彼女が猫のことでそんなに怒るとは思ってもいませんでした。
猫と彼女はいつも距離を保って付き合っていました。猫は決して彼女に自分を触れさせようとはしませんでした。遊んでほしいと腹を出すようなマネは決してしない猫でした。餌も気に入れば食べましたが、気に入らないものは平気でまたいでいきます。野良猫の癖に、やたらと毛並みがよく、暇さえあれば毛づくろいしている猫でした。
私が初めてその猫の年齢が15歳だと知ったのは、猫を動物病院に連れて行ったときのことです。猫を動物病院に連れて行ったこと、それが私と彼女の決裂の原因となりました。
その日、私は何度かの失敗の末に鳥のから揚げを成功させ、彼女と猫に味見してもらうために持っていきました。彼女は庭で眠っていて、猫は姿がありませんでした。この時間に彼女が眠っていることは時たまありましたので、私はから揚げのお皿を彼女のそばにおき、から揚げをひとつ持って猫を探しにいったのです。
猫がぐったりしていたのは、私が死のうとしていたいちょうの木の袂でした。最初は昼寝をしているように思ったのですが、こんな薄暗いところで昼寝をするのも不自然です。いつもは私の気配が下だけで起き上がり、いつでも動き出せるのに、その時は私が近づいてもまるで動こうとしません。それどころか、私が触れても抵抗しないのです。私がその猫を触ったのは、その時が初めてでした。
猫は大儀そうな表情で目を閉じ、ぐったりと横になっていました。明らかにいつもと違います。私が猫をさすると、猫は大儀そうに寝返りを打ち、触られることを拒否しましたが、いつもの力強さはありませんでした。私は大慌てで猫を抱えて走りました。
「寝ていたところへ戻してやりな」
「え?」
「猫は、最期をひとりで迎えるものだ……そいつは、そこで最期を迎えるつもりだったんだよ」
そういう年なんだ、と彼女は寂しそうに呟きました。
「病院へ……」
「そいつは野良だ。人間の病院なんざの世話になるつもりはないさ」
「でも、病院に連れていけば……」
「戻してくるんだ」
大声ではありませんでしたが、彼女の声がいつになく感情的になっているのがわかりました。というよりも、それまで私は彼女が感情的になったところを見たことがなかったのです。
でもその時の私は彼女がなぜそこまで感情的になるか考える余裕はありませんでした。なんとしても猫を病院に連れいていかなければ、そのことだけを考えていました。彼女と言い争っていては埒が明かない。そう思った私は黙って猫を持って庭のほうへと歩いていきました。でも、林の中に入るととたんに走り出して庭を抜け、私が最初に忍び込んだ塀の穴から屋敷を抜け出して近くの病院へと走ったのです。バレるのは時間の問題でしたが、彼女と言い争っている暇はないとその時は思ったのです。
たまたまその時間、犬の散歩をしている人がいて、私に近所の動物病院の場所を教えてくれました(よく考えると私が彼女以外の人とまともに話したのはこの時が初めてでした)。私は大慌てで動物病院へ走りました。
お医者様によると猫の病気は というものでした。注射と点滴を打つと、猫は少し元気になりましたが、お医者様によると年も年であり、外科的処置はもう不可能だろうと仰いました。もって、あと数日だということでした。結局、彼女の言うとおりでした。猫は、もう年でした。
夕方、私は猫を抱えて屋敷に戻りました。彼女は台所で料理を作っていました。彼女は何も言いませんでした。私は猫を、いつもの指定席である丸椅子に乗せると、彼女に動物病院で言われたことを報告しました。
「お別れだ。もうあんたと会うことはない」
声に怒気がこもっているのがすぐにわかりました。
「ひとりで生きるってことは、ひとりで死ぬってことだ。あんたは、そいつからその機会(チャンス)を奪った」
「私はただ、あの猫を助けようと……」
「今、私が倒れたら、あんたはどうする?」
「え?」
「同じ理屈で、あんたは私が断っても病院につれていくだろ」
「それは……」
「私はひとりで生きて、ひとりで死ぬんだ」
「でも……」
「邪魔しないでおくれ」
それまで私は人生で随分とひどいことも言われてきたし、ひどい目にもあってきましたが、この時の彼女の言葉以上にこたえたものはありませんでした。私は信じられないほど必死になっていました。なんとかして、彼女の言葉を撤回させなければ、そのために何か言わなければ、おぼれている子供が必死でじたばたするかのように、私は脳みそと舌をじたばたさせていました。あれほど動揺し、必死になり、頭を働かせたことはありませんでした。それほど私は彼女に拒絶されることを恐れたのです。
「でも、でも……あなただって私を助けたじゃないですか!」
「……助けちゃいない。あんたが間抜けだっただけだ」
「そうじゃありません。あなたは私にいろいろなことを教えてくれました。ここに来ていいと言ってくれました。私を助けてくれたんです」
「……」
「ひとりで生きることが、ひとりで死ぬことだっていうなら、どうしてあの時、私をほうっておかなかったんですか?どうして、私にひとりで生きることを教えてくれたんですか?」
「……帰っとくれ」
「でも!」
台所の電気が消えました。辺りは既に暗くなっていました。庭に囲まれた屋敷は、夜になると真っ暗になるのです。たちまち、部屋は真夜中のように暗くなりました。灯りを消した彼女がそのまま台所から出て行く気配が分かりました。薄暗い部屋の中で、猫の苦しげな寝息だけがやけによく聞こえました。
「ひくっ……くっ……うっ……うぇっ……」
なぜか私は泣いていました。猫の苦しげな寝息と、私のしゃくりあげる声が、暗いくらい部屋の中でいつまでも響いていました。
2008/5/15
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