自殺していると思っていた娘が無傷で帰ってきた上、急に絵を習いに行く、などと言うのですから両親が驚くのも無理ありません。しかし、2年以上部屋にこもりきりだった私が自分から外に出たいと言うのは、両親からすれば大きな進歩でした。
両親には彼女について絵の上手なおばあさん以上のことは教えず、一切の干渉を禁じました。今考えると、無茶苦茶な話なのですが自殺しようとしていた娘の言うことですからおとなしく聞くしかなかったのでしょう。
両親は絵の道具は必要ないのかと聞いてきましたが、そんなものは不要でした。というのも私が彼女に絵を教わったのは一度だけ。それも簡単なスケッチだけだったからです。
代わりに彼女は私に家事を徹底的に叩き込みました。
屋敷に着くと彼女は私に掃除と料理の本を渡します。年季の入ったボロボロの本です。開くと、そこにはびっしりと彼女のメモが書かれていました。
「本を見ながら部屋の掃除をしろ」「本を見ながら○○を作れ」…それだけ言うと自分は庭に行ってしまいます。不平も質問も言う暇がありません。たぶん不平や質問を言ったところで彼女は取り合わなかったでしょう。「イヤならやらなければいい」と言われるのがオチです。
料理の材料は注文制の食品宅配サービスを利用していて、いつも玄関に置いてありました。
「昔はこういうサービスもカネがかかった。いい時代になったよ。」
材料を運びながら彼女はそんなことを言っていました。
本を見ながら部屋を掃除し、ご飯と味噌汁を作ります。できあがると彼女のところに持っていきます。彼女は一口しか食べません(食事の時間になると私を台所から追い出し、自分の食事を自分で作るのです!)家に猫が来ているときは、猫にも一口。彼女も猫も、不満なときは同じように眉根を寄せます。猫のほうは露骨に「まずいものを食べさせやがって」という表情を見せるので、更に良く分かりました。
「本のとおりに作ったかい?」
「……」
「作り直し」
万事がこの調子でした。掃除、洗濯、炊事……落語家の弟子かスポ根漫画の主人公以外、こんなことしている人がいるのでしょうか。スポ根漫画では無意味な修行をする内に知らないうちに主人公が成長するのですが、味噌汁が作れるようになった私は成長したことになるのでしょうか。
しかし、私にはほかにいくところがありませんでした。かくして私は初日から床を5回磨き、6度味噌汁を作り直しました。本に書かれた彼女のメモが、意外に役立つことに気付いたのは収穫でした。味噌汁の次は煮物、野菜の切り方、魚の捌き方……そんなことを毎日続けていました。それに加えて彼女は毎日のように私に本を渡します。どれも古いボロボロになった本です。料理や食べ物の選び方、裁縫、掃除の仕方に家具の手入れの仕方、家計簿のつけ方……次から次へと渡される本をとにかく読まされたのです。
そんなことをしている間に梅雨の季節が過ぎていきました。
2008/5/15
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