になってしまうわけですよ。ある程度は「ナルシシズム」とか「非人間(モノ・動植物)との関係」とか「虚構」とかも活用してバランスをとればいいんじゃないの、と思うわけです。その上で「努力できる範囲で努力し、承認してもらえる範囲で承認してもらう」みたいなスタンスで生きてたほうがラクなんじゃないかと。


 

6/17 When good and good fight

本当の悲劇は善と善が戦った時に起きるのです(アンジェイ・ワイダ)

 引き続き省力更新中。

○ETV特集 アンジェイ・ワイダ祖国ポーランドを撮り続けた男

 これは再放送あったら是非見てほしい力作ドキュメンタリー。「地下水道」「灰とダイヤモンド」などの名作の陰には「検閲」と時に戦い、時にそれをすり抜けつつ自分のメッセージを伝えようとした監督の闘争があったというお話。特に感動的なのは監督が「観客は必ず俺のメッセージをわかってくれるはず」と信じて作った映像のエピソード。抑圧や闘争などないほうがいいのだが、しかしそれが人や作品をかくも強く美しくするのはなぜだろうか。

○NHKスペシャル「激流中国」

 これも、近日再放送があるはず。各地の病院が満杯という話。冒頭の映像が秀逸。救急車を降りたところで「救急車代」を請求され、治療を始める前に「治療代」を前払いさせられる、というエグい映像を撮ったスタッフはなかなかのもの。まあでも、前払いにしないせいで治療費踏み倒されるというのは、日本でも最近増えてる事態なので別に中国特殊の問題でもない気がする。

 子供の目の病気を治すために借金に借金を重ねる田舎の農家夫婦の様子を丹念に見せており、かなり涙を誘う内容ではある。そして、それに対比する形で「カネモチ専用の病棟を拡大する病院経営者」を見せるので、なんだか経営者が悪人であるかのような演出になってる。でも、実際のところはどうなのか微妙。

 というのも、市場経済化の前の中国の状況がよくわからんのですよ。「今までは田舎で受けられた医療が受けられなくなり已む無く都会に押し寄せている」という話なのか、それとも「田舎の人が今まで受けられなかった高度な治療が都会に行けば受けられることがわかった大挙して押し寄せてる」という話なのか、管理人の印象では後者な気がするんだが。だとしたら、前よりマシになってるとも言えるような気もする。

 良い出来ではあるが隠微に「非情なカネモチ、哀れな田舎の貧乏人」という見せ方をしているところがやや問題。市場経済化の「過渡期」の現象としてクールに分析してくれれば満点だったのになあとか思ったり。

○グレンラガンの新作映像

 映像はそれなりにしっかり作ってあるので見て損はないです。

ラップは漢の魂だ!

 楽曲がヌルく元ネタ(推測)を全然超えてないってことをもう少し映像の作り手側も自覚したほうがいいのではないか。このラップのどこが「漢の魂」なのでありませうか。漢はそんなに安くないでしょう。まあ元ネタを意識していたら、そもそも「騎士ととらわれの姫」なんていう設定の映像をつけないわけですが……

 などといいつつ管理人パブリック・エネミーってイマイチ声質が好きになれないというしょうもない理由でそれ程聴かないんだけどね。

○エスカフローネのサントラを久しぶりに聞いているのだが

 この頃の菅野よう子はやっぱり天才だったなあとしみじみ思う。元ネタがある楽曲でも「それがどうした!ワシのほうがエエ曲やろ!」といわんばかりの勢いと若々しさで説得されてしまうというか。いや、とにかく素晴らしい。

 


6/15 Where I can see a human?

 省力更新中

○極めて抽象的な話にしてしまうが

小学館(株)を提訴

 秋葉の事件もそうですが、不況の中で「人としての尊厳を認めるとはどういうことか」ということを再検討しなければならなくなってきてるように思います。

 リンク先の文書について言いますと、書かれている内容が事実なら編集者は確かにひどいわけです。しかし雷句氏もまた「編集者は寝ないで働くべき」という主張をなんの疑問もなく開陳している人物であることは指摘されなければならないでしょう。「それくらい仕事への情熱を持ってほしい」という比喩表現だとは思いますが、それにしてもひどい。


 

6/13 Slaver ship going ocean

 

人買舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静に漕よ船頭殿(閑吟集)

○閑吟集の時代ほど単純でもない気がするんだけど

【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式

 アマチュアの長所(大手メディアではなかなか書けない内容を生々しく書いている)と短所(無駄な情緒や感傷や主張がファクトを記述する筆者への信頼性を押し下げている)がはっきりと出ている文章なので長所だけを抽出して読むことをお勧めしたい。「報道と現場で働いてる人の声にズレがあること」と「工場で働く派遣社員の実状」を筆者の予断を排除し、淡々と書いたほうが遥かに説得力のある内容になったと思うが、新聞記事ではないのだから仕方ない。事件の「背景」のひとつとして参考になる「ファクト」が載っているという点では貴重な記事(たとえば下の管理人の個人的な感想などより、ずっと社会的意義がある記事である)。

 個人的には「ネットという仮想空間の中ですら人と繋がることができなかった男」という所にこの事件のアクチュアリティがあるように思う。無限に開かれているが如くに見える(見えるだけなんだけど)「繋がる可能性」を目の前にして孤独を感じなければいけないコミュニケーション格差感覚。「ネットでも孤独」というのは、「繋がる可能性」が現実よりも可視化されている分、格差感が強いのではないか。

○ドイツ負けた

EURO2008公式

 クロアチアは油断ならん。油断ならんけど優勝するという雰囲気もない^;

○アメリカ様は飽くまで強気です

強いドル政策への転換ーインフレ対策への政策変更

 正直「そんな余裕があるのか?」とちょっと心配になったりもするのだが。

米国の行く手に第2、第3の金融危機

 不況というのは一度経験しておくと、別のものを見ても「ああ、同じことが起きてるなあ」と冷静に眺められるんですなあ。


  

6/10 We don't know the bright morning

夢の階段をおりてもおれたちは疲れる、
朝の明るい薔薇色の指をおれたちは知らない、
とるに足りない不満の拡大鏡で見て、
正義と復讐を混同する。(中桐雅夫)

○モラルハザード

秋葉原の事件とモラルハザード

 モラルハザードが起こるのは「モラルを守らないほうが得をするルール設定」があるからでして、そういうルール設定は不合理だから改定すればいいだけの話であります。ところが我が国では「ルールの改定」がとんでもなく難しいのが現実であり、それがますます「モラルを守らない」ことを助長するという悪循環が生じているように思われます。

○ルールの設定が難しいのは

アリバイではなく商売を

>>インサイダー取引規制にしても、強制TOB規制にしても、J-SOX
>>にしても、金融商品販売にしても、すでにルールがあまりにも複
>>雑になりすぎて、誰もルールに抵触しない「ストーリー」を描け
>>ない状態に陥っております。
>>ではルールをシンプルにすればいいかというと、「万が一シン
>>プルにしたところで悪いことをするやつが現れたらどうする?」
>>と考えると、立法に関わる担当者の方も、作業が膨大でもあり、
>>やる気が出るはずもないかと思います。

 金融関係の話ではありますが、ここに見られる「ルール設定が難しい」原因は金融に限ったことではなく、日本のあらゆる分野に当てはまるように思います。

自主規制をどうワークさせるか

 これまた分野が飛ぶのですが。「ルールをシンプルにしても悪いやつがあらわれない」という信頼感のある空間を作ることが大切なわけです。でも、それが現実問題極めて難しいのが我が国の実情でありましょう。池田氏も「これはもう民度の問題」と匙を投げ気味。

○そんなこんなでリセッション

グラフで見る景気予報

日本の主要景気指標が全て悪化−約7年振りの景気後退局面

○石油価格

Recoil

 毎度おなじみ、エコノミスト誌翻訳記事。「痛みは伴うが、今回の石油ショックは最終的に大きな変化を促すだろう。だが、生贄にご用心」という副題にあらわれているように「投機資金を悪者扱いするのは筋違いだよ」という話。石油依存社会からの脱却が進むという側面はたしかにあるだろうが、その調整機関中に生きなければならない我々はどうすりゃいいのよという話です。

○食料価格

中国の成長と変化が、日本に5年間の物価上昇をもたらす

>>経済が低迷し金の無くなった日本は、世界の食料を手にいれる
>>ことが難しくなった。人口が多い国が成長を続ける今後の5年間
>>は、世界的に食糧が不足し、市況(価格)が高騰、自給率の低い
>>日本はその影響をもろに受けることになる。
>> >>今後も5年は食料品の値上がりは続くことが懸念される。小麦は
>>14%、大豆はたった3%の自給率でしかない日本において、打撃
>>は避けられない。日本の人口は世界の1%だが、世界の食糧の20%
>>を吸収していた。中国は世界の人口の10%を占めているが、まだ
>>世界の食糧の2%しか消費していない。経済大国日本は、これまで
>>が恵まれすぎていたのかもしれない。

 ごもっとも。

○それでも増税なのです

“基礎年金の財源=消費税18%”の欺瞞

 正直、食料品・日用品(できれば本と漫画も)を外してくれれば消費税増税は多少は止む無しと思ってるのですが18%とはなんとも……

○それでもスーパーキャピタリズムなのです

暴走する資本主義

 なんとなく「今後5〜10年を考える上で必要な本」な気はしてるんだけど2100円は高いなあ…でも買うかなあ。

○というわけで

Imaginary Folklore

 でも聞いてホッとしましょう。何度聞いてもいいですなあ。

○「私のお嬢様」1巻が7&Yに入荷したぞ!

商品ページはこちら。

 今しがたメールで入荷連絡が入りまして早速注文。アマゾンとか古本4000円とかバカな値段で売ってましたが増刷かかったのかな。皆様もなくならないうちに是非ゲットしてくださいまし。「なんちゃってヴィクトリアン四コマ漫画」という特殊ジャンルを開発した樹るう先生の確かな仕事を堪能すべし。キャラも可愛いし、きちんとギャグも入れるし、まったりと楽しめる良作であります。


 

6/7 calm

 引き続き省力更新中。

○まあ聞きねぇ

nomak Anger Of The Earth

 今頃かよ、と言われそうですがnomakの「calm」が素晴らしい。shing02のコラボや音の類似性からnujabesとどうしても比較されてしまうのはいたしかたないところだろうが、個人的にはnujabesとはやはり違う。分かりづらい喩えになるが、nujabesが坂本龍一ならnomakは久石譲、といった感じか。nomakはnujabesよりさらに日本土着的といいましょうか。まあ、悪く言うと日本的「垢抜けなさ」を未だ抱えている。アニソンっぽい、と言ってしまうと怒られるだろうか(でも「垢抜けなさ」を抱えているのがアニソンのよさなわけで、けなしたくて言ってるわけではない)。nujabesの魅力は「普遍的であろうとしながら和の香りが自然と漂ってくる感じ」で、nomakの魅力は「自分らしくあろうとして和の香りを明確に選択ている感じ」とでもいいますか。うーん、ちょっと違うな。そこら辺の違いの捉え方でこの人の評価の高低が変わってくるかなあとは思った。どちらが優れているということではなく、それが作家の特性ということね。音作りの技術や能力については管理人素人だからよくわからんので、パッと聞いた印象論ですよ。

 ほら、坂本龍一の「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」と久石譲の「風の通り道(トトロの曲ね)」を聞き比べれば「久石はいいけどちょっと田舎臭いなあ、あ、でもそれがいいんだけど」と思わないですか(管理人だけですかそうですか)。でも別に「田舎臭い」から久石がダメかといえば、そんなことはないわけですよ。坂本のほうが「バタ臭い」って言う人だっているかもしれないし。

 まあ、でもそんなこと抜きにリンク先の「Anger OF The Earth」は傑作です。今後にも期待したい方ですな。


 

6/5 suspended

 色々あって更新遅滞中。

○「おもいでエマノン」がついに単行本に!

 コミックリュウ創刊はこの日のために!ありがとう徳間!そして頑張った鶴田謙二に感謝!なにせ五年ぶりのコミックですよ!

○EUROも7日から始まってしまいます

 しかも今回はTBSが結構しっかりと中継してくれると言うじゃありませんか!どうしてくれよう!

○いろいろ進め中

 とりあえず次回の「キネマ」第一稿を上げて作画の十子氏に見せているところ。今月はあと昔書いたものの手直しと、新しいものをひとつ書ければ。あと中旬くらいに、漫画新作をworkshopにて1本公開する予定。

 


 

6/3 Trick me tender

だまして下さい言葉やさしく
よろこばせて下さいあたたかい声で。
世慣れぬわたしの心いれをも
受けて下さい、ほめて下さい。
あああなたには誰よりもわたしが要ると
感謝のほほえみでだまして下さい(永瀬清子)

○漫画「パーマネント野ばら」(西原理恵子)

 今頃読む。男も基本的に寂しいイキモノなのだが、女性も同じくらい寂しいイキモノなのだなあということがしみじみ分かった。

 ラストの「主人公の恋人」に関するオチがかなり早い段階で読めてしまったため、ただでさえ哀しい話が更に哀しく読むのがしんどい。素晴らしかったのは主人公の親友が最後に主人公にかける言葉。この言葉がないと、ほんとに救いがない話になってしまうのだが、この親友の言葉のおかげで主人公の業が昇華され、作品が読者へ、そして世界へと開かれていく。見事という他ない。

 ひたすら暗く寂しい作品なのだが暗さを中和する「笑い」や「おおらかな視点」や「感傷」が丁寧に挿入されているおかげで、なんとか読み進めることができるつくりになっている。暗いものを単に暗く書くだけではなく、きちんと「読ませる」工夫が施されている。プロの仕事であり、この作家の客に対する誠実さを感じさせる仕事です。拍手。

○利下げカードは切られぬまま

インフレの再燃 Inflation's back

 毎度おなじみエコノミスト誌の世界経済話。インフレは怖いよ、利下げ利下げでジャブジャブやってばっかだと本格的にインフレになっちゃうから、頃合を見計らって利上げしてかないとヤバイよ、という話。このまま利下げしないで諸外国が利上げモードになったら追従、みたいな流れになるのでしょうか。それで大丈夫ならいいんですが。まあ利下げ利下げと言ってみたところで大して下げる余地も残ってないのですが。

○5割増ってアンタ

食糧生産、2030年までに5割増が必要と 国連事務総長

 簡単に言ってくれますな。それはともかく喫緊の対策についての提言はいたってマトモ。

>>そのためにも、食糧高騰のきっかけになる要因の排除が必要だと主張。
>>輸出制限や輸入関税を抑え、小規模農家の支援や、農業への投資を引
>>き上げることが重要だとしている。
>>
>>米国などが推し進めるバイオ燃料の政策についてもけん制し、バイオ
>>燃料に対する補助金の見直しを迫っている。

 バイオ燃料をやめさせたら食料問題解決するのか、というとそれも微妙な話でしてアメリカ様からすれば「不合理な言いがかりはやめてくれたまえ、これだから算数のできない人はイヤなんだ」みたいなところはあるのだろう。しかし、飢えている8億人の人にとって「アメリカ様はトウモロコシを食わないで燃やしてるんだよ〜」という事実は感情的に許しがたいものがある気がするわけです。食い物の恨みは怖いですし、なかなか忘れてもらえませんよ。「アメリカを感情的に許せない」と思う人をこれ以上世界各地で養成するのが得策かどうか、という考え方をしてもいい気がする。

 福田総理が今日の記者会見で「バイオ燃料2.0の開発が必要」と言ってたけど、食い物にならないものでバイオ燃料になるものを探したほうが穏当でしょうね。

○転んでもタダでは起きないわよ作戦

クリントン氏がメッセージ発表へ 副大統領候補受諾か

 今頃になってヒラリーが「副大統領のオファーがあれば受けてやってもいいわよ」みたいなことを言い出す。ひょっとして今まで撤退せずにゴネまくって党内対立を煽っていたのは「私を副大統領にしないと党内がまとまらなくなるわよ!」とオバマを脅すためだったのでしょうか。

 オバマにしてみると「ヒラリーはいらないけどダンナの応援には未練がある」といったところかな。オバマとヒラリーを支えるスタッフって基本的にどっちも「旧クリントン政権のメンバー」なんだから、一緒になろうと思えばなれそうだし。

 「昨日の敵は今日の友」という「少年ジャンプ」の王道展開を効果的な演出で見せることができれば、アメリカ国民は燃えるだろうね。以前も書いたとおり、広報屋の腕の見せ所です。ただヒラリー先生の性悪キャラが完全に定着しちゃったからねえ。ダースベイダーが最後の最後で改心する時くらいの分かりやすいドラマを作らなきゃいかんわけで、相当難しいだろね。

 ところで今、野口旭先生の国際経済の本を読んでいるのだが、クリントン政権時代の経済スタッフ(日本叩き大好き)どものタチの悪さは想像以上だったんですなぁ……まあ民主党は伝統的に保護主義政策好きなわけですが、そういうレベルではなく日本に理不尽なこと言ってたわけね。

 というわけでオバマが勝ち、日本は更なる受難の時代を迎えることになりそうな予感であります。体力ヘロヘロな我が国に理不尽な要求をすればどうなるか分からないほどバカじゃないとは思うのですが。


 

6/1 Where I can see beautiful people

どこかに美しい人と人の力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる(茨木のりこ)

○漢気

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6a250f427f466cbda2e39990c7286cf0

 久々に漢の迸るソウルに触れた。池田氏の要約で文面が直裁になっているからということもあるのだろうが、とにかく熱い、熱すぎるぜ中山先生。第一次世界大戦の戦後処理会議におけるケインズ、あるいは「Ballot or Bullet」の演説をしたときのマルコムX、はたまた出師ノ表を書いた時の諸葛孔明。これらと同じ熱い漢の魂が文面から漂ってくる。

 およそ虚構を作るもの全ては中山氏のソウルに匹敵する強度のある何かを作れるかどうか自らに問わなければなりますまい。居ずまいをビシッとただされました。


 

5/31 Let's go far away my freinds

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによつて
きみはぼくらによつて ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ
(吉本隆明)

○小説「とある飛空士への追憶」

 ガガガ文庫は、この一冊を出しただけでも十分にラノベにおける歴史的役割を果たしましたご苦労様でした(おい)。「イリヤの空UFOの夏」に代わる新たなるマスターピースがここに誕生したことを素直に祝いたい。傑作です。

 願わくば宮崎駿が「紅の豚」的スノビッシュなロマンチシズムを反省して「もう一度戦闘機アニメを作らないと死んでも死にきれねぇ!」と一念発起し、この作品をアニメ化して日本版「ローマの休日」として人類の遺産にしていただきたいところですが、現実にはゴンゾとかが持っていってフジと組んで微妙な映画にしてくれそうで嫌ですな。まあでもこの際どこでもいいから映像にしようよ。「スカイ・クロラ」が今年はあるから、そのほとぼりが醒めたあたりにぜひとも。

 といいながら実は非常に読んでいて困った作品なのである。どこが困ったかというと、あまりに古色蒼然とした設定なのに、それが思い切り「今」を描いてるところにあります。普通に考えたら「被差別民の傭兵と深窓のプリンセスの恋って何十年前の設定?」と思うわけです。少なくとも10年前にこの設定を真面目にやれたかどうか。

 しかし、そう思いながらも管理人は正直この作品を読んでいてぜんぜん「古色蒼然」とした印象は受けなかったわけですよ。むしろこれは明らかに「今」を射程に置いてるなと思わざるを得なかった。端的に言ってしまえば主人公はオタクのフリーターであり、お姫様は今の日本の子供たちなわけです。

 こんなにも古典的な設定・構図の作品に「今」を感じてしまうのはなんなんだろうと、管理人は正直読んでいて困ってしまったわけですよ。いや、もちろん現代日本がネオ階級社会に入り始めているだとか、フリーターを「半人前」として見るのはタダの人種差別でしかないんだけどわかってないみたいねとか、子供の「管理」が昔よりも遥かに進んでしまってることがどれだけ子供から気力を奪ってるかわかってるのかねとか、そういう時代の変化はわかってたつもりなんだけど、この小説を読んで「え?こんな古色蒼然とした時代に俺達戻っちゃってるの?」と愕然とさせられたといいますか。

 でも、愕然としたところで現実にはそういうことになってるってことなんでしょう。もはや「貧乏」がネタになる時代は過ぎ、ガチの「貧乏」と「人種差別」に戦いを挑まなければならない時代が始まっているということではないでしょうか。「イリヤの空」のように周りに守られて女の子に戦いを任せている余裕もなくなったオタクは、二次元美少女というイコンを守るために自ら「戦うオトコノコ」とならなければならなくなったということでありましょう。

 あと「全てが予定調和」という批判はありえるでしょう。しかし、管理人は「完成度が高く不純物のない予定調和は批判されるべきではない」と思ってます。むしろ、この「完全な予定調和性」は芸術的でしょう。先ほども挙げたようにこの作品は「ローマの休日」と同水準にある作品といえます。黄金期のハリウッドプロデューサーがこのラノベを読んだら速攻で映画化して、今頃世界的名画になっていたことでしょう。それくらい水準が高い「予定調和」なのですから、文句を言うのは筋違いのように思います。

 ついでに言うと、この作品と「びんちょうタン」及び「群青学舎」3巻のお姫様の話を並べると、作家たちが「今」という時代の閉塞感をどのように描いているかが良く分かると思いますのであわせて是非。


 

5/29 Grown up in the Wastelands

ああわたしはあまりにも荒地にそだちました。(永瀬清子)

○それはどうなの桜庭センセイ

 「荒野の恋」は元々ラノベですよ。お手軽価格で若い子からオッサンまで気軽に楽しめる文庫シリーズでしょうに。それがどうして1700円の文芸書に変身してしまうわけ?もう第一部と第二部金払って読んでるのに、第一部第二部入りで1700円の本買わないと第三部読めませんって何その抱き合わせ商売。出版社のご都合だとか作家としての格だとか直木賞第一作だとか色々要因はあるとは思いますし、作家ご自身がどうこうできるものでもないんだとは思いますよ。でもさ「ファミ通文庫版3巻」と「ハードカバー版」の2種類出すくらいはできなかったのと。それくらいするのがラノベ版買ってた客に対する仁義の切り方ってものでないのとか個人的には思うわけですが貧乏人の遠吠えですかそうですか。

 そのうちゴシックもハードカバーで出るようになるのですか?武田日向の絵ページとかが豪華になったりしたらちょっと嬉しい気もするが……いや、そうじゃなくて。

○今週のCBSドキュメント

 マケインの特集&インタビュー。手際よく彼の人柄と基本主張がわかってよかった。経済政策で具体的なことがほとんど出てこなかったのはどうなのかという気がしたけど。キャラ的には「不器用な小泉総理」みたいな感じでしょうか。党内で非主流派・一匹狼だったのが、党の危機に一挙にトップに出てくるという感じが小泉総理に似てる。

 あとはバイエル製薬の薬害話と、ヤフーの株買収に乗り出したアメリカ人の有名投資家のインタビュー。どちらも編集がシッカリしててテンポ良くて見やすいよなあ。

○クローズアップ現代

 水曜日はアフリカの自立支援はいかにあるべきかという話。前半は資源輸出で高成長が続いているものの格差が深刻な問題になってるアフリカ諸国の現状を軽くレポート。後半は政府を通さずに、直接地域や人々の自立を目指す動きが出てきているよ、という話。kivaなどのマイクロファイナンスや、作物の買い入れまで含めた農場支援など具体事例が出てきたのは良かったかな。

 木曜日は国産ジェット機開発の話。夢のある話なのでうまくいくといいですが、競争が厳しい世界ですからねえ。無駄金にならないことを祈ります。


5/27 the shining star only for me

真砂ナス数ナキ星ノ其中に吾ニ向カヒテ光ル星アリ(正岡子規)

○漫画 樹るう 「私のお嬢様2」

 萌え4コマの快作。1巻がどこにもないのが困り者。

○漫画 杉山小弥花「当世白波気質2 美少女は悪党の愉しみ」

 1巻で若干感じた線の細さがなくなり安定した密度の濃いエピソードを連発。新奇さはないもののシナリオの平均水準の高さが凄い。掲載誌が媒体的に弱いのかもしれないが、もっと売れて然るべき作品のように思います。それだけ良い仕事してる。

○Nスペ「北極大変動」

 第1部は「北極の氷が溶けてます」という話は分かったが、「溶けたら何がヤバイのか」がイマイチ伝わってこない。「シロクマさんが大変だ」だけでは説得力ない気がする。もう少し、そこら辺突っ込んでほしいところ。第2部は北海油田開発に燃えるロシアの様子が分かってなかなか興味深かった。

○クローズアップ現代

 世界で深刻化している水不足の話を二日連続で取り扱っていた。海水の淡水化が「逆浸透圧」という技術によってかなりコストダウンしてるというのは興味深い。インフラ建設のための初期投資と、電力確保ができれば水問題は十分に解決可能ということだろう。

○というのも

 電力・エネルギーに関しては石油価格高騰の中で新たな動きが確実に起きていまして。

原発ルネッサンス−世界的な原子力発電所建設ラッシュ

 原発の安全性は大いに心配されるところですが、チェルノブイリにせよ日本の原発事故にせよ、結局のところ「管理する人間の問題」「システム・技術を作る人間の世界観/人間観」の問題こそが根本にあるわけであり、原子力技術そのものが「良く分からない技術」というわけではない。

 今回の建設ラッシュはによって、人間は改めて「核」という化け物を扱う具体的なテクニックを編み出す作業をおこなうことになるわけです。人間がタダのバカか、ちったぁ反省して慎重にことを運べる生き物かがはっきりするわけです。タダのバカだと思わせる事例が多々あるので反対する人の言うこともわからなくはありません。しかしアクセルは既に踏まれてしまっているのも事実であります。もう少し安全な方法があればいいのですが。

 ただ核エネルギーについては希望の見えるニュース(ぬか喜びになる可能性もありますが)が入ってきています。

常温核融合の実証実験が成功

追記:やっぱりぬか喜びっぽいってことで^;

○機動武闘伝Gガンダム

 第2話。Vガンから引き続き桶谷顕氏が参加してるのね。第一話もそうだが「設定・場所の説明」「登場キャラの説明」「バトルシーン」だけでかなりキツキツなのに、そこに「アメリカンドリームの人間ドラマ」をさらに入れてくる。30分でやるには情報量・ドラマの密度が濃すぎるかな。やや問題に感じる。

 にしても作画スタッフ・演出家などを見てると、その後のサンライズ作品の屋台骨を支える人たちがみんな集まってる感じ。かなり気合の入った企画だったんだなあと感心。贅沢なアニメだったのね、Gガンって。

○今週の「コードギアスR2」

 なんか子供の屁理屈みたいなヒッカケネタで、あまり感心できなかった。別にネタとしてはあっていいネタだと思うわけですが、単なる「屁理屈」に終わらない「リアルな計画性」が背後にあるんだよってところをもう少し見せてほしかったなあ。

 それよりもなんなの来週のショボそうな特番は。深夜行きという噂も聞きますし。いい仕事してるのに受難が続きますなあ、この番組は。

○今週のマクロスF

 こういう回こそキャラの作画を通常の2倍萌えるものにしてくれると嬉しかったりするわけですが、まあそうもいかんでしょうなあ。

○食費上昇中

 国際的な経済情勢が「食料品・ガソリンの値上げ」という身近な問題に直結してくるというのは、よく考えるとなかなかレアなケースかもしれない。日本では買い物の仕方次第でまだまだ食費は押さえ込める(ガソリン価格は車の使用頻度を下げる必要がある)のだが、そもそも食料を援助などに頼っている部類の国にとっては既に現状は死活問題になっている。

 なぜ食料価格が上がるのか、という点についてはいくつか分析がされている。「サブプライム問題発生」「大規模農業国での不作」「各国の輸出入規制」「需要増」など悪者探しがされていますが、要するにこれらが合わせ技ってことでしょ。「サブプラ問題で行き場を失っていた投機資金が商品取引市場に流れ込み価格上昇→元々不作&需要増な状況下でヤバイと感じた農産国が性急な国内食料保護政策を発動(輸出入を抑制)→適正な需給バランスを維持する上で保護政策は邪魔になる場合が多い→結果さらに各地で不足感が増幅され価格上昇→調子に乗った投機資金がさらに商品市場に流れ込み価格上昇(今ここ)」といった感じではないのかと。

 でまあ個々のプレーヤーの理屈は分からなくはないのだが、理屈と関係なくどうしてもムカっ腹が立ってしまうのが投機資金ということになってしまうのは人情ではないかと思う。

「コモディティ(商品)バブル」の可能性を検証する

 エンロンのドキュメンタリーなぞを見ているとよく分かるのですが、トレーダーという人種が行き着く先は「価格を上昇させる方法=良い方法」という考え方です。たとえ実態のないバブルだろうが、誰かがその結果実際に飢えようが「価格を上昇させて」くれることに比べれば些事でしかない。彼らからすれば「俺達を止めたければルールを設定しろ、そしたらルールの中でやるから」ということなのですが、管理人には「ガキの理屈」としか思えません。

 この種のあまり賢くない連鎖が延々と続くのだとすると嫌気が差すが、強欲をエンジンとしてこれにギアを噛ませて拡大する経済メカニズムに対して、「ほどほど」を求めることは難しいことのようだ。

 無論、トレーダーの背後には大量の資金を送り込んでいる人たち(カネモチだけではなく企業年金の基金を毎月納めている世界中の一般人など)がいるわけで、トレーダーだけを悪人にするわけにはいかないのですが。どうしても「仁義にもとる奴ら」という言葉を使いたくなってしまう話であります。

「食糧高騰に苦しむ途上国」を見殺しにする強者の論理

 こちらは、上の記事に比べると若干マユに唾して読まなきゃいけないところがありますが「ネオ・マルサス」論者が「僕らは環境や人類の未来のことを気にしてるんだよね」という悩ましげなツラをしつつ実は「何もするな」とホンネでは思っているんじゃねえの、というツッコミは的確ですし、マルサス自身の「仁義にもとる」部分というのを指摘してるのは興味深い。管理人は好き嫌いで言えばマルサスは嫌いであり、嫌いな奴の悪口を聞くのは気持ちがいいわけです(レベル低いなあ^;)

 もうお分かりだろうか。「何もするな」と唱えたマルサスは、ハイエク、フリードマンらに先立つ市場万能主義(新古典派、保守派など呼び方はいろいろあるが)経済学の源流なのである。同時に、当時のイギリスの地主、支配者層に与した強者の論理を展開したのである。

 そのマルサスが今、亡霊のように甦りつつある。私は先ほど、世界的食糧危機には地球温暖化問題が絡んでいて、その背後には途上国の発展による人口急増問題がある、と書いた。これは、現代のネオ・マルサス主義者が真っ先に口にすることなのである。

 彼らは内心、「何もするな」と考えている。途上国がどんなに飢えようが混乱しようが支援に消極的、あるいは援助は打ち切るべきだとさえ言う。そんな非人間的な主張が、まかり通ることがありえるのかと思われるだろうか。

 ただマルサスが気に入らないからってついでにハイエク、フリードマンも並べて斬首、というのはかなりアレな気がします。先進国の「不道徳」は「何もするな」どころの話ではなく、「率先して農業保護政策をしまくり」、結果として価格上昇の追い風になっているところでしょう。政治の都合で保護をかけまくって本来もっとうまく回るはずの市場を歪め、それを無視してマルサスを使って「強者の論理」を正当化して「需要増(貧乏人どもが贅沢を言い出したからこうなった)」とか言ってるわけで、やはり「仁義にもとる」としか言いようがない。

日本の備蓄米放出の話

 ここら辺を見ると、いかにアメリカ人が「お前が言うな」なことを平気でカマす連中かというのがよくわかるわけです。無論、日本はそれに輪をかけて凄いので「何も言えない」んですが。

 しかしアメリカ様やら我が国やらがある種「仁義にもとる」選択をしていることによって食費上昇で飢えることもなく毎日飯がいただけてるというのもまた現実の一片であります。そういうことを思うと、どうしても宮沢賢治の「なめとこ山の熊」とかを思い出すわけです。我々はやはりなんらかの「非対称」の関係によって豊かさを獲得し、腹いっぱい食べさせてもらっているのではないか。そして、それを「仁義にもとる」と思ってしまうのは普通のことなのではないか。ナイーブですかそうですか。


5/23 Poetry giving opportunity

私の詩は
一つの着手であればいい(三好達治)

○BSドキュメンタリー「心の叫びを歌に」

 南アフリカの黒人地区で合唱団をやっている若者達のドキュメンタリー。ナレーションなしの編集で、最低限の説明は字幕でするだけという淡々とした作りが効果的。仕事もなく、エイズ・暴力の蔓延で毎週末は葬式、という状況下で「歌」を支えに生きる人たちの姿が映し出される。合唱団の団員達のそれぞれの境遇を少し見せるだけで、いかに南アフリカの貧困とエイズの蔓延が絶望的な状況にあるかが分かってしまうつくりになっている。その中で「歌でこの地区を変えていきたい」と夢見る男女の姿に「文化」って凄い力があるんだと改めて思い知らされる。合唱団のコンサートシーンを時間をかけてじっくり見せた点も拍手したい。彼らの力強い声そのものが強い思いを率直に伝えてくる。

 感心したのは合唱団のメンバーの女性と母親の間の意見の相違を見せるところ。徹頭徹尾ペシミストで「歌では何も変わらない」と思っている母親と「歌っているときだけが幸せだ、歌で何かが変わる」と思うメンバーの娘。二人の人生観の違いは平行線を辿ったままドキュメンタリーが終わる。そっちのほうがリアリティがあるなあと。

○DAISHI DANCE「the P.I.A.N.Oset」が素晴らしすぎる件について

 東京ラグジュアリーラウンジ(どうもこの手のアルバムは名前が長ったらしくっていかん)で名前があった人だったような気がしたので試しに借りてきたんだけど、これが1曲目から素晴らしいのですよ。爽やかで明るく、それでいて適度にメロウで侘び寂び入ってるところが実に日本的で馴染み易い好アルバムであります。この手のアルバムってどうしてもノリのよさと爽やかさ狙って能天気になりすぎて管理人などは「勝手に幸せにやっててください、あっしは御免です」と思うものが多いのですが、この人は儚さや切なさをしっかり混ぜ込んできて曲が良い意味で緊張感を失わずにダレずに聞ける。ピアノが前面に出たり後景に回ったりと自在に使われていて色々な方法で耳をくすぐってくるところとかも実に好みであります。
 FreeTempoといいこの人といい、このジャンルの水準の高さ、充実ぶりは素晴らしいですなあ。といいつつ、どうもアタリクジなかなか引けないジャンルでもあるんですが。とりあえず、この人とFreeTempoは自信を持ってお勧めできる。

○放送大学メモ「中世の仏と神」

寺家(天台・真言)・武家・公家 の顕密体制→権門体制→崩壊

寺家の役割 鎮護国家・玉体安穏 年中行事に組み入れられていく仏事
天台・真言宗から浄土宗・浄土真宗・日蓮宗へ

一向宗
「易行」法然の教え、易しい仏教(寺を建てたり修行をしなきゃいけないなんてことはないよ、という教え→究極的には「念仏唱えれば救われる」になっていく)
     武力を持ち、武家に近くなっていく

禅宗 − 鎌倉時代に武家の仏教になっていく・僧兵はいない、政治に関与しない

江戸時代には、もう武力を持たなくなってしまう、統治しない宗派に

中世における神

八幡様

武門の神(朝廷の前線基地に立つ神)
東大寺の大仏の仏事に八幡が手を貸す(東大寺には八幡様の神社がある)

岩清水八幡宮

京都を守る位置・八幡様が「京都を守る」存在になる
朝廷の中で第二の権威を持つ神に

神と仏が合体する

「仏が神の姿を持って現れる」と考えるように(例:八幡=阿弥陀如来)

○放送大学メモ その2

国際政治 − 外交政策はなぜ誤るのか

外交政策の決定のプロセス

なぜ対抗的・対立的な政策がとられるのか?
もっと仲良くすればいいのに、なぜ対立してしまうのか?

どういうときに対立を選ぶのか? ・友好時の利得のほうが対立時の損失よりも大きい → 協調

・ゼロサム状況(領土) 共通利益の不在 → 対立
・ノンゼロサム状況 共通利益の存在(両方が得する)→ 協調

各国の目標によって「何が得になるのか」が違ってくる

前よりも利得が増えた →絶対利得
相手よりも利得が増えた→相対利得

相対利得を目標にする時にはゼロサム状況になってしまう

例:軍事力の増強
二つの国がどんなに軍事力を増やしても「相手よりも大きいかどうか」が問題になった場合は、 単に増やしただけでは意味がない。ゼロサム状況。

国際関係では「相対利得」を追求する場合が多いため対立状況が生じやすい

スピノザ
自然状態→国家状態
国家間は自然状態である(対立関係になりやすい)

例:A国・B国には目立った対立は無い、しかし対立の可能性もある

A国の指導者 − 万一Bと対立した時の被害が怖い → 軍備増強しよう
B国の指導者 − Aが増強した、やっぱり奴らは敵国だ → 軍備増強しよう

この「万一の時」を考えるのを「最悪事態原理」という
国際関係では「最悪事態原理」に基づいて動く、それが対立を呼ぶ。

「最悪事態原理」のせいで「安全保障のジレンマ」が生じてしまう。
もともと対立が無かった国でも対立してしまう
最悪事態原理を考えて軍備増強すると、対立が生じてしまう。でもだからといって軍備増強しないと最悪事態に備えられない。

自己充足予言(自分達の予想した最悪事態の故に行動し、その結果本当に最悪事態が生じるようになってしまう)

国際関係においては「軍事的安全」が国家にとっては大切なため「最悪事態原理」をついつい採用してしまう。

対外政策の決定

・国内における政策決定の仕組
・国家間の交渉による対外政策の決定の仕組

危機管理においては、国家間交渉よりも「国内における政策決定」が優先される。

アリソンの政策決定モデル

・合理的決定
我々はこれが普通だと思っているが、現実の政策では、そんなに合理的に決定はされていない
・組織過程
役所が政策を決定している。役所の利害感心バイアスがかかる
情報が中立的に集められず既得権益に基づくものになる
・官僚政治モデル
官庁間・政治家家の相互関係・取引によって政策が決定される

認識の限界

本来は「目の前にあるものを見て、考える」
しかし実際は「目の前にあるものを見て、先入観に基づいてみる」

ロバート・ジャーヴィス
認知枠組み・先入観念→適合しない情報を遮断→非合理的な決定

アーネスト・メイ「歴史的教訓」

政治家は目の前の事例を過去の事例に当てはめてしまい、それゆえに失敗する

例1:ミュンヘン会談
チェンバレンは第一次大戦の教訓(避けられる戦争だったという反省)を学んだがために、ナチスとの交渉を選択してしまった

例2:ミュンヘン会談の教訓−強硬な国家と交渉しちゃいけない
この教訓が「ソ連」に対する政策に影響をもたらしてしまう
ナチスとスターリン支配のソ連を一緒だと考える→対立関係・冷戦のきっかけへ
でもスターリンのソ連は領土の拡張を目指していなかった
それなのに連合国側はミュンヘンの教訓のせいで必要以上に厳しい対策を打った

政策決定は「時間をかけられるもの・交渉を繰り返せるもの」もある(貿易など)

2レベルゲーム

国内政治における交渉解 → 国内で合意・納得できるもの
国際政治における交渉解 → 外交交渉の中で合意・納得できるもの

この2つのレベルのゲームが合致しないと物事が進まない
2つのレベルをどう調整すればよいか?
「国際交渉が決裂したら損をする」という考え方が高まれば国内の交渉も決着点を見出すことができる

しかし安全保障・危機管理では、それは難しい、対立的になるほうが多い


5/22 Morning like a spreading jewelry

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日(西脇順三郎)

 朝から天気がいいと気持ちがいいですなってことです。

○小説「銃姫」9巻

 今頃出版されているのに気付いて読了。7〜8巻あたりでじわりじわりと構築してきたものがこの巻で大爆発。素晴らしい。この人ほど「確かな仕事ぶり」という言葉が似合うラノベ作家はなかなかおらんです。

○小説「狼と香辛料」6巻

 6巻だったかな…新刊ではなくそのひとつ前の中篇集成を今頃。最早完全にキャラ物。ホロが風邪ひいた話がよろしい。経済ネタないけど無問題。

○今週の「CBSドキュメント」

 アメリカ軍が「遠距離から微弱なマイクロウェーブを人間に当てて痛みを生じさせる非殺傷兵器を開発」してるって話。浴びると体中がしびれて痛くなってその場から逃げださざるを得なくなるらしい。デモや暴動の鎮圧などで効果を発揮するらしいので、どっちかというと「放水車の最新アップグレードバージョン」みたいなものか。米軍内ではまだ「使える」と思われていないので、あまり予算がついてないらしいけど、使い始めたら一気に普及しそうな感じ。

○不景気であります

日本を襲う官製不況の嵐(1)

 概ね納得できる話であります。ただ、問題のある個別の法律を改正していくべきであって「官製不況」と大雑把に括ってしまうと却ってわかりにくいかなと思ったり。人手不足で監督省庁として十全な仕事ができない日本の役所の現実が「規制でがんじがらめにする」という「人手ナシで力を行使する」手法を選択させているという現実もあるんじゃないかと。それに「罰せられない=何をやってもいい」という子供みたいな思考様式で動いてる民間企業・海外企業サイドも批判されてしかるべきではないかと。

 などといいつつ、以下思いっきり印象論。どうも印象として今の日本を動かしてる世代の人たちって「経済成長」をあまり大事だと思ってないっていう感じはします。それがメディアの報道や、政治・行政なんかにも色々影響はしてるんだろうなあと。「清く貧しく美しく」が素晴らしいという思想。

 個人の思想としてはそれも良いと思うのですが、国の方針を左右する人がその思想でいると国は衰退していくだけだろうという気がします。周りがやる気満々な連中ばかりなわけですから、何もしなければ落ち込んでいくだけなわけで。

 でも、たぶんそれでかまわないいと思ってるんでしょう。つまるところ同記事のコメント欄にあった以下の言葉のとおりだと思います。

  「それが日本だ、気に食わない奴らは出て行け!!」と真面目に考えている人が大多数ですので致し方なし、それが民主主義ですし。

 どうもそういうことらしい、と管理人も最近は思うようになっている。これ以上変わるつもりはない。どうしても気に入らなければヨソ行ってくれと老人達は思っているのだろう。かつて田舎から「言うことを聞かない若いヤツら」が追い出されたように、今度は日本から「言うことを聞かないヤツら」が追い出されることになるのだろうか。今、日本で起きているのは「田舎の都会化」といわれているが、実際には「都会の田舎化=日本総田舎化」が進行しているということかしら。「言うこと聞かない若いヤツら」は「都会」にすら逃げられなくなり、日本から出て行くしかなくなっているということだろうか(大げさですな^;)

 しかし、現実問題として我が国人民には「日本語という壁」があるため、若者はなかなか「ヨソ」に物理的にはいけないのであります。物理的に「ヨソ」にいけないが故に、虚構の「ヨソ」がかくまで発達したのかもしれません。そう考えると、老人達が二次元規制をしたくなる気持ちも分からんでもないですな。「ヨソいくならちゃんと(物理的に)いってくれ!」って話ですよ^;ちゃんと海外に行って外貨を稼いで来いと^;


5/21 wondering for somebody  

誰かをさがすために
けふもあなたは
何をさがしにとぼとぼ歩いてゐるのです(室生犀星)

○アニメ「機動武闘伝Gガンダム」第1話

 Gガンダムは本放送時に10話くらい見て打ち切った記憶がある。Vガンダムとの落差があまりに大きかったのが障壁となったが、惜しいことをした。今、改めて見ると第一話から大変密度の濃い、今川イズム溢れる30分。特に意味も無くローマが舞台になってるところがイタリア映画好きな今川氏らしい。

 スタッフ的に注目すべきは監督の今川泰宏氏とシリーズ構成の五武冬史氏。五武氏はサンライズで長浜監督と富野監督どちらとも一緒に仕事をしてきた人。富野的なガンダムはVガンである種の「壁」に当たった。それを突破するために今川氏という「ガンダム的リアリズムとは違うベクトルの演出」を得意とする監督と「草創期からのサンライズの諸作家・諸作品にかかわってきた」ベテランの五武氏にタッグを組ませたというのはプロデューサーとしてなかなかの識見かと思う。

 第一話の演出に谷口吾郎氏が入っていることに今更気付く。そうか「富野―今川―谷口」という系譜はいちおう書こうと思えば書けるんだな、とちょっと思った。ムリヤリだけどね。

○アニメ「潜脳調査室」

 通常の萌えとはベクトルは違うが「女子キャラを萌えキャラ化」しようとあざとさ全開で頑張っている点は評価できる。カメラのアングルとかは、既にかなりあざとくなってきてるので、あとはこれに作画が付いてこればといった感じですかね。

 せっかくイヌの話なんだからゲストキャラの顔をオシイ顔にするとか、イヤミのようにバセット出しまくるとか、色々遊べたろうに^;テーマ的にも、もっとオシイにケンカを売るような話にできただろうに勿体ない。

 


 

5/20 Be crazy life is just a dream

何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ(閑吟集)

○「新日本古典大系 閑吟集」

 梁塵秘抄と一緒に載っていた。16世紀の某引きこもりの歌謡オタクによって編纂された歌謡集。

 閑吟集といえばこれ、という歌は冒頭に挙げた「一期は夢よ/ただ狂へ」でありましょう。現代語にすると「そんなにまじめくさってどうすんだ、一生は儚い夢だ遊び狂ってすごせばいいんだ」というもの。梁塵秘抄に比べると無常観が享楽主義・刹那主義へ流れてるきらいがありますが、ただの刹那主義に終わらないのはラストの「ただ狂へ」があるからでありましょう。「狂う」という言葉がただならぬ空気をかもし出し、凄みが出ております。

 しかし、この歌に限らず閑吟集の歌は梁塵秘抄と比べるとヤケ気味というか、ちょっとやさぐれた感じの歌が多い。

憂きも一時 うれしきも 思ひ醒ませば夢候よ

歌へや歌へ泡沫(うたかた)の あはれ昔の恋しさを
今も遊女の舟遊び 世を渡る一節を 歌ひていざや遊ばん

 一番目の歌も「憂きも一時」だけだったら前向きなのですが、そのあとに「うれしいこともどうせ夢だぜ」と続いてしまうわけで、どうもやさぐれています。二番目も昔の恋を忘れられない男の哀れさを歌いつつも、描かれる情景はやさぐれ気味です。

 無常観を漂わせつつも、やさぐれない歌としてはこんなのがあります。

唯人は情あれ 夢の夢の夢の 昨日は今日の古 今日は明日の昔

 大意は「夢のように儚い世だからこそ、人間は情けがいちばん大切だ」というもの。このほかにも閑吟集は「情」を歌った歌が結構多い。

情ならでは頼まず 身は数ならず

情は人のためならず よしなき人に馴れそめて
出でし都も 偲ばれぬほどになりにける
偲ばれぬほどになりにける

 一番目は「人の情けだけが便りです。わたしはとるにたらない卑しい身だから」という意味。二番目は「情をかけるのは人のためではない(自分のためだ)というのは本当だなあ、遠い地から引っ越してきた私も今ではすっかり土地の人と馴染んで、前に済んでいた都のことを偲ぶこともなくなってきた」というような意味。どちらも、変転するヨノナカにあって「人の情」の大切さを歌った歌。

 「狂え」にせよ「情」にせよ、共通するのは単に「無常だ」と言っているだけでは済まない人間の現実だろう。無常な世でいかに生きるか、ということを考えた時に人々が出した答えが「狂え」だったり「情」だったりしたということなのではないか。

 恋愛歌も能天気なものよりも、ちょっとリアル系なものが多い。

恋風が 来ては袂にかい縺れてなう 袖の重さよ
恋風は重い物哉

 「恋風は重い物哉」が良いですな。恋愛が楽しく素晴らしいものだと歌う歌よりも、こういう恋愛の持つ重さ、苦しさを歌うほうがリアリティは出ます。

あまり言葉のかけたさに あれ見さひなふ 空行雲の速さよ

 男が好きな女に言葉をかけたいわけです。キザに愛の言葉でも囁ければいいわけですが、この男は不器用で照れ屋なのか、うまく話せない。せっかく好きな女の子といるのに何やってんだ俺、なんか話せよ、とあせってる気持ちを「空行雲の速さ」にみたてた歌だそうです。爽やかで華やかな恋ではなく、不器用で地味なうまくいかない恋が描かれている。

 最後にいかにも「歌謡」という感じがする歌をひとつ。意味よりも、語感のよさや言葉が作り出している空気・景色の良さを味わう歌ですな。

夢路より 幻に出づる仮枕 幻に出づる仮枕
夜の関戸の明暮れに 都の空の月影を
さこそと思ひやる方の 雲居は跡に隔たり
暮れわたる空に聞こゆるは 
里近げなる鐘の声 里近げなる鐘の声

 和歌の語呂のよさは、なんだかんだ言ってしっくりきますなあ。


5/18 My sin piled up like a night frost

積もれる罪は夜の霜(梁塵秘抄)

○新日本古典文学大系 「梁塵秘抄 閑吟集 狂言歌謡」

 後白河法皇が「今様」という歌謡を集成したのが「梁塵秘抄」でして、要するに大昔の流行歌の歌詞集みたいなものです。今の天皇陛下がJ−POPが好きで集めてる、みたいなもんでしょうか。詳しくはウィキペディアでも見ていただきたい。

 この時代のトレンドはなんといっても「仏教」でして、梁塵秘抄の多くも仏教関連の歌が過半を占めます。人生の儚さ、世の無常を歌い、仏の慈悲にすがりなさいと説く説教ソングをみんなで歌っていたわけですな。黒人がゴスペル歌うみたいなもんですか。

 この手の歌の中でよかったのが以下の二つ。

積もれる罪は夜の霜 慈悲の光に副(たぐ)へずは
行者の心を鎮めつつ、実相真如を思ふべし

儚き此の世を過(すぐ)すとて、海山稼ぐとせし程に、
万(よろづ)の仏に疎まれて、後生我が身を如何にせん

 特に二番目は大変分かりやすい。身過ぎ世過ぎのために海で漁を、山で狩をと殺生を重ねている己の後生(来世)を嘆く歌。「儚き世」と言ったところで飯は食わねばならぬ。殺生を重ねずに生きていくことはできないのであります。

 何かの「お題」をあげて、それに当てはまるものを並べていくタイプの歌も多い。どれも語呂が良く、歌われてる内容も洒落ていてなかなかよろしい。

心の澄むものは、霞花園夜半(よわ)の月、
秋の野辺、上下も分(わ)かぬは恋の道、
岩間を漏り来る滝の水、 

 「見ていて心が澄むもの」というお題で並べたもの。ポイントは「上下も分かぬは恋の道」、純粋な恋心という意味。昔から日本は純愛ブーム。そして、昔からといえば、こんな恐ろしい歌も。

女の盛りなるは、十四五六歳廿三四とか
三十四五にし成りぬれば、
紅葉の下葉に異ならず、

 紅葉の下葉は、まあ紅葉の中でもあんまり綺麗じゃない部分でしょうな。要するに「容色の衰え」の比喩であります。まったくもって日本の男というのは昔から(以下略)

 喪男も昔からいた様子も分かります。

我が恋は一昨日見えず昨日来ず、
今日訪れ無くは
明日のつれづれ 如何せん

 要するに「いつになったら俺に春が来るのだ!寂しいよう」という歌であります。解説の本でも「絶望感の表れ」とか解説してますし。モテない男の侘しさも昔からなのであります。

 そのほか、内容というよりは語呂のよさと言葉の綺麗さで感心するもの。

春の初めの歌枕、霞鶯帰る雁、子の日青柳梅桜、
三千歳(みちとせ)実る桃の花、

松の木陰に立ち寄りて、
岩漏る水を掬ぶ間に、
扇の風も忘られて、
夏無き年とぞ思ひぬる、

池の涼しき汀(みぎわ)には、
夏の影こそ無かりけれ、
木高き松を吹く風の
声も秋とぞ聞こえぬる、

 昔っから、こういうのは得意だったんだなあ我が国は。

○NHKスペシャル「沸騰都市第一回」

 フリーソフトのnvplayerというのを落としまして、晴れて3倍速で見られるようになりました。まだ耳が慣れてないので2・8倍速くらいが適正ですが、おいおい慣らしていければ。

 さて「沸騰都市」はオープニング映像が押井&IG&川井でして、特に川井憲次の音楽が熱くてカッコイイ。旋律はいつもの川井憲次なんですが、普段よりもテンション高めなテンポ&編曲なので燃えます。Nスペのサントラは秀作が多いですが、また一本良いものが出来上がりましたな。オープニング映像は、まあ「イノセンス」を超えるものではありませんでしたがかっこよかったですよ。

 さて内容ですが「ドバイはバブル真っ盛り」という話でした。「ドバイはこれからもずっと発展し続けます」とかにこやかに言ってるアラブ人を見ていると、人は歴史から学ばないのではなく、敢えて無視しているんだなあとしみじみ思います。日本のゼネコンもしっかり儲けさせていただいてるらしいのでイヤミ言えた義理じゃないですけどね。バブルの間はみんな儲かって楽しそうだからいいんじゃないでしょうか。

 タックスフリーのカネモチ観光都市&中東金融セクター都市となってバブル崩壊後も軟着陸してくれることを祈るばかりですが、さてはて。ご用心ご用心。


5/17 milkiway floating like a dream

別るるや夢一筋の天の川(漱石)

○試作館更新

10を更新

 最終回です。色々と反省します。

 てか最低限矛盾したこと、前に書いたことと違うことをを平然と書くなよという話です。まあ「試作館」ですので、折を見てチマチマと修正していきたいと思います。

 小説って難儀なメディアだなあと改めて思わされました。でも書かないとうまくならんしなあ……もうちょっと肩の力を抜いて読めるものはできんだろうか。ラブコメとかギャグとか書ける人って偉大ですなあ。


5/16 Our promise has all broken

約束はみんな壊れたね。(三好達治)

○試作館更新

を更新

○エドワーズ

 白人労働者層に強いエドワーズが支持表明したことでオバマの「白人労働者層に弱い」という泣き所をカバー、ヒラリーにトドメを刺すという、わかりやすい役どころ&タイミングだったと思われます。ベストのタイミングだったかどうかは微妙。恩を売るにはギリギリのタイミングだったのではないか。オバマが後半思っていた以上に余裕の戦いができてしまったため「キングメーカー」になるチャンスがなかった。スーパーチューズデーの後のタイミングで支持表明を出しておけば、もう少し早めに決着もついて民主党的にもラクになれた気がするのだが、あの段階でオバマの勝利を見極めるのは難しいし。穏当なタイミングだったのではないか。

 ヒラリー先生が「グッド・ルーザー」としてオバマを祝福し、党内の世代間・階層間・人種間の融和をお涙頂戴のセレモニーに仕立て上げ、「さあ本選だ!」と盛り上がってる様子を全国民に印象づけられるかどうかが民主党にとって次の課題でありましょう。テレビ屋と広報屋の腕の見せ所ですが、肝心のヒラリー先生が役者としてかなり難アリだからなあ。

 しかしこれで本選は更にわからなくなった。今のところオバマ有利らしい。アメリカメディアも「僕らは黒人大統領を受け入れる成熟した時代に到達したのさ」とか言っておりますが、管理人は半信半疑。ただし共和党サイドも「人種の話を表でやったらアウト」ということはわかってるので逆に戦いづらいというのはある。ネガティブ・キャンペーンやるにしてもなかなか難しい相手ですな、オバマは。

○サイエンスゼロがいつの間にか

 安めぐみに変わっていた。いや、どうでもいいけど。栽培漁業の話が面白かった。途中まで稚魚を育てて、海に放すという手法だそうです。諸外国が漁業にどんどん乗り出してくるだろうから、これから遠洋漁業はどんどんキツくなっていくわけで、自分の所で栽培や養殖していくしかないですわな。

 あと京都発のCGMを使った「誰でもアニメが製作できる」システムというのが面白かった。わかってないなあと思うのは萌えデザインになってないこと。いや萌えじゃなくてもいいけど、もっと可愛いキャラを用意するとか、どこかのアニメとタイアップするとか、アイマスに擦り寄るとか色々考えればいいのに。かなり考え抜かれた優秀な技術なんだけどCGMの鍵である「ユーザー数を増やす方法」を考えてないのがもったいなさすぎる。

○漫画「鈴木先生」1〜2巻

 かくも純朴に「表面―深層」「外面―内面」「虚飾ー真実」といった単純な構造にこだわり抜けるのは才能。一貫しているという意味では大変立派な作品だとは思うが、管理人は正直ご勘弁願いたい部類の作品だった。かつての日本の学校(恐らく今も)が「異常な空間」であることを描写しようとしているのであれば分からなくはないけど、作者学校好きそうだしな。時折垣間見える「小市民礼賛」的な言説の欺瞞も鼻につくし。よくできてるけどオイラはごめんこうむります。

○アニメ「図書館戦争」

 シバリつきの戦争ってなんかイマイチ燃えないよねえエンタメ的には…そこら辺の設定の欺瞞がやはりひっかかるところでありますが、まあいいのか。

○放送大学メモ「国際関係」

外交政策の手段

外交政策を決定する時の状況

・情報(高い情報量・低い情報量) ・時間(急激な変化をもたらすか・緩やかな変化をもたらすか)

革命的・ユートピア的政策決定(情報量高く・急激な変化)
専門技術的政策決定(情報量高く・緩やかな変化)
戦争・革命そのほかの危機(情報量が低く・急激な変化)
  →短期間の決定が要求される
インクレメンタリズム(情報量が低く・ゆっくりと変化)
  →手探り方政策決定・交渉を繰り返していく中で落とし所を探っていく

国際関係では情報を十分に入ることはない
低い情報量の中で、インクレメンタリズムや短期の決定が求められる場合が多い

政策手段

・手段(軍事的・経済的・外交交渉そのもの)
・対応(強制・一方的なモノと相互的強調的なもの)
  →強制・強迫・取引・説得協力の4レベル

強制の軍事的手段 − 武力行使
強制の経済的手段 − 制裁・援助停止・海上封鎖
強制の外交的手段  ー 国交断絶(戦争一歩手前)

脅迫の軍事的手段 − 瀬戸際政策・軍事的威嚇
脅迫の経済的手段 − 経済制裁の威嚇・援助停止の威嚇(良くおこなわれる)
脅迫の外交的手段 − 断行の威嚇(大使館員の引き上げ)

取引の軍事的手段 − 軍備管理・勢力圏設定
取引の経済的手段 − 経済援助・買収
取引の外交的手段 − 外交交渉(一般的な関係)

説得協力の軍事手段 − 兵力引渡し・軍縮
説得協力の経済手段 − 貿易協定・共同市場
説得協力の外交手段 − 友好条約・協議機関設置

どのような政策を選ぶのか?がポイント
状況をよく考え、適切な政策を選ぶ

選ぶ時のポイント

1 利益の相反性(利害関係は?)
2 交渉反復の可能性(交渉を繰り返せるのか?仲良く交渉できるのか?)
3 争点連携の可能性(どの問題を議論するか、他の争点と組み合わせることで妥協を引き出す)
4 取引・譲歩の意志(自分および相手に取引・情報の意志があるのか?)

間違った政策を選ぶと危機が訪れる
交渉によっては危機を拡大させ、国際的緊張を高めてしまう場合がある
丁寧な状況判断が必要である


5/15 Poetry in hard time

難儀なところに詩は尋ねたい
ぬきさしならぬ詩が作りたい(堀口大学)

○試作館更新

 試作館を更新。全10話。

 4〜7あたりが、起承転結のいわゆる「承」の部分でありまして、先日書いた「自己啓発本」のパロディとして書いている部分だったりします。ここ数年、このジャンルの本を細々と読んできて、なるほどと思う部分も多いわけですが、結局納得いかんのは人間の行動の動機の根幹にある部分「人とはいかなるものか」という本質的な部分・いわば論議の基底をなす部分に平然と「タテマエ(人間って元々良心的でステキな存在なのさ)」を導入してくるところです。お前さんそこで「タテマエ」を使えるんだったら誰も苦労しねえだろ、と。それですまない事態がどう見ても大量にありすぎだろと。

 しかも、この手の本の多くは自分達の使っている「タテマエ」を「これはタテマエなんですけどね」といわないんですよ。ひたすら「これは所詮タテマエです」ということを隠蔽しちゃうというか。それじゃあどうにもならん問題がいっぱいでてきちゃうのではないでしょうか、と思うわけです。

 でも、「目標を設定しそのための手段を構築する手法」、「世の中をある程度割り切って単純化して理解する考え方」など、自己啓発系の中で語られるプラグマティックな考え方は結構使えるわけです。まあ、そこら辺を取り入れつつ、「タテマエ」を排除した作品を作りたいなとか思ってるわけですが。それにエンタメ性というか「読んでて面白い」という要素を含めるとなるとさらに難しいですなあ。

○今週の「CBSドキュメント」

 テレビチューナーとPOWERDVDのおかげであらゆるテレビ放送を2倍速音声付(音声いらんところはそれ以上)で見られるようになりまして。そのせいでドキュメンタリー/教養系番組の敷居がかなり下がったんですね。ビデオやDVDレコについてる音声付倍速機能って基本「1・5倍」なんですよ。正直、それだと遅かったのでイマイチ見る気にならなかったのだが2倍速だとイライラ感がかなり軽減されて見る気になる。ビバ2倍速。つまんない映画とかも字幕つきなら3倍速〜4倍速でもいけちゃうし、POWERDVD最高。3倍速音声付ソフトないかなあ。

 今週のCBSドキュメントはハリケーン・カトリーナの洪水で老人ホームのお年寄りが逃げ遅れ、35人が水死したという事件とその裁判について。老人ホームの経営者夫婦が「巨大ハリケーンが来るのを分かっていながら、老人ホームのお年寄りを避難させなかった」という容疑で起訴され、結局無罪になる話。番組は経営者夫婦、遺族、検察、政府、メディアなど、関係する人々の主張や洪水時の対応を手際よく提示していく。

 番組だけ見た印象でいうと「職責をまっとうできるだけの能力や資質を持っていない人が責任あるポストについていた」という現実が各所で積み重なり、それが自然災害という非常時に露呈したということではないか。経営者夫婦だけではなく、政府、メディア、郡政府、陸軍など各所で細かな判断ミスが見られ、それらのしわ寄せが「老人ホームの住人」という社会的弱者に来てしまった、という印象。

 「無責任の構造」があり、その構造によって生じる害を社会的弱者が被るという構図は、日本に限らず世界共通なのでありましょうか。

○NHKスペシャル「言論を支配せよ プーチン帝国とメディア」

 年寄り対策なのかもしれないが最近のNスペは以前に比べて明らかに情報の密度が薄くなり、テンポが遅くなっている。2倍速見ても遅すぎるくらい。「BSドキュメンタリー」のほうはなかなか密度の濃いつくりになってるので現場の問題ではないとは思うのだが。

 とはいえ、このドキュメンタリーは「反政府系報道機関の現場」を通してプーチンの言論統制の厳しさをあぶりだそうとする狙いがそこそこ当たっていてわかりやすかった。できれば「反政府系報道機関に圧力をかける政府のやり口の現状」をもっと具体的に見せてほしかったところ。ジャーナリストが大量に死んでいるというファクトをただ提示するのではなく、何人かのジャーナリストの死の状況を具体的に見せたほうがよかったのではないか。あとメディア支配の手法として「報道機関の株を政府が保有する」という手法が紹介されていたが、これも、その過程ややり口をもう少し細かく見せてほしかった。まあ無理だわな^;

 ただ、そういう「政府側のやり口」をもっとしっかり見せられると「反政府系報道機関がビビって自主規制しまくるところ」とか「大学の中でしかチェチェン問題のリアルな討論ができない現状」とかがもっとリアルに迫ってきたとは思う。それができないので、仕方なく「生き残ってる反政府系報道機関」を中心に描いたのだろうけれど。いずれにせよテンポ遅すぎ。

○BSドキュメンタリー

 タイトル忘れたけどkivaを取り上げた回。ちなみにkivaとは「商売をはじめたい人(主に途上国)が、ネットで商売の内容をプレゼン、1口25ドルの融資を募集し、世界中から融資を集める」というサイト。実際にアフリカでピーナツバター商売をはじめたご婦人がkivaでカネを集め、商売でカネを稼ぎ、カネを返済するまでを描いていて感動的。カネを融資したアメリカ、スイスの人たちもしっかり追いかけているし、kivaのシステムや発展の歴史、システム設計者たちの紹介、どうやって国際的ネットワークを構築しているかなども手際よく説明していて大変わかりやすい。きちんと「融資してもらったけどうまくいかなかったケース」も紹介してるところもグッジョブ。

 グラミン銀行のノーベル賞受賞で一躍世間に知れ渡ったマイクロファイナンスとインターネット技術を組み合わせたkivaは世界中の人々に「エネルギーや資金を良い方向に持っていく具体的な道筋」を提示して見せたという点でとても面白い。ネットのポジティブな側面を感じさせてくれるサイトです。日本語版がまだないのが残念。翻訳に手を貸すとかしたいところだが、ビジネスが絡むし、実用に耐える英語力がないからなあ……早くちゃんとした英語を使えるようにならなければいかんですな。

 ただまあ、これで万事解決!というほど甘くはないわけです。アフリカなどの開発途上国を「経済成長のステージ」にまで押し上げるにはマイクロファイナンスみたいな草の根金融だけでは不十分で、国全体の経済を回すいわゆる金融業・銀行業のほうの機能強化・整備が必要らしいですので、これだけでどうにかなるってもんでもないそうですよ。でも、とてもポジティブで感動的なドキュメンタリーでした。最近見た中ではいちばんクオリティの高い映像作品でしたな。


5/14 My sin is blue

我が罪は青 その翼空に悲しむ(清岡卓行)

○試作館更新

を更新しました。

最初から読む人はこちら。

○アニメ「仮面のメイドガイ」

 ネタの乱射率が低下している感があるが、相変わらず楽しく見られる。

○アニメ「コードギアスR2」

 戦闘シーンでしっかりと「燃える展開」を作れているのは優秀です。特にカレンの「墜落→新装備空中換装→再上昇→ハイパー化」の流れがすばらしい、お見事。その分ルルーシュ君がちと頼りないが。

○アニメ「機動戦士Vガンダム − 天使達の昇天」

 最終回であります。やはりカテジナさんに最終回のメインを張らせたのはVガンダムという作品全体の構成的には凶だったように思う。しかし、彼女なくしてこの最終回のインパクトはなかったのも事実。難しいところだなと感じる。

 ところで今回見てて気付いたのはラストシーンでのシャクティとウッソの酷薄さ(笑)。盲目になり、変わり果てたカテジナを「カテジナだ」と分かっていながらウッソに知らせることなく「道に迷った旅人よ」のひとことで済ませるシャクティ。そして、あれほど追い掛け回していたカテジナさんとすれ違っているのに全く気付かないウッソ^;

 Vガンという作品は実はシャクティの成長物語でもある。「旦那(ウッソ)に戦場に引っ張り出された上、目の前であちこちで浮気しまくられて泣いてばかりいた嫁さん(シャクティ)が、いつの間にか成長し、逆に旦那を引きずり回し、わがままを言いまくり、尻に敷くまでに」なる物語なのです。そんなシャクティですから、当然「ダンナが昔夢中になっていた女など家に上げるものか!」と思うのも当然でありましょう。シャクティの危機管理能力の高さに感心した最終回でありました。

 それにしてもクロノクルとカガチの最期はなんともあっさりしてますな。それに比べてオデロの扱いは別格ですよ。管理人、個人的にVガンで一番好きなのはオデロでして、彼の最期のシーンはかなり印象に残っております。それまでほとんど語られることがなかった「父との関係」を思わせる言葉を最後の最後で挿入してくるところに、富野流の心理描写の妙を感じます。


5/13 Prototype

○試作館オープン

試作館

 本家サイトworkshopに、管理人の試作品公開用サイト「試作館」を追加。

 試作館では「本来シナリオにするつもりの作品(主に漫画原作・時たま映像作品)をムリヤリ小説形式にしたもの」を掲載していく予定。ノベライズほど真面目に小説の形式に落とし込む技量がないので「試作館」という半端な名前にしてあります。

 創作作品量の増加は今年の大きな課題なのだが、なにぶん管理人はシナリオしか書かない(書けない)。そしてシナリオというのはそのまま公開してもあまりに読みづらい。かなり稚拙ではあっても形式が小説ならまだ読みやすいのではないかということで今回のような形にした次第。

 今回公開する作品は、本当はもう少し推敲して文章を練ってから公開するつもりだった。しかし、どうやら海外作品で非常に良く似た作品が近日公開されるらしいことを本日知り、出しそびれているとただのパクリ作品扱いになるよなあ、などとしょうもない自意識過剰が頭をもたげ、さっさと公開してしまえということになった次第。テーマは(言わないとぜんぜんわからんので先に自分で言ってしまいますと)「オタクの老後」である。「どこがだよ」と言われそうだが^;いちおう連続5回でお送りする予定。

 あと、これまた誰にもわからんので自分で言ってしまうのだが巷によくある「自己啓発本」のパロディでもある。そのせいでイマイチ「起承転結」の「承」が面白くならなかった。もう少し「承」をどうにかしたいところ。

○キネマ4

 1ページ目に少し手を加える。作品にピタッとハマる詩を見つけたもので。

○映画「ミス・ポター」

 イギリス湖水地方って本当にあんなに綺麗なんだろうか。行きたい場所がひとつできた。ヨーロッパは遠いけどなあ


5/11 it's not pearl it's not mist, rain is my tear

雨は真珠か、夜明けの霧か、
それともわたしの忍び泣き。(白秋)

○嶽本野ばら「タイマ」

 大麻所持で逮捕された嶽本先生の復帰作。逮捕後の顛末と自らの過去・現在の恋愛模様を描いた大変ジャーナリスティックかつスキャンダラスな内容。

 スキャンダラスな実話と虚構を混ぜ込んだストリップショー的創作物は田山花袋の「蒲団」以来連綿と続く日本私小説のお家芸でありましょう。通常シーンでのクリアで読みやすい文章は相変わらず(この人の「平明な文章を書くライター」として職能の高さは凄い)、ラスト近辺で爆発する圧倒的テンションの美文も相変わらずです。反社会的ではあるもののその実極めて前向きなラストの語りも印象的。復帰作としては申し分のない水準ではないでしょうか。

 敢えて難をあげるならば「達者すぎる」「作りこみすぎる」ところではないかと思います。嘘を作る場合、リアリティを出すために適度な「歪み」「穴」「不条理」があったほうが良いと思うのですが近年の先生の作品はどんどん精緻かつ細部まで作りこまれた内容になりすぎている気がします。それだけ完成度が高いということなのですが、完成度が高いが故に作為が作為として全て見えてしまう。

 以前も書きましたが「さびたるはよし、さばしたるはあしし」の問題であります。自然に「寂び」を感じさせるものは良いのですが、ワザと「寂び」を感じさせるように作ったものは作為が見えてしまった瞬間に白けてしまうものです。

 今回の作品なども、恋人の職業が「ストリップダンサー」であるという設定は、あまりに作品のテーマを象徴しすぎているのではないでしょうか。ニルヴァーナ、カート・コバーンというガジェットの使い方にしても、あまりに作品のテーマや、嶽本先生の立場を表象するのに「ハマリすぎ」ている。ぴったりすぎるのです。ぴったりすぎるが故に、そこにリアリティではなく強烈な「作為」を感じてしまう。

 しかし、嶽本先生がこのことに自覚的でないとはとても思えません。作為が作為として露骨に見えてしまう人工性の高さを、嶽本先生は敢えて晒していると見たほうがよいのでしょう。かくも作為的でありながら、嶽本先生は作品内で「自分が作為的である」ということを一切告白しません。作品内では「嶽本野ばらというキャラクター」は一度たりとも崩れることなく完結します。それはある意味でとても「潔い」ことでもあります。作り物を作り物であるとわかっていながら、敢えて「作り物です」と言わずに提示する。それが先生のやり方なのかもしれません。

 先生が「作為的である」ということが分かるのは小説の中ではなく、小説が終わったあとに入る「この物語はフィクションです。現実の事件を題材にしておりますが、登場人物・設定・エピソード等は現実とは異なります」という一文だけです。潔さを追求するなら管理人はこの文章もいらんと思いますが、法的にも色々と問題でてくるでしょうしね、これ入れないと。

○Oh sinner man where you gonna run to

なぜオタはオタ趣味を隠すスニーキングミッションを遂行しますか?

 これは古くはブンガクや映画、新しくはテレビやオタクやネットなど、あらゆる文化芸能を考える時に通過しなければならない普遍的な問題です。「自意識過剰」「野暮」「歪んだ精神」「エロス/タナトスの欲動」…社会で拒絶されるこうした暗黒を抱えているからこそ人間は文化芸能という「虚構の未開地」に走るのです。そして不思議なことでありますが、虚構の未開地では闇を抱えた者が信じられないほど美しい何かを作り上げるのであります。しかし「虚構の未開地」は、いつまでも未開のままではいられません。作り上げられた美しさに惹かれて次第に住民が増え、いつの間にか普通の社会と同じように整備されていくのが常です。「自意識過剰」「野暮」「歪んだ精神」「エロス/タナトスの欲動」を拒絶し、隠蔽しようとする人間がいつしかマジョリティになっていくのであります。

 罪深きもの、闇を抱えた者がその闇故に逃亡した未開の地、しかし未開の地だった場所も時経つ内に真人間達に占拠され、罪深きもの、闇を抱えた者は再び逃亡せざるを得ない。文化芸能のジャンルの興亡は、いつもこの繰り返しです。映画もしかり、テレビもしかり。そしてオタクも例外ではないのでしょう。岡田斗司夫が本来「オタク・イズ・デッド」で語るべきだったのは、このことだったはずなのです。

 話は飛躍しますが世界には「虚構の未開地」の代わりに「現実の銃と暴力」しか与えられなかった人々もおります。そうした人々が現実の世界で自らの暗黒を発露するとどうなるか。下記事にリンクしたエコノミスト誌の報告をごらんいただきたい。


 

5/10 this is our world

http://www.economist.com/world/africa/displaystory.cfm?story_id=11294767

 なんでこうなる。


5/8 World is only one dream? so what?

○西行法師和歌購読(森重敏)

 西行の歌集ってぇと山家集などいくらかあるらしいんですが、なぜか図書館で見つからなかったのでこちらで済ます。著者のそれぞれの歌についての解説・講義がなかなか面白いですが、全部読むのは面倒なので気に入ったものの解説だけ適当に流し読む。

 いちおう本に載ってる歌を全部読んで思ったのは「矛盾した要素が同居してる」人だなあということ。蕪村もそうなんですが優れた作家は矛盾を矛盾のまま内包し葛藤したまま作品を作っていくものなのですな。達者と素朴、器用と不器用、無常と現世肯定、そういった矛盾が渦巻いてる感じがとても人間臭い。もちろんテクニックやセンスは十二分に持ってる人なので「矛盾」を感じさせながらも歌としては綺麗にまとめてくる。上手い。

 ただそうはいっても結構「ふつう」「いまいち」な歌もいっぱい詠んでますな。西行ほどの人でも100点120点の傑作をコンスタントに出すってわけにはいかないんだなあと思って、凡人としては少しホッとしたりする。

 てなわけで、管理人が勝手にセレクトした良いものをいくつか。西行といえば桜、ということでとりあえず桜関連の秀歌を。

花を見る心はよそにへだたりて 身につきたるは君がおもかげ

風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり

 どちらも、どこの「秒速5センチメートル」だよという歌ですな。ふたつめがとみによろしい。花は散ってしまってどこかにいってしまうけど、花を惜しむ心は身にとどまる。喪失の哀しみを「風に散る花」というビジュアルと対比させるのは桜を歌うときの常道。お手本のような歌であります。

つれもなき人に見せばや桜花 風にしたがふ心よわさを

 これは恋の歌。風にゆれる桜の花のように弱く繊細な心をもった私の恋人、その恋人を人に見せてあげたいといった意味。千年以上経過した現代でも「心の弱い君が/愛しいのさ」とサンボマスターが歌っております。こういう感性もどっかの野暮な評論家やフェミニストどもは「レイプファンタジー」とか言うのでせうか。イヤな世の中でありますな。

待たれつる吉野の桜咲きにけり 心を散らす春の山風

眺むとて花にもいたくなれぬれば 散る別れこそかなしかりけれ

花も散り涙ももろき春なれや又やはと思ふ夕暮の空

 二つ目は解説がないとなかなか理解が難しい歌。上の句は「最初は花をただ「眺め」ていただけだったのにそれがいつのまにか「なれて」しまった」という意味。「なれる」というのは「馴染む」というような意味合いでして、要するに「花」が自分の中でなくてはならないものになってしまったってことを書いている。花がなくてはならないものになってしまっているからこそ、散る時の別れはかなしいものになってしまうのだなあ、という歌なんだそうですよ。で、この「花」は「女性」も含意されていて、実は恋の歌なんですな。西行先生は坊主のはずなんですが恋愛系が強いのですよ。しかもリアルな恋愛歌ではなく観念的なものが多い。現代のオタク気質を多分に含んでいる方といえましょう。

葉がくれに散りとどまれる花のみぞ 忍びし人にあふ心地する

 葉に隠れて散りとどまっている花を見ると、かつて忍んで思った人に再びめぐりあえるような気持がする、という歌。なんという奥ゆかしさ。乙女少年西行です。

遥かなる岩の狭間に一人居て 人目思はでもの思はばや

もの思ふ心のたけぞしられぬる 夜な夜な月をながめあかして

 山の奥に修行に来て岩の狭間にいるというのに、女性のことを考えている俺、という歌。「もの思ふ」という言葉は恋の常套句なんだそうです。しかも解説の森重先生は容赦なく「これは単に心理的な物思いではなく、直接的な性との結びつきで身にこたえる物思いである。」なんて書いて止めを刺してくれます。要するに山奥に引きこもってひとりで悶々と女の子のこと考えてましたって歌ですよ。二つ目も要するに夜な夜な月を見上げながら女の子のこを思って悶々としてるって歌。何この喪男^;

 喪男だけあって西行先生も放哉的な暗黒を含んだ歌を結構残しておられる。坊さんですから諸行無常を歌うのは当然なんですが単に「無常だ」でおわらないのがこの人の特徴です。

世の中を夢と見る見るはかなくも 猶おどろかぬ我が心かな

 本当に世の中は夢のように儚い、無常なんだということが分かっても、自分の心は「猶おどろかぬ」。つまり平気でいられてしまう。そんな自分の心のしぶとさにある意味呆れ果てている歌。たとえ心が絶望したところで人間というイキモノは平然と生き続けられてしまう。そんなイキモノである己自身への呆れというか諦めみたいなものが語られている。

 日本文化に連綿と流れる萌えや喪のスピリッツを感じさせる歌人であります。


5/4 my lover's black eye

かくまでも黒くかなしき色やある
わが思ふひとの春のまなざし(白秋)

 ちなみに「かなしき」は「哀しき」「愛しき」という二つの書き方がございます。白秋はこういう少し耽美入った歌が圧倒的にうまい。

○今週のアニメ「マクロスF」

 好調を維持。「ローマの休日」ですなあ、素晴らしい。両ヒロインの魅力がしっかりと提示されており、大変良い仕事でした。監督自らの演出担当回だけのことはある。シェリルがようやく萌えキャラになったといいますか。

 意外性を出すことを捨てている分お話の展開やキャラクターの心の動きなど全てが分かりやすく、語り口の流麗な映像に仕上がっている。映像のクオリティも下がることはないし、マクロス的な世界観の面白さを映像で表現しているし、ベタな三角関係ドラマも随所に仕込まれていて大変よろしいですよ。期待を裏切らない出来です。

 今後、この作品を「良い作品」から「注目作」に格上げするには、どこで「意外性」「お約束破り」「新要素」のカードを切ってくるかが問題になってきます。マクロス7が成功したのは、従来のマクロスに「バカ」「喪」「燃え」いう要素を投入したところにあると思いますが、マクロスFはどんな新要素を入れてくるか。「踊り」「歌舞伎」「女形」などが使われるようですので、まずはお手並み拝見といきましょう。

○今週のアニメ「コードギアス」

 オセロのように敵勢力を次々と篭絡していく様は面白いといえば面白い。敵を篭絡するのに「情」に訴えるという方法が多いのは意図的なものですかね。反転可能性の高い状態で裏切らせることによって「完全に裏切ったかどうか分からない状態で物語にスリルを作る」「裏切るか否かの葛藤を見せる」ことを実現しようとしているように思います。わからなくはない選択ですが、ルルーシュ君というキャラの「甘さ」を感じさせるのも事実。

 相変わらず「楽しく平凡な日常」と「危険な駆け引き」が同居するという世界観が作品の魅力と緊張感を上げており、大変効果的。「平凡な日常」シーン「危険な駆け引き」シーン、双方でキャラの魅力をしっかりと打ち出すのに余念がない点もお見事。次回への引きもばっちり。ここまで実に隙のない充実した仕事をしています。久しぶりに「プロの違いを見せ付ける」作品。アニメのシナリオもこの水準が量産されるようになると世界市場で一気に覇権を握れるんですが。まあ別にいいのか、握らなくて。

○財政再建VSインフレ

財政再建派vs経済成長重視派−山口補選後、くすぶる政界動乱の火種

 この手の話は「どっちが効果的なのか」「どっちが正しいのか」という話になりがちなのですが、その中で下の分析は投資家ならではの視点というか、行動経済学的な視点(というほど大げさではないですが)でなるほどなあと頷かされました。

>>「財政再建派」の主張は、国民的合意を得るのは不可能でしょう。
>> 「損切りは早く、利食いは伸ばせ」という相場格言がありますが、
>>これは実行するのが至難の業です。人間の心理には、プラスになる
>>領域では、その利益を確定したがる傾向があり、マイナスの領域で
>>は、不確定なものを好む傾向があるためです。
>> 国民負担増というマイナスの領域では、消費税増税という「確定
>>した負担」より、インフレという「不確定の負担」を好むことにな
>>るでしょう。

 それ以前に「財政再建派」は「まず自分達の無駄遣いをどうにかしてから言ってくれ」というツッコミに対する有効なパフォーマンスが確立されてないことが問題なんですが。

○予備選

 ライト師のトークはマルコムXの演説やら著作やらを知ってる人間なら「まあ、ああいう人達はそれくらい言うだろうねえ」というレベルの、さして過激でもない「よくある反白人演説」なんですけどね。今のアメリカ人の若い子達とかはあまり触れたことがない類の言説らしく、「オバマがあんな人に傾倒していただなんて」とショックを受けてる子も多いとか。


5/2 maybe he just wanted to fly one time

何か求むる心海へ放つ(放哉)

○映画「ブリッジ」

 サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジは自殺の名所なんだそうですよ。金門橋から海をのぞみ、飛び降り自殺した人たちの生映像+遺族の証言で構成されたドキュメンタリーが本作「ブリッジ」であります。

 ドキュメンタリーとしては、問題がデリケートなこともありかなり薄味かつ淡々としており、遺族の話にインタビュアーがツッコミ入れたり、自殺の背景にある社会の矛盾みたいなものに切り込むといった野暮なマネを作り手はしない。残された遺族達の「オフィシャルな語り」だけで構成されている。唯一毛色が違ったのが「自殺を試みたものの失敗して生き残った青年と父親のインタビュー」で、これは結構生々しさがあった。あと生々しかったのは自殺した50歳の男の遺書の文章。あまりに直裁で散文的な文面・内容は放哉の「寂しい」系俳句に近いものがある。

 感心したのは映画に登場する遺族や友人達の多くが自殺した人物を惜しみながらも「でも、自殺するのは本人の決断だから仕方ないよね」というスタンスを崩さなかったところ。無論、彼らも懸命に自殺した人間を励ましたり助けたり、自殺をやめるように説得するわけだが、最後の最後のところでは「自殺したいというなら仕方ない」というスタンスなんですな。個人主義が浸透した世界とは斯様なものであるのだなあ。このアメリカ人のスタンスを感じられるだけでも、結構価値ある作品。

 もっともこの映画の最大の価値はやはり「実際に人が橋から飛び降りた映像」が流れる部分であります。断っておきますと「衝撃的な映像」ではありません。非現実的で深刻な出来事が映っているはずの映像なのに、それがものすごく「日常的」なものに見えるのです。そのことで我々は「そうだよな、自殺って実は「日常的」におきていることなんだよな」ということに気付かされるわけです。

 ラストシーンで飛び降りたゲームオタクっぽい青年の遺族のおばあさんが「なぜ孫がゴールデンゲートブリッジで自殺したのか」ということについて語っていて「maybe he just wanted to fly one time」と答えていたのがたいそう印象的だった。

 ドキュメンタリーとしてはやや薄味ですが「リアル飛び降り自殺映像」という素材を効果的に見せきったという一点において見る価値のある映画だと思います。


5/1 just born to play

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ(梁塵秘抄)

 管理人は無教養故この歌を結構のほほんとした歌だとばかり思っていたのですが、実はこの時代の「遊び」「戯れ」って言葉には「売春・売春婦」という意味もあるんだよね、という解説が本に載っておりまして。時代劇で遊女が言う「お兄さん、遊んでかない」っていう意味での「遊び」の意味合いも含まれているわけです。

 それがわかると「遊ぶ子供の声聞けば」というパートも大人が「子供が遊んでいるのを見て、自分も遊びたくなる」といった素朴な味わいの歌としてではなく、もう少しビターテイストな味わいのある歌に聞こえてきます。くたびれた遊女が子供の姿を見ながら、この歌を口ずさんでいる絵が浮かぶわけです。童謡があっという間に中島みゆき的世界観に^;

○山本直樹「レッド」1巻

 山本直樹は女性を醜く描くことができないかわりに男性キャラの「サえない感じ」を実に上手に描くなあと感心させられます。なんというか、どうにもサえないのですよ。外見だけじゃなくて結局やってることに欺瞞があるからサえないんだと思うんですが。

○「はじめの一歩」83巻

 マルコム・ゲドー戦終了、次は宮田君話になるわけですな。

○山下和美「不思議な少年」1巻

 「メタ視点」「上から目線」の作品は「作者のナルシシズム」だと思われないように丁寧に処理する必要があるので、なかなか難しいところであります。この作品は「メタ視点が必然的に持ってしまう傲慢さ」をキャラクターに堂々と発露させるという工夫を凝らしていて、それが読みやすさにつながっております。しかし、だからといってもっと読みたいと思うかというと微妙だったりするのですが。