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 今では私は彼女の「唯一の弟子」ということになっています。彼女はそれまで弟子を取ることも、教室で絵画を教えることもなかったそうです。今でも時々、彼女の研究者と呼ばれる人がやってきて彼女に教わったことを聞きたがります。

 でも、絵について話すようなことはほとんどないのです。私はひたすら彼女の家で料理と掃除と読書をさせられていました。絵について教わったのはたった一度だけです。ですから、取材に来た人にはその時の話をすることにしています。

 梅雨が明けたばかりの気持ちの良い日でした。課題の鮭のムニエルを一発でクリアした私は、彼女にスケッチブックと鉛筆を渡されました。

「好きなものを描きな。ただしひとつだけ」

 いつものことながら彼女は私に何も教えてくれませんし、質問させてくれる気配もありません。私は庭に植えてあった水仙をスケッチして、彼女に見せました。

「あんたには、あの花がそう見えるのかい?」
「……本物のほうがもっと綺麗です……ね」
「だったら、もっと綺麗に描いてやれば?」
「でも私、下手ですし……」
「もっと奇麗だと思ってるなら、もっと奇麗に描けるさ」

 そう言うと彼女は、猫と一緒に庭に散歩に行ってしまいました。私は途方に暮れました。彼女は画家だから綺麗に描くもとできるでしょうけど、こちらは絵筆をロクに持ったこともない素人です。実物が絵より綺麗になるのは当然ではないですか。

 などと言ったところで彼女はもう庭の林に姿を消していました。私は仕方なく自分の絵を直し始めました。最初のうちは、自分が良いと思う線や形に直せば綺麗になると思い、あれこれと試してみましたが、それでは幾らやっても目の前の水仙には近づきません。

 次第に私は水仙そのものを細かく見るようになりました。葉にはそれぞれ違う角度や微妙な曲がり具合がありました。花弁も同じような形をしているものの、ひとつひとつの花弁は微妙に形が違っていました。それをとにかく私は丁寧に書き写そうとしたのです。

 どれくらい時間が経ったでしょうか。気が付くと彼女が横に立っていました。

「……さっきよりは綺麗になった、でしょうか」
「本人に聞いてみな」

 「絵筆とキャンバスがあれば、どんなものでも話し相手になってくれる」という言葉を思い出しました。たしかに私は水仙と会話していたのかもしれません。水仙を眺め、それを描き、また眺め…そんなことを繰り返す。水仙と自分の距離を縮めていく……

「花のいいところはね、納得できるまでのんびり待ってくれることさ」

 彼女はそう言いながら、猫の頭をなでようとしました。しかし、猫はそれを察知するや彼女の手をさっとかわして距離を取ります。

「あいつは花のようにはいかないね……人間はもっとうまくいかない」

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2008/5/15
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